新薬史観

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山田袋「君ありて幸福」読んだ!

山田袋先生の「君ありて幸福」を読んだ。そのまま読み流しても十分綺麗な絵を楽しめるが、考察すればさらに面白く読めるの思うので考察しようと思う。自分はそのような人間なので。

※というわけでネタバレ注意。「幼年期の終わり」についても触れるので、それが未見の人も注意してください。

 

さて、この漫画では佐久間という名の悪魔(にしか見えない人間)が現れる。佐久間は環をどんどん堕落の道に引きずり込んでいくのだが、実は佐久間は悪魔ではなくただの人間で、(オカルトだが)たまたま羽根と尻尾が生えただけだった。しかもこの羽根は生えたり抜けたりするもので、作品の後半で佐久間と入れ替わるように環が悪魔に成り代わる。つまり「悪魔」とはいかにもな名前の「佐久間」に固有の属性ではなく、誰でもなり得るものであり、なおかつ誰にでも視認できるものなのだ。

①悪魔は誰でもなり得るものであり、なおかつ誰にでも視認できるもの。

ではその「悪魔」とは何を意味しているのだろうか?

この作品では、まず初めに環は佐久間の「悪魔であること」より「赤い羽根を持っていること」に惹かれる。これは第2話で環が佐久間の名残を「羽根の赤さ」に求めて赤いゼラニウムを購入すること、行為に耽りながら「あなたの事悪魔だって信じそう…」と語ること(佐久間を悪魔だと信じてはいない)や、環の「男とこういう事するの初めてで」という悪魔という属性の否定からも考えられる。

また、悪魔と出会ったあの日から環はずっと夢を見ているような心地になっている。これは前から引きずり環の悪魔という存在の不信感に支えられながら日々を生きているという事実、誰の頼みも断らないように生きてこれたのにそれが出来なくなった非日常から構成されている夢心地である。ここで巧いと思ったのが「受け」としての悪魔で、本来であれば悪魔はその能力から人を操り統制するもののはずなのに、人間に犯されているという点で組み敷かれているようにも見えるからだ。この辺りはわざわざ原作でも引用されている『幼年期の終わり』の悪魔(オーバーロード)がまさにそうで、悪魔は人類を飼育しているように見えて、実際は人類にオーバーマインドとしての進化の余地を羨ましく思っているという逆転現象が描かれている。悪魔と人間の逆転という構図は、この漫画の本筋でも描かれているところであり、悪魔としての佐久間は悪魔の羽根と尻尾を失い、代わりに人類だったはずの環が悪魔となり佐久間の命を奪おうとするのである。

②悪魔は支配しながら支配されている重なり合った状態である(=あるいは悪魔に特権性はなく、同じ人間であるという点で①とも接続できるように感じる)。

これらの構造・描写で描かれているのは悪魔の無力さ・特権性の無さだと思うのだが、一方で無力なはずの佐久間は環を堕落の底へと突き落とすだけの誘惑の力を持つ。そしてその誘惑は環が本当に求めているものを与えるという点で、必然的に「母としての包容力」を内包する。これは序盤から佐久間が環にする「良い子良い子」という頭撫でにもその片鱗を観ることができるが、決して生まれることのないコンドームのなかで行き場のなくした環の精子を「赤ちゃん」と表現することで、「生まれることのない精子(=生まれることで母を殺した自分・生まれてはいけなかった自分・本来ならばコンドームのなかにいるべきだった自分)」という環の欠落した記憶・罪悪感が、あの佐久間の一言によって「赤ちゃん(生まれてはいけない自分から生まれている)=赤=赤のゼラニウム=赤の羽根を持った佐久間(=赤のカーネーション=母)」という連想が可能になるのだ。この環のなかの電撃のような一瞬の連想は絵だけで連なるコマとして表現されているのだが、それが佐久間と生でする行為に繋がる箇所は最高以外のどんな言葉でも表現できない。シームレスに決して生まれない子を孕ませる=男と男のセックス=生きた息子と死んだ母とのセックスというややオイディプス王を彷彿とさせる連想にはなるのだが、いずれにせよ二人の幸福だったSEXが一瞬にして強烈な「禁忌」を帯びるのが美しい。佐久間の「小さいおサカナみたい か~わい~」という無邪気な台詞から一気に読者の感情の持って行く表現が実現されているところに、この漫画の素晴らしさがあると思う。

(ちなみに、ここでは悪魔は母親と接続する、とは考えない。佐久間を母親だと認識したのは佐久間特有の優しさ・言葉選びによるものであり、悪魔であることが環の罪悪感を引き出したわけではないと思う。)

さて、続いてカラスについても考えたい。第3話の冒頭では不幸の象徴とされるカラスが二人の性交の証を暴き、終わりではカラスがカーテン越しに二人の性交を眺めている(一貫してカラスに観られているわけではない)。一方で4話では佐久間はカラスと見つめ合うが、すぐに環にカーテンを閉められ目線は切られてしまう。カーテンの役割上、閉めることで部屋の採光が悪くなり二人の空間が暗くなることを考えると、二人の関係に不幸の視線が注がれないように読者を安心させるとともに、二人の関係が閉塞していくこととも予感させる点が素晴らしい。後にカラスの存在の意味は「幸福とすることもできる」と逆転(悪魔同様にである)することになるのだが、それにしても第3話の頭と終わり、第4話の冒頭はいずれもアンバランスな幸福と不幸が描かれており、二人のどうしようもないどっちつかずの関係を無意識のうちに連想させるようになっているのが見事だと思う。

また、カラスは佐久間の「お産」のシーンで赤ん坊の産声のように鳴き声を上げる。ここでもカラスの二面性について考えることで、人形のお産を「祝福」と捉えることも「死産」と捉えることもできる点で面白い。とはいえ、ここでは人形(かつての環)の誕生と同時に母親である佐久間も生きているという構造になっているため、間違いなく祝福の鳴き声でしかないと思う。その証拠に、環が口にする「生きてる」という言葉は母と子のために2回ある。

最後に、環の罪悪感の整理・二人の間のわだかまりが完全に解消された時に、佐久間が口にする「カラスの声が聞こえなくなった」というもの。これは悪魔の現象を「魔が差した」と片付けるくらいに綺麗な回収を見せる。

というのも、二人の問題が解消されて聞こえなくなる幸福の象徴のカラスは恐らく二人に真の幸福を問いかけるものであったのだろうし、これまで長々と述べてきた悪魔についての話も、幸福を見失い人生を破滅させようと魔が差したことでそうなったのだという説明と先述の①②の考えはそれほど違っていないはずだ。つまり、カラスも悪魔も人を幸せに導くためのものである点で同質のものなのだ。

そう考えると、ひとつ面白いことに気がつかないだろうか?

序盤で触れたように、悪魔の羽は赤のゼラニウムと同じ赤色だということを認識したうえで、原作のイラストを見て欲しい。これはモノクロを活かした大変うまい表現なのだが、悪魔の羽は全く「赤色」に見えないのである。しかしながら、環が「赤」というから悪魔の羽は赤なのだ。そう考えると、書き下ろしのスペシャルエピソードの最後にて佐久間がカラスと会話するシーン、あそこでは何故か佐久間は数あるカラスの中からあの日にあったカラスだと認識したうえで声を掛けている。

自分は、あのカラスは「赤いカラス」だったのではないかと解釈する。

というのも、悪魔とカラスは同質であり、なおかつ赤いゼラニウムは「君ありて幸福」を示すことからも、赤色は幸福の象徴として意識的に使われていることは間違いないだろう。もちろん、モノクロの漫画であるし、現実に赤いカラスは存在しないことからも「カラスは黒に違いない」と他の人が反論したところで、自分は何も言い返すことはできない。けれどもあの世界にいる佐久間と環には色づいた世界が見えているはずであり、その色を自分達が認識することができない以上、絶対的な断絶が読者と作中の登場人物の間にある。自分は彼らだけが見える世界を信じたいし、作者がタイトルの「君」の赤字に込めた赤色への願いを信じるだけである。

本当に傑作だと思う。感動をありがとうございました。