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地雷カプお断り

レズビアンの透明化について

レズビアンの透明化」という単語が流行っているらしく、なんだそれと思って調べると、どうやらたみふる先生の例のツイートが話題になっているらしい。

自分は「付き合ってあげてもいいかな」を読んでいないので、それについて適当に触れることは許されないと思うし実際にしないのだが、そこから発展している「レズビアンの透明化」という概念については、百合のオタクとしては気になるところではある。自分の意見をまとめるためにも、メモ代わりにブログに書くことにする。なんか話題に便乗するみたいで申し訳ない。

そもそも、今回話題になっているレズビアンの透明化とは、たみふる先生が女が女と付き合う漫画を描くうえで心がけている「あえて作中にレズビアンという単語を出さない」という姿勢のことらしい。

「(レズビアンの)透明化」については以前から議論されていた概念らしく(恥ずかしながら、自分は知りませんでした)、Twitterではこの概念について、以下の文献が紹介されていた。まあ、どれも文献というかインターネット記事だが。

 

アマルギオアイレ・ディアナ・エレナ「日本社会における LGBT に対する認識と透明化のプロセス」

https://www.akita-u.ac.jp/honbu/inter/pdf_class/report_2018_01.pdf

→大学の卒論?だろうか。読んでみると、LBGT議員へのインタビューを参考にしつつ、日本国民のLGBTへの無関心さを問いかけるもので面白かった。実際に中身を読んで欲しいのだが、アンケートでは日本人の約7割が、LGBTに対して「別に構わない」と答えている。しかしそれは、日本人がLGBTに寛容であるというわけではなく、ただ単に無関心で、LGBTをないものにしている、距離を置いている、「透明化」しているというもの。

しかしながら、殆どが作者と議員の意見であるため、学術的な価値はないように感じた。それとも、これが文系の論文なのだろうか。「別に構わない」と解答した人間が、実際に「透明化」していることを裏付けるデータが欲しいと感じた。例えば、「別に構わない」と解答した人間に、引き続き「友人がカミングアウトしてきたら」とか「自分がもしそうなら」とか、ifの質問を繰り返すことで、いくらかは相手の姿勢を見ることができるはずである。まあ、その行為にどれだけ意味があるのかは分からないが。

 

nippon.com「【書評】人と人をつなぐ「ことば」の繊細なもどかしさ:李琴峰著『星月夜』」

https://www.nippon.com/ja/japan-topics/bg900188/

文献としていいのかな。同性愛小説の書評。該当箇所は「出来の良い同性愛コンテンツが、しばしば『同性愛という枠組みを超えた』と評価される」という部分だろう。自分はそのような評価をされている作品が頭にパッと出てこないが、いかにも不理解な人間が言いそうな言葉なので実際にこの世の何処かにありそうではある。このように、同性愛を同性愛として受け止めない点が「透明化」なのだろう。

 

心はドラァグクイーン「逸脱したものとしてのゲイと透明化されたレズビアン アートとクィアカルチャー第二回」

https://popunder.hatenablog.com/entry/2019/12/30/%E9%80%B8%E8%84%B1%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%81%A8%E4%B8%8D%E9%80%8F%E6%98%8E%E5%8C%96%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%83%AC%E3%82%BA

個人のブログだが、文献の引用数も多く、「透明化」について大まかに理解できる。が、どうせならこんな横着をせずに元の書籍にあたるべきだな……。何次情報だこれ。

とにかく、「レズビアンのパートナー」を「古い付き合いの友人」と言い換えるなど、公的機関や世間がレズビアンという存在そのものをなかったことにする行為も「透明化」と呼ぶようで問題ないようだ。

 

以上の文献(と呼んで良いのか?)をまとめると、「透明化」とは、「目の前に実際に存在しているLGBTの人間に対して、その『LGBT』という性質を認めない(認識しない)姿勢、あるいは、よかれと思ってLGBTの表現をぼかす、なかったことにする行為」だと自分の中で理解した。

 

これを踏まえた上で、たみふる先生のツイート内容を検討してみる。作品を読んでもないのに引用してしまってすみません。

 

 

要するに、たみふる先生は「恋愛とは個人個人の関係」だと言っているのだ。人間は「個人」に「男」「学生」「独身」「異性愛者」「スポーツ好き」というように、様々な属性が付与されまくることで、名前を持った世界で一人だけの「私」という存在になる(ねぎしその勝手な意見です)。たみふる先生は、その根本的なところを描きたい、それを通してレッテル貼り(例えば、上の文章の「異性愛者」を「同性愛者」「小児性愛(おおまかにロリコン」に変えると、それでひとつのカテゴライズがなされ、それが他者から認識されることでレッテル貼りに繋がる)から逃れた漫画が描きたいという話である。

 特段おかしなところはないように見える。

 が、ここでもう一度「透明化」について考えてみると、このたみふる先生の行った『「同性愛者」というラベルをあえて貼らない行為』こそまさに、「レズビアンの透明化」ではないかと、そういう話なわけですね。

 問題の全容が見えてすっきりした。

 

 で、あとはこの問題の是非について議論すべきだと思うが、その前に、この件で先生を批判している人たちの話を理解していきたい。

 あくまで自分の意見だが、この件で批判している人は、「同性愛者」というラベルのマイナスイメージについて真剣に考えている人たちばかりのように見える。

 非常に悪い例だと承知しているが、引き出しがないため許して欲しい。かつて「えた」「非人」といった差別用語があったことは、義務教育を終えている人なら知っているだろう。それを払拭するために、教科書は「そのような言葉は使わないようにしましょう」という姿勢を示してきた。

 言葉そのものを使わないことで、人々の意識から言葉を消そう、マイナスイメージを取り払おうという姿勢だが、これもひとつの透明化である。これが何故受け入れられているのかと言うと、もう「えた」「非人」と呼ばれる人々は存在しないからである。

 これに近しいことが、現在の社会で、同性愛に向けて行われている。子供ができない、神に背いた、なんとなく気持ち悪いなどなど、いろんなマイナスイメージがつけられている同性愛だが、「では同性愛という言葉を使わないようにしましょう(マイナスイメージがあるので)」という姿勢は、同性愛そのものから目を背けていることに他ならず、透明化を促進すると考えて間違いないだろう。「えた」「非人」とは違い、同性愛者は現実にこの社会に存在しているのだ。歴史上の人間からは目を背けることができても、現在生きている人間からは、目を背けることができない。

 同性愛者にとって必要なのが、「同性愛」というラベルはマイナスではない(そしてプラスでもない、百合漫画ではアピールポイントとして『特別視』されているが、これもきっと良くないのだろう)という社会的な同意だ。そのためには、むしろ「同性愛」の言葉は頻繁に交わされるべきだし、使われすぎて摩耗されて、何の感情も抱かなくなるくらいがちょうどいいのだ。

 それこそが、今回たみふる先生を批判している人たちが目指している方向性である(多分)。故に、たみふる先生が「特別視されたくないからレズビアンだと明言しない」姿勢は批判の対象となる。レズビアンという言葉を使わないことで、むしろレズビアンが特別であることを認めるかたちになるからだ。

 

 本当にこの論旨でいいのかは分からないが、自分は割とこの意見に納得している。確かに、作中で一度もレズビアンと言わないことで、表面上はラベルを排した個人の恋愛に焦点を絞れているように見える。しかし、作者が「彼女たちを絶対に特別な存在にしたくなかったから」と明言してしまった以上、どうしても上の批判は免れないだろう。

 

しかしながら、自分はこのラベルを剥がす行為を全面的に批判はできない。なぜなら、レズビアン、同性愛という単語(に限らず性的指向関連のもの)を使わないことで、自分の性的指向を把握していないキャラが描けるから」である。これの何が強みかと言うと、現時点で自分の気持ち、性的指向に迷いがある人にとっての救いになるところだ。

 LGBTであることを自覚し、その権利を主張して戦う人が存在するように、自分の性的指向について悩んでいる人たちも存在する。特に思春期は、とかく同性に憧れがちだし、第二次性徴も迎えるしで、かなりややこしい時期である。大人になっても、「異性愛が普通」という世論に流されて、自分を見失っている人は少なくないだろう。映画「アメリカン・ビューティー」みたいに。

 そのような人々に対して、「ラベルを排する」という試みは、非常に有効だと考えている。漫画に限らず、(芸術)作品は、人のこれからを決める指針になり、自分の糧になる。ひとつでもそういう作品があれば、きっと誰かの救いになるだろう。

まぁ、自分は「付き合ってあげてもいいかな」を読んでいないのですが……偉そうなこと言ってすみません……。

 

結論

「同性愛」という単語を使っても使わなくても、双方に救われる人間がいる。

なんだか正義の話になってきたな。

強いて言うなら、先生は別に「この漫画、レズって言葉使ってないやんけ!」というオタクのツイートに反応する必要はなかった。沈黙は金なので。