新薬史観

地雷カプお断り

ジャン-ポール・サルトル『嘔吐』鈴木道彦訳 読んだ!

超有名な古典でありながら全く触れていなかったので、いまさらながら読みました。

 

序盤は面白く、中盤は死ぬほどつまらなく、後半になってまた面白くなってくるので中盤さえ乗り越えたらなんとかなるかも。ということで中盤まではクソ本だと思ってましたが、最後まで読むとなかなかに傑作だと思えてきたので感想と考察を並べていきます(考察が必要なタイプの本なので、ぼーっと読んでいると本当に読んだだけになると思う。少なくとも自分はそう)。

 

本書の目的

「自分の存在をどのように正当化できるか」

上を満たすための思索が本書の内容。

 

それぞれにまつわる表現

【ロカンタンの思想】

・魂の交わりは堕落、金利生活者のように金がある、労働はしない、大切な親族もおらず孤独。若さもない(本当は若いがもう若くないと思い込んでいる)

・恋愛によって存在の途方もない不条理性を隠すためにべつなものを見出す必要がある。自分は特別な存在だと思い込むがそうではなく、誰もが存在していて特別ではない。存在する理由もない。

・どこにも存在しないが、自分に相応しい場所に行きたい

・自分はヒューマニストではないだけで、アンチ・ヒューマニストではない。他者と溶かされたくない。独学者は人間ではなく人間の青春と男女愛と人間の声を愛しているのであり、しかもそれらは存在しない。

・自分たちは存在意義がなく、余計だという点で周囲のものと共通している唯一の関係が持てる。

・全ては不条理性に帰着する。狂人の演説は不条理だが、狂人の思考からは不条理でない。

・ロカンタンはメートル原器のようなもの(アニー談)

・死に近い自由、人は常に負け続ける。

・過去を想像できないが、生涯は見える。←?

・自然が服従しているのは怠惰さからであり、自然に法則などはない。

→簡潔に言えば、あらゆる存在価値のないものが存在している「偶然性(不条理性)」が許せず(理解できず)苦しんでいる。すべての存在は余計である。

→なんとか自分の(余計な)存在を消せないものか考える。

→最終的に自分の存在を消すのではなく、自分の存在を正当化する道もあるのではないかと、自分(サルトル)ではない人間(ロカンタン)の日記を書くことを思いつく。

 

【アニー】

・時々によって救わなければならないものがある。想像以上に挿絵のような特権的状況があるのかもしれない。何よりも必要なのは憎しみや愛で、人が夢中になったり情熱にかられること。また出来事の外面、人の目に見える物が偉大である必要もあった。

・状況は素材で、完璧に処理されることを望んでいる。芸術ではなく義務。道徳の問題

→ロカンタンが存在の不条理性に吐き気を覚えるように、アニーは状況の特権性に吐き気のような「完璧さを与える義務」を覚えていた。

→後にあらゆるものに特権性を認め、若くなくなる。

 

【ロルボン】

・ロカンタンはロルボンとグルになって全員を騙したいが、自分にだけは嘘をついてほしくなかった。

・何もものを持たず、過去も持たない。歴史に価値はなく、嘘ばかりつくロルボン氏にこそ価値がある。過去を捕まえることは不可能(ロルボンの死)で、現在しかない。物は外見通りで、その後ろに本質というものはない。

・ロルボンがあるために私(存在、原料)がいて、私が在ることを感じないため(ロルボンが演じるため)にロルボンがいた。

→歴史上の人物(過去の人間)のロルボンに自分の存在を仮託することで、ロカンタンは自分自身の存在を忘れようとした。あくまで道具に過ぎない。

→かつて存在していたという実在の歴史を持つ時点で、ロルボンは非存在のモデルとして不適当(※やや読解が怪しい)。

 

【独学者(ヒューマニスト)】

・「人間がいるから」存在する。

・捕虜時代に神ではなく人を信じることにした。

・人間と一体化することに快感を覚え、離れると何をしたら良いか分からなくなる。

社会主義者。人間誰もが友人である。他者の存在そのものが人生の目的になる。

ヒューマニストは人間の全ての態度を取り上げてとかしてしまう。(ヒューマニストにもたくさんの区分があるのに独学者は無視する)

→自己の存在をひどく不安に思う点ではロカンタンと共通しているが、ヒューマニストはそれを安定させようと「偶然に過ぎない」他人の存在を根拠に自らの存在を正当化しようとする。その論理性の欠如から二人は全く相容れない存在である。

 

【冒険】

・見ていない未来の瞬間を目の当たりにしているように感じる。

・出来事ではなく、瞬間のつながりのなかに冒険があり、それらは消滅していく。

→ロカンタンは得ることができず、独学者が求めているもの。要するに瞬間にしか過ぎない(この一瞬ごとに消え去る)未来を信じているかどうかという「若さ」の指標。未来(冒険)を信じることができないため、ロカンタンは自らを老いていると感じる。

 

【吐き気】

・物が堅牢さを失って吐き出す霧。

・小石が存在していると感じ吐き気。物が手の中で存在し始めて吐き気。他のものと同じように、私と世界も存在していることへの吐き気。 

・吐き気は私自身。

存在価値のないものが存在している「偶然性(不条理性)」に気が付いたときにロカンタンが覚える感情。存在価値のないものは、周囲のものだけでなくロカンタン自身も告発するために、矛盾する自己の存在に吐き気を覚えるものだと考えられる。

 

【音楽/本】

・音楽だけが自分自身の死を内的必然性として誇らしげに抱えている。

・が、音楽は存在ではない。全ての存在は理由なく生まれ、弱さによって生き延び、出合いによって死ぬからである。

・円や音楽の調べは純粋で厳格な線を維持している。存在は撓み(たわみ)である。その中に猥褻、滑稽な様相(存在)がある。

・話は実は結末から始まっている。始まりから結末によって全てが収束していくから、主人公だから。

・本は誰かのために書くものだ。

・由来が説明できる物は存在せず、できないものは存在する。

・ひとつの現在から別の現在へ変わる中で、メロディは普遍で、レコードに傷があっても影響を受けない。

→音楽や本は、存在を決定する枠組みのようなものであり、①最初から結末ありきで②他者のために作られる(由来が説明できる)という2点において、あらゆる偶然性を帯びている存在と異なり普遍的で存在意義がある。この枠組みのなかを満たすものこそが、人々が心惹かれる豊かさ(余計な存在)である。

 

【存在】

・「あれがカモメである」というより「存在するカモメ」である。存在はあらゆる物、私たち。

・厳密さが欲しい。

・本当の発端は突然に出現し、倦怠に終止符を打ち、持続を安定させるもの。明確な始まりが欲しい、終わりたいから。

・冒険は死ぬことで意味を持つ。

・座席の作られた経緯から、それを座席と名付けようとするが拒む。外見だけから全く別の死んだ驢馬の腹へと解釈する。その時座席は座席でなくなり、物は名前から解放される。私たちを囲むのは物でしかない。

・存在とは外から物につけ加わった空虚な形式にすぎず、物の性質を何一つ変える物ではない。ヴェールである。

・多様性や個別性も同じヴェールであり、仮象。互いに帰属し合うものでもない。残るのは猥褻な裸形の塊。

・存在者には過去も未来もない。

・存在の本質は偶然性。単にそこにあるということ。

・存在したいと思っているのではなく、存在をやめられないだけである。

・由来が説明できる物は存在せず、できないものは存在する。

・黒を見たのではなく、抽象的な作りごとを見た。清潔で単純化された、人間の観念。根の無気力な黒は五感からはみ出しているもの。この豊かさは過剰であるために混乱をもたらし、何物でもなくなる。

→なぜ生まれたのか分からない偶然のものが存在であり、それらは中身に一切の影響を与えないヴェールのように非存在(本質)を覆い、多様性を生み出す。この多様性こそが人が「豊か」だと感じるもの。生まれた理由がなければ死ぬ理由もなく、ゆえに過去も未来も存在しない。

 

【非存在】

・非存在=痺れるほどの豊富さ(猥褻な〜)の間に中間はない。ここの間に存在があるなら、ヴェールが厚くなる。

・猥褻といえる部分まで存在することになる。ダイヤモンドのような小さな苦しみ(余計なもの、つまり存在を何一つ持っていない)。

・音楽の向こうにある。

・純粋で硬質なものにしたい=ダイヤモンド。

→余分なものを何一つ持っていない純粋で硬質なものが非存在(本質)である。ロカンタンが本来到達しようとした場だが、不可能であると気づいた。

 

【意識】

・明晰で不動の人のいない意識が壁の間に置かれている。フッサール現象学の、私の意識以前にある対象についての意識。

・自我は意識のなかにあるのではなく、他者の自我と同じく世界の存在者である。

・意識も苦悩も自分を忘れることだけはできない。

→文章に記すことができる(「ある」)時点で必ず存在する。不在も「ある」もの。どこかの哲学書で読んだ気がするが忘れた。

 

【作品の構造】

他者の存在を正当化することはできないが、音楽や本などの作品を通して、架空の存在において誰かの過去に光明を落とすこと(貴重なものや伝説を考える時のように)は可能ではないか。その時に初めて作者は嫌悪感なしに自分の生涯を思い出せる。

過去においてのみ自分を受け入れられる。

 →存在していない(何等かの目的のために作り出された)ロカンタンという架空のキャラクターを主人公にしたことで、主人公から歴史を除くことに成功している。つまりロカンタンがロルボンではできなかったことを、サルトルはロカンタンで行おうとしているというメタ構造になっている。しかも、結末から書かれる「本」という媒体を選択したことで、読者である我々がロカンタンと本を超えた先の「何等かの過去」に光明を落とすことが可能になる。その時に初めて作者(サルトル)は自分の生涯を思い出せ、自己の存在価値を肯定できるという非常に卓越した技術で書かれた作品だった。

 

【感想まとめ】

基本的に文章力がかなり高い。哲学要素を含みつつも、独特の描写は十分に読み物としても高級なものだと思う。エンタメとしては中盤でガチでクソになるが、最後まで読めばそれが報われるので、興味のある人は是非読んでほしい。嘔吐の解釈がこれでいいのかはわからん。もっと「意識」のあたりを掘り下げる必要はあるかも。