新薬史観

地雷カプお断り

他人のために役割を固定化されるのはストレスがすごいという話

予め書いておくが自分は男であり、男2人とルームシェアをしている。この男三人に(恐らく)恋愛感情はなく、あくまで経済的であるという理由のみによって集まっている。つまりこれから書く文章は男だけの生活空間で起こっているということをご了承いただきたい。

ここ数週間、自分は家事に忙殺されていた。というのも、同居人のひとりが非常に多忙になり、もう一人は家事をまったくしないからである。これまでは前者と自分で家事を回していた(つもり)だったのだが、前者は部屋に籠もり、後者も部屋に籠もってゲームに真剣になることで、炊事洗濯掃除ゴミ捨て諸々の全てを自分がする流れになった。というより、単に他の人間がしないために自分がする他なかった。家事分担をしろという話なのだが、生活リズムやらなんやらで他の人間は夜型、自分はきっかりとした朝方のため、ゴミ収集車やら朝食の準備やらを考えると、自分が動く以外に部屋の時間が動き出すことはなかったのだ。それから、トイレの便器の汚さや床の汚さ、米の保温時間など細かいところが気になるのが自分だけだったという点にも理由がある。結局、他の人間は気にしないことを自分だけが気にしているという構図が作られることで、「結局この家事をするなら他の家事もまとめて行ったほうが効率がいいな」という気付きのもと(実際にやってみると分かると思うが、家事は決してそれ自体で独立しているわけではなくすべてが微妙な部分で結びついている)、「あくまで自分の時間効率のために」家事全般を行うことになったのだ。

で、まあここまではまだ良かった。自分は掃除が嫌いなわけではないし、それぞれにそこまで時間がかかるわけではないからだ。

問題は「食」だった。

自分は1日3食の飯を食わずには居られないタイプの人間である。空腹感という名の銃を突きつけられた自分は、モルカーのごとき大粒の涙を零すことになるため、自分の機嫌のために自分で大量のご飯を用意せねばならない。ところが、同居人とはその食に対する意識が違っていた。先にも述べたように、他2人は夜型であり、1日に一度晩飯を食べるだけで事足りるというのだ。ここに大きな食に対する断絶があった。つまり、自分だけが食に飢えているのに対し、2人はそこまで食を求めていなかったのである。

結果的に「食」の準備も自分ですることになる。朝昼は自分の分だけで事足りるのだが、晩飯となると話が変わる。その時間には同居人は起きているため、晩飯は必然的に三人分の量が要求されるのだ。同居人は「あったら食う」スタンスのため、自分から料理を作ることがない。一方で自分は腹が減っている。嫌がらせのように自分の分だけを作っても良いのだが、光熱費や食材費を考えるとまとめて作った方が安上がりである。

さて、自分はどちらかといえば料理は好きなほうである。決して美味い飯を作れるような腕はないのだが、買い物は外出と散財を兼ね合わせたストレス発散になるし、何も考えずに鍋を煮込み続ける虚無の時間も、それはそれで落ち着く時間である。そのため、食を作ること自体もそれほど負担にならないと楽観的に考えていた。現に、これまでは二者で交互に回されていた料理番は、決して苦痛なものではなかった。

「自分のために作る料理」と「他人のために作る料理」の違いに気がついたのは、一週間後、自分が「料理をつくる役割」であると自覚した時である。料理を作りテーブルにおいても、片方は部屋に籠もり、片方はゲームをやめようとしない光景に、自分はふと母親の怒りを想起した。

母親か父親か、その関係性は問わない。幼少期に誰かしら料理を作ってくれる人が身近にいた人は、「ご飯の前にお菓子を食べないで!」や「ご飯が冷めるから早く食卓に来なさい!」「ゲームを辞めなさい!」と怒られたことがないだろうか。自分は結構ある。割と毎日母に怒られ、「うるせえな黙ってろ」と思っていた。

ところが今、自分ではなく「誰かのために」料理を作るようになり、擬似的に母親の立場を経験することになって、「自分の料理を暖かいうちに食べてもらえない」ことに対するストレスがはっきり理解できるようになってきたのである。そしてストレスというのは、これだけに留まらないのである。

以下列挙。

①「いただきます」も無しに無口に食い始めるな(「出されたから仕方なく食っている」感が出てめちゃ辛い)

②黙って食って部屋に消えるな。何かしらフィードバックが欲しいから料理の感想を言え(同人活動における「感想が欲しい」欲求と非常に近い)

③何もしていないんだからせめて食器は洗え(食器を洗ってもせいぜい5分、買い物や調理時間を考えるとこちらは1~3時間くらいは掛けているのだから、そもそも時間的に見て全く釣り合っていない。というか調理しながら食器洗いをするのが基本だし、食後の食器洗いは氷山の一角に過ぎない。なんなら料理を代わりに作って欲しい)

④料理の献立を決定するのはめちゃくちゃ面倒だから「何が食べたい?」「何でもいい」という返答は辞めてくれ。自分ではなく他者のために作っているのだから、自分こそ何でもいいんだよ

⑤冷蔵庫の中身を常時把握しておく面倒さ。④と合わせて、朝から晩まで献立や冷蔵庫の中身ことを考えることになる

⑥上記のストレスの原因をすべて説明することの難しさ(正直①とか②とかは自分から口にするのが恥ずかしいし、③④⑤のストレスも、役割が固定化されている現状、構造的に解消することが出来ない悩みである)

等々。

これらが複合的に立ち上がり、「料理をする時のストレス」として心を圧迫する。上のように考えるのは自分だけかもしれないが、幼少期の母親のイライラを考えると、割と「料理をする人」にとっては共通の悩みなのではないかと考える。

これだけでもキツいのに、これに加えて先述の洗濯掃除ゴミ出しまで加わり、役割が固定されると発狂しない方が不思議である。現に自分は「家事をする時間があれば映画が一本は見れたのに……」とイライラが止まらなかった。なので途中からはiPad proを台所に置き、映画を見ながら料理をすることでストレスの軽減を狙った。実際に映画やアニメを見ながらやるのは(包丁を扱うため危険だが)時間を無駄にしているという感覚が薄まり、気分がよくなるために効果的である。映画がなければ俺は発狂していただろう。ありがとうiPad pro。

 

結論

以上、「他者のために家事をする(特に料理)」という役割の固定化は非常に精神的に良くないという経験談だった。もちろん、自分にとっての「本」や「映画」と同じ位置づけに「料理」や「家事」があるような人にとっては、役割の固定化は苦痛ではないだろうし、むしろ至福の時間になり得るだろう。そういう人がいるのであれば、どんどんやっちゃって良いと思う。実際に「自発的な」料理自体は楽しいし。

上に合わせて、これらのイライラは「他者のために」「役割が固定化(自発的ではないものに)」される際に得られる感覚がある。つまり「ようし、たまにはカレーを作っちゃうぞ!」という普段は料理をしないお父さんが「自発的に」動く時には感じられないことだろうし、自分のために料理をしている独身の社会人や学生にも理解しがたいものだと思う。

なので端的に換言するが、「自分の時間を他人のために使うことに対するストレスってヤバいよね」という身も蓋もない話に落ち着く。

「他人」に対して恋愛感情や家族愛があればまだ軽減されるかもしれないが、それはあくまで一時的なバフであり、恒常的にかつ完全にストレスを軽減できるかと言うとそうではないように思う。ここら辺は自分の想像にしか過ぎないが、バフ解除後は徐々にダメージが蓄積され、ある日突然噴火する原因にもなるのではないだろうか。

このように書くと、「仕事だってそうだろ!」「賃金を稼ぐ行為も役割の固定化だ!」という反論も当然あると思う。その発言には誠その通りだとは思うが、まだ同意しかねる。なぜなら自分は正社員として社会に出たことがなく、「賃金を稼ぐ役割の固定化」を体験したことがないからである。今回はこちらを経験談として話している以上、両方を経験しないことには議論は成立しない。

だらだらと長くなったが、最後にひとつだけ提案をさせてほしい。

誰でも一度だけでいいので、数週間くらい「固定化された役割」として「他者のために」料理をはじめとした家事全般を行ってみるのはどうだろうか。これをすることで、より明確に他者を意識する(何が食いたいのか、今はお腹が減っているのか、自発的に食器洗いはしてくれるのか、言われるまで通じ合えないのか、自分の存在や役割をどのように認識しているのかなどなど)ことになるし、同時に幼少期に家事をしてくれていた人への感謝、それを蔑ろにしていた自分の愚かさに辛くなると思う。多分。これはあながち暴論でもなくて、「飲食店で働くと店員に優しくなれる」理論と同じだと考えている。いずれにせよ、客観的な視点を手に入れることは、利益こそあっても損することはないだろう。

このあたりの問題は、様々な差別、社会問題と接続可能ではないだろうか。