新薬史観

地雷カプお断り

【ネタバレ注意】エヴァあんまわからんけどシンエヴァの感想と考察

この記事はシンエヴァのネタバレ含みます。お気をつけください。

 (サムネイルネタバレ回避用の□を何個か置いておきます)

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ここまで置けば大丈夫でしょう。

というわけでシンエヴァ観ました。正直いろいろややこしい。疑問がないと言えば嘘になる。が、とりあえず現時点で分かっていることだけでも纏めたい。

というわけでこの記事では、宇部新川駅に注目し(なんで?)、シンジが何処に向かおうとしたのか、庵野監督は何を私たちに伝えたかったのかを考えたいと思う。

 

ループ説について

本作では最後に宇部新川駅が映された。「なんで宇部新川!?」というのはマジでわからないのだが(思い当たる仮説は後述)、とにかく最後には宇部新川にいるのである。で、ここらへんの路線図を見るとこんな感じである。真ん中下あたりに注目してほしい。

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山口県鉄道路線図( https://www.map-navi.com/line/11721.html より引用)

 もうこの時点でめちゃ露骨なのだが、宇部新川駅はそれ自体を構成要素として、「宇部」「小野田」「雀田」「宇部新川」というように環状線を形作っている。つまりループしているのだ。そんでもって、この環状線を構成する駅の数は、2線にまたがる「宇部」「宇部新川」「居能」「雀田」「小野田」駅をすべてダブらせて数えることでちょうど17駅となり、18の使徒である人間(リリン)を除けば、TVアニメ版の使徒の数と一致する(ここがちょっと強引かも?)。

また、このダブりを解消させれば、この環状構造を構成する駅の数自体は12駅となる。ここで、Qで述べられていたカヲルの第1使徒と第13使徒の兼任(シンエヴァでの第1と第13の狭間に存在するカヲル)を考えれば、これまた新劇における使徒の数と一致する。いずれもやや強引ではあるかもしれないが、この路線図でなければエヴァンゲリオンのループ世界を表現できなかった、という可能性については捨てきれない。

 

ちなみに、タイトル自体もループを示唆しているのは、今更すぎる指摘だろう。「:||」は楽譜において(ゲンドウやカヲルが弾くピアノとの関連)反復記号を示している。まあ、かなり露骨っすね。徹底的に「この世界はループ構造をとっているんだぞ!」と主張している。

 

ループと平行世界

続いて、ポスターにおける「3.0+1.0」と「thrice upon a time」について。ここらへんはいろんな人が言及しているので簡単に纏めよう。

まず、これまでに自分たちが観測した「映像作品でのエヴァンゲリオン」の物語には、TVシリーズ、旧劇、新劇(序破Q)の3つがある。そして本作のシンエヴァにて、新劇の結末と新たに始まる物語(+1)が描かれる。それを示すのが、ポスターにおける「3.0+1.0」だろう。多分。

もう片方だが、これは有名なSF小説ジェイムズPホーガン「未来からのホットライン」の原題らしいです。らしいというのは読んだことがないからです。すまんな。で、この小説ではSTEINS;GATEも元ネタにしたという平行宇宙を扱っているらしい。簡単に言えば、私たちが「現実」だと思っている世界とは別に、「無数のありえたかもしれない世界」が存在しているというニュアンスのものだ。これを踏まえると、これまでに描かれた3本の物語はすべて平行世界の話であると考えるのが妥当である。実際、TVシリーズと旧劇はちゃんと最後まで描かれているため、「あの終わり(旧劇)から次の物語(新劇)が繋がっている!」と考えるのは、ちょっと無理があると思う。素直に「TVシリーズ」「旧劇」「新劇」はそれぞれひとつの作品として完結していると考えるのが妥当だろう。

これについては、例の路線図が理解の助けになると思う(あくまでただの感覚だけど)。

シンジ(たち)は「宇部」「小野田」「雀田」「宇部新川」からなる環状線を、電車を乗り換えながら回っている。使徒の数と照らし合わせたように、この線路の一周はひとつの世界の始まりから終わりを示している……のかもしれない(根拠なし)。そういうわけで、この電車はぐるぐる回るたびに新たな作品世界を生み出すわけだが、そのとき固定・保存されているのは「循環する」という事実と「道のり」の長さだけである。一方で、各周回では必ず同じ電車(出来事の流れ)に乗れるとは保証されておらず、乗り降りする駅(使徒)も同じであるとは限らない。よって、循環するという結末は変わらずに、旅程という名の物語内容だけが(微妙に)変わっていく。これが「平行世界」という解釈に繋がるのである。

こうして考えると、マリの存在は「偶然乗り合わせた乗客」と考えることでしっくりくると思う。TVシリーズや旧劇の停車駅・時刻表では電車に乗れなかったマリが、新劇では(これまでと違いズレが発生し?)偶然タイミングが合い、シンジたちと乗り合わせることが出来た。それを示唆するのが、ラストにシンジとマリが駅のホームで出会うシーンである。ここに関しては、後にもう少し掘り下げよう。

 

ループ構造を生み出しているのは誰か

せっかくループの話になったので、そのループの観測者についても話を進めよう。この物語における「ループ」構造は、生命の書に名前が記載されているカヲル君によって生み出されている(観測されている)ということは周知の事実だろう。一方で、他の人のシンエヴァの感想を読んでいると、ゼーレやゲンドウもループに気づいているという記述があった、が、この辺りはちょっと自分では確認できなかった。そのため、今回は「作中のキャラにおいては」カヲル君のみがループを観測しているという前提で話を進める。違ったら申し訳ない。

さて、察しのいい人なら、上の「作中のキャラにおいては」というフレーズに引っかかったことだと思う。いや、作品の外側にループを観測している存在なんておるんかいという話だが、間違いなくいるはずである。そう、作品の鑑賞者(つまり画面の向こうの貴方)がそれである。「なんだ、しょうもないメタフィクションだな」と思うかもしれないが、自分はここにかなり重要な意義があると考えている。

というのも、そもそもループはどうして「ループ」だと判断されるのか、そこを考えなくてはならない。

「私たちの人生はループしているか」という問いに対し、信仰以外の「確実な」答えを持っている人はいないだろう(信仰を否定しているわけではない)。なぜなら自分たちの人生の構造そのものを観るためには、今いる段階よりも上の次元に立ち、俯瞰しなければならないからだ。これと同じことがシンジたちにも言える。シンジは自分の人生がループしているかを知る術を持たない。知る術を持たないうえに、このループから自発的に抜け出すことも出来ないのである。つまり、エヴァンゲリオンの世界は、カヲル君と私たち(鑑賞者)によってループしていると判断されるのだ。決してシンジたちがそれに気がつくことはできない。

 

エヴァンゲリオンにおける「現実」と「虚構」

しかしながら、作中のキャラが自身の世界を俯瞰できる唯一の方法があった。それが「ゴルゴダオブジェクト」である。これを使えば、エヴァ作品世界における「現実」と「虚構」を同時に認識できるようになるからだ。

作中でも触れられたが、少しややこしいので、シンエヴァの「現実」と「虚構」について解説する必要があるかもしれない。ここは面白い構造になっていて、そもそも虚構の作品であるエヴァンゲリオンシリーズにおいて、「現実」も虚構には違いない。しかしながら、「新劇のキャラたち」にとっては、新劇の世界は「現実」であり、逆に「TVシリーズ」や「旧劇」の世界は、「新劇ではない」という意味において「虚構」なのである。

よって、シンジとゲンドウが到達した「虚構」と「現実」が混在するマイナス宇宙では、「新劇」と「新劇以外の世界(TVシリーズ、旧劇)」の世界が混在することになり、それらを俯瞰できる立場に立つ。故に、出会ったアスカは旧劇の舞台に横たわり、シキナミシリーズ含めたすべての人格(記憶)を内包している(と考えられる)し、カヲル君とも同じ「観測者」の立場でループ構造について語ることが出来る。また、レイとの邂逅ではこれまでのシリーズ作品の映像が上映されることからも、シンジは「エヴァンゲリオン」という作品を眺める「私たち」と同じ次元の視点を獲得したことが明らかになる。

ただ、これだけではシンジは作品の「ループ」構造から逃れたとは言い切れない。そこから逃れるためには、「ループ」構造を観測している、カヲルと私たち(鑑賞者)の目を欺かねばならないのである。

 

ループとなる線路と電車

ここで、少し話を変えて「なぜシンジはループから抜け出さなければならないのか?」という前提について考えたい。これについては、エヴァにおける電車の扱いに注目するのが良い。例えば、これまでシンジが電車に乗っているシーンは、殆どがレイや自身と向き合い対話し、「何かについて答えが出せずに葛藤している」時ではなかったか。これはシンエヴァにおけるゲンドウの描写でも同じであり、ユイの名を呼びながら自身の半生を振り返り、シンジのなかに自分を見つけるシーンはすべて電車の中で行われる。一方で、その葛藤が終わり次第、ゲンドウは電車から降りることとなる。これらから、電車は「自己と葛藤する場」であると考えることが出来る。また、確証はないため付記するだけに留めるが、シンエヴァで大地がコア化し、「電車」が宙に浮いている第三村のシーンでは、ずっとシンジは失語症に任せ、思考を放棄している(電車が走らずに浮ついている)ように見える。

こうして見ると、電車は主にシンジにとって「自己と葛藤する場」であることから、別に降りなくても良いように見える。しかし、電車が走る線路は環状構造(ループ)となっていることから、シンジは永遠に同じことを悩み続けることになるのではないか。ゲンドウが電車から降りたことからも、自己と葛藤し「終える」ことは、「大人」となるために必要なアクションだと考えられる。この辺りについては、村で生きるために無理矢理身を固めたケンスケとトウジの姿を思い浮かべれば良い。彼らは14年の時を経て、「大人」になるために自己と葛藤し終え、自らの居場所を見つけ、自らの役割を探し、けじめをつけているのだ。ここにおいて、何度も葛藤の渦に嵌まっていた(TVシリーズ、旧劇、シンエヴァ以前の新劇)シンジが大人となるための鍵がある。前に進むためには、ループからの脱出(電車からの下車)が必要となるのである。

 

「虚構」から「現実」へ抜け出すシンジとカヲル

話を戻そう。シンジはどのようにループから抜け出せば(観測者を欺けば)良いのか、という話だった。

まずはカヲルが監視する動機から考えよう。もっとも、このあたりについては作中でしっかりと描写されている。カヲルはマイナス宇宙で、シンジを自らの手で「幸せ」にしようとし続けた結果、シンジにとっての幸せを誤解した、という旨の発言を行う。つまり、カヲルがシンジを観測し続ける動機は、シンジに「幸せ」を掴んで欲しかったという純粋な愛によるものである。ところが、カヲルはシンジにとっての「幸せ」が分からなくなり、シンジの観測を辞めなかった(ループをさせ続けた)ために、シンジは何度も葛藤し、「幸せ」を求め続けることになったのだ。

逆に考えれば、シンジが「これが幸せなんだ」と感じ、それをカヲルが理解することで初めてシンジに対する観測が終わると言える。実際にカヲルは、シンエヴァ本編のラストでようやく、シンジが虚構ではなく現実(彼が今いる新劇の世界)で立ち直った(電車から降りる準備が出来た)ことを悟り、ループを止めると決意する。簡単に言えば、この周でシンジは電車から降りる準備ができたと分かったので、電車を止めてあげようと決めたのである。

 

シンジが私たちの視線から抜け出すためのマリというキャラ

残るはエヴァの鑑賞者、つまり私たちの視線から逃れる方法だが、これがなかなか難しい。なぜなら、私たちはずっと作品としてシンジを見つめ続けているからである。これを感情移入とも言うが、鑑賞者は思い思いの感情を抱きながら、シンジに自らを重ねることになる。そしてこの時私たちが求めるのは、キャラクターとしてシンジが変化しないことである。

「ずっとウジウジして逃げていないとシンジじゃない」

「悩み続けて、優柔不断なところがシンジだと思う」

このような要請を受け、シンジは作品内で、自己と葛藤し、永遠に子供である「演技」をし続けなければならない。マイナス宇宙において撮影スタジオやジオラマなどが多く映されたのは、作品内のキャラクターが、虚構であり続けるために「演技」「撮影」をしなければならないからだ。どれもこれも、鑑賞者が感情移入するためである。鑑賞者が感情移入し続ける限り、シンジは子供の演技をし続けなければならないのだ。

そうではない、と言い切ることができるだろうか。現に私たちは、ラストの駅のベンチに座っていた、大人びたシンジの声に違和感を覚えはしなかったか。突然成長し、子供から大人になったシンジに、レイやカヲルやアスカではなく、ぽっと出のマリと仲良くしている様子に、多少なりとも「これじゃない感」を覚えなかったか。自分は強く感じた。そして、ここで鑑賞者に違和感を覚えさせることこそが、庵野が狙った「シンジが私たちの視線から抜け出すための唯一の方法」なのである。

つまり、私たちにとって「これじゃない感」溢れるシンジになることで、シンジは私たちの監視から抜け出すことができるのだ。なぜなら、今まで自分たちの頭のなかに存在していた、「うじうじしていたシンジ」とは全く異なるために、同一人物として認識することが難しくなるからである。私たちの頭のなかの「子供」のシンジと、作品内の「大人」のシンジをあえて分断させることで、「私たちのシンジ」から「演技を辞め、大人になったシンジ」への変化を、遠い視点から認めさせているのである。

極めつけが、マリの存在である。先述したとおり、マリとシンジの組み合わせは、これまで作品を追ってきた鑑賞者にとっては意外だったものではないだろうか。というのも、先ほど「ぽっと出」と表現したように、アスカやレイやカヲル君に比べて、シンジとマリのやりとりは殆どなかったからである。寧ろ、マリはユイのことを愛していたり(おそらく漫画情報)、アスカを大切に思っていたりするなど、同性愛の傾向が強い人間でもある。その割には、マリは新劇にて突然映像の作品世界に入り込み、やたらとシンジを助けに行こうと張り切っている。

ここで、冒頭で述べた「マリは偶然乗り合わせた乗客」という概念を持ち出したい。改めて、宇部新川駅の周辺路線図を見ていこう。

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山口県鉄道路線図( https://www.map-navi.com/line/11721.html より引用)

先ほどは触れなかったが、実は宇部新川駅の特長として、新山口に抜ける路線がある。この環状線(ループ)に至る線路と、新たな道を進む線路の構図は、劇場版のポスターにおいてメインで描かれているものだと分かるだろう。

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シンエヴァのポスター(公式ツイッターから引用)

さて、一見ポスターを眺めていると、宇部新川から新山口に進むまっすぐな線路を歩むことこそが、シンジの新たな物語(+1.0)のように見える。しかしながら、改めてラストシーンを確認すれば、シンジとマリは電車には乗らずに駅を飛び出し、外の世界に羽根を広げる終わり方だったことに気がつくはずである。

「あれ? このまっすぐな線路を通ることで、ループから抜け出すわけじゃないのか?」と自分ははじめ混乱したのだが、ここにおいて、マリの存在を思い出した。つまり、逆に考えればよいのである。ポスターに書かれたこの線路は、奥から手前に向かって進むわけではなく、マリ(手前)がシンジのもと(奥)に向かうための線路なのである。つまり、「シンジがループから抜け出すための宇部新川から新山口に抜ける線路」ではなく、「マリがシンジのもとに向かうための新山口から宇部新川に向かう線路」なのだ。こう考えることで、マリがパラシュートでシンジのもとに「外部から」降り立ったのも、マイナス宇宙で虚構になりつつあるシンジを救おうと「外から迎え」に来たのも、電車から降りたものの駅からは出ずにホームで待ち続けるシンジを「迎え」に来たのも、すべて同じ構図(外からシンジを迎えに来る)で描かれていたことがわかる。

そして、ここにおける「外」とは、虚構における「現実」という風に解釈することはできないだろうか。この解釈を支えるのが、マリとともにシンジが駅を出た途端に、背景が現実の映像になる演出である。何故、カヲル(?)やレイ(?)がいる駅のホームではアニメ作画なのに、マリとともに「駅の外」に出た瞬間に現実の作画となるのか。それはマリが「現実」を象徴し、シンジを私たちと同じ「現実の存在」へと昇華させるキャラだからではないか。

このようにして、シンジは私たちの監視(ループ、演技)から逃れ、本当の大人になるのである。

 

 

まとめ

ここらで考察を纏めよう。

自分の主張としては、宇部新川駅に着目することで、マリの存在意義、ポスターの意味、シンジが大人になるための手法についてより解釈を深めることができるのではないか(できたのではないか)という一種の提案だった。

というのも、シンエヴァを見た人の感想として、「俺たちも大人になれということなのか」「エヴァは本当に終わったんだなあ」「エヴァから卒業させられた」という意見が散見されるのだが、「私たち」ではなく「シンジたち」に目を向けてみるのも良いのではないかと考えてのことである。

個人的には、「私たちのエヴァからの卒業」よりも先立って「シンジたちのエヴァからの卒業」があると考えている。シンジにとってのエヴァとは「鑑賞者から子供の演技を要請されるもの」である。だからこそ、最後の「終劇」の二文字には、シンジが「子供」を演じた舞台の終幕という意味が込められているように思えてならない。ただ、間違えてはならないのが、エヴァがあった世界(つまりシンジが子供であり続けた世界)は消えるわけではなく、平行世界のように心の中にあり続けるのだ。

それを示すかのように、虚構としての子供の思い出は「3.0」として、現実としての大人の「1.0」として分けられ、「4.0」でも「1.0」でもなく、「3.0+1.0」として独立し保存されている。

以上から、自分は「俺たちに大人になれということなのか!」という悲観的なメッセージを受け取らなかった。それはシンジが大人に成長し、私たち鑑賞者が感情移入できなかったことによる寂寥感であって、映像から得られるメッセージではないと考えている。

いつ嵌まったかに関わらず、「子供」として無邪気にエヴァを好きになった気持ちを大切にしながら、「大人」の第一歩を歩んでほしい。

それこそが、今もなお特撮を愛し続ける庵野監督の精一杯のメッセージではないだろうか。

 

以上。庵野監督と制作スタッフに最大級の敬意を。