新薬史観

地雷カプお断り

マシュマロへの返信「キャラの痛みはあなたの痛みではないか」

先の記事について意見をいただきましたので、共有 させていただきます。

marshmallow-qa.com

 

で、こちらについては自由に公開してもよい、とのことでしたので遠慮なく公開させていただきます。ありがとうございました。

以下本文

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https://negishiso.hatenablog.com/entry/2021/02/08/184649


こんばんは。
本日のカプ解釈記事、非常に興味深く拝見しました。
そのなかで2点ほど思うところがあったので送らせて頂きます。
元のマシュマロを送った方(Mさん)とは全くの別人、部外者です。
ラブライブをほとんど知りませんが、一介のオタクとして意見させて頂きます。
ねぎしそさんを非難したり、ねぎしそさんの推しCPの正当性を疑うつもりは毛頭ありません。
(そもそもほのうみが誰かよく知らないので)


1点目は重箱の隅をつつくような、大したことのないイチャモンです。
まず、①の回答「作品には基本的に関係の勾配が存在する」は仰る通りだと思います。
ただ、具体例の説明内の "情報の追加によって「ABCにおける関係性」はどんどん狭まっていく" という1文にはやや引っかかりました。ここで挙げられたABCの例は、あくまでねぎしそさんのこの持論を補強するために都合よく作られたものです。
複数のキャラが登場するあらゆる作品・物語で、この「情報追加に比例して関係は固定され狭まっていく」という法則が成り立つとは到底思えません。

物語が進んだり、メディアミックス等で参照すべき"原典"が増えるに従って、あるキャラの様々な側面が描かれ、多様な関係の可能性が生じることは容易に考えられます。
例えば1期に登場しなかった2期からの新キャラとの関係の余地が生まれる、とか。(具体的な作品名を出せ、と言われたらよく知りませんが……)

思うに、"法則"が成り立つか否かはコンテンツのジャンルによって大きく変わるのではないでしょうか。
ねぎしそさんの主戦場であるラブライブ、あるいはより射程を広くとって2次元美少女コンテンツの主なファン層が百合的なキャラ消費を好むのであれば、そう消費しやすいように作られることでしょう。つまり商業コンテンツである限り、早い段階でCPが固定されるか、あるいは様々な選択肢を残すか、といった方向性の舵取りは需要と供給の折衝によって決定されるのであって、まったく別のタイプの需要を持つ消費者がメインのコンテンツであれば、"法則"は成立しなくなると思われます。

また、次の文 "そして、それは原作を深く読み込むことでしか得られない行為です。" にも引っかかります。「深く読み込む」と、あたかも1次元(スカラー)的に作品受容の程度が測られるような言い回しを用いていますが、雑に言っても「どの方向に深く読むか」は一方向ではないはずです。

この読みは深い、この読みは浅い、といった価値判断は結局、自分の推しCPの正当化に都合がいいかどうかといった恣意的な基準しかないと思います。深く読めば読むほど、一見自明に見える王道(幼馴染?)CPではない、描写の薄い関係に可能性が見いだされることもあるかもしれません。「同じコマにいたから2人は付き合ってる!」という定型句がありますが、「深く読む」ことと「妄想する」ことのあいだに絶対的な線引きはなく、両者はグラデーションで繋がっているのではないでしょうか。
(余談ですが私も幼馴染CPは好きです)

長くなりましたが、以上が重箱の隅をつつく1点目です。


2点目は、記事の後半の「キャラの感情とオタクの感情のどちらを尊重するか」という議論についてです。
ねぎしそさんは「①キャラクターは抗議の声を上げることができないから」せめてキャラの尊厳を守るために、なるべく原作の設定を遵守する、という立場であると読みました。そして、顔カプなどのオタクは自分の好みを優先してキャラの尊厳を毀損しているから残酷である、と。

わたしはこれに異を唱えたいです。わたしの立場は「キャラクターはそもそも生きていないのだから、何を2次創作しようがキャラの尊厳を損なうことは原理的にあり得ない。『残酷』だと感じるのはどこまでもキャラの部外者であるオタク自身(ex.ねぎしそさん)であって、キャラ自身の尊厳を人質のように持ち出すのは卑怯だ」というものです。
ねぎしそさんは「キャラーオタク」という関係下での倫理の話をしているのに対し、わたしはその関係を信じず、キャラやコンテンツを依り代とした「オタクーオタク」の関係があるのみであると考えます。

つまり、オタクがオタクに文句を言うのは何も問題はないのですが、そこにキャラの尊厳だのキャラがかわいそうだのという理屈を持ち出すのがタブーだと思うのです。
キャラの尊厳というなら、そもそも2次創作それ自体が問題になると思います。
愛し合うABというCPがいたとして、ABがイチャイチャする2次創作を描くのは「ABにとって」良いことなのでしょうか。わたしはそうは思いません。「AB好きのオタクにとって」は良いことでしょう。でも、それだけです。キャラの尊厳を持ち出すのは、AB推しのオタクが都合よく理論武装するための方便としか思えません。2次創作はどこまでもオタクが自分自身のために行う行為であって、キャラの尊厳を守るなどという正義感にまみれて行うものではないと思うのです。

「俺はABのために2次創作をしてやっているんだ」と本気で思っているオタクがいたら恐ろしくないですか?2次創作は自分が自分を救う・満足させるために行われるべきです。
2次創作は自慰行為であって慈善行為ではありません。
原作外で幸せを感じる機会が増えたことで、ABの尊厳は守られているのでしょうか。いえ、2次創作の時点で「余計なお世話」であり、ある意味で「暴力」なのではないでしょうか。

わたしは2次創作がダメだと言っているのではありません。著作権もここでは関係ありません。

全ての2次創作は「自分が楽しいから」というエゴにのみ駆動されて行われるべきものであり、エゴを取り繕ってキャラの尊厳やら幸せやらのために自分が「してあげている」のだという気持ちが少しでもあったら、それは健全な創作態度であるとは言えないとわたしは思います。(いや、作品と自己の境界があやふやになるほど入れ込んで狂ったオタクが「ABのためにしてやっているんだ!私が作らなきゃABは報われない!」という衝動に突き動かされて2次創作に邁進する姿はそれはそれでひとつのオタクのあるべき(不健康な)姿だとも思いますが……これはあくまで「狂った」というエクスキューズありきの事例であって、他者に理知的に説得する(ねぎしそさんが元記事で行っているような)レベルでの正当性は保てないでしょう)
まとめると、原理的にあらゆる2次創作は原作やキャラへの暴力性を孕んでおり、オタクはそれを自覚した上で、「自分の快のために」好きなように2次創作を行うべきである。他人の2次創作を「自分の好みに基づいて」称賛したり非難したりするのも自由だが、そこに自分の快不快を越えた「キャラの尊厳」などの外部の要素を持ち込むことはそれ自体が自らのエゴイズムを覆い隠さんとする欺瞞である、ということです。
顔カプのオタクに文句を言うのはまったく問題ありません。しかし、それは正義の名の下に行われるべきではなく、あくまでねぎしそさん自身の「原作カプを愛でたいし、それ以外が目に入ると不快だ」というエゴの下で行われるべきだと思うのです。

元記事では
「①キャラの尊厳を守るべき」→「だから原作カプのほうが正しい」
という順番になっていますが、本当は逆で
「私は原作カプを愛でたいしそれ以外が目に入ると不快だ」という思いがまずあって、そのエゴに客観的な正当性を纏わせるために「①キャラの尊厳を守るべき」という"宗教"をでっち上げているのだと思いました。

"一方で「二次創作で穂乃果ちゃんに人殺しをさせる行為」は、「普通の女の子である穂乃果ちゃん」にとってかなりの心的負担を負わせることになるはずです。"
とありますが、穂乃果ちゃんが人殺しになることで本当に心理的負担を負うのは、穂乃果ちゃんではなく「あなた」ではないですか?それを「穂乃果ちゃん」へとすり替えてはいませんか?勝手にキャラに心理的負担を負わせて自分の願望の充足を達成する行為のほうが、わたしには「人殺し穂乃果ちゃん」の2次創作をする行為よりも"正しくない"と思えます。

 

めちゃくちゃ長く、読みにくくなってしまいすみません。
書きながら自分の意見にも様々な粗というか疑問点が浮かんできました。
例えば上の主張では「原作と2次創作には絶対的な隔絶がある」ことを前提としていますが、漫画原作のアニメ化作品のように、どこまでが原作でどこまでが2次創作なのか一概には言えない案件は多々あります。また、原作至上主義にまでなってしまうとそれもわたしの本意ではありません。
それから「キャラは生きていない」すなわち「フィクションとリアルには絶対的な隔絶がある」という前提も、VTuberなどの台頭により自明視することはできなくなりつつあるため、フィクションをめぐる倫理的態度の問題はまだまだ考える余地があると感じています。

非常に興味深い記事をありがとうございました。
おかげさまで考えが深まり、整理され、課題も多く見つけることができました。
これからもTwitter/ブログの更新を楽しみにしております。
またいつかお話しできたらうれしいです。

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以上【追記終わり】

 

これについて、反論をいうつもりではありませんが、コメントさせていただきたいです。せっかく送ってくださったのですし。

まず上から

ここで挙げられたABCの例は、あくまでねぎしそさんのこの持論を補強するために都合よく作られたものです。

その通りです。自分の考えを説明するのに最も適したモデルとしてこの形を紹介しました。

複数のキャラが登場するあらゆる作品・物語で、この「情報追加に比例して関係は固定され狭まっていく」という法則が成り立つとは到底思えません。

 ねぎしそさんの主戦場であるラブライブ、あるいはより射程を広くとって2次元美少女コンテンツの主なファン層が百合的なキャラ消費を好むのであれば、そう消費しやすいように作られることでしょう。つまり商業コンテンツである限り、早い段階でCPが固定されるか、あるいは様々な選択肢を残すか、といった方向性の舵取りは需要と供給の折衝によって決定されるのであって、まったく別のタイプの需要を持つ消費者がメインのコンテンツであれば、"法則"は成立しなくなると思われます。

 自分のなかでは、この「法則」(といっていいのでしょうか)はすべてのコンテンツで成り立つと思っています。といいますのも、

物語が進んだり、メディアミックス等で参照すべき"原典"が増えるに従って、あるキャラの様々な側面が描かれ、多様な関係の可能性が生じることは容易に考えられます。

これは全くその通りなのですが、いくら新キャラが現れようとも、いくら多様な関係の可能性が生じようとも、「作品には基本的に関係の勾配が存在する」のではないでしょうか。これについては自分でもナンセンスだなと思うのですが、非常に混乱するレベルでキャラの関係性についての設定が爆発的に存在するとしても、キャラAを始点としたベクトル演算に考えれば、仮にキャラB~Zまでの終点があるとしても、そのベクトルはなんらかの方向性(つまり、終点として最もCに近い等)を持つのではないかと考えているのです。

ここで自分でもナンセンスだと書いたのは、すべての設定を

①「演算可能である」

②「向き」「大きさ」を計測することができる

と仮想的に設定していることにあります。

①については、これ自体論理性がないなと思って、反省しています。「誰かに向けた気持ち」や「思い出」「環境設定」などの資料を、すべて同じ「個」や「匹」で括ろうというのですから、批判されても仕方ないかなと。

②についても同じです。決して設定に付随してはいない「向き」と「大きさ」を、いち個人が勝手に解釈して付与しているに過ぎないからです。これは地雷カプのブログでも書いたのですが、この「向き」と「大きさ」は、個人の感受性や意識、贔屓目がクリティカルに作用するところなのかなと考えています。

ですが、自分のなかでは上記①②は暗黙の了解として内部で処理していました。これを大前提としていたので、すべての設定はベクトル演算可能であり、終点も必ず存在するのかなと考えていたのです(前にも言いましたが、始点と終点が一致するようなことはないのではないかと考えています)。

ですので、自分の主張としては、設定がひとつでもあれば方向性を持つベクトルが生まれるのであり、それは設定が増えれば増えるほど「強固なものになる」というものです。

ここでの強固とは、「正解」への可能性が高くなるということであり、決してベクトルの大きさが大きくなるというものではありません。なぜならご指摘の通り、あらたな関係性が生まれることで、そのベクトルは基本的に方向性と大きさを変えることになるからです。特に「大きさ」については減少します。ここがマシュ主さんのご指摘の部分かなと。

これについては自分の書き方が悪かったです。

確かに、自分の文章を見返すと、「ある程度の資料が蓄積されると徐々に方向性が定まると信じている」と書いていました。これはあたかもどのような資料が追加されても「方向性」と「大きさ」が強まるというように読めます。ですが、個人的には「徐々に(仮想的な「正解」への)方向性が定まる」と書いているつもりでした。

と言いますのも、自分は原作内で存在する設定の量に事実上上限があると考えており(これは確かなはずです。無限の設定は存在しませんので)、ファンがそこに触れることができる量もまた限られ上限が存在していると思っています。で、仮にもしその設定すべて(これを統計学でいうところの「母集団」としてもいいかもしれません)を「演算でき」で「大きさ」と「方向性」を計算できるのだとしたら、「正解」はきっと存在するよね?ということを言いたいわけです。

なので、設定を集めれば集めるほど、その「正解」に近づくはず(サンプルを集めれば集めるほど母集団の推定が容易になる)ですので、そういう文脈で「ある程度の資料が蓄積されると徐々に方向性が定まると信じている」と記載しました。

なんというか、元記事は非常に言葉足らずだったように思えます。

訂正したくなりましたが、黙って書き換えるとマシュ主さんの指摘が虚無を差すことになるので止めておきます。

こちらの追記がありますし。

で、そのままもう一つの指摘にお答えしますが、

"そして、それは原作を深く読み込むことでしか得られない行為です。" にも引っかかります。「深く読み込む」と、あたかも1次元(スカラー)的に作品受容の程度が測られるような言い回しを用いていますが、雑に言っても「どの方向に深く読むか」は一方向ではないはずです。

 これについては、また自分の書き方が悪かった部分です。申し訳ありませんでした。自分としては、深く読み込む=資料の蓄積を意味するのであり、そこに深度は関係ありません。上記ですが母集団に近づけるために数を集めようねという話を「深く」という表現を扱った点で誤解を生んだのかと思います。正しく言うならば「広く」かなと。

なので

この読みは深い、この読みは浅い、といった価値判断は結局、自分の推しCPの正当化に都合がいいかどうかといった恣意的な基準しかないと思います。

深く読めば読むほど、一見自明に見える王道(幼馴染?)CPではない、描写の薄い関係に可能性が見いだされることもあるかもしれません。「同じコマにいたから2人は付き合ってる!」という定型句がありますが、「深く読む」ことと「妄想する」ことのあいだに絶対的な線引きはなく、両者はグラデーションで繋がっているのではないでしょうか。

 これについてはまったくの同意見です。ここは上記でいうところの、設定の「向き」「大きさ」を測りかねる、つまりグラデーションが存在しているために一律に決定できるものではないということにつながるかと思います。それに対して、自分はできる限り原作の文章を「それ以上でもそれ以外でもなく(贔屓目なしに見る等)」受け取ることで、「深度」を生まないように(大きさに変化をつけないように)心がけてきたつもりです。

が、きっとそれって無理なんですよね(それでも諦めたくないという思いが強いのですが)。

そもそも自分が暗黙の了解として扱ってきた統計云々の話が破綻している、仮定するのが烏滸がましい(もし空が落ちてきたら?という仮定に近い)ということでしたら、返す言葉もありません。上記のモデルが成立に足る根拠を自分は持ち合わせていないので。ですから、自分で書きながらも、「作品には基本的に関係の勾配が存在する」のはかなり不安定なモデルなのかなという不安は忘れないようにしたいと思います。

 

次に2点目のご指摘ですが、これはなかなか痛いところを突かれたなと思いました。

わたしの立場は「キャラクターはそもそも生きていないのだから、何を2次創作しようがキャラの尊厳を損なうことは原理的にあり得ない。『残酷』だと感じるのはどこまでもキャラの部外者であるオタク自身(ex.ねぎしそさん)であって、キャラ自身の尊厳を人質のように持ち出すのは卑怯だ」というものです。
ねぎしそさんは「キャラーオタク」という関係下での倫理の話をしているのに対し、わたしはその関係を信じず、キャラやコンテンツを依り代とした「オタクーオタク」の関係があるのみであると考えます。

つまり、オタクがオタクに文句を言うのは何も問題はないのですが、そこにキャラの尊厳だのキャラがかわいそうだのという理屈を持ち出すのがタブーだと思うのです。

 要するに、「キャラの痛みはあなたの痛みではないか」という話ですね。

これについては違うと言いたいのですが、否定に足る根拠を持っていません。なぜならキャラはしゃべらないので。で、この指摘を受けて、自分がやっていることは「あの人はお前を殺したがっているはずだ!」と勝手に死人の気持ちを妄想し、復讐に燃える人間のようなものかもしれないなと考えました。(二次元と三次元という区別ではなく、どちらも生きていない、意思疎通できないという共通点から)

もしかして自分のやっていることは降霊やネクロマンサーに近いのか?大川〇法なのか?とも考えましたが、本当に一切論理的に批判することができないので、「確かにそうかもしれない……」としか言えません。

確かにそうかもしれない……。

愛し合うABというCPがいたとして、ABがイチャイチャする2次創作を描くのは「ABにとって」良いことなのでしょうか。わたしはそうは思いません。「AB好きのオタクにとって」は良いことでしょう。でも、それだけです。キャラの尊厳を持ち出すのは、AB推しのオタクが都合よく理論武装するための方便としか思えません。2次創作はどこまでもオタクが自分自身のために行う行為であって、キャラの尊厳を守るなどという正義感にまみれて行うものではないと思うのです。

 「俺はABのために2次創作をしてやっているんだ」と本気で思っているオタクがいたら恐ろしくないですか?2次創作は自分が自分を救う・満足させるために行われるべきです。
2次創作は自慰行為であって慈善行為ではありません。
原作外で幸せを感じる機会が増えたことで、ABの尊厳は守られているのでしょうか。いえ、2次創作の時点で「余計なお世話」であり、ある意味で「暴力」なのではないでしょうか。

ただ、こちらについては少し「どうなのかな?」とは思う箇所があります。

全面的に「正しい」とは感じました。というより、「キャラの気持ち」という不定形なものに頼っている自分よりも、よっぽど論理的な考えだと思います。

が、それでもやはり「キャラの尊厳」は考慮すべきだと思うのです。話が通じなくて申し訳ないのですが、ここは自分にとってよほど譲れないことなんだと思います。

と言いますのも、二次創作とひとくくりにするにしても、その表現には様々なものがあります。アンチとしてキャラの血だらけの生首や拷問シーンを載せるヤバい人(現にラブライブ!ではこのような人が多数見られました。いろんな人がいるものです)から、エロ目的でキャラを凌辱する絵や文章を書く人、反面ほのぼの日常系からシリアスなものに至るまで、非常に多岐にわたるかと思います(後半はどのコンテンツでもそうかと思います)。

これらすべてにおいて、「原作外での操作」がなされていることは事実です。ですが、どうしても自分はキャラに感情移入をしてしまうのだと思います(これが自分の場合は強すぎるのかもしれません)。

例えば、自分が凌辱されるかほのぼの日常系を送るかと言われればほのぼの日常系を送りたいですし、好きな人と結ばれるか、そうでない人と結ばれるかどちらが良いかと聞かれると、そりゃ好きな人と結ばれるほうが嬉しいなと思うわけです。自分はこの「自分だけの倫理」に従い(「自分の好みに基づいて」)、「キャラもきっとこちらのほうが嬉しいだろう」という「キャラの尊厳」という観念をどうしても持ってしまいます。持つなと言われても無理で、きっとこれは意識的に頑張ってもどうにもならないものなのだと思います。

で、自分にとってはこの観念は至極自然のものです。そしてそれに従って、二次創作を行っています。マシュ主さんが例として挙げたように、もちろん「俺はほのうみのために二次創作をしているのだ!」とまではいきません。それはちょっとヤバい人だと思います。ですが、自分としては「ほのうみを書きたい」という自然な欲求があり(これは自分の快のためです)、様々な方向性が目の前に立ち上がります。この方向性は、エロ、グロ、ほのぼのシリアスなんでもいいですが、このうちで「キャラの尊厳フィルター(とでも言えばいいのでしょうか?)」がかかり、ほのぼのやシリアスのみが濾過され、(「外部の操作」と考えられるエログロが排除され)残ったそれらを創作するという過程を経ています。

自分語りになったようで申し訳ないのですが、このように自分は二次創作でも「自分の快」の後に「(自分の好みの倫理に基づいた)キャラの尊厳」というワンクッションを挟んでいるため、自分にとって二次創作に対する認識は、「自分の快」「(自分の好みの倫理に基づいた)キャラの尊厳」の二つを内包する一方で、「外部の操作」を行っているという認識が極めて薄いのかなと感じました。

ですので、

原理的にあらゆる2次創作は原作やキャラへの暴力性を孕んでおり、オタクはそれを自覚した上で、「自分の快のために」好きなように2次創作を行うべきである。他人の2次創作を「自分の好みに基づいて」称賛したり非難したりするのも自由だが、そこに自分の快不快を越えた「キャラの尊厳」などの外部の要素を持ち込むことはそれ自体が自らのエゴイズムを覆い隠さんとする欺瞞である、ということです。

 この文章の論理には賛成しますが、自分の場合は「キャラの尊厳」を外部ではなく内部に取り込み、なおかつ「自分の快」と癒着している認識があるため、内容には同意できないなと考えました。

自分で文章にしながら、非常にたちが悪いやつだなと思っています。要するに自分は「自分は二次創作では誰も傷つけてはいない」と耳をふさぐようなものですから、お子様かよって感じですね。ただ、これについては、より「自分の二次創作も原作やキャラへの暴力性を孕んでいる」という点を強く自覚していく必要があるなと考えました。そして、多分この点で地雷カプと相容れることができなかったんだなあと納得しました。ほかの方(おそらく大多数だと思いますが)は「自分の快」と「キャラの尊厳」が癒着していないんですね。あくまで「キャラの尊厳」は外部のものであるから、二次創作はすべてオタクーオタクの関係性にこそなるが、キャラーオタクの関係性にはならないと。

それから、自分はこれまで顔カプ(というより、自分のエゴ)で創作している人を「自分の欲求を優先してキャラの尊厳を無視しやがって……」と思っていたのですが、むしろほかの方からすると、自分のようなタイプの人間は「キャラの尊厳を盾にして自分のエゴであるという二次創作上の責任を投げ出しやがって……」と思うわけですね。

なるほど、非常に勉強になりました。

ここにきてようやく、本当の意味で地雷カプのオタクと和解できたような気がします(向こうがキャラの尊厳を盾にしていることの卑怯さを許してくれるかは別の問題ですが)。

自分はこの無責任さをこれまで自覚したことがなかったので、今後は少し自覚的になるように心がけます。非常に助かりました。ありがとうございました。