新薬史観

地雷カプお断り

小説「ユウとリリィ」

なんとなくメタフィクションについて考えていたら、去年書いた自分の小説が思い当たったので掲載することにします。ピクシブにも投稿しているから、読んだことがある人もいるかも。

www.pixiv.net

当時は「これはメタフィクションなのか?」と思いながら、自分でも混乱してきたような気がする。今読むと冗長だな。もう少し構成を考えてみることにします。

以下本文

 

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 ユウはずっとこの街に住んでいる。映画館も図書館もないこの街で、ユウは生まれ、育ち、死を知らずに指を咥える。
ヒトは生まれた時から、死につつある。生命とはそういうものであり、ヒトは生命である。そういう意味では、ユウにもちゃんと死が用意されているはずなのだが、ユウは死という概念が決定的に欠けていた。なぜなら、ユウには生きている実感がなかったからである。

 ユウは、自分が生まれてきた時のことを知らない。ユウの周りに両親はおらず、家族もいなかった。普通ならば、どうやって自分は生まれたのかと悩みそうなものだが、ユウは生命が生まれるための交尾を知らなければ、性知識もなかった。そのうえ、自分が「生まれた」という事実も知らなかったので、ユウにとっては、自分の存在は時間軸に沿った直線ではなく、いわゆる特異点のようなものだった。
 そんな気分で生きているので、ユウはいつか、自分が死ぬことを知らなかった。始まりは終わりがあるから始まるのであり、終わりは始まりがあるから終わるのだ。互いが互いを証明し合う、そんな優しい関係を、ユウは持っていなかったので、ユウの人生は、表紙の無い本のようなものだった。
 とはいえ、表紙がなければ次のページが表紙となるのは当然のことであり、その定義の更新は、ユウの人生という本の両方向で、絶えず行われていく。ユウの人生は、あるはずのない始まりと終わりを求められ、表紙も、そして裏表紙も、一枚いちまいがめくられた傍から消えていく。まるで玉ねぎの皮のように、表紙と中身の区別は曖昧で、気づけばユウは、自分の人生の殆どを剥き終わってしまっていた。
 最後に残ったのは一枚の紙で、とても本とは呼べないものであったが、これ以上はどうしようもないので表紙となる。表紙でもあり、裏表紙でもある。表紙に書かれるべきは題名なので、ユウの人生を語る本の表紙には、主人公である「ユウ」の二文字が書かれているはずなのだが、ユウは自分の名前も、文字自体も知らなかったので、読むことは勿論、文字として認識することすら出来なかった。ユウは生まれてから人に出会ったことがなく、そもそも他者と意思疎通する必要がなかったので、意味を有した言語は産まれようもようもなかったのだ。
 さて、文字が読めなければ、本も只の重しと変わらないが、ユウの場合は重みすらないただの紙である。本の表紙に何が書かれているのかを、ユウは決して知ることはないが、基本的に、本の表紙には題名と著者が書かれることになっている。この場合、ユウの人生を産みだしたのはユウの両親に当たり、苗字を同じくした二人の男女の名前が書かれている可能性がある。可能性があるというのは、そうでない可能性もあるわけで、例えば苗字が違う男女かもしれないし、男男の可能性もある。女女の可能性だって捨てきれず、極端に言えば、同一個体によるクローンの可能性だってある。確かなのは、ユウは自分の両親を知らないということであり、さらに踏み込めば、両親という概念すらもわからないことになる。
 ユウは題名同様、表紙に書かれているはずの著者名を文字と認識することが出来なかった。
 ユウの世界には文字がなく、そのため、ユウは自分の名前がユウであることも知らなかったし、そもそも「ユウ」も両親がつけた名前であるかは怪しい。ただ、ユウがここに存在する以上は、何らかの名前が付けられてもいい訳であり、ビルや落葉樹、扇風機とは違うヒトとしての名の「ユウ」があり、その名は代替可能である。代替可能な名前に必然性はなく、逆に何をつけても許される寛容さを持ち合わせている。

ゆえに、簡単に、偶然に、恣意的に、ユウは「ユウ」という。

 表紙を裏返せば、ユウの人生を語る一枚の本の裏表紙になる。そこには何も書かれていないが、それは市販の本とは違って、ユウの人生が販売されることはないためである。ISBNとそれに付随するバーコードは置かれていないし、表紙と裏表紙しかない本の粗筋など書きようもないので、素直に空白を載せるほかない。
 そうなると不味いのはヒトの性質で、謎の空白を、ヒトは自由だと捉えてしまう。空白であるからには、そこに何を書き込んでもよいはずであり、裏表紙であるという事実だけがそれを拒んでいる。何も書かれないために、表紙のみのユウの人生は、まるでこれからの話があるように思われ、そういう意味で終わるに終われない縛りがある。終の一文字でもあればいいのだが、裏表紙に本文があってはややこしいので、やはり書かれず今に至る。
そういうわけで、ユウの人生を本に例えるならば、「ユウ」という題名と、両親という著者名しか記載されていない、あまりに寂しい用紙になるが、ユウは他の本を知らぬため、寂しいとは感じない。

 総括として、ユウはただただ存在していて、ビルのように、木々のように、街のように、何をするでもなくそこに在った。とはいえユウはヒトなので、立ったり、座ったり、寝転んだりを繰り返している。
 ただ、繰り返しているだけである。
 死から遠く離れた場所で、ユウは指を咥えている。

 

 

 リリィは軍人だったが、その一発の銃弾で瀕死となった。瀕死となったリリィは、これで死ぬのかと、胡乱な頭でドクドク血の流れる胸を見つめた。血だまりとともに、地に倒れ込んで数秒が経つ。リリィが撃たれたからと言って、戦況にそれほど影響はないようで、リリィの頭上を弾丸が飛び交っている。痛みと出血ゆえ、リリィは既に意識を手放していたが、未だ死んではいなかった。リリィを死んだと決めつけ、彼女の屍を乗り越えようと、幾人の軍人が彼女を踏みつけては撃たれ死んだり、逆に相手を殺したりした。その最中を見つめる衛生兵がいて、リリィは偶然その兵士に拾われることになる。

 リリィは気が付けば何もない場所に居て、先ほどまで聞こえたはずの銃声や、腕を振りかざす上官の叫び声の一切が枯れていることを思い出す。辺りを見渡し、何もない街だと思う。この場合の何もないは、文字通りの何もないであり、田舎の人間が言う何もない街とは少し話が変わってくる。田舎の何もないは、娯楽施設の「ない」を示し、最低限の礼儀として、街なら街だと判断できるだけの公共施設や住宅があるものである。
 しかしながら、リリィがいま立ち尽くしているのは住宅や公共施設のない街であり、要するに荒野である。荒野を街だと思った自分の感覚を疑う反面、ここを街だと確信する何かがある。矛盾する感情に戸惑いながらも辺りを見渡すと、足元にひとりの少女がいることに気が付く。少女は、リリィを見上げて口を開き、じっとリリィを見つめている。全裸だった。まだ胸も膨らんでいない、幼い少女が生まれたままの姿でいるのは、同じ女として痛々しかった。着ていた上着を脱ぎ、彼女に着せようとする。彼女はリリィが動くとは思っていなかったようで、リリィが上着を脱ごうとしたときには、口を開けたまま、目を白黒させていた。異文化の気配を感じ取ったリリィは、上着を掴んでいた手を止め、暫時ためらった後に口を開く。
「ねぇ、あなた」
 呼びかけると、少女は過剰に首を傾げた。
「英語はわかる?」
 少女は、今度は逆に首を傾げ、身体ごと曲げようとする。リリィは、きっと通じていないのだろうとため息を吐く。英語がわかるのならば、首を縦に、或いは横に動かすのが定石だろう。住む地域によって、イエスかノーかのジェスチャーが異なることを知っていたため、その差異は見逃すとする。とはいえ、少しでも言語を解しているような動作をしてくれればよかったのだが、身体を過剰に横に折り曲げる行為は、リリィにとって理解の範疇を超えていた。話し言葉とは違う身体言語があり、少女のもつ身体言語は、リリィを不安にさせた。挙動が過剰な相手に対して、ヒトは、本能的に一歩引いて距離をおく向きがある。リリィから見て、少女のそれは過剰かつ異質に思えた。異質な人間は、リリィにとっては動物と同じであり、戦場で発狂した同期を殺処分するように指示する、上官の冷えた目が思い出される。
 リリィは、少女がいるなら他の人間もいるはずだと、彼女から逃れるように荒野を歩きまわったが、当然のように誰もおらず、当然のように少女が付いて回った。まるで生まれたてのひよこみたいだと思ったが、リリィにとって、彼女はそんな可愛らしい容姿には思えず、言語の壁が面倒に思えた。
「あなた、何を食べて生きてきたの?」
 少女は、先ほどと同じように首を傾げる。音声に反応する犬と同じだと思ったが、気にせずこちらの言語を貫き通す。「両親は? ほかに大人はいるはずでしょう?」
 リリィの苛立ちが透けて見える問いかけにも、彼女はまったく同じように振舞った。リリィは呆れて息を吐き、彼女から視線を外す。延々と続く地平線を眺めながら、リリィは漸く、自分が何故ここにいるのか、その原因を考える気になった。しかし、撃たれてからの記憶は曖昧で、果たして自分は本当に撃たれたのかと疑問に思い、胸に触れれば穴が開いている。背中まで貫通した穴は、身体に先天的に備え付けられた器官のように居座っていて、穴に触れた人指し指の匂いを嗅いでも、血の気配は感じられなかった。丹念に傷口のまわりに指を這わせても、瘡蓋が剥がれ残った血の粉さえ、一抹もついてはいない。
 どうやら、撃たれたことは事実のようだった。しかし、その傷は完治(傷跡が全く塞がっていないこれを、完治というのはいささか気分が悪いが)しているのだから、あの銃撃から、かなりの月日が経ったと考えるのが普通だろう。
 しかし、本当にそうと言い切れるだろうか。リリィは、やけに綺麗な傷穴を見つめながら眉を顰める。自然治癒にしては、あまりに「不自然」だ。人の手が加えられたとしか思えないこの清潔も、周りに一つも落ちていない医療器具や備品、何より医療者の不在が、治療された事実を否定する。ならば、自分はやはり死んだのだろうか? ここは死後の世界で、自分の身体は、銃撃が貫通するとともに固定され、ゆえに死化粧された遺体のように、綺麗にあり続けているのだろうか。そのあたりの論理性にはやや疑問は残るが、しかし、生者ならば誰も体験したことのない死後の世界では、リリィの知識や経験は総じて無力である。たとえば此処を死後の世界とするなら、どう考えても死者が少なすぎるのではないかという尤もな疑問も、死後に即座に転生するとすれば、まだ辻褄はあうのだろうか。その場合、ここは生と死を繋ぐ階段の踊り場のような場所ともいえるが、このだだっ広い荒野の上下左右、過去未来の座標空間において、何処に向かえば死に、或いは生き返るのかを、リリィは知る由もなかった。
 リリィはどうしようもなくなり、ひとまず、その場に座ることにした。近くを少女がうろうろしており、鬱陶しさ故に手で追い払う。少女は、リリィの手の動きが気に入ったらしく、物珍しそうに顔を近づけてくるので、リリィは露骨に顔を顰めながら手を引っ込めた。
 荒野に座りながら、地平線を眺めている。リリィは、今頃戦場はどうなっているだろうかと想いを馳せた。女である自分が前線に立つのは珍しいことではなく、同じ部隊にも十数人程度がいた気がする。訓練所や拠点基地で、互いの来歴を話しこそしたが、それ以上に突っ込んだ話は誰もしなかった。彼女たちは、今も生きているのだろうか。それとも、死んでいるのだろうか。他人の安否を想像しつつ、そもそも自分の安否すら怪しいことに気が付いて苦笑する。戦場とは明らかに違う荒野。撃たれ、いつしか乾燥した銃創。太陽もなく、月も雲もなく、時空間の怪しいこの地に或るのは、空と荒野と少女のみである。
 こういう時は寝るに限ると、リリィはその地に寝転がった。ゴツゴツした岩と砂利の不快感は、戦場で積んだ経験によって幾分か和らいでいたが、結局安眠には至らなかった。
 目をつむったまま、幾億もの月日が流れたような、そんな気がした。
 正確に何秒だとか、そういうことを知る術はこの街にはなかった。砂時計が反転した回数、棒から伸びる影が回る回数、水晶が振動した回数、天女が羽衣で石を擦る回数。事象には回数があり、回数があるから時となる。リリィの周囲にあるものは少女の他になにもなく、その行動に周期性は見られなかった。寝転がり、指をしゃぶり、目を見開くだけの存在。
 仮に、少女が寝転がった回数を時間単位とする。その「寝転がり」が起こるのはランダムで、寝転がっては立ち上がり、寝転がっては寝転がり、立ち上がっては立ち上がるを繰り返す少女から時を算出するのは馬鹿らしく、百十五「寝転がり」を経たところで、リリィは時を数えるのをやめた。
 その時には既に、リリィは少女を人間だとは思ってはいなかった。リリィが少女を通して時を数えている間、何も食べず、何も飲まず、何も排泄しない彼女をヒト、或いは生物と捉えることは最早困難であると考えた。とはいえ、リリィ自身もこの街に来てからはそのようだったので、彼女もまた、自分が人間であることを諦めていた。
それでも彼女が彼女足りえたのは、彼女の過去が確かにあるからだった。彼女には人を撃った事実があり、血の匂いを嗅いだ記憶がある。誰もいない昼下がりの部屋で薄いキャベツのスープを啜ったこともあれば、雨に濡れた街の、黒く聳え立つビルの非常階段の踊り場から、何処か遠くへ吐き出した煙草の煙の行き先を見つめていただけの、どうしようもなく閉塞的で、心地よかった思い出があった。その過去が彼女を作り出しており、ゆえに今の彼女があった。それはどれも荒野の少女がもっていないものであり、何一つ持っていないがゆえに、欲しがりもしないものだった。

 ある時、リリィは少女を蹴った。意味はなかったし、文脈もなかった。離散的に繰り出される、殴る蹴るの暴力は、無知の少女を痛めつけ、痛めつけなかった。泣きわめけ、とリリィは思った。けれども少女は泣くことを知らなかったので、ぼんやりとリリィを見つめるだけだった。腹が立ったリリィの暴力は、さらに攻撃性を増していった。それでも、少女は暴力を知らず、痛みを知らず、出血を知らず、細胞の壊死を知らなかったので、ぴんぴんしたままリリィを見つめていた。
 ある時は、鼻をつぶしてはどうかと試みた。つぶれなかった。耳を千切ってはどうかと試みた。千切れなかった。腕を折るのは、首を折るのは、腹を殴るのは、と試そうとしていくうちに、リリィは自分が、もはや人間ではない何かになっていくことに気が付き、虎のように震え、大声で叫んだ。涙が出てほしかったのに、一滴たりとも流れなかった。湿り気のない、乾燥しきった痛々しい声を、無傷の少女は他人ごとのように聞いていた。

 リリィが少女を殴らなくなってから、少女は三十三回指をしゃぶった。それからちょうど三十四回目のとき、リリィは少女に問いかけた。
「ねぇ、あなた」
 少女は過剰に首を傾げる。身体を折り曲げる。決して意思の疎通を許さない、身体性の谷を乗り越えて、リリィは言葉をつづけた。
「今から、私の過去について、話を聞いてもらってもいいかしら」
 その音声の連続がどういう意味なのかを、少女は知らなかった。少女のまだ見ぬ音楽だったかもしれないし、この街の何処かで聞こえるはずの環境音かもしれなかった。少女は何もわからない、何も知らない、何を返せばいいのかわからない。返すとは何かすらも知らない孤独な少女が捉えるリリィの瞳に、かつての厭悪の色はなかった。
 リリィは、いつしか少女を自分の子供のように扱っていた。とっておきの絵本を読み聞かせるように、時には笑い、時には怒りながら、自分の半生の一枚いちまいをめくっていった。
 途中で少女が、ふらりと何処かに行くことがあった。その時には話を中断し、少女の後を静かについていった。少女が立ち止まれば立ち止まり、寝転がればリリィも寝転がった。行動を少女に合わせ、一度二人が落ち着くと、リリィは再び、自分の人生の続きを語った。生まれから育ち、自我の芽生えから従順、反発、独り立ちに至るまで、途切れ途切れになりながら、何百回もの少女のおしゃぶりを超えて、自分が覚えている限りの過去を、すべて少女に伝えた。
 それが何を意味するのかは、少女にも、リリィにもわからなかった。かつての暴力のように突発的で、やり場のない感情が、リリィの行動の源泉となっていたのは確かだが、結果として何が得られるのかは、全く考えてもいないことだった。

 そういうわけで、気が付いたら私は、この街に居たって訳。

 誰もいない街、荒野の街。ここに来てからのことを話そうとして、リリィは言葉を紡ぐのをやめた。やめて、リリィは初めて、少女の細く、頼りない身体を抱きしめた。
 少女は言葉にならない声をあげて、身をよじる。それでもリリィは抱きしめて、離さないようにした。言語で伝わらなくても、身体で伝えればいい。身体で伝わらなくても、気持ちが伝わればいい。リリィは少女を抱きしめながら、そんなことを考えていた。
 やがて、少女は動くのを諦め、やり場のなくなった手を、仕方なくリリィの腰に回した。それは分子のランダムウォークのように偶然で、意味のない行動だったかもしれない。あり得た腕の可動領域、とり得る角度、そのなかのひとつのかたちを、たまたま少女が選んだだけかもしれないし、選んですらいないことも考えられる。それでも、リリィは顔をくしゃくしゃにして、より少女を抱きしめる力を強くしたのだった。
 少女は抱きしめられ、手は塞がっていた。時間にしてはいかほどか、しゃぶることも寝転がることもできなくなった今、この街に時間をかたちづくるものはなかった。互いが互いを拘束し、抱きしめ合っているだけである。抱きしめ合っているように、見えるだけである。それでも、見かけ上の時間の構成単位は彼女たち以外にこの街には無く、ゆえに彼女たちは、二人が離れるまで、二人に変化が起こるまで、初めての事象が起こるまで、時間は止まったまま、永遠の最中に溺れてゆく。

 

 

 気が付けば、リリィは病院の一室に寝かされていた。周りには負傷した軍人がうめき声をあげていて、彼女は一瞬にして、自分の在り処を思い出す。
「起きましたか」
 ほかの兵士の手当てをしていた医師がこちらを向き、額の汗を腕で拭う。
「あの、戦争は、……ッ!」
 起き上がろうとして、リリィは胸を走る激痛に顔を歪めた。
「無理ですよ、戦場復帰は。あなたは傷が深すぎる。それに、戦況は……」
 医師は言葉を濁して、そんなことより、と顔の表情を変える。
「まったくもって不可解な現象が、あなたが眠っている間に起こったんですよ。いつから潜り込んでいたのかわからないのですが、あなたと抱きしめ合っていた少女を見つけまして」
 おい、と医師が声を掛けると、近くを歩いていた看護師がリリィと医師の顔を見比べて、慌てて部屋から飛び出していった。
 リリィは胡乱な頭で、医師の言葉を反芻していた。「少女」という単語に、鈍く頭が痛む。あれは夢ではなかったか。それとも現実だったのか。あの街が、あの少女が実在することがにわかには信じがたく、少女を殴った感触や、力いっぱい抱きしめた感触が思い出されて、無意識のうちに、手を開いたり、閉じたりを繰り返している。
 やがて、看護師に連れられて姿を現した少女の姿を見て、リリィは、訳も分からず涙を流した。芋虫のように寝転がっているのにも関わらず、久しぶりに自分が人間であることが思い出された。医師はリリィの様子に面食らい、「知り合いですか?」と尋ねたが、リリィはなんと答えればよいのかわからず、医師と看護師が少女を残し、その場を立ち去るまで泣き続けた。

 

 

 やがて治療が終わり、戦争が終わり、条約が結ばれ、平和が訪れた。そのころには、少女とリリィは同じ家に暮らし、同じものを食べ、同じ本を読むようになっていた。リリィは、少女に「ユウ」という名を与え、ユウは、自分が「ユウ」であることを、次第に理解していった。
 リリィは、ユウの母親のようにご飯を食べさせてやり、姉のように勉強を教えてやり、親友のように服を選んでやった。二人が住むこの街には、あの荒野の街とは違って映画館があり、図書館があり、「ある」があり、「ない」はなかった。指で指し示し、舌で味わい、音を聞いて、ユウはひとつひとつの物事と、その名前と、リリィの用いる言語を覚えていった。次第に会話ができるようになり、感情を覚えるようになり、ユウは物を食べ、水を飲み、排泄をするようになった。
 ユウは、あの街でのことが嘘だったかのように、よく眠った。リリィは、ユウの無垢な寝顔を見るのが好きだった。
 ユウは、何を夢みるのだろう。存在そのものが夢のようであったあの街でのことだろうか。それとも、この家に来てからのことだろうか。夢は未だ見たことのないものを見せるのではなく、見たことのあるものを曲げては取り換えて、見たことのないものを作り出す行為である。あるとないが混じり、交じり合うだろうユウの夢は、ところどころが密であり、疎である。
 リリィはユウと同じベッドに入り、桃のように敏感でやわらかなユウの頬に手を添えた。この頬は、跡こそ残ってはいないものの、リリィが何度も打った頬だった。かたちに残らずとも、リリィの記憶には残っていたし、ユウも覚えているはずだった。かつては何も意味しなかった暴力も、今のユウには脅威に映る。まいにち母親の真似ごとをしているリリィの姿も、ユウが思い返せば、凶悪な軍人に成り果てる。悪人には更生の余地があるというが、その罪は決して消えることはなく、それ相応の社会奉仕によって、初めて償われるものである。リリィがユウを養っているのは、あの街での負い目を感じているからだと指摘されれば、リリィは当然頷くだろう。しかし、それだけではないことを彼女は感じ取っていて、負い目や責任だけでは説明のできない、ユウの頬に触れたいと思うやさしい気持ちを、リリィは微かに自覚していた。
 ユウはリリィをどう見ているのだろうと思う。ママではなく、リリィと呼ばせている。将来はリリィと結婚すると笑う、その顔が無邪気で、女同士では結婚できないことを説明しても、ちっとも理解してくれなかった。

「だって、好き同士なら子供が生まれるんじゃないの?」
 ある夜、枕元でのことだった。ユウは毛布で自分の顔の下半分を隠しながら、リリィに問いかけた。リリィはしばらく考え、「女同士で、子供はできないけれど」と呟いてから、ある一冊のノートを取り出した。
「それはなに?」
「これはノート。いつも読んでいる絵本とは違う、何も書かれていない本」
「ほん?」
「人間って言うのは、本みたいなものなのよ」
 言いながら、リリィはページをめくる。
「人間には誰しも、物語があるの。他の誰とも共有できない、自分だけの物語が。今まで読んできた本もそうだったでしょ? 文字の大きさや、文字のかたち、絵の色使いや、ページの手触り。全ての本は全然違っているけれど、どれもとても面白かった。でしょう?」
「うん」
「本は、どれもが素晴らしいかたちをしているの。小さく見れば信じられないほど多様だけれど、大きく見れば、どれも同じかたちをしている。そして、私たちの子供をつくるということは、私たちが本を書き始めるということと、よく似ている」
 ユウは不思議そうに首を傾げた。「どこが似ているの?」
「まず、本にはタイトルと筆者が必要よね。ユウに読んであげた本にも、必ず書かれていたでしょう?」
サン・テグジュペリ?」
「そう。あれは『星の王子様は、サン・テグジュペリが描きました』ってことをみんなに教えてあげるために、書いたものなの。赤ちゃんの苗字が親と同じように、本の筆者名は、筆者と同じものになる」
 それに、とリリィは目を細めて続ける。
「筆者は、みんなに読んでほしくて本を書くように、両親も、みんなに愛されてほしくて赤ちゃんを産むものなのよ。本も、そして赤ちゃんも、私たちが確かにこの場所に生きた証になる」
「でも、リリィは日記を、他の人に読まれたくないよ」
「そういうことも、あるかもしれない」
「愛されない赤ちゃんも、いるってこと?」
 リリィは黙って、ユウのことを抱きしめた。それは違うわ、と何度も囁き、背中と頭を撫でた。ユウはいつしか、抱きしめられれば抱きしめ返すことを覚えていて、そのことにユウ自身、幸福すらも覚えていた。
「産まれる赤ちゃんに罪が無いように、書かれる本にも罪はないの。大切なのは、生み出す私たちが、どれだけ幸せな本をつくることができるかということ。その気持ちなのよ」
「しあわせな本をつくる、きもち」
 ユウは、まるで宝物を抱きしめるかのように俯き、それから、大きな目でリリィを見つめた。
「リリィは、ユウと一緒にご本をかいてくれるの?」
「ええ、書くわ。いくらでも書いてあげる。一緒に物語を書きましょう。幸せな物語を」

 リリィは、ノートの表紙に「ユウとリリィ」と書いた。二人で紡ぐ物語。その意味での著者名であり、その他には何も書かれなかったので、題名にもなった。
 ユウは会話は出来ても、まだ満足に読み書きができなかった。それでも、自分の名前と、リリィの名前だけは読むことができ、ユウはそのノートに書かれた二人の名前を、何度も指でなぞり、抱きしめた。
 その日の夜から、ユウとリリィはふたりで物語を書き始めた。ユウに執筆は難しいので、ユウの口から紡がれる物語を、リリィが書き留めることになった。その物語は、以下の文章で始まる。

「ユウはずっとこの街に住んでいる」
 
 ユウは初めての夜、それだけを喋り終えると、ベッドに深く潜り込み、微かな寝息を立てた。次の夜も、その次の夜もそうだった。ユウは一文だけ語り終えると、ベッドのなかに潜り込んでしまう。もっと話せばいいのに、とリリィは毎晩思うのだが、架空の街での自分語りを思い出し、そういえば、あの時もそのようだったと思い直す。
 物語が一文ずつ追加されるたび、ユウとリリィの過ごした日数も一日ずつ重ねられた。

「リリィは、私がどれだけ感謝しているかを知らない」

 いちページも終わらないうちに、ユウが紡ぐ文章には、物語ではない呟きが混じるようになった。これは物語なのかと問いかけても、ユウは黙ってベッドに潜り込むので、仕方なく前夜の続きに書き加えることになる。

「ユウは、自分が生まれてきた時のことを知らない。リリィは、私がどれだけ感謝しているかを知らない」

 繋がっているようで、繋がらない文章だった。けれども一度織り込まれてしまった以上、リリィにはどうすることもできないので、物語を書き進めていく。
 ユウの語る文章は、どれも「ユウ」で始まり、否定的に締めくくられた。
 ユウはない。
 ユウはしない。
 ユウはしらない。
 否定の文章の羅列で、どれもがユウという少女の可能性を狭めていった。ああでもない、こうでもないとするうちに、否定すべき事項すら見失った寂しさがあり、空っぽがある。

「リリィは、私が語ることで、一日を数えていることを知らない」

 時折挟まれる呟きは、どれもがリリィの三文字から始まった。呟きか物語かは、大抵主語で判断でき、相変わらず前後の文脈を無視していた。しかしながら、物語のすべてが、ユウという存在を削り取っていくのに対し、呟きは一見否定の体裁を取りながらも、ユウの空白を埋める体積を持ち合わせている。その呟きは、リリィの「ない」を示すことで、ユウの「ある」を示していた。

「リリィは、私がリリィのつくるキャベツのスープを好きなことを知らない」
「リリィは、私がこっそり、リリィの心音で時間を計っていることを知らない」
「リリィは、私が煙草を吸ったことを知らない」

「煙草を吸ったの?」
 ユウは何も言葉を返さず、ベッドのなかに潜り込んだ。それはダメよと慌ててベッドの毛布をめくり、ユウの身体に触れる。何か持ってはいないかと、ユウのいつしか膨らみ始めた胸や、やわい腕や、細い腰回りに軽く触れた。ユウはくすぐったそうにキャイキャイ黄色い声をあげる。リリィは、ユウが下着と腰の間に煙草を隠し持っているのを見つけ、取り上げた。
「煙草はダメよ」
「どうしてダメなの」
「ユウの健康に良くないわ」
「だからいいのよ」
 ユウは、リリィをうっとりとした目で見つめた。「私、死ぬのが楽しみなの」
「何を言ってるの」
「リリィは知らないのよ、何も知らない。私がどれだけリリィに感謝しているか」
 ユウは迷いなく、リリィを抱きしめた。不意をつかれたリリィは、手のやり場に困ってしまう。
「ねぇ、あの街の最期みたいに、ずっと抱きしめ合いましょう。ずっとずっと、私のことを抱きしめてほしいの」
「また子供みたいなことを言って」
「リリィのせいよ」
 ユウの指は、リリィの背中を時計周りになぞっていた。
「リリィが私の時間を動かしてくれたから、今の私があるの。あの街には時間がなかった。終わりがなかった。でも、ここには終わりがある。煙草が短くなるだけ時間は過ぎて、物語の文章を書き加えるたび、日々は過ぎていく。箱の中の煙草はいつかなくなり、そのうち私達のノートも、終わりを迎える」

 あの街にはなかったことが、この街にはあふれている――。
 時計周りに回るユウの指が、ぴたりと止まった。リリィは、なんだか泣きそうになりながら、「煙草もノートも、買い替えればいい」と呟いた。
 ユウは目を細め、それは違うわと首を振る。
「このノートは、私とリリィ、二人の物語なの。私たちの子供なのよ」
 そのうえ、私たち自身でもある。ユウは何も言わなかったが、それをリリィは知っている気がした。ユウはノートを開き、今夜までに書き込まれた千と一文をなぞり、あと数枚にも満たない「今夜の呟き」で指を止めた。

 リリィは、私が煙草を吸ったことを知らない。

「煙草が燃えるように、ノートのページも、黒く文字で埋められて燃えているの。書かれたページは灰なのよ。書かれるたびに燃えていくのよ。燃えるのは今だけで、火は、過去にも未来にも燃えないの」

 ユウはノートを閉じ、枕元に置いた。それから子供のようにリリィに甘えて、彼女の胸に耳を当てた。
「ねぇ、終わりのある音って、こんなにも愛おしいのよ」
 ユウは顔をあげた。その頬にはつうと涙が伝っており、リリィは驚く間もなく、ユウに抱きしめられる。
「リリィ、聞いて。生きてるの。私、生きているのよ!」
「ええ、あなたは生きている」
 ユウの鼓動は、リリィにも伝わっていた。二人の心音が重なるのが分かる。それは、物語と呟きが交じり合う、二人の織り成す文章のようにちぐはぐな音だった。文章が一夜に一文だけ追加されるように、心臓の拍動もまた、血液が巡るたびに一度聞こえる。

 リリィは、物語がいつ終わるのかを知らない。自分の心臓がいつ止まるのかを知らぬように、ユウと書く物語は、まったく先の見えないものだった。けれど、二人は口には出さぬだけで、このノートの終わりが物語の終わりで、自分たちの本当の終わりであることをなんとなく理解している。そのための一文なのだと、リリィは思っている。
「もしこのまま抱きしめ合うことができるなら、きっと私たちは、あの街のように永遠になれる」
 このまま動かなければ、とリリィは付け加えた。自分たち以外には何もなかったあの街で、時間を刻む出来事が、二人自身以外になかった時のことである。今はもう、夢よりも朧で、大気の流れに立ち消えた街のことである。
「でも、私はリリィのお料理を食べたいし、リリィと物語を書きたいし、リリィの身体に触れたいの」
「それは全部、このままだとできないわね」
 抱きしめ合いながら、鼻と鼻を近づけて、リリィは言う。
「勿論、このままでもできることはあるけれど」
 どちらともなく、何度か唇を重ねて、二人はくすぐったそうに微笑み合った。
「ねぇ、リリィ。私、いつ死んでもいいわ」
「それだと、もうキスできなくなるわよ」
「それでもよ」
 ユウは微笑みながら、リリィを自分に抱き寄せる。
「それでも、終わりがあるから始まりがあるの。出来事があるから時間があって、時間があるから、思い出ができるの」

 ユウはリリィの耳に口づけをして、物語るように呟いた。

「私たちの思い出は、これで消えるわけじゃない」