新薬史観

地雷カプお断り

カミュ 窪田啓作訳「異邦人」

これも古典的名著ですよね。最近そういうのばっかり読んでる。今まで読んでこなかったので。

 

本書の裏の解説によると、「通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求したカミュの代表作」とのこと。

通常の論理的な一貫性ってなんだと思い読み進めると、なるほど、確かにムルソーは、他人よりも感受性が弱いように思う。

母の死に悲しめず、その翌日に海に行って女と遊んで喜劇を見る。また、彼は直接の因縁がないにも関わらず、ある男を射殺し、そのうえ余分に四発の銃弾をぶち込む。

で、殺した理由は「太陽のせい」という。

確かに、論理性、あるいは感受性・感情・共感性が人よりも弱いように見える。「ない」と言い切ることが出来ないのは、時折他人の優しさに感じ入る様子が見られるからだ。 自分のためになんとか頑張ろうとしてくれている人に対し、抱きしめたいと思うのは、少なくとも無感情の人間には起こりえない感情の起伏である。

まあそれすら些細なことと言えるくらいに、ムルソーは全てにおいて淡々としている。

読んでいて感じたのは、村上春樹の書く「僕」って結構コレじゃね、ということだ。特別な夢や思想もなく、ぶらぶらしながら、肉体的も精神的にも自由であることに幸せを感じる。で、特別他人に共感することもないので、特に何も言わないでいる。

ムルソーの特長として、特に何も言うことがないときはひたすら黙るというのがあるが、まさにこの「他人の考えについて特に何も言うことがない」という性質こそが、彼が「異邦人」たる所以ではと考える。

他人に対してノーコメント、というのは、「他人に対して興味がない」プラスで「自分が何を言っても世界は変わらないという諦念」も含まれている気がする。

このあたりは最後の神父との口論で顕著だが、神父は

「それではあなたは何の希望ももたず、完全に死んでゆくと考えながら、生きているのですか?」

「あなただってもう一つの生活を望むことがあったに違いない」

などなど、ムルソーのスタンスに疑問の視線を投げかける。

この「もう一つの生活」に対して、ムルソーは「この今の生活を思い出すような生活だ」と答える。

「もう一つの生活」とは、SFチックに言うなら「存在し得たありとあらゆる可能性」と換言できるように思う。つまり、誰しも、自分が思い描く生活というものがあり、そこと現実との乖離に悩まされながらも、不満なところを改善しようと自ら働きかける力こそが、神父が考えるところの生きていると言うことだ。

それに対して、ありとあらゆる可能性さえも「今の生活を思い出すような」ものだとすれば、結果として何も頑張る気になれないのは当然のことである。ここに、ムルソーの「何をやってもどうせなんもならん」という諦念を感じる。これが神父には、ムルソーが死んでいるように見える理由である。

また、神父は、罪を犯し絶望のさなか(心の闇の底)に沈んでいる(と神父は思っている)青年に対し、「神を信じ祈りさえすれば、どんな罪も許される(神の顔が浮かび出るのを見る)」と説く。これらを総合すると、神父が言っていることは、「どんな状況下の人間も、最後には必ず神を、希望を信じる」あたりにできると思う。

しかしながら、ムルソーが牢屋のなかで見たのは、神ではなく「太陽の色と欲情の炎」だった。太陽の色は、ムルソーを殺人へと追い立てた論理性のないファクターである。欲情の炎は、単に性欲である。

で、ここで太陽についてもう少し理解したい。他人の感想を読んでいると、「人を殺したのは太陽のせいというのは意味が分からない」というものが散見された。

意味が分からんことはないだろう、というのが自分の解釈である。

かなり序盤だが、看護婦の言葉で「ゆっくり行くと、日射病にかかる恐れがあります。けれども、いそぎ過ぎると、汗をかいて、教会で寒気がします」というものがある。ムルソーはその言葉に対し、「彼女は正しい。逃げ道はないのだ」と考えている。

これは死にも応用できる。人間誰しも、死からの逃げ道がない、という部分でだ。ムルソーたちを日射病にさせようとしたのは太陽であり、男を殺させたのも太陽であり、牢屋のなかで神の代わりに見たのも太陽である。

つまり、この太陽こそが、ムルソーの考える「不条理」(どうあがいても、決して逃げ道がないこと)の象徴だと言えると思う。

 

で、不条理繋がりで、彼が牢屋の中で知った「りっぱな組織の秘密」についても書いておきたい。 「りっぱな組織の秘密」というのは、死刑という制度の不条理を認める社会の認識を拡大したものだ。

というのも、刑を執行する人間は不完全で論理に間違いがあるかもしれないのに、被告はそこから抜け出す方法がなく(ゆっくり行くと日射病になり、急いで行くと教会で寒気がすると同義、不条理の意味)、施行された刑は間違いなく人を殺すという完全性にある。これが不条理であり、一度罪を犯すと(あるいは被告とされると)自分ではどうしようもできない流れに流されてしまう(裁判の時がそれ)ということも、不条理の例だろう。この弱者(偶然という要素が含まれるためニュアンスは異なるだろうが)につけ込んだ不条理こそが、社会を円滑に動かしており、それが普段、人々の生活を良くしている。

恐らく、人の営みは、不条理に害される人々の上に成り立っている、というところだ。

 

 これについては、最後の部分にも繋がるだろう。

ムルソーは、死刑を見る側になると、「押し殺されていた喜悦の波が、胸にのぼって来た」と語る。しかし、実際に自分が殺されるのだと自覚すると、カチカチ歯を鳴らすようになる。

ここで注目すべきは、死刑を見る側は楽しい、という部分である。

ムルソーは、死刑を不条理だと考えている。すると、死刑を見る側は、他人に不条理を押しつける側の人間、ということになる。不確定な情報から「異邦人」を決定し、排除する。この面白さこそが社会を円滑にする基礎なのだと言うことだろう。

 

ここまで考えると、ムルソーが男を殺した理由に「太陽のせい」と挙げたのもなんとなく分かるようになる。男を殺した時の太陽は、「ママンを埋葬した日と同じ太陽」である。そしてその太陽は、「絶対に逃げ道がないこと」を示す。

ここで、ムルソーは選択を迫られたのだ。今ここで日射病になって死ぬか、教会で震えて死ぬかの二択である。そして、ムルソーが選んだ死に場所は、教会だった。

最初の一発は、ただそれだけのことだと思う。

問題はそのあとの四発で、恐らくだが、ムルソーは無意識のうちに、太陽(不条理、死)への反逆として男を撃ったのではないだろうか。あるいは、自分をじりじりと死へと導く太陽への正当防衛とも言える。寧ろそう考えないと、「なぜ4発も撃ったのか」という部分が分からなくなる。そこを「論理性がないからだ」と落とすのは、やや気に食わない。あとから撃った4発は、明らかに反抗の意思がある。確実に選択肢を潰す、くらいの強迫観念を感じるのだ。

 

いろいろ考えたが、要するにこの物語は、不条理を基礎とする現代(当時)社会は、異邦人を追い出すことで喜び、社会を回している。しかし、異邦人を追い出す人間もまた、異邦人なのだ。誰しも社会から弾かれるだけの素質を持っているし、不条理とはそういうものである、ということだ。

最後にムルソーが「世界の優しい無関心に、心をひらいた」のは、まさに民衆の「異邦人を他人事と思い込む無関心」を理解したということであり、その点では、自分の行動が他人に影響を与えることないという「ムルソーの無関心」が似通っていることに気づき、孤独が癒やされたということではないか。

だから、「私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎え入れること」が、ムルソーにとっての望みとなり得るのである。

多分。

 

すこし難しいけれど、非常に面白い話だった。もっとカミュの話読みて~。