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虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 第5話感想

なんやかんやで更新がめちゃくちゃ遅れてしまったのだが、悪びれずに雑多に感想を書いていきます。あと6話と7話の感想も溜まっているので、ちょっと駆け足になるかもしれん。

まず大前提としてめちゃくちゃ良かった。百合豚にやさしい回でしたね。

この回はエマ回でありつつも、なぞに包まれていた果林先輩のキャラが明らかになる回でもある。また、この記事を書くにあたってまた5話を見返したのだが、印象としてエマより果林先輩の方が情報が多い気がする。というわけで、エマ回ではあるが果林さんについての文章が多い。

以下、簡単に目次。

 

 

朝香果林というキャラについて

冒頭から気になる点として、困っているエマを助ける果林先輩という図がある。これに関しては2話の歩夢に「お節介かしら」と言いながらもアドバイスを投げかけた点と共通していて、基本的に困っている人(というか気にかかった人)にはちゃんと手を差しのばしてあげている。

で、何が気になるかと言うと、「騒がしいのは苦手」なのにこうやって進んでいい人ムーブをする果林さんの姿で、恐らくこれまでも何度もいろんな人にアドバイスを与えたり優しくしたりしたのだと思うのだけれど、その割にはマジで友達が居ないんだなと。オタクに言われたくはないだろうが、これまでにエマのような友達が出来なかったのかな、というところが気になった。

続いて、エマが早速果林さんを見つけて相席するシーンだが、「一緒に食べても良い?」というエマの問いかけに、果林さんは「好きにしたら?」という。

つまるところ、「来る者は拒まず、去る者は追わず」のスタンスだと思うんだけれど、そんなスタンスならイケメンな果林さんの周りに、ワラワラ人が居てもおかしくないような気がする。

最後の方では「クールな朝香果林という読モのイメージが……」というような種明かしこそあったものの、その割にはエマを受け入れているし、やたらと「エマのために……」とエマを非常に大事にしているところがあるし、エマに部屋の片付けもさせているし(それはクールなのか?)朝香果林の思う「クール」の線引きが曖昧なところがある。もっとも、果林にとっての「クール」という壁を壊すのが、その境界線にいるエマでしかあり得なかったというのはエマかりを語る上で外せないポイントだろう。

とにかく、「いつも通りに助けてあげた留学生が懐いてきた」という感じで、エマかりの覇道が始まる。ここから波動が広がるのだ。

 

また、果林を語るうえで外せないのが、仕草である。果林は顔に出ないだけで、自分に嘘をついている時の仕草が非常に分かりやすいような気がする。

以下はその例。

・目や顔を右にそらす

エマから同好会の話題を聞くときは右を向く。(本当は同好会に興味がある、あるいはエマとの時間を過ごしたいのにその欲望を口に出さないことで、自分に嘘をついている)

エマから「果林ちゃんも一緒にやれたらいいのになあ」という言葉に対して、「そういう賑やかなのは苦手」と言うときも右を向く。(本当は興味がある)

果林がせつ菜のPV(というよりMVだが)を見ているときも、ふと目をそらし右を向く。(かなり興味がある)

衣装撮影の場でエマから「一緒に写真を撮ろうよ」と言われながらも、視線を右にそらす。(本当は一緒に撮りたい)

エマへ自分の気持ちを吐露する際、

・しきりに左腕を右手でさする。腕を組む、など。

これら全てが、「目を背けて、自分の殻にこもる」仕草であり、自分の本当の気持ちから遠ざかるような仕草である。

果林がもっとも自分の気持ちを吐き出したのが、(きっとみんなに読まれることになる)アンケート用紙っていうのがポイント高くて、「本当は自分の気持ちを吐き出したいけど、みんなから期待されているクールな朝香果林を守らないと(でも、自分のことを応援してくれる人は本当に大事だから、その人たちには本当の自分を知って欲しい)」という気持ちが非常に強く表れている。この辺りは複雑だし、自分の解釈が強めに入っているが、果林の解釈として重要ではないかと考えている。

つまり、自分がここで言いたいのは、果林の持っている「孤独への恐怖」である。というのも、果林が友達とワイワイやったとすると、①「クールではないことに気がつきファンが離れる(読モとしての孤独)」②「何かやらかした時に友達を失う(友人関係の孤独)」の2つの可能性を持つわけで、そこを果林は危惧しているのかなと思ったり。

これまでのまとめとしては以下。

・果林はみんなの助けになりたいと考えている

実力主義の読モの世界にいるからこそ、支えてくれる自分のファンを大切にしたいと思っている(クールな朝香果林を大切にしたい、守らないといけない。そうじゃないと支えてくれた人が離れてしまうかもしれないから)

・エマのように素直に自分に好意を向けてくれる人にはとことん尽くして上げたい。

・「孤独/失うことの恐怖」へのクッションとして、「来る者は拒まず、去る者は追わず」のスタンス。それから「群れない」という選択肢を取っているということ。

 

スクスタの果林さんはもう少し自我が強くて、向上心もあるのかなと思う。アニメの果林さんは、孤独を核に形作られたような印象を受ける。

それもあって、最後の仕草で「エマの肩に腕を乗せる」という他者に積極的に関わる動きをしてくれたのがすごく嬉しい。5話はやっぱり、エマよりも果林さんの成長回の側面が大きいと思う。

 

エマ・ヴェルデというキャラについて

もちろん、エマがまったく成長していない訳ではない。

というより、エマにとっては「果林を成長させること」がエマにとっての成長、「みんなの心をぽかぽかさせたい」の実現に他ならないからだ。

みんなの心をぽかぽかさせる前に、まず身近にいる親友の果林さんの気持ちをぽかぽかさせることから始めるというのは、物語の進め方としておかしなところはないと思う。

その「ぽかぽか」というのも、侑の言う「ときめき」の言い換えに他ならないが、そこで他人とはぶつからずに、最後までやり抜こうという意志が感じられる点、三年生にもなって留学をしてきた点など、かなり芯が強く、自分の気持ちを持っている女の子だ。

また、エマは歩夢やかすみの「かわいい」ではなく、「見ている人の気持ちをぽかぽかさせる」という自己ではなく他者の評価が軸になっている。個人的には、この「ぽかぽか」はかなり汎用性が高い気がしているので、虹ヶ咲だからこそみんなでソロで活動しようということになったが、他のグループで活動することは十分可能ではないかと思える。常に周りをぽかぽかさせたいという人間だからこそ、不和を恐れているというのもあるが。ここに20章のエマの核があると思う。

次にエマの行動についてだが、エマが果林を誘う時に強調しているのが、「本気」という言葉である。恐らく、エマは果林との出会いで、果林が「すごい人間」であると理解している。ファンがいる、意識が高い、そのようなイメージが重なり、エマは果林が「スクールアイドルなんてお遊び」だと思っているのではないか、と考えていたのだろう。だから「お遊びじゃなくて本気」だと主張することで、果林を受け入れる下地を作っていたのだと思う。

結局そうではなく、果林はただ新しい自分になるのが孤独に繋がると信じて怖がっていただけなのだが、そこを越える勇気をあたえた(自分を守る仕草をやめさせた)のがエマの成長、というよりエマ回の見せ場だろう。

それから、エマと果林との共通案件として、OPとEDの入りの美しさは特筆すべきだ。

OP前では、すでにファンのいる読モである果林が、スクールアイドルとして駆け出そうとしているエマに「お互い頑張りましょ」と勇気づけている一方で、ED前では、エマが果林に向けて「やりたいと思った時からきっともう始まっているんだと思う」と声を掛けている。そして、その言葉に対して、OP前はエマが「うん」と、ED前は果林が「うん」と笑顔になっている。この対比関係があまりに美しく、果林に手を取られていたエマが、果林の手を取る側に回ったという点はまさに、エマの成長と言えるのではないだろうか。

 

 

スクールアイドルの方向性について

エマの「心をぽかぽかさせるスクールアイドルになりたい」という言葉から広がった「心をぽかぽかする」ものはどのようなものがあるか連想ゲームだが、見事にバラバラである。結局「誰も頼りにはならない!」というのは、4話の愛さんへのエマのアドバイスでもそうだった。エマは自分が教えることができることは何もない(全員、ソロを意識して1からのスタートだったから、誰も先に進んでいる人間がいない)ことを理解したうえで、ランニングに戻ろうとしたところを、愛が自発的にダジャレを見いだしたのだ。

それと似たように、エマもしずくの言葉(演劇だったら衣装を着るとイメージが沸く)に従ってはいるものの、イメージ自体はエマが出すことを強いられている。

この辺りが非常にうまく、「大きな軸としては他人が干渉してくることは何もないが、その周辺ではいくらでも助けて上げることができる」という、しっかりとしたパーソナルスペースを意識した動きになっている。「令和の距離感」とでも言える関係が、同好会のなかで広がっている。

この辺りの関係性をうまく描いているものに、アニメ「ゆるキャン△」があるが(というよりあfろ先生の漫画作品は全部そう)、あのアニメでも、無理にみんなで集まろうとせずに、個人の感情の動きを一番に優先している。個人的には、アニガサキはより高みを目指そうとしている(つまり、パーソナルスペースを守りながらも、同好会としてどのような絆を築くことができるのか)と思うので、そういう意味でもめちゃくちゃ練られた展開だと思う。すごく面白い。

また、エマの衣装選びについてもそう。どれかひとつに決められなくて、とりあえず全部やってみる、というのは「何かをするために何かを諦めるのは間違っている」という3話でも扱った虹ヶ咲のテーマに依っている。

このあたりから、虹ヶ咲のテーマがどんどん自分と現実側に寄ってきているように感じたのは自分だけだろうか。単にこれまでの積み重ねがようやく生きてきたからだろうが、自分は虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会のテーマが、まさに現代の人間に必要な問題を扱っているように感じた。

情報が氾濫し、自分の進路が分からなくなり、「とりあえず良い大学、とりあえず良い企業へ」の大多数による思想に従っておけば良い(自分で進路を選ぶ頭の使い方をしない)人間が溢れているように思う。せつ菜もそうで、「何としてもラブライブ!へ」という考えを持っていた。これもみんなが目指すから自分も、という思い込みに他ならない。

しかしながら虹ヶ咲はそうではなく、あくまで自分の選択「だけ」で物語が進んでいく。これまでのラブライブ!シリーズであったような理不尽な廃校、豪雪、理事長権限、謎のイベント、強敵との出会いなどなど、どれもこれも「向こう側から振ってきた」というイメージが大きいように感じる。

しかしながら、虹ヶ咲はそうではなく、大きな話の流れも、細かい話も、どれもがキャラの選択だけで動いているように思えるのだ。根底にある大きな話の流れはなく、あるのは「自分のやりたいことを自分で見つけ、自分で行動する」という突き放したようで、そのぶんキャラ自身が透けて見えるような概念である。

この「自分で行動」というのが、「キャラで物語を語る」という構成には必要であり、視聴している側に、キャラにも自我があると思わせるのである。

と、話が少しズレてしまったが、5話を見ていてふと思ったことを書いた次第です。

 

ゆうぽむについて

侑が語る歩夢のアピールポイントとして、「(表情がくるくる変わって)全然見ていても飽きない感じ」とはよくぞ言ったものである。幼なじみ特権として、どんな表情のあなたも見てきたというのはまさにエモポイントであるが、それをさらりと流し、歩夢が「揶揄われた!」と思い、ポコ……ポコポコ……とクソよわガトリングをお見舞いしているところでめちゃくちゃ笑顔になってしまう。効果音がずるいんだよな。

あと、ここは本当にネタとしても笑えないポイントなんだが、「みんなを応援したい」という侑の言葉に「え?」と零す歩夢の台詞。

これは、「またみんなばっかり見てえ!」というプンプンしたものではなく、純粋かつ重大な疑問として取り扱うべき台詞だと思う。

これに関しては、自分の1話の感想を引っ張ってきたい。

negishiso.hatenablog.com

つまり、侑が夢を語ることで、歩夢はようやく侑の本音に触れることになる。この本音に触れるということが、歩夢が侑の言葉に信頼を取り戻すキッカケになっているのだ。

ここにあるのは、「今はまだ恥ずかしいけれど、かわいいに正直になりたい」という歩夢の夢と、「夢を持った誰かを近くで応援したい」という侑の夢である。

侑の夢は、まだ夢というにはふさわしくないかもしれないが、侑と同じフラットな関係を望む歩夢だからこそ、侑の夢も「夢」にしたい。そういう想いがきっと歩夢のなかにあるのだ。

まさに、この箇所である。

歩夢にとっての1話の「Dream with you」は、侑との契約の曲である、というのが自分の解釈であり、あの場には、曲を披露する歩夢と聞く侑の二人だけが存在していた、というのが大きなポイントとなる。

『侑の「夢」である「夢を持った誰かを近くで応援したい」という「誰か」を、まだ未熟だけれど「私(歩夢)」にしてほしい』というのが二人の交わした契約のはずであり、まさにそれをパスケースが示しているはずなのだ。

しかしながら、5話では明確に「みんなを応援したい」と侑が述べている。つまり、「誰か」が「歩夢」から「みんな」に拡大されているのだ。

しかも、この件の解(歩夢の疑問:本当に侑は歩夢以外を応援したいのか?)に関しては、この回で回収されないまま持ち越される。つまり伏線である。

断言してもいいが、個人回が終わってからはゆうぽむで一波乱くる。

歩夢の夢と侑の夢が一致することで始まった「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」の物語は、その根幹であった「一致」に齟齬が生まれることで亀裂が走る。

そして間違いなく、そこにはパスケースが絡んでくるはずである。

ゆうぽむのオタクは覚悟するように……。

 

りなあいについて

今後、常に定位置になるソファがエマかなに独占されているが、その時はどうやらテーブルに着くらしい。そしていつも通り、りなあいはニコイチである。仲良しなのは良いことだなあ。また璃奈ちゃんがエマの「妹みたい」という言葉を好意的に捉えているところからは、璃奈ちゃんが家族の形に飢えている(少し言葉がきつくなったが、単に愛情を求めているとしてもいいかも)、あるいは可愛がられたいという気持ちを持っていることを示してくれている。世話したがりの愛さんとの相性も抜群ですね。

 

La Bella Patria 

最後にこの回のエマの曲に触れて終わりたい。

見ていて思ったのだが、扉をノックする振り付けがめちゃくちゃいい。果林の閉じられていた世界の扉を開けるのではなくノック(ここに、果林が扉を開けるという彼女の「意志」の余地が残されている)をするという点で抜群にいい。

また、歌詞には「自分の気持ちに嘘をつくのは難しい」「この場所」という意識が強く働いており、自分の大好きのために分裂するのではなく、手を取り合うことを決めた同好会という「場」と「人」はエマにとってかけがえのない財産であり、そんな素晴らしい場は、La Bella Patria(美しい故郷)のように開放的で自由である、というイメージがひしひしと伝わってくる。

この自由というイメージが、エマを通し、果林の目に映ることで、「自分も自由になっていいのかもしれない」と思わせたのだ。

 

これまでに何度か「僕の考えた脚本」を書いてしまった自分であるが、この5話に関しては抜群に良くて何も否定するところがない。完成度があまりに高い。

素晴らしいアニメだったと思います。制作陣に感謝。