新薬史観

地雷カプお断り

松浦理英子「ナチュラル・ウーマン」読んだ!

ガチで大好きノベルになっちゃった。本当に攻撃力が高い。自分は攻撃力が高い本と相対すると酒と煙草で防御値にバフをかけないと絶叫して死ぬタイプの人間なので、手元に煙草と酒があって本当に助かった。自分は煙草を常飲しないのだけれど、こういう数ヶ月に一度出会えるレベルの書物、居酒屋のためにこっそり煙草を忍ばせている。つまり数ヶ月に一度の頻度で煙草を吸う。僕と同じタイプの人間は絶対に近くに酒と煙草をおいていた方が良いです。

本作は3作による短編集?になっている。?をつけたのはどの物語も登場人物が同じで、物語として連続しているように感じるからだ。一方でいずれも原稿の掲載時期が異なることから、一応話としては独立して読むようになっているのだろう。

しかしながら、この作品は前から順に読むことで傑作になるのだという感覚を譲ることはできない。他の順序はダメで、この順序でなくてはダメなのだ。正直、表題作だけではただの「持っている」サブカル女の恋愛事情という感じで、容子の苦悩を推し量るのには十分でないように思う。

というのも、自分がこの作品に良さを感じるのは作品構造に寄るところが大きい。第一作「いちばん長い午後」で今まで手にしていたものの殆どを失い、ハートのエースだった由梨子との関係を悪化させ、花世との関係も悪化させ、自らの愛の在処をはっきりさせないがために泥沼のように沈んで何処にも行けなくなる容子の苦しさを提示してから、その過去(だと自分は思っている)「微熱休暇」でハートのエースである由梨子との希望に満ちた旅行、最後の「ナチュラル・ウーマン」で花世との活き活きとした青春の思い出を語る。これにより、一層「現在(いちばん長い午後)」の悲壮感が強調されるという読み方をしたからだ。つまり、もし現在が微熱休暇なら*1この作品に対する自分の感情はまったく別のものになる。話が明るいからだ。

つまり、自分はこの作品に通底する「受け身の人間の苦悩」に惹かれたことになる。ここら辺は「最愛の子ども」の感想(松浦理英子「最愛の子ども」読んだ! - 新薬史観

でも触れているのだが、両作品ともに極度に受け身な人間が描かれており、それが本作では主人公の容子ということになる。松浦理英子は、この「受け身」を性別と関連づけているように思う。例えば本作品では、容子は性別がないかのような描写をされており、その最たる比喩が以下のものである。

「あの子に言わせると、私はどこからどう見ても女だけれど、容子にはいわゆる女らしさがない。もちろん男のようでもない。一般的な性別には属さない、と言うの。では何に見えるかと言えば、夕暮れに家に帰りそこねた子供に見える。属すべき性別を見つけることができなくて戸惑ってる雰囲気があるんだって。」
「それはいいけど、なぜ小僧なの?」
「家に帰りそこねても生きて行けるしたたかさがあるのは小僧に決まっているからよ。ただの子供じゃ飢えるか凍えるかして死んでしまうわ。」

 この「小僧」というワードは、「最愛の子ども」で「王子」という言葉になって帰ってくる(ような気がする)。ここで注目すべきものが、子供と小僧の差異の「生きて行けるしたたかさ」だろう。そしてこれこそが、容子の持つ「受け身」な態度、また作品中で花世が口にする「触ってくれと全身で訴えていた」容子の性質そのものである。かなり今風に、かつひどい比喩を用いるならば、これはなろう小説における最強スキル「愛され体質 Lv.99」ということになる。これは容子自身も覚えがあり、またなんか私やっちゃいましたかと言わんばかりに、何故か私は他人に触って欲しいと願って拒まれたことはないと語る。このスキルに容子は自覚的なのだ。

 一方で、なぜそのようなことになっているのか容子は理解できていない。魅力を持っていることは把握しているのだが、その魅力が自分では一切分からないために、自分が相手からどのように観られ、どのような部分が愛されているのかが全く分からないのである。というより、さらに話を押し進めれば、容子は自分のことを何一つ分かっていないレベルで無知である。あるいはドストエフスキーから引っ張ってきて「白痴」とでもいうべきか。容子はムイシュキン公爵のように純粋で嘘をつかず、相手の善意をひたすらに信じている。それでいて先述の愛され体質によって人を自らに引きずり込み、ムイシュキンがナスターシャに対して憐憫の愛を向けた(かのように感じる)視線を、花世や夕記子に向けるのだ。ここら辺が花世と夕記子の苦悩となる。

以下は夕記子からみた容子の姿。

「こんな時にあなたは自分がダミー人形にでもなったつもりでいるんでしょう。でも、違うのよ。あなたは想像したこともないでしょうけど、私の方こそ電動人形にでもなった気分になるのよ」

(中略)

「ご覧なさいよ。皇帝に仕える家来みたいな図じゃない。言っとくけど、あなたの方が皇帝よ。」

(中略)

あなたは誘いかけるのがうまいのよ。可愛いから人を惹きつけるし、あなた相手に暴君を気取ってみたくもなるわよ。ところが罠なのね。しばらくたつと、実は自分があなたに踊らされていることに気づいて慄然とするの。あなたは忠臣を演ずる哀れな皇帝陛下なのよ。すべては自分の気紛れに始まっているということを呑み込んでいるから何をされても平気なのよ。ご立派ですこと。」

 

 続いては花世から観た容子の姿。

「何だか、いつもあなた一人がいろいろなことをわかっていたみたい。私は何も知らなくて。」

 花世は少し驚いた風に私を見た。

「それは逆でしょう? 私はあなたが怖かったくらいよ。あなたは空を飛びかねないほど自由で、私は愚鈍に地べたを這いずり回っていて。」

 

二人の意見はおおよそ似通っており、どちらも容子を見上げ、自分が下であると自覚している。それでいて、自分のすべてを容子に知られている、握られていることに恐怖を感じてしまうのだ。

これに付け加え、「ナチュラル・ウーマン」という概念を持ち込みたい。花世が容子と出会い、初めて自分が「女」(ナチュラルウーマン)であると自覚することが出来たのに対し、容子は未だに自分が「女」なのかわからないし、考えたこともないのである。このあたりは容子が無知であることの証拠となるが、この辺りの設定は「そもそも自分が何者かを考えなくてもよい性格」というところにも繋がる。

 この性格は「最愛の子ども」で真汐が冒頭に書いた作文でも表現されることになるが、真汐は「女子高生」というレッテルを貼られることに強い忌避感を覚える。これはひっくり返せば「自分が何者であるかを知っている」あるいは「分からないけれど誰かにレッテルを貼り付けられるのは嫌だ」から反発するのである。真汐は人付き合いが苦手なタイプということもあり完全に後者だと思われるが、容子は特別尖っているわけでもなく、むしろ愛され体質であることから前者であるように(周りの人間からは)見える。これが非常に重要な概念だと考えている。

 というのも、自分のなかでの解釈として、「最愛の子ども」「ナチュラル・ウーマン」両作品の登場人物が求めていた問いとして「自分は何者なのか」というものがあり、「最愛の子ども」ではその問いに「疑似家族(性行為のない性的関係)」で答え、「ナチュラル・ウーマン」では性行為で答えているのかなと考えている(疑似家族の件はすでに感想を書いているので割愛)。

つまり、「ナチュラル・ウーマン」に出てくる主要人物はみな「自分(ナチュラルウーマン)とは何か」という問いをしっかりと持っており、それを求めるために性行為を行っているのではないだろうか。ゆえに、自分が何者かを既に知っていそうな容子(皇帝、自由、上の立場など)に、「自分は何者でしょうか」と教えてもらう上下関係の構図ができあがっており、それが「愛され体質」によって覆い隠されているのである。しかしながら、容子は答えを知っているわけではなく、ただ自分が何者であるかに一切興味がないだけの人間であり、その欲求の無さが更新されない限りは、容子が相手に「自分は何者でしょうか」と聞くことはない。よって、見かけは「私を精一杯触ってください、可愛がってください!」と下手に出ているはずの容子は、性行為の本質である「自分は何者か」を教え合う行為において常に上位なのだ。それでいて、そのギャップは堅固であり、逆転する可能性がない(何度試みても容子は花世に対し受けにしかなれなかったた)。よって、その見かけとのギャップ(これを夕記子は「罠」と表現した)に気づき、それが自分たちにはどうしようも動かせないと気づいた時に人は愕然とし、容子から離れてしまうのである。

 唯一「微熱休暇」では性行為を行わないことで、由梨子との関係が保たれている。これは容子が相手と健全な関係を持つための最終防衛ラインであり、この一線を越えると、夕記子や花世のようになるのは目に見えている。なぜなら男との恋愛がうまく行けないけれど、レズビアンというわけでもない由梨子もまた、自分が何者であるかを知りたがっているからであり、それを知っていそうな容子と性行為をしたがっているからである。本作では性行為に至らなかったことを前向きに由梨子が捉えている点で明るい終わりに見えるし、容子自身、今まで試みたことがなかった「女」を演じていることに満足感を覚える(そもそもこれまでの容子なら、演じること自体をしなかったはずである)など、「自分が何者か」という欲求に動きがあるように感じられる。つまり、これまで夕記子と花世が抱き絶望したギャップを、由梨子こそ抱かずに済む可能性があり、ここに容子が抜け出せる活路があるように感じられるのだ。

故に「ナチュラル・ウーマン」における時系列は非常に大事だし、その捉え方によって、容子が今後どのような人生を歩むのかが想像できる。個人的には「いちばん長い午後」の退廃的な空気が大好きで、「微熱休暇」から感じる夏と希望の香りを味わいながら、「ああ、でも由梨子の電話に出なかったから、この二人の活路って断たれたんじゃないかなあ」と考えるのも苦しくて好きだし、「ナチュラル・ウーマン」でただひたすらに花世が好きな容子の感情とそれを表現する豊かな文章、肉肉しい性行為や暴力表現を過去のものと認識し、「いちばん長い午後」で容子が零した「今でも好きよ」の無意味さに涙を流すのも最高だと思う。

この物語は、少しでも容子に感情移入できる人間、つまり恋愛や自分のことにそれほど興味がない人間が「もし誰かを好きになったら」というifストーリーとして読むのが一番刺さるのではないか。自分は恋愛を知らない容子のような人間なので、もうボロボロになりました。ひたすらに苦しかったです。元気になりたい人は「微熱休暇」を最新の物語に据えればいいと思います。よろしければ是非。

 

 

*1:この前後関係の把握が難しい。どちらも容子は25歳である点でそれほど時系列としては離れていないのだ。おそらく微熱休暇は容子がバイトをしていた時代の話、いちばん~はバイトを辞めて三ヶ月後の話だと思っているため、この時間把握でいいとは思うのだが怪しい