新薬史観

地雷カプお断り

【ネタバレ注意】劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト 考察

この記事は劇場版スタァライトのネタバレ含みます。お気をつけください。

 (サムネイルネタバレ回避用のロロロを何個か置いておきます)

ロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロ

 

ここまで置けば大丈夫でしょう。

というわけで劇場版スタァライトを2回見ました。1回目のあとすぐに2回目に入ったので休みがなく「しんど」と思ったのですが、やっぱりノータイムで見ると記憶が定着していいですね(もちろんそれだけでは足りないのでたまにメモをしたりしましたが)。

自分のなかでこの映画の全体像というか、ギミックにかけてもいろいろ考えることができたので共有します。一個人の感想(考察)なので鵜呑みにしないようにしてください。他人の言葉じゃなく、自分の言葉で語ったほうが良いですからね。

まあ、これは星見純那の言葉ですけれど……。

 

「ワイ(ル)ドスクリーンバロック」って何?

これは映画内でも触れられているので簡単に。

そもそも「ワイドスクリーンバロック」という用語があります。これは太陽系レベルの規模のめちゃくちゃ奇想天外なSF作品、という意味です。このワイドをもじって「ワイルド」とすることで、「野生」の意味を付与しています。

じゃあ「野生」ってなんだ?となるところですが、これも映画で言及されていて「どんな舞台に立っても、すぐに飢えと乾きによって次の舞台に移り、互いに役を求めて争う舞台少女」のことです。野生動物の「醜さ」「貪欲さ」をイメージしてのものだと思います。

本作では、そのような野生の動物として扱われていたのが、ばなな・華恋・ひかりと言った運命の舞台の担い手以外みんなです。一度もトップスタァになれていない、だから飢えているわけですね。

この作品は、そのような「飢えた舞台少女によるめちゃくちゃ奇想天外なSF作品」という意味で「ワイルドスクリーンバロック」と題しているのでしょう。それに違わぬ映像になっているように思います。

 

「トマト」って何?

他の人の感想のなかでも、「禁断の果実」について触れている方が多い印象でした。昔は毒があって食べられなかった、とかいう話もあるようですがそこらへんは個人的にはどうでもいいかなと。だって禁断の果実で調べて見てほしいんですけれど、禁断の果実の候補はかなりあるんですよ。それこそ有名なリンゴであったり、ブドウ、イチジクとかもそう。個人的には「禁断の果実だから」という理由だけでは選ばれないと考えています。リンゴに勝る理由がない。

なので、まずは「何故トマトなのか」と考えた方が良いんじゃないかと思います。

 

・なぜトマトなのか?

これは僕の想像ですが「赤いから(果汁が血を思わせる)」だけでは理由として不足なんじゃないかなと。というのも、監督のイラストが「緑」を強調しているからです。

 補色関係で目が痛くなる赤と緑、正直デザインとしてはかなり悪手な部類に入ると思うんですが、それでも緑が置かれている理由を考えた方がいいかなと思います。偶然にも作中に出てくるトマトは、すべてへたがついていて赤と緑に分類されていますし。

言うまでもありませんが、この組み合わせで思いつくのはクリスマスカラーでしょう。クリスマスにおいて、赤は「キリストの血」を、緑は柊の葉の「キリストの茨の冠や受難」を示したり、もみの木の「永遠の生命」を示したりするようです。緑の意味を前者だとしたとき、スタァライトにおける「血」や「受難」の意味するところがかなり鮮明になるのではないでしょうか。

さらに、トマトが持つ「瑞々しさ」にも注目した方が良さそうです。リンゴやイチゴを潰した時、果たして血のイメージである果汁が飛び散るでしょうか。その液体は、舞台少女の「乾き」を満たせる水分を含んでいるでしょうか。

このあたりを考えると、トマトが「禁断の果実」として選ばれた理由が自然とわかるんじゃないかなと思います。

 

次に、「禁断の果実」がスタァライトにおいてどのように機能していたのかを見ていきましょう。「禁断の果実」とざっくり言っただけでは、この作品におけるトマトの役割を十分に理解できたと言えないように思います。

というわけで、トマトがどのような場面で使われていたのかを、下に箇条書きしました。もちろん見逃しているところはあると思いますが、大まかにはこの辺りでしょう。

トマトが使われていた場面(思い出せる限り)

・映画の初めのカット、砂漠の上のトマト→潰れる

・九九組(華恋・ひかり除く)が死んだ自分たちを見てレヴューを決意する時→齧る

・ひかりが華恋の危機に訪れた駅の広告(砂漠のうえのトマト→潰れ:ロンドン時代のひかりの定期公演のロゴのように、カリギュラスブライトに刺されて潰れている、溶けている)

・キリンがジュゼッペ・アルチンボルドの『夏』(ここも注目すべきで、少女たちにとっての人生の過渡期、人生の青春はいうまでもなく「夏」であり、そこへの目配せもあるかも)を思わせる「野菜で出来たキリンのようなもの」になった時に、ひかりの目の前に落ちている

・華恋とひかりが出会う時に、ひかりの背後にトマト(星罪の塔の星?の部分に置かれている)→華恋が死ぬと同時に潰れる

 

ざっとこんなものでしょうか。例に挙げた通り、トマトの用途としては「食う」か「潰れる」か、というのをまず意識した方が良いです。

そして作中でも言われていることですが、

トマト=贖罪=食材=野菜(食材)でできたキリン(のようなもの)=観客の総体

という連想もした方がいいんじゃないかと思います。キリンが観客(の総体、決して私たち個人ではない)というのは何度も言われているので指摘するまでもありませんが、今回も「間に合わない」「見逃したのか」など観客と舞台における関係性を思わせる言葉を吐いているところからも連想は可能かなと。

では上の二つの太字から考察を進めるのですが、まず「潰れる」トマトから。

 

・潰れるトマト

この潰れるトマトは、基本的に華恋とひかりが相対する時に出現します。これらは誰にも食べられないために(食べる人がいないために)潰れる、つまり「食材」ではなく「贖罪」のトマトと言えるでしょう。これは前作の総集編「ロンド・ロンド・ロンド(以下ロロロ)」の流れを受け継いでいます。(自分の考察記事は下)

negishiso.hatenablog.com

 

つまり、願いが叶う運命の舞台の主の流れとして、ばなな(アニメ10話まで)→ひかり(アニメ最終話まで)→(ロロロ)→華恋(本作)と来ているなかで、このひかりから華恋に運命の舞台が受け継がれる際の概念のとしての「贖罪」なのだと自分は解釈していいます。で、ここでしっかり把握するべきはそれぞれの舞台における願いと贖罪でしょう。下に列挙します。

【ばなな】

願い「永遠に繰り返す舞台」

贖罪「全員のキラめきの喪失(キリンのオーディションのデフォ贖罪。戯曲スタァライトをモチーフにしているアニメ作品「レヴュー・スタァライト」だからこうなる)」

→しかしながら、全員のキラめきが喪失してもまた99期の初めに戻るので、実質的に誰もキラめきを喪失せずに贖罪はないような扱いになる。

(アニメ10話ラストにて、ひかりが運命の舞台に立つ)

【ひかり】

願い「誰からも(と言いながらほぼ華恋目的だが)キラめきを奪いたくない」

贖罪「飢えに乾く砂漠(星罪の塔)への幽閉(スタァライトモチーフ)」

→しかし、ここに華恋が飛び入り参加。ひかりの肩掛けを落とすことで、運命の舞台に立つのは華恋に。

 

というわけで次は華恋の「願い」と「贖罪」が描かれるべきなのですが、本作を見れば分かるように、華恋は運命の舞台に立つこと(ひかりと再会すること)だけが願いであり、舞台に上がるモチベでした。なので華恋にとってはアニメ12話でゴールを迎えたも同然で、これ以上の願いはないために贖罪も発生しないのです。

つまり、誰かに食べられるべき運命の舞台(めちゃうまいが食べることで贖罪を生み出す「禁断の果実」であるトマト)は誰にも食べられることなく、自壊するほかなかった。

おいしさと罪が両立しているトマトって、完全に「運命の舞台」そのものですよね。

これが人に食べられないトマトの意味するところです。潰れるトマトは、運命の舞台に誰も立たなかったことを示します。そして、華恋が舞台に上がらないということは、舞台少女としての愛情華恋が死を迎えることを意味します。舞台に上らない舞台少女はただの少女なので。

 

・食うトマト

次に食べるトマトについて考えましょう。まず九九組(華恋・ひかり除く)が死んだ自分たちを見てレヴューを決意し、トマトを食うシーンが思い浮かぶと思うのですが、前提から考えると「みんなが運命の舞台を食ってる!」ということになるかと思います。しかし運命の舞台に立てるのは一人であり、その願いを叶える力を持つのは華恋のみです。よって、華恋とそれ以外の人が食うトマトには、食材とは違った意味「も」あるんじゃないかと考えています。

それが食材=キリン=観客の総体の方程式です(ぼくはここにめちゃくちゃ感動しました)。トマトはあくまで「食材」のひとつとして扱われるということですね。禁断の果実ではなく、野生の舞台少女の飢えと乾きを満たせる、汁と果肉を持った食材としてのトマトです。舞台少女は、この飢えと乾きを満たすものを求めて舞台に立ちます。では、舞台少女にとっての飢えと渇きとはなんだ?ということになりますね。

これは言うまでも無く「トップスタァへの渇望」なのですが、もう一歩踏みこむと、「そもそも観客がいないと、舞台を見てくれる人がいないと舞台は成立しないよね」という素朴な気付きを得ます。逆に言えば、観客がいなければ舞台は成り立たないし、舞台少女はトップスタァを目指さなくてもいいわけです。要するに、トマトを食材として見た時、舞台少女に栄養を与える食材としてのトマトと、舞台少女が舞台に立つための必要条件である観客としての食材のトマトが重なっているのです。そういう意味において、観客=トマト(正確には食材)と言えます。また、この説を補強するためにあえてイラストではなく実写の食材が描かれていた、というのも言及しておきます。なぜキリンはイラストではなく実写の食材から出来ていたのか。実写の食材と次元を同じくするものは何かを考えればすっきりするはずです。

 

・つけるトマト

さて、TLを観ると、映画を見てトマトを半値につけている方が散見されます。確かにそれはネタバレにならない範囲での拡散になり、視聴回数も演出できるという点でいいアイデアだとは思います。が、この仕草は自分たちが観客でありながら、舞台少女を辛い目に遭わせる食材でもあるのだという自覚表明になるんじゃないかと思っています。

観客とは、舞台少女の生き様につけ込み野生としての闘争を煽る存在です。

舞台少女はそれ(観客から見られること)を理解しながら、闘争への決意を抱きます。

この流れを踏まえたうえで、「観客側が」トマトを半値に付ける行為は、自分からするとかなり罪深いなと思うのですが、そう感じるのは僕だけかも知れません。

以上、トマトの考察でした。

 

皆殺しのレヴューって何?

前提から考えると、電車=敷かれたレールを走る=確定した「次がある」未来ですよね。よって少女が電車に乗ることは、自らの可能性を最小限に押しとどめることだと考えていいと思います。当然ながら、新宿駅に立っているだけならどんな行き先の電車にも乗れますけれど、総武線に乗ったら山手線や京王線には乗れませんからね。

でも、舞台少女たちは電車に乗らなければならない。これは時間が流れるからに他なりませんが、それでも乗れない人間が二人居ました。ばななと華恋です(あと自分から降りたひかり)。

彼女たちが電車に乗れない理由は、

【ばなな】

①何でも持っていて、何にでもなれるが故にひとつを選べないから。

②自分が唯一持ち合わせていない、純那のトップスタァへの執着心への憧憬、その感情の源泉を何としてでも手に入れたいから(純那と別れること、純那が舞台から逃げることは、自分のループの源泉となった眩しさを見失うことと同義)。

【華恋】

ひかりと運命の舞台に立ったことで、目標を失ったから。

というように色々ありますが、要するにこの二人だけがはなから電車に乗る気がなかったと言えます。よって電車のなかでも、ばななと華恋だけが仲良く話しているんですよね。

しかし他のキャラは何の疑問もなく、自分の未来に進もうとしている。これを見咎めるのがばななです。そして、自分はこの皆殺しのレヴューを、未来に「絶対に」立ちはだかる壁のようなものだと考えています。レヴューである以上、ばななが何らかの役を演じているのは確実で、それは特別映像にて言及されていた「余裕をもって歌うように」というもえぴへの指示、「なんだか強いお酒を飲んだみたい」というばななの台詞からも、「彼女たちよりずっと余裕のある成人した存在」を演じているだろうことは明確です。つまり、「(成人した)彼女たちが今後の進路で出会うだろう圧倒的才能を持った人間」を演じているんじゃないかなと。生半可な気持ちでは今後ずっと挫折を味わうだろうけれど、君たちは本当にこの道でいいのかという想いを込めてのレヴューだと捉えています。

ちなみに、このレヴューはオーディションではないというのは何度もばななから言われることですが、個人的にレヴューとオーディションの区別は以下のものだと考えています。

 

レヴュー:少女たちの魂のぶつかり合い。本音の語り合い(修学旅行の夜のぶっちゃけた恋愛話みたいなアレ)。キリン(観客)がいて初めて舞台が成立するが、これは「作品化」されることで、現実にいるオタクたちが「観て」、彼女たちに「レヴューを期待する」から「レヴューできる」という意味合いが強いんじゃないかと思う。観客が観ていない、つまり作品内で割愛されたひかりが退学してからの期間に、彼女たちがレヴュー出来なかったのはそのためだと思う。どちらかと言えば、観客より舞台少女に主導権が握られている。(そのために、本作では肩掛けを切ってもレヴューが終わらないなど、観客の想定外の動きをすることが多い。これは観客と舞台とのルールではなく、彼女たち自身のルールで向き合っているから。メタフィクションの視点)

 

オーディション:観客によって明確な奪い合いを求められたもの。観客からの要請が強いという意味で、虐げられる側の原始的な闘争。

 

つまり何が言いたいかというと、ばななの「これはオーディションじゃない」というのは、「引かれたレールの上(オーディション)を行くんじゃない」という忠告であり、なおかつ「観客が見ている限り、どのような場所でもレヴューの場になり得る(私たちはもう舞台の上)」というメッセージもあるんじゃないかと思います。決して彼女たちを悪くしようと思っているわけではないことは、噴き出る血が舞台装置であったり、その血が「甘い」ことからも明らかかと。その役割をなぜばななが担ったのかというのは分かりにくいですが、舞台に立つだけでなく制作する側の視点を持つ彼女だけが、みんなの将来への違和感に気づけたのかなと思っています。わからんけど。みんなを舞台の上で最大限に輝かせるのが、舞台制作の使命なので。

 

それぞれの舞台少女の関係性

これは各自、自カプの考察を深めるべきだと思うのでよろしくお願いします。かれひかのオタクが他カプに口出すもんじゃないですよね。(じゃあ記載をするな)

【210618追記】ネタバレが解禁されて、なんか色々オープンになってるし折角なので他のカプについても自分の考えを簡単に書いていこうと思います。

・双葉と香子

TVアニメシリーズから、香子の良さは双葉を完全に自分の僕だと思っているところにあります。そんな風に考えていて横暴でワガママだけれど、抜けているところがあるから双葉も見捨てることが出来ない、頼られると全力で答えてしまう。つまり、双方にとって別れたく気持ちがそこにかける才能と労力でまかなえているのだと思います。

で、これがただの幼馴染みなら良かったのだけれど、ここに本家やらなんやらが出てきて、彼女たちは生まれながらにして「主人公である香子」と「脇役である双葉」であることが決定付けられているということになります。そしてまた、彼女たちがこれからも幼少期のような関係を築くためには、香子は主人公であり続けなければならないし、双葉も脇役でなくてはならないのです。ところが、その主人公である香子はスタァライトにおいて主人公になれないことが露呈します。ここからずっと香子は追い詰められていて、それが爆発するのが劇場版の「セクシー本堂」です。未成年であるにも関わらず、「賭博、女、酒」という危険な香りをモチーフにして「胴元」や「ホステス」という成人(=双葉より大人である立場)になろうとする様は、まさに「主人公」の代替案として機能しているんじゃないかなと。双葉はそれに応えようと、ガチガチの初心者(あるいは童貞)らしさを演じるものの、香子自身がこうではないことに気付いています。何度も繰り返す「うっといわ」という言葉は、香子の演技に完璧についてくる双葉への苛立ちでもあり、なおかつ香子が背伸びをして無理に演じているという点から、本質から外れていることに対する焦りです(確かに舞台の上では役を演じるものですが、レヴューでは本音を、ありのままの自分を出さなければならないので)。とにかく双葉よりも上に立たなければならない、その切迫感から生まれるあの演技は格別で、時折声にでる「おい」と「おもて出ろや」がめちゃくちゃにいい。ここに香子の焦りの全てが詰まっていると自分は考えています。

で、その後のデコトラについては、強くてでかいトラック(香子がもつ才能や努力、家柄)だけでは飽き足らず、過度な装飾(無理矢理の背伸び、双葉への威嚇行為)を行ってきた香子の存在がしっかり反映されているのかなと。そして双葉のデコトラもまた、香子に答えるかたちでしっかりデコっているのではないでしょうか。いずれにせよ、二人で乗っていたバイクから更に強くなり、なおかつ二台に別れてしまった点でしっかりと対立が描かれているように思います。最後の桜に包まれるシーンはアニメで香子が舞っていたシーンにも描かれている香子の輝き。京都という舞台そのものを演出していて、二人だけの落ち着いた子供の頃のような空間を形作っています。今度は双葉が香子にマウントする(乗る)という構図はこれまでの上下関係の反転には見えますし、バイクの主導権が双葉から香子に移ったという事実も興味深いところです。この描写によって香子が救われるようになったのは言うまでもなくて、なぜなら「主人公」「双葉に運転させる」「双葉より上でなくてはならない」という全ての要素を剥奪されてもなお、双葉との関係は続いているからです。エンドロールのワンシーンで、ようやく香子は自身の呪縛から解放されたと言っていいのではないでしょうか。

「主人公と脇役でなくても、続く関係がある」というのがふたかおのレヴューのテーマだと考えています。

 

まひるとひかり

アニメで描かれていたまひるヤンデレ?要素への反省かなと好意的に解釈することもできる演出でした。岩田 陽葵さんとまひるが好きな野球が舞台になっているのは言うまでも無いですが、光の陸上競技場(対決を前提とした舞台)から、MOTHER2のムーンサイドを彷彿とさせるような闇(追い詰めることを前提とした舞台)に切り替わる恐ろしさが良かったです。で、この舞台については正直わかりやすいのであまり語ることはなくて、そもそもお互いが好きなスズダルキャットとMr.ホワイトはライバルですし、華恋をめぐってもまひるとひかりはライバル?ですしと対立することが多かったものの、作品内では対決されることがなかった鬱屈をここで発散するかたちになりました。結局本当にあの闇の舞台は演技だったのかという話になると、「演技はまだまだだけど」というまひるの口上から「演技が苦手=今回ひかりに向けた悪意も本意」という見方もできるのですが、アニメの大前提があるように、自分の光だった(あるいは歪みそのものとなった)華恋とのレヴューで完全に愛情に似た感情は解消されているわけで、そこからまひるの最大限の良さである「誰かを笑顔にできるような舞台少女に」というテーマに落ち着いたはずです。よって、今回のレヴューの見所は、ひかりと華恋を笑顔にするために自らを悪役に落とし込むことができるようになったまひるの演技力の向上なのではないでしょうか。

最後に、ひかりが零した「華恋のファンになるのが怖かった、だから華恋の側から去った」という言葉から、後述のかれひかの真の対等な関係とは何かという議論に繋がることだけ触れておきます。

・純那となな

ばななの純粋な子供の執着が本当に恐ろしい、という話でした。これは皆殺しのレヴューから繋がりますが、純那に大人になれと訴えながら、自らがいちばん大人になりきれていないという矛盾を抱えている点で、ばななはかなり魅力的です。ばななはしきりに純那に切腹を命じますが、それも純那への憧れがあってのもので、「才能が無い哀れな存在、なのにめちゃくちゃトップに貪欲になれるのは何故?どうしてそこまで本気になれるの?」というのがばななの知りたいところであり、純那に執着する所以です(文字に起こすだけで怖すぎる)。とにかく、全てをもっているばななが唯一もっていないのが純那の「勝利への貪欲さ」だった。そしてその貪欲さは閉じた時間のなかにあるのではなく、開けた時間のなかにあります(閉じた時間では成長ができないので)。つまり、閉じた時間のなかにいたばなながこれから開けた世界に出るに当たって、純那の「勝利への貪欲さ」は鍵となるはずだったのです。これがないと、ばななは開けた世界に出ることができない、そう言ってもいいでしょう。しかしながら、自分がその鍵を手にする前にひかりによって閉じた時間から追い出され、ばななは不完全なまま開けた世界に追い出されます。しかも、その鍵を手にしていた純那も自身の手から鍵を見失いつつあるという事実。ここにばななはひどく落胆し、「自分と違ってその鍵を手にしていたのに、なぜ見失ったのか。これ以上醜い姿(つまりばななのような存在)を見せる前に死んでくれ」と純那に言うわけですね。もちろんばななの刀で。めちゃくちゃエゴが強い人ですね。で、ここまで書くとじゅんなななの未来は薄暗いのかと思わざるを得ないのですが(なぜならこの関係性はテレビからは読み取れないものであり、私たちはじゅんなななを理解できていなかったという虚脱感に襲われるからです)、個人的にはまだまだやれる(?)と思っています。なぜなら最終的にひかりに敗北したばななを慰めたのも、純那に失望していたばななを改心させたのも「純那自身の言葉」だったからです。純那には言葉でしか舞台や役柄を把握できず、演じれない部分があるとは思うのですが、その彼女が自分で紡いだ言葉にばななは強く惹かれてしまうわけで、「殺してみせろよ 大場なな」の口上を受けて、ばななは純那を殺せなかった訳ですよね。本気で切腹しろと思っていたうえに、その実力があってもなお純那の圧倒的なキラめきを前にして敗北を悟るばななの姿、そして別れる二人の姿を見ると、ばななはずっと純那の持つ言葉の力を切望することになるんじゃないかなと考えてしまいます。もちろん、舞台少女なので常に変化するものだとは思いますが(それにしても、あれだけの失礼な感情を向けられてなお普通にばななと接することができる純那、あまりに心が広すぎるのでは?)。

・真矢とクロディーヌ

上位存在同士のバトルで、美しいという言葉以外にないのが面白いところですよね。真矢の「何にでも演じることができる器=本当の自分がない」という構造は、某スクールアイドルの演技をする個人回でも見たのですが(→)、スクールアイドルでは「ない自分」を肯定するかたちで話が進んだ一方で、スタァライトではさらに推し進めて「そんなわけないでしょ、いるから本当の自分。私には見えているから」と指摘していたのが良かったですね。ない自分などなくて、演技をする以上必ず核となる自己は存在している。これには、クロディーヌがずっと追いかけていたものは何なのかという問題が付き纏ってくるので、クロディーヌが真矢を追い越える存在としての自己を保つための苦し紛れの弁明というふうにも読み取ることができるのですが、真矢がその指摘によって本当の自分を器のなかから零してしまう点からも、やはりクロディーヌには真矢の本質(魂)が見えていたのでしょう。鏡をモチーフにして、自分しか見ていなかった真矢がその鏡を割られることで否応なくクロディーヌを目にせねばならない、しかも額縁もついていて尚更美しく見えるという圧倒的な映像の情報量には感服する他ありません。

また、魂を求める悪魔を「魂はない」という詭弁で出し抜いた真矢」、その魂の欠落をあると指摘して舞台のルールを転覆して真矢を出し抜くクロディーヌ……というように、いたちごっこの如く互いを出し抜けたのが今回の見所でしょう。つまり、これまで真矢に出し抜かれてばかりだったクロディーヌが(TVアニメでの「フランス語喋れたんかい!」がまさにそれ)、ようやく真矢を出し抜けるようになったところに成長が描かれているのです。

本当は舞台そのもののテーマについてももっと詳しく述べたいのですが、モチーフ(らしい)であるゲーテの「ファウスト」を自分は恥ずかしながら知らないので、下手なことを言う前に真矢クロについては筆を置こうと思います。

・華恋とひかり

これについて本当に語りたかった。

かれひかの関係性が最初から明らかになった点がとても良かったですね。

ごきげんよう」と特別な挨拶をするひかりと、返せない華恋。快活に遊ぶひかりと、引っ込み思案な華恋。ここで既に二人の違いが描かれています。つまり、特別な存在であることを「演じよう」としているひかりと、演じなくても特別である華恋が出会ってしまったのです。

カスタネットを叩くシーンは象徴的で、正反対であり、人とも溶け込めなかった華恋の「独特のリズム」を、特別でありたかったひかりが奪います。そういう野生の本能に基づいた「奪い合い」がかれひかの根本にあることを、続くお弁当の奪い合いが補足しています。華恋がようやくキラミラを通してできた友達も、ひかりは自分の趣味の世界に誘うことで、華恋の人間関係の全てを奪うところも注目したいところ。つまり、かれひかの出会いは「奪い合い(正確にはひかりから華恋への強奪行為)」から始まったにも関わらず、華恋は奪い合うレヴューを忌避しているところに歪さがあるのです。華恋の頭に最初から「奪い合い」の概念はありません。野生的ではない華恋は、ひかりからの強奪を「奪われた」とは考えておらず、自分もひかりのものを奪うことで、結果的には「互いに差し出した」のだと考えているのです。この見かけ上の「交換」こそが運命だと華恋は信じているのでしょう。

一方で、ひかりは小さいのに舞台が好きだという特異性に酔いながらも、みんなと違う華恋に出会った頃から憧れ・敵対心を持っており、ずっと華恋の特別を自分のものにしたいと考えていたのです。自分が華恋よりも優位に立ちたいというひかりの感情は、漫画スタァライトオーバーチュアでも描かれていたはずです。ひかりは華恋と二人きりの同じ舞台で勝負をしたくて、だから華恋を自分の舞台に引き摺り込んだのでしょう(手紙では華恋ちゃんと書いていますが、その手紙を渡した瞬間にひかりは華恋を呼び捨てにする。これは華恋をライバルだとみなした合図だと考えて良いはず)。けれども、ひかりにとって舞台は自分を着飾るためのファッションでしかなかったわけで、本気ではなかったはずです。しかし、華恋はそれを真に受けます。対抗するかたちでひかりも舞台に立ち、互いに舞台に上がった二人は、互いに舞台以外の関係全てを燃やし尽くすことで舞台少女として生きることになるのです。

アニメでも、この奪い合いの順序が貫かれています。アニメ10話の終わりにひかりに肩掛け(キラめき)を奪われてから、最終話で華恋はひかりのキラめきを奪います。二人は奪い合うしかないのです。しかし、この奪い合いが見事に隠蔽されていたのが二人の髪飾りで、野生から遠く離れた約束のもとで、お互いの運命の舞台へのチケットとして渡し合うことで、仮初めにも「奪い合い」を「交換」だと(互いに)信じることができる。この人間の醜さを美しさで覆い隠す盲信こそが華恋の強みであり、アニメ最終話でのスタァライトをリライトする源泉でもあり、ゆえにその隠蔽の露見は、華恋がもっとも恐れている部分でもあるのです。ひかりは華恋の普通の人生をすべて奪いましたが、華恋はひかりの普通の人生をすべて奪えているのか、という疑心に苛まれます。そうでなくては、二人の約束は交換ではなく強奪になる。人間の醜い部分に触れることになる。華恋が自分ルールを作ってまでひかりのことを知りたくなかったのは、ひかりとの約束が反故にされているのではないかという恐れは勿論、自分自身の醜さとも向き合わなければならないからでもあると思うのです。

よって華恋が運命の舞台を手にし、次の願いを抱く時に想像したものには、何一つ野生でないものはあり得ないのです。華恋が「交換」を願う時には、ひかりから奪われないといけない。しかしひかりは敢えて華恋を突き放し、むしろ華恋から「奪われる」ように誘い込む。ここはめっちゃ簡単に言うと、「昔からずっと私から誘ってばっかりなんだけどさ、たまには華恋ちゃんから誘ってよ」ということになります。自分からも奪わないとダメなんです。観客の目がある以上、舞台少女はトマトを食べて初めて自らの飢えと渇きに気付きます。ふたりにおいては、自分たちの行っていたことが「交換」ではなく「強奪」だったと自覚せよ、ということになるのです。しかし、華恋はひかりがあまりに大切で、ひかりから何かを奪うことなんて絶対にできませんでした。自分の醜さを受け入れることができなかったと言っても良いでしょう。結果として華恋は野生になれず、舞台を降りるしかなかったのです。

なので、その解決策としてひかりが考えたのが、華恋とひかりの奪い合いをリセットする試みです。「ひかりが奪い、華恋が奪い返す」。この前提を覆すために、まっさらな舞台少女としての華恋(このあたりは、ラストシーンの無傷なのに服だけが破けている華恋の状態とも一致します)を再生産するために、ひかりはスタァライトのフライヤーを折った手紙を燃やし、それによって生まれたすべての思い出(強奪ではなく、交換だと信じていた幻想)も燃やし尽くす。かつて二人が普通の人生を燃やしたように退路を断たせることで(強制的に電車に乗せることで)、華恋は初めて「奪い合う野生の舞台少女」として生まれることになったのです。

華恋の最後の「私もひかりに負けたくない」は、かつてひかりが華恋をそう呼んだように、ひかりを運命の相手ではなくライバルとして認識した瞬間に他なりません。ここでようやく、運命という幻想で無理矢理ひとつになっていた二人が分離し、華恋はひかりを一個人として、「強奪」の対象として見ることができるようになったわけです。ひかりとのキラめきの共有から、奪い合いへ。自分が持つ醜さから、目を逸らさずに直視することで、華恋はようやくひかりに向き合うことが出来たのでしょう。

 

わかりますか? ここからが二人のスタートなんです。ここからようやく、本当のかれひかの関係が築かれていくんです。

あまりに良すぎるだろ……。

 

【210702追記】

ふと思い出したのですが、上部が溶けていた東京タワーについて全く触れていなかったので追記します。自分のなかでは、あれは幼少期の思い出への疑いの目だと思っています。例えば幼い子が東京タワーを見上げてもてっぺんまで見えない(全体像ではなく一部しか見えない)ように、幼少期の彼女たちは自分たちがしていることが運命の交換(一部)であり、奪い合い(全体像)であるとは気づいていない。または、自分たちが行っているのが約束(その象徴が東京タワー)であると思い込んでいるのに、その先端は空に溶け込んでいて、本当に彼女たちが東京タワーのもとで約束できていたのか怪しい、実は約束ではなかったのでは、という視点が投げかけられているのだと思います。追記終わり。

 

舞台少女の卒業とメタフィクション

最後に触れるのがこの箇所です。かれひかが最後に相対し、こちらに向かって語りかけるシーン。観客の存在を初めて認知し、華恋が自分も舞台少女であること(醜い存在であること、舞台の上、あるいは「飢え」に立っていること)に気付きますが、あれはこちらの観客の存在を認知し、自らがひとつの「役」であることを理解した瞬間だと言ってもいいでしょう。ようするに、「自分では舞台に上っている」という認識がなくとも(あるいは上るべき舞台がない状態でも)華恋は舞台に上らされるのです。観客がいるとはそういうことに他なりません。

今回の作品では、多くの舞台少女がこの構造に(観られることで舞台少女となる。少なくとも映像化されている本作の1:59:59のなかのどのシーンでも彼女たちは舞台に上っている)気付きました。そして、誰もがそれを逆手に取るように、規定の路線から逸れるような行動を取っているように思います。既に少しだけ触れましたが、これまで表現されなかった血が出る(ように見える)レヴュー、肩掛けが落ちても終わらないレヴュー、新たな変身バンク、完成されない舞台脚本。これまで負けていた少女たち(双葉、まひる、純那、クロディーヌ)の勝利だって決定的な要素です。

いずれの要素についても、これまでの「少女☆歌劇レヴュースタァライト」からズレることで、徐々に別の作品になりつつある、というように言ってもいいんじゃないかと思います。この作品は星翔の九九組の卒業公演であり、未来に新たな劇団に属するまでの間隙に存在するものだという認識です。作品を俯瞰し、少しずつ作品の殻を破っていくことで新たな舞台少女になる。

九九組はみな、最後に肩掛けを外しましたが、それはアニメ「少女☆歌劇レヴュースタァライト」という舞台から降りることを意味します。彼女たちはこの作品から離れ、別の舞台に上ることになるのです。

ただ、華恋とひかりはまた少しだけ様子が違っていて、これまで付けていた髪飾り(運命の舞台へのチケット)を頭から鞄に付け直しています。これは九九組の肩掛けとはまた違った意味合いで、恐らく身体から離れた場所に(しかし自分の所有物の範囲に)置くことで、かれひかは適当なお互いの距離を見つけたと言っていいんじゃないでしょうか。自分たちが「スタァライト」という運命のなかで完全に同一個体である、ということを信じていた二人が、互いに一個体であることを認め、ライバルとして(あるいは何らかの感情の対象として)向き合うようになる。ここにかれひかの成長が描かれているように思います。

 

 

まとめ

かれひかは神だし、劇場版スタァライトはめっちゃ神。

何度でも観に行こう。自分の住む県ではやっていないけれど。

以上。何か矛盾とか考察として粗いところがあれば言ってください。