新薬史観

地雷カプお断り

虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 第12話感想

神の話が終わってしまった。

 

 

11話の感想と12話との比較

negishiso.hatenablog.com

 

初見の人にとって、上の11話の記事を漁るのは面倒だろうから、下に簡単に、自分がかみ砕いた11話の内容を纏めていく。それにコメントを添える形式で、改めて12話の内容を考えていきたいと思う。

 

 

【11話についての自分の感想】

 そもそも、チラリと書いたが、自分は侑の夢は「スクールアイドルのみんなを作曲で支えること」だと思っている。

で、自分はここに続きがあると思っていて、第一話のように

「でも、私はまだ未熟で、みんなの曲が作れるかはわからない。だから、まずは幼馴染の歩夢の曲を一緒に作っていきたいんだ。それでもいいかな?」

という流れではないかと考えているのだ。

違いましたね。「自分が未熟」という要素はあったし、「もっとみんなの曲をつくりたい」という想いもなんとなく汲める。が、侑の夢は「みんなを支えること」よりも先の、「漫然と音楽科に進んで勉強したい」というところに落ち着いた。

これはスクスタの「あなた」の設定通りだけれど、「あなた」が音楽科に進んでいる理由は、これまで明示されていなかったように思う。まあスクスタでは、「あなた」の過去を掘り下げてもプレイヤーが困惑するだろうから出来なかったのだろうが、アニメでは「あなた」に高咲侑という人格を与えたからこそ出来た「高咲侑の成長」を、しっかり描いてくれた印象がある。

で、その高咲侑の成長の過程を描いた結果、歩夢と侑が二人で一人であることを強く実感することができたのは面白いところだ。スクスタのように「あなた」に依存する歩夢、というかたちよりも、アニガサキのように二人が自立する様を描く方が、ずっと依存(という言葉を選ぶのは良くないが)しているように思える。

1話から12話を通して、まさに天晴れなシナリオでした。

 

【11話についての自分の感想】 

つまり、ここで言われていることは、侑から歩夢への約束の履行に違いなく、決してスクールアイドルがどうのこうの、というものではない。あくまで幼馴染のなかでだけの会話がされているのだ。

これについては、侑から歩夢への感情の理解はともかくとして、侑は侑なりに、ずっと歩夢のことを気にかけていたというところが根拠となる。侑はずっと歩夢にかわいいと言い続けてきたし、「放課後に歩夢のことをずっと待つ」ことにも同意をした。

侑は世間一般的な幼馴染の関係よりも、ずっと深い立場にあるわけで、今回のディスコミュニケーションの原因は、ただ歩夢の自己肯定感の低さをちゃんと把握できていなかったこと、それだけに違いない。

故に、侑にとっても歩夢は第一の存在であるはずだし、「誰も選べない、何処も選べない」という選択肢の問題は、あくまでスクールアイドルに関連した話に限ることであり、それは歩夢の話とは別レイヤーであり、下位にあるものだと考える。

 まずここで整理したいのが、歩夢との問題は「選択する」とは別のレイヤーの話だということだ。

これまで侑から歩夢に向けての想いは随所に見られてきたし、11話の段階でも、自分は侑から歩夢への想いが、歩夢から侑のものに比べて劣っていたとは全く思っていない。11話の押し倒し事件の原因は、決して気持ちの重さ軽さではなく、歩夢が「同好会のなかで自分だけ大好きを持っていない(いまだに普通の女の子のままである)という劣等感」と「侑が遠く見えることへの焦り」が絡みあって、縋るように侑に停滞を望んだのではないかと考えている。

ただ、結果として、12話が扱っていた歩夢の気持ちは違うものだった。12話の歩夢は、ファンを大好きだと思う自分の気持ちが大きすぎて、「侑だけを大好きだと思っていた自分が揺らぐのが恐ろしかった」という事だった。これについては後で考える。

 

 【11話についての自分の感想】 

問題を整理すると、

①歩夢は侑と唯一かつ強固な関係を望んでいる。

②侑だけが先に進んでほしくない

この2点である。このいずれかが欠けても、歩夢は完全に満足のいく救いにならない。

(略)

そこで、②の侑に置いていかれたくないという感情だが、逆を考えれば、歩夢が侑に追いつけば良い/自分の自己肯定感を高めればよい、という話になる。

そこで、①により得られた侑との曲を手にし、ステージに立って歌うことで、歩夢は、初めて自己のファンの存在を自覚することが期待される。歩夢にはファンがいるのだから(焼き菓子同好会のひとり)、それを自覚することで、自分が侑以外から必要とされることを認識し、自分が外の世界と繋がっていることに気づけば良いのだ。

そうすることで、歩夢は①と②を同時に満たし、侑への気持ちを曲げることなく、一歩前に進むことができるのではないだろうか。

と、このように自分は「侑からの(未熟な技術で作られた)楽曲」「ファンを自覚すること」が歩夢を一歩前に進ませるものだと考えていたのだが、実際は「ファンからの黄色いガーベラ(愛)」「侑からの赤いガーベラ(変わらない想い)」を受け取ることになる。

内容としてはそこまで間違っていなかったのだが、侑からもらうものの属性が違っている。

自分は侑から渡すものは「未熟」という属性が必要だと考えていて、それは歩夢が、自分はまだ未熟なままだと考えているから(侑や同好会への劣等感)でもあり、1話で歩夢が侑に渡したパスケースも、「未熟」という属性を帯びていたからだ(対称性の美しさという観点)。歩夢が自分を未熟だと考えているからこそ、侑が渡すものも未熟であるという点で、「私たちはどちらも未熟だ」という共通認識から、歩夢が侑と同じ立場であると安心し(同時に侑の作った初めての曲という特別な関係も手にしながら)、一歩を踏み出すことで、ファンの存在を自覚し、成長するという手順を踏むのだと思っていた。

 

しかしながら、実際に侑が渡したものは、「変わらない想い」である。これは、未熟という属性はなく、あるのは「停滞」よりも「永遠」のイメージであり、未来に向けての足場という意味合いが強い。簡単に言えばぐらつく脚立の支えのようなものであり、これから一歩を踏み出そうとしている子への安心感という意味合いが強く、同時に「歩夢と侑の、唯一かつ強固な関係」を示している。そして、この赤いガーベラをもらうことで、歩夢はライブを行うことができたのだ。

つまり、アニメでは、歩夢は自分を未熟だと思っていなかった。実際にその口から語られるが、歩夢は「自分が変化していることを恐れていた」のであり、その変化の支えとなる「侑からの変わらない想い」こそが必要だったのだ。

……いや、そんなこと書かれていたか!?

確かに、12話だけ見るとめちゃくちゃ綺麗に纏まってはいるし、1話から12話にかけての侑と歩夢の関係性もすごく綺麗なように見える。もちろんこれは、歩夢の抱えている問題が「変化への恐怖」だった場合の感想である。せつ菜から支えられて、ステージも作られてと、その後の展開を描く技量は半端なかった。最高の作品だったと思う。

ただ、自分は上記の仮定を受け入れるのが難しい。これまで書いていたように、11話までに描かれた歩夢の描写から判断すると、歩夢が抱えていた問題は「未熟」でしかないからだ。これがもし本当に、アニメ側は1話から12話を通して、歩夢の「変化」を描いていたのだとしたら、自分はかなり大事な要素を見落としていることになる。本気でどのあたりが該当しているのか教えて欲しい。

で、自分の考えが決して独りよがりでないことを示すまでもなく、12話にも、歩夢の抱える問題が「未熟」だと言える要素が多々ある。例えば、同好会のメンバーは、みんな自分たちの手で、ファンと一緒にステージを作り上げている。エマは「自分のステージだから、(ファンに)任せっきりにしたくないよね」とまで言う。

けれども、歩夢は自分の手を使うことは一切なかった。ファンと侑の手によって、歩夢の知らないところで、完全な花道が作られたのだ。この花道に歩夢の意志(やりたいこと、大好き)はなく、あるのはファンと侑から歩夢に向けた気持ちだけである。

そこで交わされる言葉もそうで、歩夢がいう「こんな私」には未熟の意味が込められていると言って間違いない。同好会のみんなと違って、普通の女の子である自分を応援してくれるファンに向けての「こんな私」という謙遜の言葉に、変化を恐れる意味はないだろう。

また、侑と自分の夢を再確認するところもそうである。

1話で歩夢が侑に向けて「自分が好きなかわいいに素直になりたい」ということが、そこまで大きくないということは12話の歩夢自身が語っていることである(自分も明言するんだとびっくりした)。これは実際、めちゃくちゃ大事なことで、アニガサキの歩夢も、1話の時点ではスクスタと変わらず、一番にあるのは自分の大好きではなく、侑の大好きだったのだ。

極論、歩夢にとっては、自分が「かわいいに素直になる」かどうかはどうでもいいのだと思う。「大好きに向かって頑張るひとを応援すると、何か自分も大好きが見つかるかもしれない」と語る侑のために、自分がその「大好きに向かって頑張る人」になることで、侑は自分にときめいた視線を向けてくれる。もちろん、歩夢の「かわいいものに素直になりたい」という気持ちは嘘ではない。そんなスクールアイドルになれたらという気持ちも嘘ではない。しかしながら、一番にあるのは、侑が自分を見てくれるからなのだ。侑のために、スクールアイドルをしているのである。

これをさらに補強する材料として、1話で二人が約束した場所で、12話、侑が「音楽科への転科を考えている」という夢を語ったのに対し、歩夢は「みんなのために歌うよ」に留まっている。ここに、1話で語った「かわいいに素直になりたい」という要素は一切ない。あるのは、「こんな私」を支えてくれるファンに向けての感謝である。この描写からも、歩夢にはまだ明確な「大好き」はないのだ。強いて言うなら、「大好きのない自分を支えてくれる、みんなのことが大好き」なのである。

 そして、ここで歩夢の状態が確定される。12話を終え、これで良しとされるのだ。

未だにこれが「大好き」だと胸を張って言える状態ではないが、自他共に変化している現状を受け入れ、自分を肯定してくれるファンと侑に感謝を伝える。

これが、上原歩夢の到達点なのだ。

で、変化しつつあるとは言え、歩夢が「こんな私」と言うことからも、未だに「未熟」であることには自覚的であるはずである(侑とファンからはそんなことないよとフォローされるが)。また、12話最後で侑が弾いたピアノ、「今の私にはこれが精一杯(=未熟)」という言葉に対し、「そんなことないよ。とっても素敵だと思うよ」とフォローに入る歩夢といい、二人の関係は確実に変化している。

つまり、12話終了時の二人は、どちらも未熟であることには自覚的(謙遜の可能性もあり)だけれど、相手はそうは思わない。しっかり前に進めていること(変化)を、相手が教えて(認めて)くれている、という状態なのである。

この状態と切って離せないのが、やはり侑と歩夢に共通していた「未熟」と、二人が前に進むきっかけになった「変化への受容(変わることの勇気)」である。

と、ここまで書くと「何も脚本におかしなところは無いのでは」と思うかもしれないのだが、個人的に問題だと思うのが、「変化」に関する描写である。

というのも、12話でせつ菜と歩夢が対話するあたりから、歩夢の抱えている問題としていきなり「変化」の話が出てくる。歩夢は停滞を望んでいて、変化が怖いと言うことだが、きっと視聴者は「そうだったの?」と誰もが驚愕しただろう。それはそうである。だってこれまでに描かれてはいないのだから。

これまでに歩夢が「変化している」描写がどれほどあっただろうか。少なくとも、自分が調べた範囲では、歩夢が侑以外のファンと間接的にでも接した(認知した)のは、

①5話 自分の自己紹介動画が2065回再生されていることを知る

②6話 初めて歩夢のファンと知り合う

③11話 焼き菓子同好会の子達(12話で歩夢に黄色のガーベラをくれた子たち)が歩夢のクッキーを焼いてくれる(音声なしカットのみ)

ぐらいではないだろうか(他に情報があれば教えてください)

確かに、これだけでも歩夢がファンを大事にしようと思うことはあるだろう。しかしながら、12話もかけてこれくらいしか描写されなかった要素を、歩夢の重大な属性として語ることがややこしさを産んでいる。表面上はめちゃくちゃ綺麗なのだが、脚本を丁寧にフォローしている人からすると、まるで論点がすり替えられてしまったかのように思うのではないだろうか。

原因はひとつしかなく、歩夢が日々変化していると示す情報が少なすぎるのだ。これは歩夢の成長を語る上ではちょっとずるくて、物足りない。「11話はミスリードだったのか」と言っている人が居たが、自分はこれはただの説明不足だと感じる。

露骨かも知れないが、歩夢が「自分の好きの変化」を一番に怖がるのであれば、それ相応の描写が必要だと自分は考える。

例えば

①侑からもらったパスケース(や、昔もらったことがあるもの)と同じものをファンからプレゼントとしてもらってしまう。どうしようと困惑するシーン。

②ファンに呼び出され、応援していますと握手しているところ、あるいはガチ恋ファンレターを侑に見られ、モヤった侑とちょっともめる。

③ファンから誘われたお茶会が、侑とのデートとブッキングする。どちらをとるか悩む

などなど、侑とファンへの(からの)気持ちが拮抗するイベントが必須なのではないか。それがない状態で歩夢が変化について怯えても、それほどの説得力を感じない。

 

まあ、それでも初回はすっごく感動して「ブラボー!」になったところに、この脚本のすごさがあるのだけれど。

個人的に、この論理の甘さ(もちろん自分の読解力不足がこの「誤解」を産んでいる可能性も十分にある)が気に食わなかったが、それを抜きにしてもいいかなと思うくらい、最初に見た時の印象がよかったので、この脚本に満足はしています。納得はしていないけれど。

 

Awakening Promise

今まで通り、歩夢のイメージである花や種がモチーフとなっている曲だが、明らかにアニガサキ要素を含んでいる歌詞がある。それが下記で、

昨日とは違う風が心を締め付ける
けど (ずっと) 思いは繋がってるから

という箇所である。変化を受容する理由として、二人の思いは繋がっていること(赤いガーベラ、歩夢と侑の、唯一かつ強固な関係)が挙げられている。

で、それを踏まえた上で見たいところがあって、 それが上記の歌詞と対応している「雲のなかから落ちてくる歩夢が、一瞬だけ羽根を生やし、また失って笑顔で夜の街に落ちていくシーン」である。これは「Dream with you」を踏まえており、

飛び立てる Dreaming Sky
一人じゃないから
どこまでも 行ける気がするよ
空の向こう

 から考えると、明らかに一人になったから(侑とは道を違えたから)、歩夢はこれ以上飛べなくなったのだと考えられる。しかしながら、落ちていく時の歩夢の笑顔を見ると、まったく後悔しておらず、むしろ落ちていくのを楽しんでいるようにすら見える。

ここに歩夢の新たな始まりがあり、「けど (ずっと) 思いは繋がってるから」という気持ちを根拠に、新たに夢を見つけようとする歩夢の姿が見えてくる。

ここの描写を補強するのが、ライブ前後の二人のやりとりである。

ライブ直前は、

歩夢「ゆうちゃん、今までありがとう」

侑「歩夢、今までありがとう」

というやりとりがされ、

ライブ直後に、

侑「これからも」

歩夢「よろしくね」

という言葉が交わされる。

これが全てを表していて、 ライブ前までの、「侑と二人でいれたから夢を目指せた歩夢」は完全にいなくなり、代わりにライブを通して、「ファンと侑の思いを足場に一人で立ち、一人で新たな夢を見つける歩夢」が生まれたのである。

侑のことが大好きな歩夢は、死んだのだ(!)。自分はこれがショックでならないのだが、何度本編を見返しても、そういう結論に行き着いてしまう。11話の描写からすると、本当に歩夢は侑のことが恋愛的に好きだったんじゃないかと、小さい頃はボーイッシュな侑を男の子だと思い込み、密かに結婚できるのかなと叶うはずのない未来を夢見てクスクス笑うロリ歩夢を想像しては止めどない涙を流していたのだが、12話を見ると全くそんなことはなかった。

ライブ後のふたりの手の繋ぎ方が、それを端的に表している。これで恋人繋ぎをしたらいよいよ制作者の意図が分からなくなったところだが、固い手の繋ぎはライバルのようで仲間であり、友達のようで幼なじみな二人の新たな関係を示している。

自立をしたんだなあ、歩夢……。

父親のような顔つきになっている。

 

最後に 

かなり長くなってしまったが、書きたいことは殆ど書けた。虹ヶ咲は本当に百合描写がすさまじく、途中からは百合アニメに路線を切り替えたのか?と思ったし、途中からはそのつもりで感想を書いていたのだが、この12話を出されて、やっぱり「ラブライブ!」の物語だったなと、気を引き締めることになった。

個人的に、11話の熱量のすごさから、12話の落ち着いた朝にテンションを引き継ぎ、そのまま綺麗な終わりにまで持っていた脚本に度肝を抜かれ(「変化への恐怖」の描写の甘さについては別だが)、田中仁さんの技量の高さに敬服するかたちとなった。やっぱりプロの書く物語ってすごいですね。スクスタのライター陣も頑張ってくれよマジで。対価としてお金をもらっているんだから。

次回13話が最終回ということに、戸惑いを隠せない。これほどの作品が、当初は生まれる予定がなかったということを考えると、尚更この物語が奇跡のように思えてくる。

虹ヶ咲は、μ'sと違って少女たちの身に奇跡が起こる物語ではないし、Aqoursと違って、泥臭く現実と向き合う話でもない。ただ、一人ひとりが自分と向き合い、それぞれの夢と真摯に向き合い、実現させようと頑張る女の子たちの話である。

一人ひとりに焦点を当て、丁寧にその子の生き様を描いてきたからこそ、最終回タイトルでもある、みんなの夢を叶える場所(スクールアイドルフェスティバル)がどれほどすごいお祭りなのかがヒシヒシと伝わるし、そのフレーズだけで軽く泣きそうになってしまう。グループではなく、個人としての夢が妥協することなく集まったからこそ出来た場所で、自分たちは何を見ることができるのか、楽しみでならないです。

 

※追記

てか今更なんだけれど、歩夢の不安定さを声にしているあぐぽんの演技は言うまでもないが、侑ちゃんのかっこよさが声に染みこんでいるひなきちゃんの演技、めちゃくちゃにすごいですよね。本当にかっこいいと思う。そりゃあんなかっこいい幼なじみがおったら、それ以外の人見えなくなるわな……。 でもお似合いですよ。なんとかして付き合って欲しいな。やっぱり百合豚なので。