新薬史観

地雷カプお断り

屯田兵カードが無限枚欲しい

都民というのは、なぜ生まれが東京というだけでかくも偉そうになれるのか、というのはずっと謎だったのだが、何度か東京に足を運べば、その便利さに納得せざるを得ない。まず電車がありえん充実しているし、車を必ずしも持つ必要が無い時点で、ペーパードライバーである自分にはその有り難さが分かるものである。運転に自信がない自分としては、ハンドルを握る行為は常に事故の可能性を孕んでおり、通勤するだけで、日に日に寿命が削られていく感覚すらある。そのリスクを直に感じなくてよいのは(例え満員電車でも)、大きなメリットと言える。

また、オタクにとって、東京(広義)という地はすべての始まりである。横浜や御茶ノ水でライブをやれば、九段下でリリイベもするし、秋葉原トークイベントを開けば、東京テレポートコミケが行われる。欲しいものを発売日の前日にフラゲすることは当たり前だし、申し込み抽選発表とイベントの開催日が直近で、フライトの予約が難航するということもない。電車に乗れば一発なのであって、そもそもイベントに行く際に、宿と足という概念がなくなる。せいぜい開演1時間前に家を出ればなんとかなるのだ。

 

このような話を生粋の都民とすると、「あ~大変ですよねえ」という相槌を打たれるのだが、そこに共感の意はなく、「なんか大変そう」という文字通りの意味しか感じ取れない。本当に分かっているのか?と問い詰める行為は双方にとって意味がなく、経験したことがない概念を完全に理解させるのは不可能だろう。自分は完全に性格が捻くれているので、都民という驕り高ぶった特権階級を生まないためにも、憲法か何かで人間の生まれを北海道あたりに設定したいと思っているのだが、そうなるとやはり管理社会になってしまうのだろうか。文字だけでいうとめちゃくちゃだが、実際に地図を見れば分かるように、北海道にはそれを実現する十分なキャパはあると考えている。道東あたりはいまだ開拓の余地があり、東京でコンサルとかやっているようななんちゃって知識人(?)に屯田兵カード*1を使用して、10年くらい開拓をしてもらえれば、全人類のベッドタウンとして北海道が機能することも夢のまた夢ではないだろう。

そして、そのような社会には都民という概念が存在せず、まるで太陽と空を知らない地下の子供たちのように、「東京」という街が概念として出現するのである。

阿寒湖の近くで雪かきをしながら、ひいお爺ちゃんが東京でコンサルをしていたという家系の子供が「なあ、昔は東京で生まれる『都民』ってやつらが居たらしいぜ」と友人に語りかけ、息の合った雪かきをする友人が「うそだあ」と、白い息を吐きながら笑う。そんな未来があってもいいのではないだろうか。

存在しない彼らを未来の私たちが産むためにも、日本政府は屯田兵カードを無限枚印刷すべきである。

日本を、この国を、変えたい。

 

*1:ゲーム「桃太郎電鉄」に出てくるカード。誰かを強制的に北海道の何処かに飛ばし、1ヶ月労働に従事させる