新薬史観

地雷カプお断り

諏訪哲史「アサッテの人」読んだ!

本作の構造のまとめ

①書きたい内容「叔父の話」(本来の小説)

②その執筆を邪魔する自分の「ポンパ」、およびそれをありのままに書くことで「叔父の話」は邪魔された、と考えている自分(通常小説の執筆者の姿)

③その様子をただ文章にしている自分(②をあえて書く執筆者)=ポンパを無視したポーカーフェイスな文章、つまり「作為」(②を省くこと)が小説ではないかという通念への疑問=『最終稿』そのものを書いている自分

=============ここで最終草稿として文章は固定化=============

④この③を最終草稿として読み考えている作者

=========ここで「アサッテの人」として文章は固定化===========

 

ポンパは小説を中断させる、小説の不可能性

①を書きたいが、①はポンパを含めた大きな意味での「アサッテ」の話(つまり②の小説不可能性を必然的に含む)。つまり、小説不可能なものを小説にしようとしている(「アサッテ」)。

つまりここでは、④は③の構造となっている。ここは矛盾しておりしていない。③と④はまったく別の作者である(①~③が固定化されている以上、時間が異なる。作者も違うかもしれない)。で、単に③までの原稿は②の構造に当たる(書きたいものを書く作者が参照する文章)なので、④は③と同じ構造にいることになる。

 

 

以下感想

あくまで構造に片方足をツッコミながら、そこから文脈を無視した無関係な場への逸脱を試みるのが「アサッテ」。この小説は、その「アサッテ」を描きながらも、「アサッテの人」であろうとし続けた叔父さんの生き様を作品の構造からも肯定しているという面で非常に好感が持てたし、何より自分は叔父への感情移入(だろうか?)というか、実在性を感じずにはいられなかった。叔父の抱える吃音という問題は非常に根深く、自分も弟が吃音を抱えていたので、それなりにわかるつもりだ。弟は叔父と同じように「言葉の学校」に通っていたし、叔父と同じようにタ行とカ行の区別を非常に苦手としていた。驚くべきことに、「キツツキ」が言えなかったという叔父のエピソードはそのまま弟にも当てはまる。当時の自分は弟が「言葉の学校」に通っていることをひどく可哀想に思っていた。まるで弟は「普通」ではないかのように思えたからだ。その勝手な感情とは別に、記憶を辿れば弟が「言葉の学校」のトランポリン(何故か「言葉の学校」には室内で楽しく遊べる器具やゲームが充実していた)のうえで楽しそうに跳ねていた記憶しかないので、案外弟としては楽しかったのかもしれない。そこに通った甲斐あり、弟は無事に「キツツキ」を言えるようになったし、今では自分と違い真面目に働き、彼女のためにいろいろ尽くしてあげる好青年になった。昔とはまったく大違いで、今ではこの歳になっても学生をしていて、友達もろくに居ない自分の方が「普通」ではないような気もする。もしかしたら弟はこんな自分を可哀想だと思っているかもしれないが、自分はそれなりに現状に満足している。まったく難しい話だと思う。自分がいくら想像をしようとしたところで、叔父が抱いていた「アサッテ」への渇望はとても理解できないものなのだろう。

 

「アサッテの人」は、「私」が叔父のために「アサッテ」を作り上げる物語だ。小さいころの自分のように、あるいは今の自分の弟のように、「普通」ではない人に向ける視線を強く感じる作品になっている。が、正直に言って、自分は作品の随所に用いられている図表の意味を理解できない。なぜ図表を引用しなければならなかったのか。文字ではいけなかったのか、という意味で。これについては、甚だ癪ではあるが、第137回芥川賞石原慎太郎の選評とやや一致する向きがある*1

文中に出てくる『声の暴発』なるものを活字の四倍大の黒い四角で示すとか、最後に『読者への便宜を図るため』として『叔父の肉筆によるオリジナルな平面図』なるものを付記しているのは、作者の持つ言葉の限界を逆に露呈しているとしかいいようない。

自分は別に「言語の限界を呈している」とは思わない(なぜ言語だけで語ることが美徳とされるのか?)が、その作者の意図をはっきりとは掴めていない点では石原慎太郎と同類である。個人的には「チリパッパ」の図やクソデカい「ポンパ!」は、「アサッテ」の実在性の確保に効いていると思うし、非常に効果的な使われ方をしているとは思う。ただ、「叔父の肉筆によるオリジナルな平面図」や、追記そのものがある意味が理解できていない。別になくてもいいのではないかと考えてしまう。ので、自分はこの作品をうまく評価できているのか難しい。

しかしながら、こう書きながら考え直す。

「理解するのが難しい(=無意味ではないか)」という「追記」の存在そのものが、スッキリ「終わるべき」小説としての「作為」から逃れていると考えることは十分に言えるのではないだろうか。いや、まさにその通りなのでは? そう考えると興奮してきた。すごい小説だなこれは。

 

さて、これで同作者の「りすん」を読む手筈は整ったはずである。そもそもこの作品を手にとったのも、知り合い(或いは「友人」なのだろうか?僕はいまいち距離感を掴めないでいる)から「『りすん』はキャラの尊厳を考えるのに有効で、そのテーマとして『アサッテの人』も読んだ方がいい」というアドバイスをいただいたからだった。

 自分は「アサッテの人」を「小説構造(あるいは作者の息を直接感じるくらいの「作為」*2)に至るまで徹底的にキャラの造形に拘ると、びっくりするくらいキャラの実在性が上がる」作品だと解釈したのだが、それで良いのかはわからない。

とにかく良い作品でした。

 

*1:石原慎太郎は過去の芥川賞の選評で苦言しか呈していない気がするので嫌いです

*2:当然この作品においての「作為」は「作為」から逃れるための「作為」なのだがここを指摘するのは野暮だろう