新薬史観

地雷カプお断り

『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』は百合

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このたび『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』をクリアした。

自分がプレイしたのはSwitch版なので、HDの方。HDが何の略称かは分からないが、きっと悪い意味ではないのだろう。

 

触りとして、購入した経緯から。

自分の『ゼルダの伝説』シリーズへの信頼感は、『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』(以下:ブレワイ)によって形作られた。その感想は下に記しているが、見返してみると想像以上にブクマが付いていて驚いた。これは間違いなくこのゲームの力が持つ力に依るものであり、数多くの人が同様の感想を抱いてくれたのではないかと想像する。

negishiso.hatenablog.com

 

スカウォのリメイク(HD)が発売された当時は、まだブレワイの余韻に浸っていた。そのノリでスカウォを購入しようと思っていたのだが、知り合いの有識者から「その感覚で行くとちょっと困惑するかもしれない」という意見を頂いた。

というのも、これまでも十分ネームバリューがあった『ゼルダの伝説』ではあるが、それを一気に大衆にまで押し広げたブレワイは、そのシリーズから見ると異端の存在に当たるからだ。

これは薄々感じていたところでもある。

プレイ済みの時オカとスカウォのみから判断するに、『ゼルダの伝説』はダンジョンを主な舞台とし、謎解きとアクションを中心に展開するゲームである。それに対し、ブレワイは大自然を主な舞台とし、その散策を中心に散策しながらも、たまの謎解きとアクションを楽しむ作りになっているのだ。

つまり、舞台が閉塞的な空間から開放的なものになっているところに転換点があり、これは作品中の空気感にも直結する。大自然の息吹を楽しみたい人の魂は、ブレワイの続編によってしか鎮魂されないのである。*1

そういうことだから、ほぼ全てのゼルダの伝説シリーズにブレワイを求めると、これじゃない感に苛まれるのである。

それを踏まえた上で、知り合いからは「是非マスターソードの始まりの物語を」と後押しを受けた。スカウォをやれば作品中に出てくるマスターソードの出自を知れるという。

悩んだ。正直言ってマスターソードには興味がなかったからだ。

自分が好きになったのはブレワイの大自然であり、100年の時をかけて紡がれる勇者周りのありふれた、そして濃密な人間関係であり、プレイすることによって自己が徐々に勇者と一体化していく恐ろしさである。マスターソードは引っこ抜くのにめちゃくちゃ力(ハート)が要るただの強い剣だった。強い剣の出自にそこまで乗れるかと言うとNOだ。

自分が煮え切らない態度を見せたこともあり、ゲームかつ自分の有識者でもある彼は追撃の一言を放つ。

「かなりがっつり、幼なじみの物語だよ」

購入を決めた。自分はそういう人間だから。*2

 

長くなったが、以上がスカウォの購入経緯である。

そして結論から言おう、『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』は百合だ。

彼は「幼なじみの物語」だと評したが、自分はそれよりずっと「百合」のウェイトが高いと思う。マスターソードの出自も大事だが、それより大事なものがここにある。

 

というわけでネタバレを極力回避しながらも、本ゲームの感想に入りたい。

個人的に感動した点は、キャラクターが自身の運命を受け入れる姿勢についてである。たとえば、現実ではいまの人類に「運命」を見ることはできない。可視化されればまだいいが、不定形のくせに「お前は一生何者にもなれないし、孤独死する運命だよ」と街角の占い師から将来の歩みを押しつけられれば誰でも「科学的エビデンスが欠如している」と突っぱねるだろうし、もし藤井聡太三冠の脳を多重連結した有機連結生理学コンピュータが「ピピー!あなたの人生はあと3手で詰みます」と宣告したとしても、「いや、コンピュータの言うことなんて当てに出来ん」と耳を塞ぐだろう。

要するに、おおよその人には「運命」なるものを受け入れる下地はないはずなのだ。少なくとも自分にはない。

しかし、このスカウォの物語では異なる。登場人物は、みな見えないはずの「運命」を信じ、自らの意志をそのかたちを取らないもののまえで屈服させるのだ。もちろん人の意志は生育環境にも左右されるから、空に孤立したスカイロフトという小さな島で生まれ、戦争も知らず口伝による物語や音楽が国民の精神をかたちづくっていることを考えると、スカウォのキャラクターに「物語」のかたちをとった「運命」を受け入れる下地はあると言えるかもしれない。

ただ、それが「自分の望むかたちと全く異なっていたら?」

バドとインパというキャラがいる。彼らは自らの運命を受け入れる潔さにおいて、ゼルダとリンクの比にならない決意が必要となった。

バドとはジャイアン的なポジションの悪ガキである。幼なじみとして既に出来上がっているゼルダとリンクに一方的な嫌がらせを行う、わかりやすい「嫌なヤツ」だ。

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ただ、リンクとバドの両方がゼルダの尻にひかれているものだから、大抵諍いはゼルダによって治められる。
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雰囲気からもわかる人にはわかるように、バドはゼルダのことが好きである。好きだから幼なじみという関係のリンクに腹が立つし、なにかと嫌がらせをして、是非ともゼルダにいいところを見せたいと考えている。

この日はバドにとって決定的な日で、相棒の守護鳥(ロフトバード)に乗り、その操舵(操鳥?)技術を競うコンテストである『鳥乗りの儀』が開催されることになっていた。優勝者には、今年の巫女に選ばれたゼルダお手製の賞品が渡される。絶対に勝たなければならなかった。リンクは小さい頃から神の鳥とされる赤いロフトバードが守護鳥となっており、優勝確実とされている。一方で、バドの技術も低くはないものの流石に相手が悪かった。バドの勝機は限りなく低い。そこで、リンクに対してある策略を練ることとなる――。

これは序盤も序盤の物語の一部ではあるが、このようにバドは「幼なじみ」という結ばれる(べき)「運命」に屈さずに、かわいいゼルダとお付き合いがしたいという自分の意志に基づいて積極的に行動している。それ自身は昨今褒められる行動ではあるのだが、如何せんキャラデザに悪者感があるのと、リンクに嫌がらせをするという2点においてバドは善悪の二項対立の構造に呑み込まれ、否応なく悪の側に落とし込まれてしまうのだ。

そして、物語として「幼なじみ・運命」こそが善であり絶対的であるとする空気が醸成される。

鳥乗りの儀でも、もちろんリンクが勝つ。バドが欲しかったゼルダお手製の賞品は、リンクの手へと渡される。

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それから二人は空のうえでデートをする。f:id:negishiso:20210924055544j:image

その後の展開を簡単に述べると、ゼルダがお手本のようなフラグを立てたからだろうか、二人は「運命」的なものによって道を別たれる。自分の隣にいなくなったゼルダを捜すために、リンクは旅に出る。これがプロローグの流れである。

それからは、過去の伝承や聖霊の導きに従い、自分の意志よりも過去の「誰かが決めたもの」を信じて突き進むことになる。この世界ではやはり「運命」が一定の強度を保っているのだろう。リンクはゼルダを救い出すためだけに冒険の旅に出る。ここではガノンドルフのような明確な世界的な「悪」は存在しない。ただ、ゼルダを誘拐した「謎」の存在は描かれる。この時点では、「悪」はバドのような「運命」を疎外するものだ。実際に、ストーリーでは、本来は「悪」であるはずのギラヒムは紳士的で、明確な悪意をリンクには見せない。それどころか、リンクに肉体的に接してくる点も見逃してはならないだろう。ギラヒムはちょっと悪の入ったカヲル君のような立場で、リンクの行き先を邪魔する。いや、ギラヒムのことをリンクが邪魔しているという方が正確だろう。事実、リンクの手からゼルダを逃そうとしているのはゼルダの手助けをするインパであり、リンクもギラヒムもゼルダを追っているという立場では同等ですらある。

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さらにその関係を裏付けるかのように、インパはギラヒムとリンクに同等の敵意を見せる。本来ならば善であるはずのリンクが、ゼルダを助ける力を持っていないという点で、インパからは不信感をあらわにされるのだ。よってプレイヤー目線では、自然とインパは「悪」の立場を帯びる。ゼルダを助けているにもかかわらずだ。

このように、スカウォの世界では「運命」を信じるものが善、その動きを阻害するもの(逆らおうとするもの)は悪という構造が非常に顕著に表れている。

極めつけは終盤のバドの改心だろう。あれほどまでにゼルダを想い行動していたバドは、あるイベントをきっかけに「運命」への奉仕者となってしまう。リンクとともにゼルダを助けに行くかという選択肢を突きつけられたバドは、このような台詞を口にするのだ。
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これは決して危険な旅に怖じ気づいた訳ではない。この表情にあるのは一種の諦念であり、リンクこそ「勇者」だと認めた物寂しさも認められる。

バドだけの話ではなく、インパも同様の状況となる。ゼルダをあれほど助けてもなお、リンクの持つ勇者の力には適わない。肝心なところでゼルダを助けることができるのはやはりリンクなのだ。バドもインパも、「運命」の存在を認めることになる。

こうしてリンクは悪を打ち負かすのだ。

 

と、このように捻くれた見方をすると純粋にスカウォを楽しんでいる人に怒られそうだが、自分にとってはどうしても「運命」は打ち負かすべき障害に思えて仕方なかった。もちろん、「運命」がなぜそれほどまでに強固な力を持つようになったのかはゲーム内でも説明がされ、納得せざるを得ない。誰しもゼルダを救うのはリンク以外にあり得ないと判断するだろう。

しかしながら、自分にとってはスカウォの「運命」はもはや「必然」の域ではないかと疑わざるを得ないのだ。この部分はネタバレになるので言えないが、ただの幼なじみで説明できない明確な意志がゼルダとリンクの間に流れている。このように「誰か」の意志が介入している幼なじみを、純粋に運命と認識するのに抵抗があるのだ。

つまり、自分は運命側に乗り切れなかった。バドやインパに感情移入をしすぎてしまったと言ってもいいだろう。「なぜ自分が勇者ではないのか」、そのふたりの想いが二つの三角形の礎となり、その上に立つのがリンクの三角である。全体でトライフォースを形作るこの関係は、感動的というにはあまりに悲しい。

そうして見ると、やはりバドとゼルダ、そして何よりインパとゼルダの関係こそがこの物語の肝であると思えてならない。インパのゼルダへの思いは特筆すべきものがある。それを語ることはできないのだが(悔しい!)、バドよりももう一歩ゼルダに近づき、関係性を深めているからこそ、諦念を越えた悔しさがきっとあるはずで、それを胸に抱いたままゼルダと寝食をともにした日々には、百合以外の何が詰まっていようか。

 

結論

ゼルダの伝説 スカイウォードソード』は百合である。

実際にプレイして「全然百合じゃないんだけど!?」とキレられても責任はとれませんが、女性同士が結ばれなくても百合であると認識できる人は、プレイする価値がある百合ゲーだと思います(ちなみにゼルダの伝説としても普通に面白いです)。

 

哀しそうなテリーの乳首も見れます。

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終わり

 

www.nintendo.co.jp

*1:未プレイではあるが、もしかしたらトゥーンリンクでおなじみの「風のタクト」は後者に該当するかもしれない。船に乗るイメージがあるので、海で物語が展開するのであればということだが

*2:自分の弱点は幼なじみ百合であるが、幼なじみもアリ寄りのアリである。とはいえ本音では「リンクが女の子なら良かったのにな~」と思っていたし、確か口にも出していた。女の子リンクはきっとかわいいので