新薬史観

地雷カプお断り

近況報告として最近の思想や気付きを雑多に書きました

最近まったくブログを更新していませんが、理由は簡単で労働で削られた時間をさらにブログで削るとあまりに自由時間がなくなるからです。ブログを書くのも好きなんですが、読書や二次創作、一次創作に比べると優先順位が低い。というのも、自分というキャラクターにそれほど興味を見いだせないこともありますし、自分は実在より虚構の方が好きということもあります。架空のキャラ大好き!

そういうわけでそれらと戯れる時間や天井を見つめるだけの時間を確保すると、自分語りに等しいブログなんて書いている暇がないわけで(実は自分はかなりタイピングが遅くめちゃくちゃ書き直すし、思考速度もRAM2GBのPCみたいなものなので、ひとつの記事を書くのに4時間くらいかけていることもあります)、結果として放置するかたちになりました。今後この傾向はより顕著になると思います。本を読んでも感想を書けるかわからない。書かなきゃ忘れてしまうんだけど!

結論として、ブログはやはり書くべきですし、そうなるとやはり自分は労働すべき人間ではなかったということになります。労働やめてえ。労働自体は嫌ではないが、労働に時間を取られるのが死ぬほど嫌だ。なんか労働という文字を書いているだけで腹が立ってきたな。みんなで「いっせーのせ」でやめませんか、労働。

まあそう言っても私は実家が裕福なわけでもなく、国民として勤労と納税の義務がありますので、イヤイヤながらも働かざるをえないわけです。実はそのあたりはしっかりしている人間です。常に生活保護の受給資格を狙ってはいますが、家族がみな健在なのでその線は薄い。じゃあ家族全員を猟奇的に殺すかと言えば、そこまで極悪非道な人間ではありません。しかし生活保護は欲しいし、できればこの二十代のうちになるべく自由な時間を確保しておきたいし、やっぱりフリーターがいいのかなあと思いながらも、今後の自由時間を考えると正社員がお得だよな(フリーターより多く稼げて早めに労働からリタイヤできるので)と考えています。

でも、それなら高給の仕事の方がより早めにリタイヤできるし、福利厚生がしっかりしている大企業に就職した方が良かったかなとも思うのですが、自分は(一部の)大企業に勤めている人間、および資本家や投資家とか情報商材屋とかコンサルやってる「すごい人たち」を常に社会的弱者の敵(および弱者への共感性が欠如している人間)として見ているので、自分はそれらになってはいけないという縛りプレイを設けています。資本家とかはともかくとして、「お前が大企業に就職できるわけないだろバーカ」というご指摘は尤もなので、本当に縛りプレイになっているのかは疑問が残るところではありますが、とにかくそういう心地で人生をプレイしているのは事実です。

さて、こう書くと「お前は資本主義の崩壊を画策しているのか」と言われてしまいそうですが、まずそうではないと断言しておきます。資本主義は大嫌いですが、めちゃくちゃ便利なので崩壊してほしくありません。資本主義サイコー!

また、ひとつの横槍として考えられる「そんなに大企業が嫌いならお前は大企業の製品を使うな」というのは批判としてお門違いだと言っておきます。既に製品として市場に出回っておりそれを基に生活が営まれている以上、私たちは大企業の製品を使わざるを得ないし使わないと損をします。洗濯機があるのに洗濯板で衣服を洗うのはマジで時間と労力の無駄です。なので自分は大企業の優れた製品は嫌いではありません。むしろ大好きで愛しています。しかしそれはそれとして(一部の)大企業に勤めている人間と、その精神に恐れてしまうのです。

より詳細を書きますと、自分が最も恐れているのは、自分の社会的な立場を高くすることで徐々に自分と同じ立場の人間しか観測範囲に入らなくなり、次第に世界が狭まり自己の安定性(金銭)を求めるようになることです。

これは大学についても言えそうですが、大学における「学歴」というステータスについては自分の嫌悪の対象外です。これはおそらく「学歴」と「金銭」が大学内においてはほぼ結びつかないからでしょう。勉強したい者だけがよりより研究・学習環境を目指す。これは非常に良い動きであるように思います。

会社もそうであれば(つまり、大企業に行けば行くほどより研究設備が整っている、この会社でなければ生み出せない/得られないスキルがある、社会的に価値がある良い製品を生み出せる、芸術作品のように人の精神を豊かにすることができる、という精神がモチベーションであるのなら)、非常に素晴らしいことだと思います。世の人のために頑張ってくれ……(この利他思想の呼びかけ、自分でもちょっと気持ち悪いなとは思うのですが、自分のなかでそれなりにある利己主義への嫌悪と結びついているっぽい)。

ただ周りを見ると上のような人はあまりおらず、大企業と金銭が短絡的に結びついている人が少なくないんですよね。自分はそれがどうしても嫌なのですが……はい、間違いなくお気持ち表明ですね。本当に自分の偏見・価値観でしかないです。でも(過剰な)金銭のために人が働くのが本当に無理なんですよね~。この感情は利己主義や弱者への共感性と繋がるのですが、大企業にいる意義ではなく、ただ高給な金銭だけを求めることって、めちゃくちゃ感性が死んでないと出来ないというか、利己的だよなあと思ってしまうんです。もちろん生活をするためには稼がなければならないし、仕事に見合った成果として弁護士や医者のように高給の賃金が支払われるということにはまったく異論はありません。ただ「仕事→金銭」ではなく「金銭→仕事」となる人間の精神性に嫌悪感を抱いてしまうんですよね。(この辺りで、自分は共産主義を支持しているわけではないとも言っておきます。自分は賃金の平等を求めているわけではなく、過剰な金銭を求める人間の精神性に嫌悪感を示す、というお気持ち表明でしかありません)

そんで、ここで自分が危惧している人間の安定志向が関わってきます。上に書いている通り、自分が最も恐れているのは、自分の社会的な立場を高くすることで徐々に自分と同じ立場の人間しか観測範囲に入らなくなり、次第に世界が狭まり自己の安定性(金銭)を求めるようになることです。つまり、自分は自分が安定志向であることを分かっているからこそ「一度大企業に入ったらやばい、絶対に二度と抜け出せなくなる」と怯えているという話です。金銭を求めていない自分が、過剰な金銭を求めるようになる自己変革への恐怖と言った方が正しいかもしれない。それが大企業の務め人や資本家やコンサルやってる人間へのレッテルというかたちで、自分のなかで危険信号として機能しているのかなと考えています。

はい、結局は「お前がお金嫌いなだけだろ」に終着すべき議論ではありますし、自分のお気持ちを補強するためには「その人の生活にとって過剰な賃金とはどの程度を差すのか(お前はどこから過剰な賃金として人を軽蔑するようになるのか)」という話をせねばなりません。ただ、自分で言っておきながらなんですが、そんな厳密な数値なんて出せるわけがなくて、至極どうでも良いんですよね。それより自分は、誠に勝手ながら自分の核をなしている「お金嫌い」に注目したい。

これ、考えると割といろんな自分の末端と繋がって面白いんですよね。

例えば自分は上に「弱者」という単語を何度も出しましたが(この言葉が引っかかるなら「他者」でも良いです)、自分が考える「弱者」ってのはとにかく金銭さえあれば(親の不在を上書きするとか、そういうのは無理だけど最低限の)「弱者」からは脱却できるよなと考えている節があって、だからこそその金銭的格差を増長させている資本主義が嫌いなんですよね。まあ資本主義は大好きなんですけれど(だからといって、賃金の格差を是正せよ!という共産主義?を推しているわけではないってことは何度でも言っておきます。自分が言いたいのは賃金ではなく、最終的に皆の手元に残る金銭が非常に緩やかに最低保証されているイメージ。そういう政治思想があるなら教えてください、興味があります。結局言っていることはベーシックインカムなんだろうけれど)。

で、こういうことを考えていると弱者への思いが募って寄付とかしたくなってくるし、給料の1%は最低でもそういう人たちに渡せないかなあとか考えてしまって、自分でも偽善者っぽいかな~と考えているのですが、これって結局は「弱者」への「共感」に違いないなと最近気付いたんですよね。それで冒頭にも書きましたけど、自分は架空のキャラが好きなので、この前から架空のキャラクターの権利とかも割と大真面目に考えていたんですけれど、これもまた「架空のキャラ」への「共感」だよなと。もっと日常的なことを言えば、自分は犬の散歩で「ここらへんの道路は肉球が痛くないだろうか」とか常に犬に「共感して」考えてしまうし、研究室でも会社でも友人間でも、コミュニケーションがうまく言っていない人たちを目にしては、互いの立場に「共感して」お互いの言い分を翻訳する作業をよくしていたんですよね。自分を「キモオタ」として極端に卑下するのも、自分を見た他者の不快な感情に「共感」しているからであって、ああ、ここにも繋がるのかと。

これって普通なのかなと思っていたんですが(犬の心配とかはあるあるかも)、実はそうでもないんじゃないかなと気づけたのが「自分の給料をどれほど寄付すべきか」と真剣に悩み出した時でした。なぜならそこまで考えている人は全く見当たらなかったからです(当たり前か)。検索すると出てくる「アメリカの社長は当たり前のように寄付をやっているらしいです!」「だから自分も成功者になるために寄付を始めました!」とかは本当にクソどうでも良くて、他者に共感する気持ちに国境(あるいは生物種、実在と非実在の境界線)なんて存在しないだろうと思っていたのですが、あんまりみんなそうは感じていないようで、給料は当然のようにすべて自分のものらしい。

いや、それはマジで当たり前だし、他人を助けて自分がひもじくなるなら本末転倒だからそんなことはしなくていいのだが、いよいよ生活が安定してくるとお金はそれなりに余るわけで、その余ったお金(今の時代に余るお金なんてないのが本音だろうけれど、ここでは生活が苦しい一般庶民ではなく裕福な人たちのことを言っています)の使い道として自然と寄付とかは出てこないもんなのかなと(してるのかな?)。街をぶらりと歩けばホームレスとして生活している人や、コロナ禍で母子ともに苦しい思いをしている人々、お給料すらも手にできない人々が日本にもいるわけであって、その人たち全員を救いましょう!と狂気染みたことを言うつもりはないのだが、少しは助けになれないかとか、そういう他者への想像力が湧かないのかなあ……と不安な気持ちになり、そこまで思考を発展させてようやくハッとする。

うわっ、もしかしたら自分、あまりにも他者に「共感」しすぎ?

で、「共感しすぎ 辛い」で検索すると(その時は真剣に悩んでいて辛かったので)出てきたのが「エンパス」とか「HSP」という単語でした。みなさん知ってました?自分は知りませんでした。

 

www.nhk.or.jp

www.sankeibiz.jp

簡単にまとめると「共感しすぎ」というそのままの意味なのですが、エンパスは感情に特化していてややスピリチュアルみ(第六感?)があるのに対して、HSPは感情も含めて五感が敏感で、おもに外部環境や表情から共感するって感じでしょうか(上の記事はどっちもHSPについてです)。

そんでエンパスではないかな~と思っていたんですが、HSPの特徴を見るとびっくりするほどよく当てはまるので、ADHDでもASDでもなかった自分の不具合はこれだったのねと嬉しくなれました。あと、何を根拠に言っているのかはわかりませんが、5人に1人はHSPらしいのでそんな珍しいものではないようです。それに病気ではなくあくまで性質に過ぎないから、薬も効かないとのこと。それは割と困りますが、ないものはないから仕方ないですよね。

さて、それはそれとしてこのHSPという性質、なんだか自分の価値観に繋がっているような気がしてならないのです。

例えば、他人に共感しすぎるのはHSPのせいで、だから弱者に共感しがちで、ゆえに弱者を弱者たらしめるという意味においてお金が嫌いで、そのお金を利己的に求めがちな(一部の)大企業やコンサルが嫌いで(でも大企業じゃないと賃金的に早めにリタイヤできないわけで)……と言うように、ある程度一貫した理論で自分の価値観や偏見が構成されているんじゃないかと、そういう考えが持ち上がったわけです。

尤も、(いくら自分のものとはいえ)人の感情をこんなに短絡的に結びつけてはいけない気もするのですが、もし本当にこれで自分の感情が説明できるなら、すごく面白いことだなあと思うわけですよ。自分は人間が思考と身体のなかで矛盾を抱え苦悩することに興味があるし、不合理な感情にこそ人間の愚かさと美しさが同居していると考えているのですが、もしここに過剰な合理性を持ち込むと、一気に人間は架空のキャラクターになってしまうんじゃないかなと思っています。なんでもかんでも自分の仕草を説明できるよって態度は、あまりに傲慢だし、おそらくその説明は正しくないよなとは思います。けれどもその領域に自分が足を踏み入れているというのは、個人的にはかなり面白いなと感じてしまうのです。どんどん人間性が剥奪されている気がするから。

 

はい、以上で最近考えていることは終わりなのですが、〆の言葉は「やはり労働はクソである」ということにしようかと思います。大企業やら資本家やらコンサルが云々言いましたけれど、そもそも労働がなければ自分もこんなに悩まないわけで、賃金を手にしなければ弱者への共感もしなくて済むわけです。だっていくら大企業から離れて低賃金の地方中小に就職したとしても、正社員として雇われている時点で非正規雇用の人間よりかは「強者」になってしまう。資本的に上を見てもキリが無いように、下を見てもキリがないんですよね。その「共感」には必ず限界があります。そのうえ自分が身を切る、切らないレベルを見極めなければならないし、めちゃメンタルと思考が削られます。というのも、ここに自分の根源的なキャラ設定があって、「趣味・興味に時間を割きたい強い欲求」と「HSP」が並列して葛藤を起こしているのかなと。

で、HSPは自分が望んで手にしたものではないので(優しいですねとか、そういう類いのものではない。勝手に他者の気持ちを妄想して現実との齟齬にパニックになるだけなので)、自分としては前者を強く優先したくて、だからHSPが働く余地のない下層の立場(強者への共感というのは、基本的に「上の立場にいることの承認」、あるいは「自分たちが弱者であることそのもの」であり、自分が手にするはずだったものを奪われることはあっても、自分から手にしている何かを差し出すことではない)で、自分の欲求を満たしたいということになります。

その状況が尤も実現されていたのが、社会的に独立しておらず親の扶養下でありながら(強い金銭を持たないことから弱者に分け与える責任を持たない)、自分の趣味に没頭できる「学生」という立場で、やはり自分にとって学生こそが転職だったんだろうなと考えています。まあ、何歳になっても学生やっているのは親としたらニート養っているようなもので可哀想なので(ここでも親への共感が働いてしまう!)、本当は国全体に養われてるという弱者の王者たる「生活保護」こそリアルな立場なんですけれど。その制度は実際にはどうしようもなく働けない人たちのものであるので、なんやかんや言っても肉体的にも精神的にも働ける自分は利用してはいけないわけです。

あ~考えるだけでイライラしてきた。

働いて社会的な強者になりたくなさすぎ。自分の貴重な時間を労働に投げ捨てて、なおかつ弱者にも共感しなきゃいけない自分ってなんなんだよ。

やはり労働はクソである。

 

(執筆所要時間 4時間)