新薬史観

地雷カプお断り

キャメロン・クロウ「バニラ・スカイ」(2001) 観た!

ファイアパンチ」で死を迎えつつあるトガタがアグニに向けようとした言葉に「猫になって…」というものがある。その後トガタは「バニラ・スカイ見てないと通じないか」と考えを改めるのだが、それは全くこちらとしても同じで、バニラ・スカイを見ていないので自分には通じなかった。猫になったからなんだと言うのだ。バニラスカイといえばあの空色の背景にめちゃイケメンのトム・クルーズが左を見つめているサムネで有名な映画である。内容はミリメートルも知らなかった。

「『猫になる』とは何か」。

我々はアマゾンの奥地にあるU-NEXTで「バニラ・スカイ」を視聴した。

 

以下感想

トム・クルーズがただただイケメンだ。これまでの自分の映画の感想を読んでもらうと分かるように、自分は俳優にはほとんど興味が無い。というか現実でも映画でも人間の顔を覚えることに非常に苦労をしている自分は、他の人に比べると「あそこの○○の演技が~」という見方が出来ないでいる。そこまで目が回らないのだ。悲しい。

そんな自分ではあるが、トム・クルーズのイケメンさには度肝を抜かれた。もちろん映画俳優なんて全員抜群のイケメンなのだが、この映画のトム・クルーズの顔の良さと言ったら天元突破をしているレベルである。こんなにかっこいい俳優は映画「コラテラル」のヴィンセント以来かも知れないと思いつき、ヴィンセントを演じていた俳優の名前を調べるとトム・クルーズだった。なんなんだお前は。

どうやら自分はトガタと同じようにトム・クルーズの顔が好きらしい。トガタと自分にそこまで大きな共通点があるようには思えないので、恐らく全人類はトムクルーズの顔が好きになる遺伝子配列を持ち合わせているのだろう。結構なものである。

さて、そのイケメンなトム・クルーズの顔は美空ひばりのごとき展開を見せる。ここがまず面白いなと思った。いや、誰しもがトム・クルーズがイケメンであることを理解しているんだが、その顔の良さがばっちり映画内でも反映されているのが面白かった。少しメタ的な要素を感じる。

それでいて映画の構成もまた面白い。ふと頭に「インセプション」が思いついたのだが、両作品ともに夢と妄想と現実がごちゃごちゃになり、観ている側も演じている側も訳がわからん状態になる。混乱しながらも観ていて楽しいという意味で、どちらの作品も非常に良く出来た作品だと思う。

あと作品の下敷きになっているのはハインライン夏への扉」だろうか。完全なネタバレになるので詳しくは言えないのだが、SFとして用いられている題材や、何と言っても印象的な「猫」の存在は、かの作品を思い起こさせるかのようだ。

で、肝心の「猫になって」のフレーズだが、これは主人公のデヴィットとソフィア(ペネロペ・クルス)の間で2度交わされる言葉であり、文脈によって意味が変わる。

先立つバーでのやりとりでは、ソフィアの本音を聞きたがったデヴィットが「いますぐ言え」と迫り、ソフィアが「猫に生まれ変わった時にね」と返す。ここでの意味は「まったく本音をいうつもりはない」ということになるだろう。

一方で、最後に二人が「猫になって」と交わすコンテクストを考えると、以前の悲観的な意味合いはなく、むしろそのままの意味合いでお互いが(少なくともデヴィットだけでも)猫になってでも出会えたらという願いが込められることになる。

これらの言葉は、簡単に言えば「来世で出会えたら」ということになるが、それをあの場で、あのコンテクストで「猫になって」と言い替えたソフィアの詩的センスが素晴らしいと思う。バーでのソフィアの特別な言語センスは、二人が出会えた時からずっと変わらないものだった。何より、デヴィットがソフィアを愛するキッカケになった特性そのものである。そのセンスをありのまま受け止められなくなったデヴィットにこそ問題があるのであり、「猫になって」というフレーズへのデヴィットの態度を観るだけで、仮初めでも二人の関係性を取り戻したかのように見えるラストシーンが最高だった。

あれだけの文脈を持った台詞を、トガタがアグニに向けて言おうとした事実が重すぎる。そして自分はソフィアにデヴィット、トガタにアグニの姿を重ねながら、今後このフレーズを口にするようになるのだろう。

多重なコンテクストは、ちらちら光る時空をいっぺんに箱のなかに詰め込んだかのように美しい。

非常に好きな映画でした。傑作かどうかは判断が難しいのだけれど(何故だろう?)、トム・クルーズの顔の良さは絶対である。