新薬史観

地雷カプお断り

松浦理英子「最愛の子ども」読んだ!

  本当に素晴らしい作品だと思う。以下、感想というか考察というかなんというか。

 

 日夏と真汐と空穂という同じ歳の女子高生が家族を構成するという奇妙な設定で非常に面白かったが、さらに本作の面白さを高めているものに、その疑似家族の関係性を内部と外部の曖昧な立場から解釈しようとする「わたしたち」という集合体の存在がある。読者はこの疑似家族の関係性を考える際、「わたしたち」の妄想を頼ることになる。

 これはある物事を知る際にまとめサイトを観ているようなものなのだが、その文章のスタイルは最初から最後まで変わらず、また内部(わたしたちは疑似家族と同じ世界に生きているキャラクターであり、交流も持っている)と外部(妄想)をシームレスに繋いでおり、あえてその境界性を定めていないように感じる。それでいて「わたし」ではなく、幾多の疑似家族を取り囲む女子生徒によって構成される不定形の「わたしたち」視点による描写は、何故か「わたし」よりも信頼性があるように錯覚する。というより、固定された視点ではないため、前述の内部と外部の境界の無さも助けて、本作の文章は、疑似家族を取り囲む電子雲のように曖昧で、不思議と純粋にすら思えるのだ。

 ここで考えたいのは、何故そのような視点を選んだのかということだ。俗に言う神様視点(三人称視点)でこの作品を表現し直しても、作品内容を表現することは可能である。むしろ日夏と真汐と空穂の関係性をより「正確」に描写でき、関係を精密に表現できるように感じる。しかし本作はそうしなかった。つまり本作の重要な点は何も疑似家族の関係性だけでなく、「何者でもない」部分、また疑似家族を大気のように取り囲むことで、最近流行の「推しカプを見つめる壁になりたい」「何も干渉しない植物になりたい」という部分にもあるのだと考えられる。

 つまり本作は疑似家族それ自体の問題提起というわけではなく、どちらかと言えば「疑似家族」という役割を外部からあてる事実や、「わたしたち」が意味するところ、つまり「わたしたちは小さな世界に閉じ込められて粘つく培養液で絡め合わされたまだ何ものでもない生きものの集合体を語るために「わたしたち」という主語を選んでいる。」と自らの限界を設定し安心している事実を克明に描いているように感じる。より簡単に言えば「お前は何者か」ということを全体の総意により決定している人たちの物語ということになるだろうか。

 というのも、実は個人的にはこの物語の主題は「わたしたち」にすらあるんじゃないかと思っていて、特に一貫して「わたしたち」はいまだ何者でもないという呪縛を互いに掛け合うことで、自分たちをこの場から何処にもいけないように縛り付けているような気さえするし(わたしたちの語りについては、わたしたちは妄想を織り交ぜないはずである)、一方で疑似家族にわたしたちが捨てた(諦めた)「自由」や「恋愛」などを仮託しているだけの惨めな存在にも見えてくる。

 この物語は疑似家族への妄想、あるいは個人の内面までもを妄想で描写することに自覚的であり、フィクションであることを全面的に押し出している。個人的には、その創作に誠実な姿勢を示せば示すほど、まるで自分が二次創作(決して一次創作ではない)をしている姿を上から覗き込むような錯覚に陥り、だんだん陰鬱な気分になってしまった。というのも、結局妄想は妄想であり、現実の人間を「正確」に描きだすことなど不可能だからである。

 ここをしっかりと提示しているのがラストの日夏のダンスのステップが「道なき道を踏みにじり行くステップ」であることが判明するシーンだろう。ここは非常に印象深く、読者である自分もわたしたちと同じように「なるほどね」と頷いてしまう。それと同時に、このステップの名を言い当てること(正確に想像すること)が出来なかったところで、わたしたちの妄想の限界(至高の二次創作と言ってもいいかもしれない)が簡単に打ち破られてしまったかのような虚脱感を覚えた。これにより、日夏をより遠くの人間であるかのように感じるから面白い。文体によってここまでうまい人間の表現が出来るようになるのだと感動した。

 で、まあ文体の話はここまでにして、後はわたしたちの妄想と現実によって気付かれた真汐と空穂についても考えたい。真汐はママという肩書きを押しつけられながらも、本来そういうものから尤も遠そうな人物に感じる。作中から要素を纏めると、意固地で可愛げがなくていろんな人と衝突する誰からも羨ましがられない性格であり、すこやかな性欲もなく、誰も愛せないのが真汐この人である。この一部は文庫版での帯文にもなっており、そもそも作品の始まりが真汐の文章で始まるなど、文体によるわたしたちの靄さえ取り払えば、作中では真汐に主眼が置かれているように思う。

 さて、物語では真汐を除いた日夏と空穂による関係性が掘り下げられることになるが、これが本当にうまい。ここでママと王子ではなく、パパと王子を選ぶのが良かった(真汐の正確を考えるとそうならざるを得ないのだが)。ここには二つの理由がある。

 まず①「近親相姦・同性愛」から立ち上がり二人の愛を語ることによって、背理法のようにその誤り(世間一般における家族、性別の否定)を指摘しているように感じるからだ。この辺りは村田沙耶香も解説で述べているが、このような操作が随所に見られ、読者は純粋な(性行為や恋愛、上下関係無しに生まれる)「家族」という共同体に触れることができる。一番好きなのは、本当の家族から離れた三人が、それぞれまるで本当の家族といるかのように肉体が反応する描写(これはわたしたちの妄想なのだが)であり、これを観る度に心が締め付けられる気持ちになった。ここには家族と「正常な」関係を結べない苛立ちなどはなく、「疑似家族」という家族が既に存在している安心感だけがある。自分はとにかく子どもに安心感を持って欲しいと願っている部分があるため、それが子どもだけで得られているこの光景に心が動かされないはずがなかった。めちゃくちゃ好きなシーンだ。

 次に、「日夏のように自分を面白がる人は二度と現れないが、日夏が可愛がる人は今後も現れる」という部分である。これと合わせて空穂の「誰からも可愛がられる、ひどく受動的である」という描写を観たい。ここでは同著者による「ナチュラル・ウーマン」で表現されていた容子の姿が女子高生になって現れたかのように、空穂は性欲や人間関係において受け身になる人物として設定されている。そして松浦理英子の考えとして、まるで自我がなくひどく受け身な人間は誰からも愛されるのである。ここらへんは「最愛の子ども」と「ナチュラル・ウーマン」で相補的に受け身の人物がどのように思われるのかを理解するのに役立つ。真汐は「すこやかな性欲もなく、誰も愛せない」という点で花世であり、夕記子であり、由梨子である。それでいて彼女たちがみな容子に惹かれたように、(日夏にとっても)真汐にとっても、空穂は触りたくなってしまうのだ。この「触りたくなる」という感情こそが、自分は松浦理英子の考える(と言ってもまだ2作しか読んでいないが)「愛せない者の愛」だと思っていて、これが本作では疑似家族の蝶番になっているのだと思う。

 というのも、日夏と真汐だけではここまで関係が続かなかったと考えるからだ。それはすべて真汐の「すこやかな性欲」がない部分に起因し、まったく愛せない人をどのように愛せるのか、という苦悩に繋がる。それを救うのが「愛せない者にも愛」を与える空穂のような受け身の人間であり、日夏と真汐による空穂への愛という共通項が親という属性になり、疑似家族の構造に繋がるのである。ゆえに物語の最後はこのように締めくくられる。

 

「わたしたちはいつか最愛の子どもに会いに行く。」

 

 誰も愛せない真汐にとって、唯一「愛せた子ども」である空穂は、日夏同様、真汐にとってかけがえのない存在なのだ。自分はこの一文が、真汐のすべてを凝縮しているように思えて本当に泣いてしまった。恐ろしい人間描写の圧縮率であり、さらにここに青春という未来への希望と過去への羨望を併せ持った概念が文体に練り込まれている。あまりに美しい文章だと思う。

 

以上。あまりに美しい作品で、もう完全に宝物になってしまった。皆さんにも強くオススメします。近いうちに「ナチュラル・ウーマン」についても書く。