新薬史観

地雷カプお断り

藤本タツキ「ファイアパンチ」考察

本当に良かったのでいろいろ考えた。

ネタバレしかないので未読の人は読まないでほしい。

 

なお、これから書くことは、あくまで「トガタやスーリャの言説を信じれば」という条件がつくことに留意していただきたい(トガヤ、スーリャともに信頼できない語り手のように思えるが、それを言い始めると何も言えなくなるので今回は無視)。

 

 

 

用語解説(予想)

祝福 地球の大気中に散らばるナノマシン(あるいは原子、電子、粒子そのもの?)。祝福者の持つ「アクセス権(遺伝子)」により効果を発動し、激しく運動することで高熱を生み(炎の祝福)、あるいは運動を停止して熱エネルギーを低下、冷却を行う(氷の祝福)。電気や風を生み出す原理も似たようなものだと考えられる。バッドマンの「心を読む」祝福については、ナノマシンは心の動き(つまり脳機能や脳内の神経伝達物質・血液の流量)の可視化も可能であると考えられることで説明がつく。MRIなどの技術を更に発展させたものか。

福者 デザイナーベイビー(遺伝子操作された人間)のこと。現世代人からは「祝福」と呼ばれているデバイスへのアクセス権が特定の遺伝子配列にコーディングされており、その遺伝子の有無で、その人が持つ「祝福」が決定する。旧人類は皆がデザイナーベイビーであり、全機能を有していた。また、全機能を有している(遺伝子が同じ)ことから、声も容姿も目の色も全く同じ(ユダ、スーリャ参照)だったと考えられる。スーリャは終盤でサンから「祝福者の機能が落ちている」と指摘されていたが、それは細胞の老化を司る「テロメア」という箇所が関係しているように思う。テロメアは細胞が老化するごとにその長さが短くなることが分かっており、この短縮を抑制すれば細胞の老化防止に繋がると考えられている。よって、再生の祝福というのは細胞の増殖を促進し、細胞の老化を抑制するテロメア遺伝子の調節能力のことではないだろうか。これに関しては「祝福」とは関係なく、自己の遺伝子で完結する遺伝子変異なのだろう。その機能は生体故に完全ではなく(動的なため)、千年も生きたスーリャの再生機能が衰えつつあってもなんら不思議なことはない。

文化革命 映画製作や視聴、および創作活動の禁止。これは遺伝子操作により人類の見た目が均一になったことから、思想の統一も目指されたことに由来すると考えられる(あるいは、思考と見た目を統一するために祝福が発明されたか?)。これについては、「心を読む祝福」が存在し、旧人類は全アクセスを行えたことから、全旧人類はすべての人間の思考を読み取ることができたという事実からも、より正確な意味での「思想警察」の実現が果たされたと言って良いと思う。創作活動=「特別」「自由」「個」などのイメージが付き纏うことからも、この文化革命(思想警察)は、自分と異なる思想をする「他者」の根絶を目指したものだと考えられる。なお、当然のことながら、この革命から逃れた人類も存在していたと考えられる。彼らは思想的にデザイナーベイビーへの拒否、つまり「均一な存在」から逃れた、現世代人の祖先ではないか。遺伝子操作、あるいは祝福の全機能を有するために計算された「性交すべき相手への性交(自由恋愛の禁止)」「赤ちゃんへの遺伝子操作」への拒否を意味する「多様な生殖活動」により、遺伝子配列は旧人類のものから変化し、祝福の全機能へのアクセス権を失った現世代人になったものだと考えられる。トガタの祖父は大量のパッケージ映画を有しており、またそのような人間は非常に少ないとの言説からも、トガタの先祖は数少ない文化革命から逃れた存在であり、自由恋愛(ただし同性愛、近親相姦を除く)を行った現世代人の先祖であると考えるのが有力だと言える。

 

時系列(予想)

以上を踏まえた時系列は以下

1990~2200年代 映画制作の最盛期

【祝福の発明および祝福者の生誕】※文化革命と前後するか

2200年 文化革命 映画制作の禁止

現在-1000 スーリャ(旧人類)生誕

【旧世代(第六世代?)の人類の他惑星への移住】

現在-300? トガタ(新人類)生誕 

【現在-280? 氷河期到来】各地で飢饉 

現在-150 ユダの父(旧人類?)が旧世代の都市を利用し「ベヘムドルグ」を築く。祝福者を薪としてエネルギー源の確保。それにより「全体としての人類」の種の保存を試みる

現在-130 ユダ(旧人類?)生誕

現在-23 アグニ生誕

アグニ含む家族は薪として搾取、アグニとルナの父母死亡

現在-8 アグニ(15歳)の村とルナがドマに焼かれる→ファイアパンチ

現在(1巻2話以降) アグニ23歳(ファイアパンチ)、ユダ130歳(ベヘムドルグの長) 

だいたいこのような時系列ではないか。

 

宗教とタバコ

本作品ではアグニ教が出てくるが、それ以前にも「神」の概念は存在している。この部分については、非常にキリストの影響が強いと思う。

・絶対に(自分で)死んではいけない(アグニの村の神父、ドマ)

・(ベヘムドルグでは)同性愛はいけない(ダツ・ニオデラ)

・近親相姦はいけない(アグニとルナ)

・ジャック「男と男がセックスできるはずがないだろう」

等々。一方で、

電気の祝福者「子供がこんな目に遭うなんて、神よっ、どうかこの子供に慈悲の炎を」(ファイアパンチ/アグニ教成立以前)

サイモン「子供を作る行為は無条件に神聖、どんなかたちであれ男に罪はない。女性は尊いが男と同じような人権はない。これが常識」

ネネト「男の命令は絶対で、十三になると絶対に子供を産まされるんです」

という言説からも、現在のキリスト教からは変容している部分も多い。氷河期によって生存のために倫理よりも性交を優先させる傾向が加速し、完全なる男尊女卑社会(「男」と「女」の二項対立)が成立したのだろう。当然ながら、この状況下では子を成せない同性愛と近親相姦は禁止すべきものである。また、女性が知恵をつけ、「自由に恋愛がしたい」とでも言おうものなら、晩婚化や未婚化が促進すると考えられる。これらは性差による差別があってはならないとする現代の私たちの「常識」とは大きくかけ離れた思考であるが、一方で、人類の繁栄のためには仕方ないとされるのがこの作品内の「常識」である。

同じような常識として、「人」と「薪」という二項対立の構図も用いられている。この世界では、人は暖かさの象徴である「炎」を神として崇めている。そうなると、「薪」となり人々の糧となる祝福者はもっと敬われるべきだが、それを拒絶するのが「種としての人類の存続」という考えなのだろう。つまり、数が少なく貴重な存在である祝福者(およそ数百人)を頂点にすると、そこに富や食料が集中し、大部分の人々(トガタ曰く1万人)は飢えて苦しむことになる。そのために、ベヘムドルグ外部の人間を「薪」とし、「人ではない」存在を宗教的に生み出すことで、1万人の大衆を活かす社会構造を生み出しているのだ。

このように、本作品では宗教(常識とも言えるかも)を道具のように用いていると考えられるだろう。学がなくても人々を統率するためには、神の意志(救いにはどう到達すべきか)を示し、ありもしない二項対立を生み出せる宗教が有効だと言うことだ。

これを踏まえると、宗教は統率者にとっては道具(教育の代替)であり、大衆にとっては抑圧(同性愛の禁止等)と救い(炎)である両面性を備えていると言える。

では統率者は何に救いを求めるのか。本作では、それが「タバコ」である。もう少し言い替えれば、タバコは神の不在を確信(または隠蔽)する人たちにとっての「救い」なのである。これについては、ネネトに注目すべきだ。ネネトはタバコを宝物とし、大人になったら吸うと決めていた。一方で、アグニとトガタが消えた次の日には、そのタバコを線香のようにし、アグニではない「神(しかし本人は神などいないことを理解している)」に祈りを捧げるために「火」をつけている。また、ベヘムドルグの統率者たちやアグニ無きアグニ教の統率者たちがみなタバコを吸っているという点からもこのことが言えるだろう。彼らは人々のために宗教と神を作る側であり、神を信仰する側ではないのだ。よって、ファイアパンチによって救うべき人が燃やされたユダはタバコ(統率者としての救い=神の不在の隠蔽の象徴)を捨てることになるのである。

少し話はズレるが、「タバコの火」と「神」に関連したことはトガタにも言えるだろう。トガタはもちろん神の不在を確信しており、またベヘムドルグの社会構造を暴く側でもあった。そのうえ、トガタには自らの性自認を混同させる「神」(自分の手ではどうしようもできない事柄を操作する立場の意)への苛立ちもある。これを踏まえると、ファイアパンチにとっての身体の火が、ルナを殺したドナへの怒りと痛みの証であったように、トガタのタバコの火は自らの性自認をごちゃごちゃにした神への怒りと痛みの証だと言える。一方で、アグニから「姉」だという役割をあてられてからは、トガタはタバコを捨ててしまう。この「火」を消す場面は、トガタが「女」として生きることを決めた(神への怒りを捨てた)描写だと解釈できるのではないだろうか。

 

カメラと映画

本作では、非常に露骨なメタフィクションが謳われている。なによりも作者の巻末の後書きである。作者はあとがきで最初は露骨な嘘を、次第にありえそうな嘘を織り交ぜ、最終的には8巻の終わりに「この物語はフィクションです」の一言を添えている。それだけでも憎い演出ではあるが、トガタによる「映画」撮影も(寧ろそっちが本命だが)作品中の大きなメタ要素だろう。もっとも、これを「メタ」と言うかどうかは非常に難しいように思う。なぜなら、「ファイアパンチ」は漫画であり、トガタが撮影した「ファイアマン(とでも命名しようか)」は映画だからである。媒体が異なるために、「完全なメタ構造をしている」と言うのは少し違うような気がする。また、先述の通り、トガタはファイアパンチのことをファイアマンと呼称している。これが「ファイアパンチ」なら怪しいところだが、呼称を意図的に変えているのだから作者的には「読者も驚くだろうし、軽くメタ構造入れとくか」くらいの心持ちではないだろうか。また、このトガタが撮影した「映画」は、ニューシネマパラダイスの如く作品終盤でガッツリとカタルシスを生み出す効果を狙っている。なので個人的には、漫画作品内で映画を撮影する構造と、その構造が示すテーマについては特筆すべき点はないと思う。あくまで読者の受け、また作品としてのクオリティ上昇狙いかなと。

 

内側と外側

これも二項対立のひとつだが、これに関しては宗教とはそこまで密接にむすびついてはおらず、人間という種に関する問いのようなものだと考えている。まずトガタの「見た目の女」と「心の男」、「見た目は同じルナとユダ」と「中身は違う妹とベヘムドルグの統率者」、「見た目が変わったファイアパンチ(サン視点)」と「変わらない兄さん(ルナ視点)」など、非常に意識的に取り入れられていると思う。また、これと対比するかのように、序盤で

ジャック「犬は内側と外側が同じであり、嘘をつかない」

という台詞が入れられている。このことから、犬にはない「内側と外側」を人間は有しているのだというメッセージを受け取っても良いだろう。また、上記の台詞は、外と内の違いによる「嘘」についても言及している。これは作中で何度も使われる「演技」という言い方にも出来るだろう。先ほど、メタ構造そのものはテーマとは深く関与していないとは言ったが、映画のなかでの「主人公」としてのアグニ、「監督」としてのトガタなどはもろに「演技」をしていると言え、メタ構造のなかで生まれる要素は当然テーマに関与している。これについては確信的な文言がルナからされており、

ルナ「できないのならできる貴方を演じて」「そうすればできる貴方になっていきます」「人はなりたい自分になってしまう」

あたりが該当するだろう。これはアグニが「アグニ」「主人公(ファイアマン)」「神」「ファイアパンチ」などと外側が変遷していく過程を受けての言葉である。もちろんこれはトガタについても言える。トガタの外側は女で、内側は男だ。しかし、外側が女であるという事実が、徐々に内側の男を侵食しつつあるという「気持ち悪さ」を吐露することになる。また先述ではあるが、上を受けて自分のことが何も語れない、自分の内側が分からないというトガタに対し、アグニは「姉」であることを望む。これがトガタにとって「姉になる自分を演じる」ということであり、徐々に本当の「姉」になるということを示しているのだ。その是非はこの作品では述べられておらず(そもそも何が良いのか、何が善悪かなどというしょうもない二項対立を、はなから藤本先生は相手にしていない)、ただ外側が徐々に内側を侵食していくというだけの話である。「木」の崩壊後、内側が不確定なユダに「ルナ」を押しつけ、徐々に1巻の本当の妹ルナのように(ユダだった頃の「お兄さん」呼びから「兄さん」への呼称変化、ルナのような丁寧語口調、「兄」への性的愛情など)変容していったのもそうだし、「兄」であることを求められ、アグニが何者でもない優しい「兄」に変容したのもそうだ。

人は他者から求められると、そのように変化してしまうのである。

 

外側と他者

上の話題に合わせて、呼称についても触れるべきだと思った。この作品では、外側と名前の紐付けが徹底して行われている。というのも、名前は尤も変化させやすい「外側」だからだろう。外側の変化、つまり身体で「腕がなくなった」場合、それ相応の物語が必要だし、読者が受けるインパクトも非常に大きく身構えてしまう。一方で名前を変えるだけならば「私のことは監督と呼べ」の一言だけでうまく機能する。当然、「なんで名前が変わるんだよ」という疑問は抱くだろうが、前者に比べて読者のインパクトは小さい。まあ別にいいかで済ますことが出来、作者は「さりげなく」外側を変化させることが出来るのである。その「さりげなさ」が最終的に内側を大きく変化させることによるインパクト、あるいは紐付けが強烈なのであり、藤本先生はその落差を狙ったのではないかと考えている。

名前とアグニの中身の違いについては、簡単に下に書くだけで納得してもらえると思う。

アグニ 昔の自分。悪い奴は死んでも良いと思っていて、目の前で誰かが死ぬのは絶対に嫌で、目の前の悪が許せなくて、目の前の死が許せない人間。誰からも見られていない(純粋な)自分であり、ゆえに自分だけが幻覚というかたちで「過去の自分」を見ることができる。「アグニ」とは自分から見た自分である。

神(アグニ様) サンから見たアグニ。弱きを助け強きを挫くヒーロー。正義。

主人公(ファイアマン)/復讐者 トガタから見たアグニ。ドマへの怒りに燃える復讐者。「監督」であるトガタや、「カメラ」であるネネトが居て初めて「主人公」たるのであり、トガタ死後の復讐に燃えるアグニは単なる「復讐者」である。ここにおいても、中身は変わらないのに他人から見た視線によって(カメラの有無によって)名称(外側)が変わるということを示している。

ファイアパンチ 敵兵から見たアグニ。残虐非道な悪の塊。

兄さん ルナ(ユダのルナ)やテナから見たアグニ。家事を行う「家族」の一員。

サン ネネトから見たアグニ。これまでの何者とも違う新たなアグニ。

このように、アグニはサン以外の名称において、絶え間なく外側を変遷させる存在である。単純に考えると、「それでは本当の自分とは何か」という疑問が浮かぶが、それについては終盤でアグニが次のような神父の言葉を想起する。

「アグニ、自分が何者かを自分では知ることができません」

「アグニも皆に見られ触れられて、そのときに自分が何者かを知るのです」

「いくらアグニが自分のことを薪や豚や鶏だと思おうと、私たちからすればアグニは薪でも豚でもない」

自分が何者かは他人に評価され、初めて分かるのです

ここで明確に示されるように、「自分が何者か」という問いの鍵を握っているのは、常に「自分」ではなく「他者」なのである。そして他者が自分を何で判断するのかと言えば「見た目」(外側、名前)なのだ。その見え方は状況や時代、そして「他者」である人間によって大きく変わる。それに対して、自分が考える内側は(時間や心持ちとともに大きく変化し、明確に定義づけることは不可能でも、その一瞬の状態の個数に限っては)ひとつだけなのだ。当然ながら、その多様な見え方と「内側」は異なることが殆どだろう。「外側」と「内側」が一致していなければ、ひどく不快で気持ちが悪い。だが、それは当然のことなのであり嘆くことではない。「外側」と「内側」の不一致は、人間にとっては大前提なのだ。そして、その不快を解消するために、人は「演技」や「嘘」で対処しようとするのである。要するに、人にとって「演技」と「嘘」は生きるために必要なことであり、逆にそれが人間を「人間」たらしめるのである。

実際に、演技と嘘を知らない犬は人間ではない。そしてこれは、旧人類についても言えることなのである。先述したように、旧人類は高度な文明発達により文化革命(思想警察)に至り、自分と異なる思想をする「他者」の根絶を目指すようになってしまった、と考えられる。これはある種、「演技」と「嘘」に頼らない「内側」と「外側」の一致を狙ったものではないだろうか。実際に外側が内側を作るという理論を用いると、遺伝子操作によってみんな同じ「外側」を手にし、さらに「心を読む祝福」で他人の思想を探るようになった場合に、一体人々の「内側」にどのような差異が生まれると言うのか。これについてはスーリャが述べているように、「みんな容姿は平等で常に幸福に覆われていて攻撃性すら捨ててしまっていた」のだ。そしてこのような旧人類のことを、スーリャは「もう枯れた人たち」だと言うのである。

 

演技と創造

「枯れた」という単語の対義語は「沸く」である。沸くものには何があるかと言うと、「温泉」や「怒り」、「想像(インスピレーション)」があるだろう。これらはすべて旧人類が手放したものだと考えられる。例えば温泉は「凍らない湖」の理由だったし、氷の持つ「停止」のイメージを打開する動的な象徴と見ることが出来る。また、「怒り」は先述のように旧人類が手放したものであるが、ファイアパンチが拳を握る理由である。想像は、旧人類が革命によって手放したものであるが、トガタの祖父が残した映画や、トガタが撮影した映画というように、地球に未だ存在しているものとして見ることができる。これらはみな「人間だけ」が持つイメージなのだ。

ここで思い出して欲しいのが、最後にサンとしてアグニが見た「映画(想像の最たる例)」に映されていたファイアマンの姿である。あれはトガタがイメージしたように、復讐に燃えるアグニの「怒り」の「演技」だった。つまり、サンが座っていたあの空間には「人間だけ」が持ちうるもの全てが詰まっていたのである。

 

パンチの理由

アグニが拳を握る理由には、そのときの名前(外側)に応じて様々なものがあった。

例を挙げると、

アグニ ルナとの約束、痛みを伴うことにより記憶するための拳(約束のパンチ)、または自分の正義に基づく、牢獄へのパンチ(正義のパンチ)

神(アグニ様) 俺はこの世界に負けたくなかった。雪も飢餓も狂気もずっと許せなかった。→社会そのものに対する怒り「ファイアパンチ」(正義のパンチ)

主人公(ファイアマン)/復讐者 ルナの幻想、「私のためにファイアパンチになって」→妹ルナが殺された怒り(復讐のパンチ)

ファイアパンチ (無差別な怒り?のパンチ)

兄さん 死ぬための握り拳(腕を切り落とす際の拳、死ねずに怒り土を殴る拳)

サン 映画館で「人間性」の塊である映画「ファイアマン」を見た時の拳

ここで注目したいのは、サン以前のアグリが作った握りこぶしが、常に「痛み」「怒り」を帯びているという点である。一方でサンとして映画を見て握った拳は、初めてそれらの感情(ネガティブな感情)から離れて作られた拳である。これは決定的な違いであり、この転換の理由こそが「想像の象徴」である「映画」だと言えるだろう。

 

 

想像力の行方

上記の通り、サンとしてのアグニが目にした映画は「文化教育的」な力を発揮していたと言える。怒りに燃える自ら(しかし他者である)の姿を「客観的に」見ることで感情移入し、あたかも自分がその人であるかのような錯覚を覚える。この「教育的」な作用は、ドマへの洗脳のシーンで見たように、使い方によっては非常に危険なものになり得る。一方で、この「客観的な」視点は「他者」の気持ちを想像することに繋がり、人は映画を通して他者の視点を獲得しているのだとも言えるだろう。この辺りは、既に述べたようにひと繋がりになっていると考えられる。「他者の視点を手に入れる」ことは、他者を理解しようとする姿勢であり、また自分とはまったく違う容姿の「他者」に触れる機会が提供されることでもある。自分と容姿が違うものに対し、人は警戒をする。その恐怖を乗り越えるために(容姿の違いを理解するために)、自分の考える他者である「外側」をその人に押しつけるのだ。「外側」は他者その人にとって大抵「内側」と違うものであり、その人に対して抑圧的に働いてしまう。しかし、そのやりとりこそが人間の持つコミュニケーションなのであり、お互いに傷つけあい歩み寄ることで、容姿の異なる人間は理解しあえるのである。

この点において、旧人類は「容姿を同じにする」ことで、他者を理解しようとする姿勢、つまり「想像力」を失ったと言うこともできるのではないだろうか。

そして、そのような状況に陥った人間、つまりサンとしての演技を終えたアグニに、再び人間たらしめる「想像力を与える(教育する)」ことこそが、映画の役割なのだ――というメッセージを自分は受け取った。

もちろん、最後の映画館のシーンは、ただ単にファイアパンチの強さ、美しさに見惚れていると言うこともできる。実際にサン(本物)もトガタも、初めて燃えるアグニを見たときに、瞳に炎を輝かせているという描写がある。二人はそこで(神、主人公としてそれぞれのかたちで)生きる糧を得たのであり、そのためにこれからも生きることを選択した、という点では、自殺薬を飲まなかったアグニも同じ道を辿っていると言えるだろう。ただ、アグニの瞳には炎はなく、ただ映画に引き込まれている点に違いがあると考えている。アグニは決して、ファイアパンチその人に惹かれ、その人を自分の糧にしたわけではないだろう。これまで人間性としての「怒り」で拳を握ってきたアグニが、文化教育的な映画の働きによって、怒りの代わりに「想像力」で拳を握るようになった。その結果、微かにルナとの約束を想起し、「生きて」の一言を思い出す。微かな言葉を頼りに生き続けた結果、長い年月を経て、ルナと宇宙で再会する――そういう流れの方が個人的には好きである。

そして、最後でようやくサンとルナとして(これは名前の相性的にも、ようやくあるべくかたちになったのだという意味合いが強いように思える)、近親であったアグニとルナが結ばれたという構造は、個人的には、現代社会に繋がるメッセージを持っているように見えてならない。つまり、映画を通して得た想像力(他者の視点、他者への理解)で、常識として禁止されていた近親相姦が容認されるという論旨が頭に浮かぶのだ。これは何も、映画と近親相姦だけの話ではない。さらに拡大すると、

想像力によって、(自らを縛り付ける)常識を打ち破ることが出来る」という簡単かつ力強いメッセージになるのではないだろうか。この「想像力」を与える手段は、何も映画だけではなく、ありとあらゆる創作物が当てはまるだろう。「常識」には、近親相姦の禁止は勿論、男尊女卑、同性愛の禁止も該当するだろう。

これが「ファイアパンチ」の「正しい解釈(内側)」かは分からない。もしかしたら、自分の解釈は「ファイアパンチ」にとって苦しいものなのかも知れない。しかしながら、相手を傷つけることでしか他者を理解できない人間だからこそ、その想像力の行方を、矛先を、じっくり検討するべきなのだと考えている。

 

 

非常に素晴らしい読書体験でした。

藤本タツキ先生に心からの敬服を。