新薬史観

地雷カプお断り

たまには日記を書きます

たまには日記を書く。

朝五時に起きてすぐに散歩をして日光からビタミンDを産生した。自分は日光を浴びているとき、つねに身体からビタミンDを産生しているイメージに浸る。ビタミンDはカルシウムの吸収を助けるので今からフレイル対策に興じているのだ。ついでに飼っている戌も散歩に連れて行く。いつもの散歩ルートはたまに近所の人が夫婦げんかでもしているのか、バリバリに割れた陶器の破片が散らばっており戌を連れて歩くのは危険だ。そのときだけ私は肉体派の弟、戌は頭脳派の兄のような気持ちになって、私は戌を肩に乗せて陶器の道を乗り越える。靴を履いたままでもジャリジャリ音がするので乗せて良かったと思う。戌もハァハァ興奮して、道に降ろすと私をその場で待ってくれる。優しい戌だと思う。

散歩を終えてからデンシア(1日に必要なビタミンD摂取量と推奨摂取量の半分のカルシウムを含むヨーグルト)とホエイプロテインを飲んで映画を見る。濱口竜介の「寝ても覚めても」だ。これはU-NEXTに入っている映画のなかでもかなり低く評価されている作品で、ネットで検索しても散々な数値が付けられている。ここまで酷いのは映画「新聞記者」以来じゃないかと思うのだけれど、全然「寝ても覚めても」の方が評価が低く、辛かった。実際に見ると濱口竜介で、最後までしっかり濱口竜介だった。何も説明になっていないので説明をすると、濱口作品は私たちが視聴している時間をどこかに置き去りにするかのような力を持っていて、それは映画への没入感であったり、他人事として眺めることができない日常性だったりする。「ドライブ・マイ・カー」は正直異次元過ぎて評価不能なレベルなのだが、「寝ても覚めても」はそれに及ばずとも人間の論理的に説明できない感情を丁寧にほぐして描いてくれるし、常に私たちの「性」について自覚させるような脚本を投げかけてくるので良かった。自分には実は妹がいて、その妹はこの映画が大変嫌いらしく「クソ映画だったでしょ」と話しかけてきたのだけれど、「確かに自分はこの映画を見て不快になったし、低評価を付けたくなる気持ちはわかるけれども、それは登場人物への怒りであって作品への怒りでは無いはずなんだよね。人間の欲望はどこまでも人間に愚かにするけれど、それがあることは幸福であるとも思う。たとえば自分がとてもなりたい職業があるのだけれど、就くには倍率が高いから現実を見て全く異なる業種を選んだとする。そこでそこそこの地位を得て幸せになったとしても、突然昔からの憧れだった仕事に就けるという連絡があったら誰でも飛びつくはずだし、それに飛びつくようなものを持っていない人はそれはそれでひとつの不幸のかたちなんだよ」と説明すると「なるほど」と納得してくれてよかった。本当に納得してくれたのはわからないし、何言ってんだこいつキメ~と思われたのかもしれないけれど、濱口作品を見ると意思伝達なんて複雑なことはやっぱり自分にはできないし、こうして文章を書いている今も読んでいる人はどのように受け取り、この文章がそもそも現実として信じてくれているのかというところまで考えてしまうようになってしまうので良くない。私たちはどこかキリのいいところで適当になって有耶無耶になって互いを気軽に信頼したり裏切ったりしたほうが楽になるはずで、でもそれが出来たら苦労しないんだよなあと哀しい気持ちになる。

そんなことを考えているうちに戌の餌を動物病院にもらいに行かなくてはならなくて、情けないけれど自分は自動車の免許を持ちながらも久能整のごとく自動車の運転を恐れている部分があるので妹に車に乗せていってもらう。私は常々自動車を運転する危険性と利便性が釣り合っていないと思うのだけれど、それを理解してくれるのは久能整だけで、その整でさえ教授から「君もいつかはわかるさ」と諭されるような状況に陥っている。私はそのとき割とパニックになって、「そうか、自分は何も人間のことを分かっていないのかも知れない」と急にどうしようもなくなって、それが濱口作品への興味にも繋がっているのだけれど、「結局は生身の人間との付き合いが一番で、虚構は何ひとつそれには勝らないよ」という尤もな言い分に敗北したとき、自分のこれまでの人生の大部分は恐ろしく空虚なものになるので認めたくない。

昼にはインスタントのラーメンを食べて、生麺だからか美味しかった。それから近くの動物園に行く。昔とは違って随分人が居て、家族連れが多かった。動物たちはみな可愛くて、なかでも「マーラ」というテンジクネズミ科の動物の説明文にあった「一度カップルが成立すると生涯を共にする」という一文で濱口作品のあれこれが一気にフラッシュバックした。そして周囲にいる家族の何人が不倫をしたことがあって、何人がそのことを知らないのだろうと思った。人間も「マーラ」なら幾分関係が楽だったろうなと主つつも、それを揶揄するかのように「マーラ」とは卑猥な言葉のようにも思えるので、嫌な名前だなと思う。自分は人間を見に来たわけではないと思いながら「ウサギは寂しくても死にません」と書かれた看板を読んでいると、隣に女子高生のコスプレをした足の太いおじさんが来て、しばらくその人とウサギを見ていた。周囲にいる誰もがその女子高生おじさんを排斥せずに受容していたのだけれど、それは無関心に近い態度で、本当に正しい態度は何なんだろうと思う。自分がもし女子高生の制服を着たいおじさんだったら、それを着るのはとても勇気が要ることだし、ましてやそれで多くの人の目に曝される場にはなかなか出ることができないと思う。それができる女子高生おじさんの勇気はとてつもなく大きなものだし、そこまでして着てくるのだから本当は可愛いですねの一言だけでも言えばよかったのかも知れないが、別に自分に似合わないかもしれない服を着てきている人はいっぱい居るだろうし、その服を着る勇気を持っている人みんなにかわいいね/かっこいいねと声をかけるのは違うだろうと直観で思う。やはり何も触れずに立ち去るのが一番なんだろう。とはいえ、結果は合っているものの導出過程は誤っている気がするので気持ちが悪い。

動物園を出ると虚無を散歩させている人に出会った。それはその人の握るリードが一見何にも繋がっていないように見えたからだが、よく見るとミシシッピアカミミガメの胴体と繋がっていて、とてもよかった。自分もカメを飼って散歩したい。

近くではコーヒーの同人誌即売会みたいなイベントをやっていた。そこには綺麗な服装をした若い人たちがうじゃうじゃいて、「こんな田舎のどこに隠れていたんだよ」という素朴な感想を抱いたが、恐らくこれまでの生活圏がまったく重なっていなかったのだろう。逆にいまここで自分は初めて、自分がまったく知らない人たちの生活の一部を知れるのかも知れないと考えると、心の中の濱口竜介が「行きなさい」というので、私は「はい」と答えてコーヒーチケットを2枚購入した。買ってから自分はコーヒーをまったく飲まない人間であることを思い出した。さてどうしたものかと辺りを見渡すと、出店によっては並んでいる人数がまったく違う。人気店には数十メートルの行列が出来ている一方で、閑古鳥が鳴いている店もある。こんなところまでマジに同人イベをやんなくていいんだよと思いながらも人気のない店に並んでコーヒーを頼んだ。飲むとコーヒーの香りとコーヒーの味がした。続いて人気店にも並ぶ。飲むとさっきの店と殆ど味が同じで、これは人間が「行列に並ばされているほど愚か」なのか、あるいは違いがわからない私の舌が愚かなのかのどちらかだが、恐らく3:7で後者に責任があるだろう。コーヒーの味が本当に分からない。確かにインスタントコーヒーよりも濃厚だと感じるし、飲んだあとの舌の表面を包む油膜は興味深い。このような油膜は他の飲料では味わえないものだが、恐らくコーヒーの魅力は油膜ではなく香りだろう。それが今の私にはわからないので、分かるようになりたいなと思いながら自転車で温泉まで移動した。

途中で古本屋があって、中に入って物色し、コクトー恐るべき子供たち」と魯迅阿Q正伝狂人日記」、酒井隆史「暴力の哲学」を買った。なかでも「暴力の哲学」は非常に気になるので(これは新品だった)早めのうちに読みたいと思う。

初めて入る温泉施設だったが、これがなかなかに良い場所だった。お湯の種類も豊富だし、サウナもあるし岩盤浴もできる。おまけに漫画を読む場所もあるので、疲れた時はここに来ようと思う。湯船につかっているときは特に見るところもないので、そこらをぶらぶらしている男性の裸を意味も無く見ていたのだが、心のなかの濱口竜介が「このなかの何人が家庭でうまくいっていないと思う?」と聞いてきてびっくりした。リラックスした状態ではそのような問いは死ぬほどどうでもよく、老廃物と一緒に排水溝の中に流し込んだ。岩盤浴で無になっているとおよそ入場してから2時間ちかく経っていたので、そろそろ酒を飲みに行くかと退場することにした。温泉施設の前にあった唐揚げ屋の匂いに我慢が出来なくなり購入すると、美味しくて良かった。これは酒が進むぞとおもいながらも、いや、酒は居酒屋で飲もうと辺りをうろつく。びっくりするくらいに飲食店はなく、あってもつまらない店ばかりでガッカリする。ようやく見つけたよさげな店はボロボロで風情があり、こういうところの飯と酒は死ぬほど美味いんだとウキウキしながら入店しすぐに生を頼むと、ないと言う。「あれは2日以内に消費しないといけないから、客が来ないウチはもう生やってねえんだ」と言われ、瓶ビールが提供されることになった。びっくりするほど美味しくなかった。続いてたこ焼きを頼んだが、こちらは何故か箸で摘まむとすべての具が皿に落ちる仕様――完全な球体ではなく底がすぐに外れる――になっていたものだから、たこ焼きを頼んだはずなのにもんじゃ焼きを食べているような気分になる。そのうえ生地は半生と焼きが混ざった作りになっており、たこ焼きなのにぼそぼそしていた。こんな経験は初めてで戸惑った。それでも注文した以上は食わねばならないので、kindleで購入した和山やま「夢中さ、きみに。」を読んで精神を保ちつつたこ焼きを口にした。

最高の休日を過ごすはずが最後の最後にダメになってしまったとがっかりしたが、家に帰って虹ヶ咲の放送を見ているとテレビアニメ2期が発表された。そこにはモブっぽい栞子とミアとランジュが居て、おお、この子達をなかったことにしないんだとアニガサキスタッフの強さを垣間見た。正直厳しい道のりではあると思うが、実は原作よりも面白い話を作るのは簡単で、いくつかのことを注意するだけで良い。それは

①キャラを想うキャラの気持ちを考えること

②キャラを制作者の道具にしないこと

③その物語を誰が読むのか想像し、配慮すること。

の最低限度のラインさえ保ればなんとかなる、と私は信じている。そしてその能力は大抵のシナリオライターには備わっているので、恐らく問題がないと思う。多分。

虹ヶ咲の放送のあとは、笹木咲の桃鉄配信を見ていた。あすとろという人の一強だったが、単に笹木を含む他のプレイヤーが桃鉄を知らないだけだったので、見ていて「そうじゃないだろ!」とイライラしてきたので見るのを辞めた。ここまで来て漸く、「今日は充実していて、惨めで、何だかよくわからない日だったな」と思ったのでブログに今日のことを書くことにした。

そういうわけで、自分はこの記事のタイトルに「たまには日記を書きます」と記入する。実際に久しぶりの日記だ。書き出しに悩んだが、「たまには日記を書く。」と素直に書くことにした。

その内容は、皆さんご存じの通りである。