私をよく知る人なら、私が二次創作のカップリングに関していかに面倒くさいかを知っているはずである。このブログタイトルの下にも書いている「地雷カプお断り」というのがまさにそうで、私にとって地雷カプ(自分と解釈が全く違うカップリングのこと)は嫌悪すべき存在だ。
最近まで、「地雷カプ」という概念はオタクなら皆が備えている概念だと思い込んでいた。驚いたのが、フォロワーへのアンケートで「地雷カプがない」と答えた人が6割近くいたことである。自分には人に見えないものが見えるらしいが、地雷カプなんて見えてなにひとつ良いことはない。霊感を持つ人間も同じことを思うのだろうか。
さて、カップリングにあまり明るくない人に説明すると、私のようなオタクは、俗に「関係性のオタク」と呼ばれる(らしい)。非常にださくキモい名前だが、その名の通り「仮想のキャラ同士の関係性」について考えるオタクなので仕方がない。この関係性をカップリングと言い、その解釈を巡って、インターネットでは争いが起こることもある。
では、なぜそこまでカップリングに執着するのか?
端的に言うと、関係性のオタクは、「○○が一番好きなのは誰だ!?」ゲームを楽しんでいるのである。「○○が一番好きなのは△△か■■か」、それを判断するために原作を隅々まで鑑賞し、原作描写を解釈し、考察するのである。
「それの何が楽しいんだ」と思う人もいるかもしれないが、感覚とすれば、「今年の甲子園はどこが優勝するか」「競馬でどの馬が一着をとるか」というものに近いかもしれない。競馬で、騎手や馬の調子などを考察しお金を賭けて楽しむように、カップリング解釈では、キャラの性格や心理描写をめちゃくちゃ考察し、そこに熱意をかける。少し違うのは、思い入れの深さだろうか。甲子園なら母校の出場、競馬なら自分の持ち馬の記念レースように、「我が子が一番に違いない!」のニュアンスが含まれる。
カップリング解釈ゲームも似たような感じで、「○○と■■が付き合ってくれたらいいな」という妄想を、原作の描写を地道に拾い上げ、「いや、付き合っているに違いないだろ!」という自分だけの真実に変換させていくのである。そして欲深い自分のような人間は、「自分だけの真実」を「世界の真実・理(ことわり)」レベルに昇華しようと目論むのだ。やや過激だが、ここに喜びが見いだせない人は、おそらくカップリングに向いていないのだろう。素直に俺嫁していればよいし、純粋に原作をありのまま受け取ればよいし、そこに当然のように貴賎はない。
さて、カプ解釈が競馬と大きく違うところに、「結果が明らかにならない」ところがあるが、これこそが面白くも、争いの種なのだ。
基本的に、カプにうるさいオタクが住み着いている作品は、「○○は誰が一番好きか」という点が明示されないことが多い。明示されないから正解はない、それは事実である。よく物知り顔のオタクが「正解はないから二次創作はぜんぶ平等に妄想で誤り」と諫めてくるが、自分からすればそれは「逃げ」である。自分たち関係性のオタクは、そのように不確かな環境で、「真実」を追い求めているのである。自カプが妄想であることは事実であり、認めなくてはならない。けれども「○○は密かに■■を想っている」ことを匂わせている描写はいくらでもある。事なかれ主義の「二次創作はぜんぶ妄想」オタクは、自らを戦地に立ち入ったことのない外野タイプ、あるいはかつて最前線でカプ解釈バトルをし、疲弊し帰ってきた老兵タイプである。彼らはこの先には何もないと悟った顔でつぶやくが、物語の主人公であるあなたはそれを承知の上で、幻とされる「絶対に自カプが成立する根拠」を探しに戦地に赴くのである。
これだけの熱意をかけているからこそ、自分と違う解釈に至った人間にはキレそうになってしまう。数々の死戦を乗り越え、世界にひとつしかないとされる財宝を「ついにやったぞ!」と拾い上げると、隣で「俺も手に入れたぞ!」と拾い上げる人間がいる。世界にひとつしかないため、どちらかは偽物である。しかし、どちらが偽物なのかは、誰も知らないのである。もはやボルヘスの「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」の世界である。自分が持っているものこそが絶対に本物の宝石だと「知って」いるのに、相手もその宝石を手にしているのである。現実への虚実の侵食。ここで抱く感情こそが、地雷カプへの「嫌悪」である。
ただ、これは自分のケースに過ぎない。
地雷カプというのは本当に厄介で、これは当事者にしかわからない深刻な問題である。あなたにとって地雷カプとは、ギャルがキモいキーホルダーを見て「やだ~」と放り投げるような感覚かもしれないし、ほかの誰かにとっては、寝ようと思って部屋の電気を消そうとした時、視界の隅でカサカサ動くゴキブリを捕らえたくらいのぞわっとする感覚かもしれない。
自分の場合は、嫌悪であり怒りだ。ゴキブリを視界の端に見たときの感情のベクトルの大きさとしては合っているが、その向きが異なっている。ゴキブリは恐怖だが、地雷カプは「怒り」だ。
最近「怒り」という映画を見たが、あの映画の殺人犯は、壁に真っ赤な血で「怒」と書く習性があった。あれはいいなと思った。どうしようもなく湧き出る怒りをしっかり表現できている。自分もこれから地雷カプを見るたびに、壁に血で「怒」と書くようにしようかな。
(キャプチャするのめんどいので画像は以下のサイト様からお借りしました)
https://france-chebunbun.com/2016/09/27/post-8070/
さて、6割の「地雷カプって何?」の人々にも、なんとなく「地雷カプ」が想像できただろうか。
改めて、自分が地雷カプに抱く感情は怒りである。地雷カプについて熱く語っている人間をTwitterで見かけると、「は?」と声に出してしまう。それは己の理解の範疇を超えた「は?」であり、純粋な嫌悪の「は?」でもあり、怒りの「は?」でもある。
しいたけと昆布のうまみの相乗効果のように、怒りにも相乗効果があり、それは自分を恐ろしいものにする。臆病な自尊心と尊大な羞恥心は人を虎にするが、自カプへの怒りは人を鬼にするのである。
鬼になると大変で、正義の「自カプ」という名の金棒を手にし、地雷カプのオタクのツイートを鬼の形相で睨みつける。そしてしばし悩むことになる。金棒(リプ)で殴りつけるべきかどうか。悩むまでもなくしてはいけないし、当然いつもしない訳だが、頭の中では送りつける文章は画一的に決まっている。
「あなたは○○△△を推しておられるようですが、○○はどの媒体でも■■への想いを募らせており、△△に好意を寄せても付き合うという段階には至らないと思うのですが、何故○○が■■ではなく△△を想うようになったのか、その根拠となる原作の描写や考察はありますでしょうか。是非お聞かせください。」(140 words)
繰り返すが、実際に送ったこともなければ、誰かに送ってほしい訳でもない。
送ればその先にあるのは戦争である。しかもどちらが勝っても(論理的にこちらが勝つのは自明だが(汗)←そもそもカプ解釈で「勝つ」って何?)得られるものは何一つない。広大なネットの隅っこで、キモいオタクがキモいオタクにマウントをとっているだけの様子は、見渡せばどこかしこで見ることができる、ありふれた光景である。
自分が問題としているのは、地雷カプのオタクそれ自体ではなく、地雷カプのオタクが生まれる「過程」とその「原因」だ。部屋の隅っこでゴキブリ製造マシンがウインウイン稼働し、活き活きしたゴキブリが1匹/秒で放出されているというのに、出てくるゴキブリをいちいち追いかけているようでは根本的な解決にはならない。
ただ、「怒り」の感情を鎮めるためにゴキブリを追いかけてしまう気持ちはわかる。自分もよく地雷カプでサーチして、引っかかったオタクをブロックするだけの作業をしてしまうからだ。これで1時間は潰れる。意味がないと知りつつもやってしまうあたり、論理では説明できない人間の行動心理に触れた気がしてうれしい。(?)
ただ、気休めばかりでは意味がない。問題は「過程」と「原因」なのだ。この場合、ゴキブリ製造マシンのラインを物理的に止めるか、製造マシンそのものを壊すことが解決となる。
地雷カプに当てはめてみよう。
地雷カプ解釈の「原因」とは製造元、つまり「原作描写」である。
(例 アニメで○○は△△の手を取った。○○はいつも■■の隣にいる、など)
そして、地雷カプ解釈の過程とは、原作の描写を脳内で変換する「思考回路」に他ならない。
(例 「○○は△△の手をとった」から二人は付き合っている! いつも隣にいるから○○は■■のことが好き! など)
上記の変換が繰り返され、解釈となり積み重なることで、最終的に「○○■■」は成立、あるいは「○○△△」が成立という話になってくる。記号なのでわかりにくいが、ここでは「○○■■」は、「○○と■■が付き合っている、想い合っている」という意味を示す。
ここでどのように分岐するかで、地雷カプか自カプかという話になってくるのだ。改めていうが、地雷カプが生まれるのは「原作描写」と「思考回路」に大きな原因がある。
これは驚くべき事実である。小学生のやる夏休みの自由研究のように、自明な結論に落ち着いた自覚はあるが、地雷カプに怒り狂うあまり、この前提は抜け落ちがちである。
そして、この2点さえ押さえれば、何故自分が地雷カプが嫌いなのか、どうすれば地雷カプのオタクとうまく付き合えるのかという点が自ずと見えてくるはずである。
例えば、「原作描写」については以下のことがいえる。
・自分は○○■■を示す原作を読んでいるが、相手は読んでいない。
・相手は○○△△を示す原作を根拠にしているが、自分はそれを読んでいない。などなど。
ここでは、カップリングに関する情報量の多さ、原作をどれだけ履修しているかという点が焦点になる。あるいは、ここで「二次創作(オタクの妄想)」を「原作描写」として持ってくる人間もいる。
どういうことかと言うと、いわゆる「ミーム汚染」である。「○○はヤンデレでナイフを持っていそう」「■■の家の天井裏に潜んで盗聴してそう」「たばこ吸ってそう」「サイコパスっぽい」などなど、原作にそういう描写はないのだが、オタクの妄想が妄想を呼び、あたかもそう原作で描写されたかのようにオタクの間でイメージ共有されることがある。
このあたりの妄想に浸るのは楽しいとは思う。が、適度な折り合いをつけるのも大切だ。そうでないと、連鎖が連鎖を生み、二次創作が公式に逆輸入されるという、取り返しのつかない事態を生むかもしれない。アニメ「艦これ」の大井さんのように(諸説あります)。
次に「思考回路」についてだが、ここでも人によっていろいろ変わってくるだろう。
・「手をつなぐ」は自分にとっては些細なものだが、他カプのオタクにとっては重大なアクション。
・隣にいるから二人は付き合っている!などなど。
ここでは、どのようなアクション、描写が関係性にどれほど寄与するのか、その考え方が大事になってくる。個人的には、たまたま手をつないだ、たまたま隣で一緒に映っているだけで「付き合っている!」とはならないが、もしかしたらそういう人もいるかもしれない。これは「閾値」という概念を導入すればよい。簡単に言えば、この値より大きい値なら1、小さい値なら0、というような線引きラインである。これはおそらく、鑑賞者固有のものだろう。
また、そもそもの話になってしまうが、「付き合う」が最上の関係とはいえないと主張する人もいるだろう。恋人はいるが、別に好きな人はいる。そういう状況だってもちろんあり得るわけで、その場合、カップリングの定義のすりあわせが必要になる。「ゴール」が違えば、思考回路、経路も変わってしまうだろう。それによって話がかみ合わないこともあるのだ。ややこしすぎる。
最後に、「思考回路」に属する最重要ポイントをあげなければならない。
それは、閾値や定義、原作ともかけ離れた存在で、頭では無意味とわかっていても地雷カプのオタクをサーチしてブロックしてしまうような、本能的要素。
それが「なんとなく好き」である。
これは、カップリング形成において、実際のところ非常に多い。
原作無視、そもそも二人が話し合っている描写すらないが、「見た目がいい」「推し同士のカップリング」というだけの理由で大量生産され、しかもそれがウケてしまうからたちが悪い。このあたりのオタクは、二次創作を「自分が好きなものを好きなように楽しむもの」だと解釈しているようだが、個人的には相容れない。
二次創作という原理上、原作を下敷きにしているわけで、原作に対するリスペクトは必要だと考えている。原作にリスペクトがない二次創作は、作品中に登場する名前を他のコンテンツのキャラに変換しても成立するという特徴がある。偏見だが。
「それ、この作品のこのキャラでやる必要がありますか?」と問うこともできるが、大抵「うるせえ!私が好きだから良いんだよ!」と返される。それはその通りであり、そんなクソみたいな質問をしたこちら側が全面的に悪いのだが、こねくり回されるキャラのことを考えるとモヤモヤする。
二次創作に大事なのは、原作へのリスペクト、キャラの気持ちを尊重することだと考えている。少々度が過ぎているのは自覚しているが、2020年現在の自分は、キャラの尊厳は、二次創作者の娯楽よりも優先されるべきだと信じている。しかしながら、「そんな苦行みたいな二次創作の何が楽しいんだよ」と言われると閉口せざるを得ない。自分たちだって好きでこのような苦行をしているわけだが、好きでこのような苦行をしているわけではないのだ(?)。それはマラソン選手に向かって「何が楽しくて走っているんだよ、どこに行くわけでもないのに」と言うのと似ている。家でアニメを見て寝転がっているだけのオタクと、毎日トレーニングに励むランナーを同列に扱うのは気が引けるが、事実それと同じだと考えている。
根拠を用意すれば良いのかと得意顔の顔カプオタクのなかには、「二人は一目惚れをした」というチートを使ってくる手練れもいるが、個人的にそれはナンセンスだと思っている。本当に一度も会ったことがないキャラ同士ならともかく(むしろその条件下で一目惚れを持ってこれるのは一種の才能である)、アニメ本編で一度は顔を合わせているキャラ同士なら、「一目惚れ」には当たらない。もし仮にしていたとしても、原作でそれにふさわしい描写があって然るべきである。(時が止まる、「わぁ、綺麗な子……」「睫毛長い……」など)
それがアニメでも小説でも描写されていない点で、「一目惚れ」は使用できないスタンスである。異論は認める。
さて、かなり話はそれてしまったが、上記を考えると、地雷カプのオタクもそれなりに分類できるのではないだろうか。
「原作描写」(キャラへの考察に組み込む情報を取捨選択できる能力)
①原作をきちんと履修しているか
②ミーム汚染されていないか
「思考回路」(なにがカップリングの証拠となるのか、その選択能力)
③アクションが感情に寄与する「閾値」はどの程度か
④自分にとってのカップリングの定義、ゴールは何か
⑤「なんとなく好き」かどうか
上記5つの観点から見ると、①と②は容易に変化するだろう。新たに原作を履修した、読んだけど内容を忘れてしまった、大好きな同人作家が刺さるミームを発信した、最近のバズりネタの導入など、解釈の基本となる情報自体は流動的で、操作することができる。
ただ、「思考回路」が難関である。③は閾値と説明したが、ロボットでもあるまいし、「原作の描写のどこからが自分の感情を動かすのか」という点は、明示できるものではない。また、④では今までの恋愛経験や願望が如実に反映されるところだろう。この2つは自分ではどうしようもできない、鑑賞者に固有のものであり、すりあわせるというよりかは、互いに理解しあうことが大切である。ただ、固有と言っても、閾値も定義も変化しない訳ではない。年を経る毎に、刺激的な作品を鑑賞するたびに更新されていくものだろう。多分。
それでも変化しないのが⑤で、本人含め、誰も手がつけられないのが⑤である。自カプを推す仲間は他のコンテンツでも同じカプを好きになりやすいのと同じように、自分にとっての地雷カプを推す人間は、違うコンテンツでも地雷カプを好きになる傾向がある。経験則だが、きっと他の人にも頷いてもらえると思う。
①から④とはまったく違い、⑤は生来の、経験によっても変化しない独立した思考回路だと考えている。
もし地雷カプのオタクが⑤に重きを置くタイプの人間なら、残念ながらカップリング解釈においては相容れない運命である。ブロックも致し方ないだろう。
しかしながら、①②に由来する地雷カプのオタクなら、原作の読み方、該当箇所を教えることで、自カプに変わる可能性があるのではないか。それは自分にも当てはまることである。自分の知識が浅い場合、より深く原作を読み込むことで、地雷カプの根拠を見つけることができるのかもしれない。
そのためには、対話が必要だ。対話といっても、③④の方向性ですれ違ったら、落ち着いて距離をとるのが良いかもしれない。変化するとはいえ、その流れはきっとガラスが溶けるように長い年月を要するだろう。しかし解釈ではなく①②なら、まだ話し合う余地はある。互いに知らない情報を教えあい、補うことで、地雷カプへの理解が深まるかもしれない。
ただし、対話は休戦協定ではない。これは一種の挑戦である。虎穴に入らずんば虎児を得ず。カップリング解釈とは、地雷源に突っ込みながら真実を探すゲームである。決して相手の解釈に道を譲る訳ではない。ただ、どこにも正解がないカップリング解釈の世界において、「○○というキャラ」の異なる性質を知っている他カプのオタクは、捕虜を案内係にするようなもので、より前に進むための手段として有効なだけである。
注意が必要なのは、このカップリング解釈ゲームに「どれほどゲームとして真剣に取り組んでいるか」のテンション差である。全員殺す勢いで実弾を抱えてサバゲに乗り込めば非難囂々だろうし、おもちゃの銃で戦場に立つべきではないのも明らかである。とはいえ、もちろんテンションが高ければいいという訳ではない。人には人の乳酸菌、ボクシングの重量別のように、カップリング解釈もそれぞれのテンション別に行えばいいのである。そうすれば、テンションの違いによる無益な争いを避けることができる。
楽しく二次創作をしている人間に銃を突きつけ、「おまえのカプ解釈の理由を教えろ」と問いただしたところで、相手にとってはなんのことだかわからないし、そんなことをする必要もないのである。
同じ目をしたオタクを見つけるのだ。
自分と同じ面構えの、地雷カプのオタクを見つけるのだ。
深淵を覗くとき、深淵もまた、こちらを見返している。
地雷カプのオタクを憎む時、地雷カプのオタクもまた、あなたを「地雷カプ」として憎んでいるかもしれない。だが、そういう時こそ、勇気を出して聞いてみるのだ。
「あなたは○○△△を推しておられるようですが、○○はどの媒体でも■■への想いを募らせており、△△に好意を寄せても付き合うという段階には至らないと思うのですが、何故○○が■■ではなく△△を想うようになったのか、その根拠となる原作の描写や考察はありますでしょうか。是非お聞かせください。」(140 words)
イライラしている時に、地雷カプのオタクからこんなリプライが来たら絶対に秒でブロックするが、機嫌が良いときには真摯に対応するだろう。そしてお互いにじっくり考えるのである。何が私たちの解釈を分けているのか。原作の履修度か、思考回路か、生来のものか。ベルリンの壁のように、乗り越えることはできるのかどうか。
残念ながら、私はほとんどの地雷カプのオタクをサーチしてブロックしているため、もはや対話はできない身体になってしまったが、まだブロックしていない清廉潔白なあなたに地雷カプがあるのなら、勇気をもって対話してみるものいいかもしれない。
繰り返すが、「正解はないから二次創作はぜんぶ平等に妄想で誤り」というのは「逃げ」である。戦ったことがないから、そんな無責任なことが言えるのだ。
おまえのカプは妄想でも誤りでもない。
あくまで自カプに自信を持つこと。存在しない「真実」を追い求めること。
地雷カプを攻撃するのではなく、存在を受容するのでもなく、対話すること。
自ら手にした銃を、剣を恐れるな。相手も同じ覚悟でこの場に立っている。
多様性なんてクソ食らえである。カップリングはヨグ・ソトースのように、「一にして全、全にして一なる」ものである。
おまえの推しカプ「しか」正しくないのだ。
地雷カプと和解せよ。