新薬史観

地雷カプお断り

最近観た映画①「ランナウェイズ」「ミスター・ノーバディ」

フローリア・シジスモンディ「ランナウェイズ」 (2010)

1970年代に大ヒットしたバンド・ランナウェイズの軌跡を描いた作品。これアレです、「最愛の子ども」で引用されていたバンドだから見た感じです。「最愛の子ども」での文脈としては、「メンバーのジョーンがレズビアンで、シェリーと関係を持っていた」という事実をあとあとになって知ったかつてのファンの心境が現実に反映されるという感じなのだけれど、確かに本作でもそういう描写がされていてなるほどとなった。自分は音楽に疎いのでランナウェイズというかロックというジャンル自体聞いたことがないレベルなのだが、それもあってかあまり本作の面白さが分からなかった。というか映画として面白みにかける気がする。ただ作品の構造(というより史実での扱いということになるが)は非常に良くて、ティーンエイジャーの女の子たちが、男たちによって独占されているロックに立ち入ること(それ自体が禁忌であり、だからロックなのだ)で自らの立ち位置を確立したのに、それを観る男が彼女たちを性的消費しているから、結局どこにも彼女たちは立てていないのではないかという胸糞なつくりになっている(気がする)。ただ、そもそも論としてジョーンが百合文脈において運命的な出会いをした超絶美人のシェリーの美貌を看板にすることで、バンドメンバーは商業的な立ち位置を確立したのだから、それが音楽ではなく外側だけで消費される運命を辿るのも仕方が無いのかなと思ってしまった、今の時代ならともかく……。一方で日本では非常に根強い人気を持っていたようで、作中でも当時の日本女子から絶大な支持を受けていた描写が観られる。その熱狂は暴動を引き起こすレベルにまで行き着くのだが、そこまでの熱意を生み出したのは未だに続く男尊女卑の社会に生きる女性と深く結びつくところがあったのかなと思ったりする。わからんけれど。

現実での出来事としては非常に面白い内容だったが、映画としては盛り上がりもなく、緩急もなく、特別いい構図もなかった(ジョーンとシェリーのタバコの煙をお互いの口に吹き込んでからするキスシーンだけは間の取り方や構図がかなり良かった)ので、誰かにお勧めすることはあまりないかも。ランナウェイズが好きな人は観たら楽しいかもしれん。そういう意味ではクイーンのこと全く知らなかったのに楽しく見れた「ボヘミアン・ラプソディ」ってすごかったのかな。まあでもあれは自分でも耳にしたことある楽曲が効果的に使われていたから話が別かもしれん。

 

ジャコ・ヴァン・ドルマル「ミスター・ノーバディ」(2009)

これめっちゃ面白かったですね~~~!!!!SFが好きなら絶対に押さえた方が良い映画ですねと、バタフライエフェクトを未視聴な自分がのたまっています。

これ以降の感想はガッツリネタバレになるので注意。

 

自分が一番感動したのが、「ありえたかもしれない自分(選択しなかった自分)」を映像美*1で表現しきった両親とニモの駅でのカット。ここが本当によかった。文章ではとても表現できない(あるいは雑な視点切り替えで済ませる)ところを、映像だけがもつ表現力によって情感を持たせているところが素晴らしいと思う。余談だが、この「ありえたかもしれない自分」を表現する映像美に、一番迫った文章表現ができているのが伴名練「なめらかな世界と、その敵」だと勝手に思っている。

話を本作に戻すが、この映画のいいところはかなり色の選びがうまいところなのかなと思ったりする。もちろんどの映画も色作りには細心の注意を払っているだろうが、本作では人生の分岐における女の子三人を色分けしたり、過去の回想(あるいは分岐する人生)と未来をカラーとモノクロに表現したりと、観ていてかなり気持ちがいい。かなり原色を使っているような気がするのだが、これもピッタリ映像に合っているし最高だ。

さらに嬉しいのが、科学番組という解説手段を置くことで、この映画の根幹となる部分の理論を科学に詳しくない人にも親切に教えてくれるところにある。賢い人たちが集まって賢い人たちのために賢い映画をつくることなら、賢ければ誰にでも出来る。この映画はそうではなく、どこまで観客の想像力が及ぶか、どこまでこの作品に説得力を持たせることが出来るかを苦心しつつ、それを芸術作品にまで高めているところに素晴らしさがあると思う。本作品は去年話題となった「TENET」と題材を被せているところがあるが、あっちはノーラン特有の説明不足というか、「難解すぎるけど映像が綺麗だしまあいいか」で訳も分からず殴られて気持ちよくなる感じがあるけれど、こちらは医師からしっかりと説明されたうえで腹にパンチを食らう快感がある。ラストの映像はただただ気持ちよく、視聴後は無茶苦茶になって項垂れるしかない本作だが、そこには映像の気持ちよさだけではなく、しっかりとしたメッセージが組み込まれていることに気付くはずだ。「結局ニモは何を選んだのか?」という問いに、本作は直接答えない。9歳の少年ニモが人類最後の人間として生き延びる世界、そしてそれが死ぬ世界というのは、結局のところ「ニモが自らが持つ可能性、およびあり得たかもしれない人生を予知し尽くした」ということを示しており、ニモの手にはありとあらゆる情報が握られていることになる(ここの表現が作品として最高すぎて泣きそうになってしまった)。で、自分の人生を決定的に変える選択肢が9歳の時点で明確に存在し、チェスでいうところのツークツワンツ(動かないことが最善手)という状況に陥る。どちらに動いても人生は思いも寄らぬ方向に変わるし、自分は必ず死ぬし、愛する人も変わる。ありとあらゆる人生には良いところと悪いところがあり、そのどれもが評価できずに特別かつ等価で、だからこそ選べないという状況下にニモは置かれる。ニモはどちらも選択せずに線路の脇道に逸れる。ここからは自分の妄想になるが、そこでニモが妄想するのが(あるいは可能性として提示されるのは)もし過去に戻ることができればという願いである。いくら未来を予知できたからと言って、ニモに両親の別れを阻止することはできない。いずれの未来も等価で貴重なのであっても、「ならば過去に少しでも遡ればどうか?」という疑念は尽きることがない。ほんの少しの違いで世界は変わる。ならば過去に戻ることができれば、両親の離婚を止めることができ、予知した未来とは全く異なる世界線もあり得るはずである。ここに常人離れした未来予知の「ニモ」と未来を予知できない私たちの共通点がある。「全ての未来が見通せる」ことは、「全ての未来が見通せない」ことと同義であるのだ。そのために「過去に戻りたい」という渇望はニモを含め誰しもが抱くことになる。それを可能にするのは時間の矢の方向の逆転であり、その時初めて人は過去に戻ることになるのだ。しかしながら、きっとそれは不可能である。だからこそ人は何かを選ぶことしかできない。

と、なんだか作品解説のようになってしまったが、この明らかに冗長な説明がすべて映像化されている点で、この作品の素晴らしさがある。本当に完璧な映画作品だ。殿堂入り。

*1:自分のなかでは視点の切り替えスピードやテンポや色使い、カメラのピントやらいろんなものを含めて雑に説明できる便利な言葉だ