新薬史観

地雷カプお断り

床屋で自我を失う話

人生のうち、最も自我を失うのは床屋に行った時かも知れない。

 

自分はキモオタの名に恥じないように、生まれてこの方1000円カットしか経験したことのない男である。流石にこの年になると、自分のように外見に無頓着な人間はあまりいないが、誰しも金を使いたくないところに使わないのは当然のことで、蕎麦アレルギーの人間が2000円の蕎麦を頼まないように、大学院生が高校数学の参考書に2000円を使わないように、自分は散髪に2000円以上のお金を使うことがない。

 

最近は1000円カットを謳っていた店であっても、気がつけば1200円やら1300円がデフォとなっており、さらに消費税が追加され、およそ1500円くらいかかってしまう。案外かかるなというのが本音で、それを美容室に通っている友人に愚痴ったところ、「1000円も1500円も変わんねえよ貧乏人」と怒られた。

これについては否定せなばなるまいが、自分は特別金持ちというわけでもなければ、貧乏というわけではない。美容室に行くくらいの金だって、相場は知らないが多分出せる。ウン万円となると絶対に嫌だが、ウン千円なら、まだ自分の財布は戦える。多分。

 

ここまで読んで分かるとおり、自分は散髪、というか髪に無頓着だ。髪を「セットする」という概念もなく、就活をするとなって、始めて髪を固めるクリーム的なもの(マジで名前がわからん)を手に取った(当然自分は持っていないので、同居している友人に貸してもらった)。ちょうど呪術廻戦のEDで、悠仁が手にとっているものがそれだが、もし就活をしていなければ、「こいつは一体何をしているんだ」と顔をしかめていたかもしれない。アニメに詳しいはずのオタクくんが、キャラの描写が分からないというのも恐ろしい話である。就活やってて良かった~。

 

話を戻そう。自我についての話である。

え?そんな話だっけという人は、一番上の文章を読んでほしい。

人生のうち、最も自我を失うのは床屋に行った時かも知れない。

なんとなくそう思っただけだが、他の人はどうなのか気になる。

「散髪が楽しい」「自分を綺麗に、かわいく、かっこよくしたい」「必要最低限の身なりをしたい」という人には、美容院は非常に重要な場となるだろう。

とはいえ、自分のように外見に無頓着で、美容院や床屋と「伸びたから切るか」程度の距離感を持っている人間にとっては、床屋は心底どうでもいいところだろう。そんな人間からしたら、床屋で過ごす時間は本当に虚無になるし、自我が無くなる。

 

どれくらい自我がなくなるかと言うと、自分の場合は「3cmくらい切ってください」と伝えたはずなのに、「はいよ!」と威勢のいい声でバリバリとバリカンで髪を剃られても何も言えないくらいに自我がなくなる。

決して声に出す勇気がないわけではない。髪にマジで興味がないため、「お~なんか知らんけどめちゃくちゃ剃られてるな。まあいいか」と思いながら、明らかに5cmはあろう髪が束となって落ちていくのを眺めてしまう。

その時は、最終的に3cmしか残されなかったのだが、「まあ俺の声が小さかったのかもな」と普通にお金を払った。これが丸坊主となると流石に途中で声を掛けただろうが、まあこのレベルなら「散髪にいく期間が延びたな」くらいの心持ちになる。他の人がどう思うのかはわからないが。

 

他に自我がなくなることとして、「はい」しか言えないというものがある。

自分がよく行く散髪屋では、主に「髪の毛は眉より上にしますか」「耳を出しますか」「もみあげどうしますか」「これでいいですか」の4つが聞かれるのだが、いずれの質問にも、マジで一切思考をせずに「はい」と答えている。

逆にこちらが聞きたいのだが、「耳を出しますか」というのは何なのだろうか。散髪に行ったときから、耳は普通に髪に隠れているわけでもなく見えているのに、この状態から「出す」とは何なのだろう。自分の場合、切ってもらってから家に帰って鏡を見ることもないので、結果「耳を出す」とどうなるのかが、情報として脳内にインプットされないのである。なので毎回、「耳を出すってなんなんだろう」と思いながらも、「はい」と解答している。今日も「はい」と答えてきた。先ほど鏡を見たが、何がどうなっているのかが分からなかった。

比較するにも、切る前の髪型を覚えていないのである。

ダメだなこりゃ。

 

もう少し自分に興味を持てれば良いのだが、自己肯定感の低さや自分の容貌の伸びしろの無さも相まって、一生1000円カットおじさんをやり続ける未来しか見えない。まあ、社会人になると流石にそうはいかないだろうが、毎日髪をセットして出社することを考えると、それだけで鬱になりそうである。

「相手に不快感を与えないためにも、最低限の身なりはきちんとしましょう」というのはその通りなのだが、別に局部を晒しているわけでも、鼻水を垂らしているわけでもあるまいし、ボサボサの髪でも不快感を覚えないように、人間の思考そのものがシフトしないものだろうか。

 

自分としては、出来ればこのまま、床屋で自我を失い続けていたいものである。