新薬史観

地雷カプお断り

自分にとっての「百合」って……なんや!?(Vtuber同士の百合を通して改めて考えてみる)

百合のオタクをやっていれば、「百合って……なんや!?」と思うことが稀によくあると思う。とはいえ百合の解釈は日に日に拡大され、もはや万人が納得できる「百合」を定義するのは不可能だと言い切ってもいいだろう。それでも人間は不可能なものを可能にしたがるものであり、かくいう自分も普段から推しカプ(最近はほのうみとまなロラ)のことしか考えていないのだが、ある時ふと賢者モードになって「そもそも百合とは?」みたいな顔つきになり、吉屋信子の『花物語』を紐解いたりする(それで特別何かが分かるわけではない)。

 

さて、今回この記事を書いたのは自分が再び賢者に転職したからに他ならず、全ての事象を理解した賢者特有の鋭くも深淵な瞳が見つめるのは「笹アン」であった。

賢者は思う。「なんでハマったんだろう」と。

そう、実はこのカプはVtuber同士の百合であり、下の記事で書いているように、自分はVtuber同士の百合に絶対にハマらない「はず」だったのだ。

negishiso.hatenablog.com

なのに、なんか知らんがハマってしまった(Vtuberは嫌いなはずなのに!)。まったく恐ろしいものである。自分の感情を自分が制御できないというのはかくも恐ろしいものなのか。聞けば成長期の女性は、自分の身体が無性別から女に変わる時にひどく困惑する(ことがある)というが、自分も似たような困惑を抱いているのかもしれない。これは適当を書いているので後で怒られたら削除します。

 

さて、自分が笹アンにハマったキッカケはこうである。

投稿に(全てを間違っている)とあるが、Vtuberに詳しくない人にも説明すると、自分が探していたのはリゼとアンジュのカプ、つまり「リゼアン」であり、そのふたりはどちらもホロライブではなくにじさんじという事務所に所属している。つまり何もかも間違えている訳なのだが、それくらいの解像度で「そういえば昔、りずあん(注:リゼアン)とかいうホロライブ(注:にじさんじ)の百合カプがあった気がするな……」と思いYoutubeで検索してみたのが全ての始まりだった。

で、前記事を読んだ知り合いから

「Vへの入り方が雑」

「選んでいる動画のチョイスが悪すぎる」

「もっと最初は切り抜きから観ていくべき」

というアドバイスを頂いたのを覚えていたので、「りずあん(注:リゼアン)の切り抜きを観るか!」と検索してみたものの全くリゼアンの動画がヒットせず(それはそう)、「なんぞ?」と思い検索キーワードを何度も変えながら漁り続けたところ、いつのまにか上の動画にたどり着いていたわけだ。

この動画を見ていると、まず背景知識ゼロなので「そもそも笹木って誰?」という感想を抱くわけだが、ぼんやり眺めていくうちに「ふーん、アンジュの恋のライバルって訳ね?」と理解する。そしてターンは笹木に変わり、あのびっくりするくらいあどけない声で「アンジュ好き」という言葉を聞くことになる。観ているこちらは背景知識が一切ないため「は?」と真顔になってしまう。いや、お前らライバルじゃないんか?

この辺りから齟齬が生まれており、アンジュの笹木への認識はライバルのままであるのに対し、笹木はライバルという認識を外し、「好きに染められてもうとる」ことになる。つまり笹木はアンジュのことをもはや敵視(?)していないわけだが、それを直接言われることもなく配信動画で知ったアンジュは困惑する。ライバルだったはずなのに、その認識が自分の知らないところで一方的に更新されていくのだ。しかもお互いに積極的に関係を築くことをしないために、対話をする機会もないまま、笹木だけがアンジュに想いを募らせる配信を垂れ流すことになる。アンジュの困惑は緊張に変わっていく。そしてある日、ついに二人だけでコラボしなければならない状況に陥るのだ。緊張の極限に追い込まれたアンジュ、その目の前に現れた笹木は、完全にこれまでの雰囲気とは違っていて……というように、関係性がリアルタイムで更新されていく面白さがある。自分はこれを観た後、「なんだこの関係性は!」と発狂してしまい、しばらくずっと「笹アン」(今度は間違えなかった)でようつべを検索することになってしまった。

この辺りの自分の感情の動きは、当時のツイートを貼ればわかりやすいと思う。Vを嫌っていた人間が涙を流しながらvtuberの百合にハマっていく貴重な産卵シーンである。

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完全に理解したと感じた時のグラフ

 

 哀れ、イラストまで描いてしまったあげく、最終的にはユネスコになってしまった。

それはともかく、ここまでわかりやすくドボンしたオタクは「何故ハマったのか?」について簡単な自己分析をする。幼馴染百合ならまだしも(それこそリゼアンの特権である!)、それを差し置いて笹アンを好きになったのは何故なのか?

 これを読んだ知り合いは、「それならば」ということで新たな沼を勧めてくれた。

「ノエフレ」と「crossick」である。

dic.pixiv.net

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さて、多くの動画リンクを貼ったが(すべて観ろという意味ではない)、これらを観て感じたのは「なんか自分の思っている百合とは違う」ということだった。確かに尊い(「てぇてぇ」とは言いたくない)と感じることはあるものの、完全に乗り切れないところがあるのだ。なんというか、「これ、俺たち視聴者が乗ってもいいわけ?」という疑いの気持ちがある。男なのに女子トイレに入るような、そもそも規律としておかしいことをしているような気になっている。

当然規律なんてものは存在しないのだが、自分のなかでこの不条理な「規律」というものを解き明かさないことには、今後、自分のなかの百合がぐらついてしまう。

そしてその「規律」は、「みらるた」との出会いでおおよその輪郭を獲得したのだ。

 

「自分のなかで、鑑賞していい百合と悪い百合があるのかもしれない……」

 

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さて、この動画は山神カルタというVtuberが、憧れの先輩でありずっと話したかった夕陽リリというVtuberと雑談配信をする……というものだが、開始50分くらいから雰囲気が一変してヤバいことになる。自分は背景知識がなかったために深手を負わずに助かったが、二人を一生懸命追っていた人たちにとってはまさに地獄のような終わりを迎える。サムネがただただ悲しい。

 

この動画を見て考えていたのは、「この配信を自分たちが観てもいいのだろうか?」という困惑だった。同じように考えている人は多くいたと思う。自分にとって、この動画は「コンテンツ」としての配信を超えた「他者との関係構築」を見せているように感じたのだ。

「他者との関係構築」をコンテンツとして配信することは、Vtuberの魅力のひとつであることに疑いはないと思う。コラボ配信で推しの新たな側面を観ることができたり、意外なところで人間関係が結ばれていたりする。そういうところに視聴者は面白さを感じる。

ただ、忘れてはいけないのは「Vtuberの中身は生身の人間である」という至極当然なことで、ガワはキャラクターでも中身が人間である以上、常にvtuberはキャラとしての関係と人間としての関係の板挟みに陥ることを強いられる。これは出演するVtuberの自覚に関わらず(配信画面のなかで本当のことしか話していないにしても)、視聴者と演者「たち」がともに作り上げる「キャラクター像」が存在する限り、決して逃れられないものだからだ。

この辺りに、自分にとってVtuber同士の関係性を、「百合」として消費できるか否かの分水嶺があるのだと思う。

改めて考えたいのが、先ほど述べた「演者『たち』」という箇所についてだ。自分はVtuber論に詳しいわけではないが、どこかで読んだ文章に「演者と視聴者」の二者によって構成されるキャラクター像という論説があった気がする(出典も思い出せないのはガバガバすぎる。草野原々とかかな?)。

ただ、自分は上の二者だけではVtuberを語るのは難しいと考えていて、そこに同僚・同期である他のVtuberの存在を無視してはならないのではないかと思いついた。というのも、演者の対話する相手が「視聴者」か「同じ存在のVtuber」かどうかで、その演者の発言の信頼度が大きく変化するように感じるからだ。

これはあくまで自分の感覚でしかないのだが、先述の通り、Vtuberという存在は常に「現実と空想」の狭間に落ち込んでいるものであり、それは画面越しに視聴者という存在がある以上、避けては通れないものである。

もちろんこれは現実の人間関係でもそうなのだが(貴方が話している自分が本当の自分とは限らない、その人の期待に応じて演じてしまうところがある)、現実との違いは「1対多」かつ「自覚的に演じる」コミュニケーションを強いられているところにある。つまりキャラクターとして自分を求めている「貴方」が多数いて分析不可能な点であることと、語尾や一人称、Vtuberとしての名前で呼ばれるということに自分から飛び込んでいるという点で、明らかに現実とは異なる「演技」という名の「空想」が多分に混じることになる。

しかしながら、これがVtuber同士の会話ともなると、更に様相は異なる。つまり、配信者がいる以上、演者は分析不可能な「貴方(キャラクター)」であることを求められて語尾や一人称を変えて演技をしなければならないとともに、コラボしているVtuberから観た「貴方」も演じなければならないのだ。ここの分析が難しいところで、人によっては現実の会話を模倣することで空想らしさが減少すると考えるかもしれないが、自分は演技が増すものだと考える。言葉選びが難しいが、同じ演技をしなければならないもの同士の結託めいたものが無意識にでも生じて、より一層「演技」をすることの強迫観念が強まるように思う。これは「一人で配信している方が、本当の自分の気持ちを吐露しやすいのではないか」「素の自分を見せてしまう『事故』率が高いのでは」という直観にも支えられている。

というわけで、自分の考えを纏めると

・コラボ配信での語りより、一人での語りのほうが現実感が増す。

というしょうもない一文に纏められる。

 

これを踏まえた上で、いよいよ百合の話に踏み込む。

ここからはTwitterでもダラダラと垂れ流したことだが、自分のなかでは「百合」とは物語に乗っかっている状態みたいなもので、(始まりと終わりがあり)現在進行で動きつつある感情を示しているものだと思う。つまり、物語に依拠せず俯瞰もできないレズビアン同士の感情(現実における、知り合いとの接し方だけで得られる情報量から構成されるもの)は百合じゃない気がしてしまうのだ。

もう少しかみ砕くと、当たり前のことだが、キャラは二次元の存在であり、自分たち三次元の存在によって自在に操られる点で操作・掌握可能なものである。一方で現実の人間を掌握できると考えるのは傲慢であり、基本的に自己と他者は対等であると考えるのが普通だろう。キャラのことを「完全に理解した」ということはできても(例えそれが見当違いだとしても)、友人Aのことを「完全に理解した」と言うのは憚られるし、現実的ではないだろう。つまり自分は、現実におけるレズビアン同士の関係もまた分析不可能なものであると考えるために、百合ではないと考えるのだ。

ここで更に話をややこしくするのが、自分独自の考え方だろう「キャラは演技をしない」という何の根拠もない直観である。自分はキャラは常に真実しか話さないものだと考えており、それは例え嘘つきなキャラでも「嘘つきである」という設定の上では真実を話していることになるからである。ここで自分の考えを支えているのが、「キャラクターは有限の設定から構成される分析可能な創造物」であるという認識だ。その一方で人間は、DNAからアミノ酸、タンパク質、組織や臓器から個体と構成され、無意識の原子から生まれるのに何故か途中で意識が芽生えるという点で分析不可能な矛盾を抱えている(ように思う。もっとも無意識な原子という前提が間違っており、原子自体も物理法則に従って動く点で意識的だということもできるが、それはそれ)。

纏めると、キャラは設定(他者との関係性含む)から分析可能であり、設定に基づく真実しか話さない(演技をしない)のに対し、人間に設定は存在しないために、演技をせざるを得ないのではないか、そして演技は真実を隠蔽する点で他者からの分析を不可能なものにするのではないか、という雑な認識をしている。

ここでようやく、Vtuberの語りの結論が活きてくる。自分は「Vtuberはコラボ配信での語りより、一人での語りのほうが現実感が増す」という風に考えていたが、その前提で考えると、自分の笹アンの入り口となった動画が「それぞれの気持ちを吐露する一人語り配信」だったのに対し、「ノエフレ」や「crossick」、「みらるた」の入り口はどれもコラボ配信だった。この入り口の違い(関係性を担保する信頼性、分析可能かどうかの直観)が、自分にとってかなりクリティカルだったような気がする。

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ここまで文字数を重ねて、Vtuberの百合を百合とするかどうか(ハマるかどうか)の自分の基準は「一人配信かコラボ配信か」でしたと書くのは非常にアホなように感じるが、事実これが一番自分が納得できる結論である。*1

なので、この記事を読んだ人のなかで、「一人語りから始まるVtuber百合」を知っている方がいらっしゃれば教えてくださると助かります。

笹アン、サイコ~!*2

*1:とはいえ、これだけで完全に自分のVtuber百合の問題が解決したわけではない。例えばみらるたの雑談配信(雑談とは言っていない)では明らかに後半から増してくる発言の真実性を無視することはできない。一方であの動画を観て自分の脳裏に浮かんだのは、「あいのり」や「テラスハウス」であり、あの空気が拒絶感を産んでいる(生々しい感情を十分受け入れる素地が自分にないかもしれない)ことと無関係ではないと思う。端的に言えばキモオタ童貞クンは現実の恋愛を理解できない/わかりやすい単純化された二次元の百合しか理解できないということになるのだが、これもまたクリティカルな気がしないでもない。そしてこれとはまた別件で、いくらVtuberだからといって、自分の大切な部分までコンテンツとして配信しなくてもいいのではないかという懸念もあり、それが百合として簡単に消費することの障害になっていることもあるのだと思う。

*2:ちなみに勘違いをされたら困るのですが、自分は「笹→アン」と「リゼ⇆アン」は両立するというスタンスでして、リゼアンの牙城を崩してまで笹アンを推し進めるつもりはさらさらないのですが、全く同じことを言っていた笹木さんが今では「リゼアンはガチ」と言うのを控え、なんとか「笹アンはガチ」にしようとしているのを観ると素直に応援したくなってくる点で厳しい状況に追い込まれています。俺は自らの手で(お前の手ではない)幼馴染みカプであるリゼアンを壊してしまうのか?それは自分の首を絞める行為では?俺はどうすればいいんだ、分からない、誰か助けてくれ。