新薬史観

地雷カプお断り

『映画 トロピカル~ジュ!プリキュア 雪のプリンセスと奇跡の指輪!』を観てください

この記事は二部構成とする。すでに視聴した人と視聴していない人の閲覧が想定されるからだ。

まずはネタバレを含まない程度に、この映画の重要性を語らねばならない。つまり、前半はまだこの映画を観ていない人に向けた文章になる。

前半(まだ観てない人への布教宣告)

この映画を観るための前提知識

この映画はプリキュアを未視聴な人間でも観ることが出来るように設計されている。つまり、物語を楽しむにあたり必要な情報がすべて予め組み込まれているのだ。

だが、敢えてここでも記載しよう。その情報とは下記4点のみである。

①「プリキュア」という名の正義のヒーローに変身する少女たちがいる。

プリキュアとはシリーズものであり、本作のメインプリキュアのひとつ、『トロピカル~ジュ!プリキュア』のテーマは「夏」だ。

③②に属するプリキュアでもある、少女ローラは人魚で、魔法で人間の足を生やすこともできるし、元の人魚に戻ることもできる。

④ローラの祖国、人魚の国グランオーシャンは悪の手に脅かされている。

以上4点のみを頭に入れても入れなくても良くて、こんな複雑なことを覚えられないよという人は、映画館のカウンターで「プリキュア1枚」と言えばいい。それで済む話なのだ。なぜなら本作は幼児が観ることを第一に想定されたアニメ映画であり、多くの人の認知能力は幼児よりも優れているからだ。ただ映像を眺めるだけで、いつのまにか号泣している。それだけの力がこの映画には備わっている。

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トロピカル~ジュ!プリキュアのみなさんです。かわいいね

(引用元:https://2021.precure-movie.com/story.html

上映時間は短い(有り難い)

1時間11分、つまり71分である。あのポンポさんもこの短さには笑みを隠せない(それを言うならコルベット監督かもしれないが)。アニメ2~3本と考えれば、あっという間に時間は流れる。それでいてブランデーのように濃厚なのだ(この比喩は何?)。

というわけで、映画には普段から接してないけれど、サクッと正解である映画を観て何者かになりたい人には最適の映画となるし、映画を観たいけれど時間が無い人でも気軽に楽しめる。長めの映画が好きな人には物足りないかもしれないが、浮いた時間で他の映画を楽しむこともできる。上映時間が短いのは良いことだ。良いことしかない。

プリキュアを好きな人間が、あまりの短さに愕然とすること以外は。

 

どのような映画か?

端的に言って、この映画はプリキュアコラボの映画でありながら、主軸は映画オリジナルキャラクターである、雪の王国・シャンティアの王女シャロンと、人魚の国の次期女王候補、ローラの邂逅が担っている。その周辺に、ローラとまなつ、あるいはハトプリという別シリーズのつぼみとえりかという結びつきが描かれている。

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王女シャロン (公式サイトより引用 https://2021.precure-movie.com/character.html

誤解を恐れずに言えば、この映画は「カップリング」の話である。

だから(特定の)カプ厨なら嬉しいだろうし、箱推しの人にはやや物足りないかもしれない。ただ、それも幼児のために71分に纏めねばならなかった代償であると考えられる。薄くまんべんなくではなく、狭く深く掘り下げることを選んだかたちだ。それだけは先に記載しておく。

さて、話の始まりはこうだ。シャンティアという雪の国に招待されたプリキュアたち。そこで彼女たちは、シャロンという少女が、王女に就任する戴冠式に出席することになる。しかし、そこであるトラブルが発生し――という流れ。

テーマとして打ち出されるのは、トロプリが体現する「夏」とシャンティアの国が囲まれている「冬」の対峙であり、既に王女として君臨するシャロンと、次期女王候補のローラとの邂逅である。

前者は相反するものとして、後者は交わるものとして描かれ、そのどちらにも属するローラの葛藤が描かれるのがこの映画の特徴だ。

また、この映画は「歌」も大事な要素である。

シャロンとローラには、王女/女王候補であること以前に、素晴らしい「歌声」を持つという共通点があった。

ふたりは歌い、互いが女王であることを忘れ、女王であることを認めていく。そしてこの「歌」こそが、先述の「夏」と「冬」を溶かし合う力を持っている。

みながその歌を口にするとき、あなたは恐らく涙している。

 

え?シャロンの声が聞きたいの?仕方ないなあ

今、ふと「シャロンの声が聞きて~」と思った方に朗報です。

シャロンの声を演じている松本まりかさんのアフレコ映像が公開されているので、こちらをご覧ください。ちなみに自分としては、アフレコの台詞が思いっきりネタバレだと思うので視聴を推奨しないのですが、公式が出しているからにはOKなのでしょう、多分……。

youtu.be

松本まりかさんの表面は冷たいようで中身が温かい声、とてもいいですよね。シャロンみたい。

 

というわけで観てください

ネタバレをせずに自分から言えることはこれくらいです。

で、まさかこの文章を読んでそのまま帰るつもりではありませんよね?

なりません。映画のチケットを買わずに帰ることはなりません。

下記リンクの劇場情報から近隣の映画館を探すのです。

toei-screeninginfo.azurewebsites.net

 

前半は以上。

未視聴者は越えられない壁(以降ネタバレ注意)

 

後半(もう観た人への感情共有)

しっかり宣伝をした後は、自分の語りたいことを語ります。ようやくですよ本当。なんでこんなことを書いているんだろうと我に返りながらも、少しでも売り上げに貢献したいと考えるのがオタクなので、まああるあるでしょう。オタクは宣伝せずにいられない。

 

前書き

まあ前半であれだけ書いたシャロンは死んでるんですけれど、というところから話は始まるのですが、正直序盤から感じているところはあったというか、国民が誰もいないぞと誰かが不穏なことを言い出してから、「うわ~これもうこの国は滅んでいてシャロンは亡霊とかいう激重エピソード来たら俺好みすぎてウケるな笑」と思っていて、実際にそうだったので吐きました。子供に見せる映画ではないと思いながらも、自分は子供ではなく大人で(認めたくないけれど)、実際に観て感動しているので、大人としてこの映画を全人類に勧めたいと思う。それはネタバレなので書けなかったけれど。

 

ギャグがいいよね、という話

これはトロプリのTVシリーズを通して言えることなんですけれど、ギャグセンスが本当に卓越している。言語を喋らないふわふわした妖精ホルンが、相手の意見の相槌に「そうです」と自らを文字にする発想は異次元すぎる。自分なら「○」をさせていた。「そうです」にはならないだろう。

アスカ先輩も雪ではしゃいで震えるまなつ(かわいい)を観て「寒いって分かるか?」というえげつないツッコミを入れるし、本当にヤバすぎる。人間に入れることが出来るツッコミではない。

くるるんの扱いも抜群で、スタッフインタビューの記事で「くるるんには何もさせずに、ただ画面の端で寝ているだけの癒やしキャラにさせるようにしています」という文章を読んで以来、本当にくるるんが愛おしくて堪らないのだけれど、そのくるるんが頑張って労働をしている時点でもう無理になっちゃった。

 

本題:テーマについて雑に語りたい

いよいよ本題。

本作は「夏」と「冬」が対峙していることは言うまでも無いが、それがシャンティアの国が死者の国であることが分かって以来、テーマは「生」と「死」に転換される。トロピカル~ジュ!プリキュアは「自分が一番やりたいことをする」をテーマとしているが、シャンティアの人々はシャロン始め「自分のしたいことを何もできない」状況に置かれているのだ。それはシャンティアの国の効力にも表されていて、生者が望むものは「何でも手に入る」ということは、「何も手に入らない」ということと同義である。本当に何でも手に入る力があるのであれば、あの国にはシャロンが何より求めていた両親や国民も手に入れることが出来るはずであり、それが不可能だった時点で、すべては幻であることの自白となる。

何も手に入らないシャロン、「自分が一番やりたい女王」ができない彼女に対し、生きているというだけで「何でもできる」ローラやまなつがどのように寄り添えるのか、という難問が提示されるのだ。こんなの幼児に理解できないと思うが、幼児もなんとなく察知はしたはずだ。

このシャロンは、トロプリの声が最も届かない相手であると。

そして、これは恐らく後回しの魔女とも通じるはずだろう。後回しをしすぎたあまり、「今しかできないこと」を失った魔女は、永遠に過去の後悔を引きずっている。そして、魔女がしたかったことはもう二度と出来ないのだ。そういう点において、後回しの魔女はまなつの言葉が最も響かない相手だと、自分は妄想している。

ともかく、この映画のキャラがシャロンとトロプリだけであればきっと膠着したまま動けなかった。シャロンは永遠に手に入らないものを求めているし、それをトロプリは提供することができない。だからといって、シャロンに送る慰めの言葉なんて思いつかないのだ。なぜなら、これまでは全部「やりたいことをする」励ましの言葉を贈ることしかしてこなかったからである。この膠着状態は劇中の何度も復活する敵キャラが体現していたが、ここにハトプリが現れることで、新たな概念が挿入される。

つまり、「心の花」という概念である。これを手がかりにプリキュアシャロンにも慰める方法があるのだと知る。一方で、それに呼びかけることが出来るのは女王として通じ合ったローラだけと来ている。こんなうまい脚本があるか?あるんだよな目の前に。

さて、ローラはこれまで女王候補として仲間と触れ合っていたが、実際に誰よりも国のことを思う気持ちが強い。そこには自意識も多分に含まれてはいるものの、ローラは女王の役割がなんたるかを、序盤でシャロンに示した礼儀作法のように理解しているのだ。

その彼女にとってシャロンは、自分が目指すべき「真の女王」でもあった。なぜなら、国民も両親も国も失ってもなお、たったひとりでその国を再建しようとしているからだ。それでいて、シャロンはローラのことを始めて「女王」として認めてくれた人間でもあった。女王候補だと揶揄うトロピカル部のみんなと違って、現女王とも違って、まなつとも違って、である。ローラにとって、シャロンはまなつに負けないくらい大切な相手になっているはずだった。

その彼女が仲間の攻撃を無碍にしてまで「シャロン」を庇うという行為は、到底プリキュアとして考えられないものである。しかし、まなつはそれを許容する。「それが一番ローラのしたかったことなんでしょう」という問いかけは、ローラを完全に肯定してあげる優しさをもっているとともに、「何をしてもまなつはローラを責めない」という恐ろしいまでの冷え込んだ感情も感じさせる。ここは自分が感動しつつもゾッとしたところだ。というのも、まなつはどこまでも人間の持つ「衝動」に寛容だけれど、恐らくその姿勢が「自分の一番したいことをする」パワーを産んでいるからである。自分がそうだから、他人の衝動にも優しくなれるのだ。

そう考えると、もし「自分の一番したいこと(=ローラと一緒にいたい)」と「ローラの一番したいこと(=女王になって国を助けたい)」が衝突した場合、まなつはローラの一番したいことを優先して、自分の気持ちを引っ込めてしまうのではないだろうか。その時に始めて、まなつは自分の「衝動」に制限を掛けてしまうのではないか、「今一番やりたいことをする」よりも大切なものに気がついたとき、まなつをまなつたらしめている「衝動」はなりを潜めるのではないかと気が気でないのだ。

おそらく、まほプリのみらいがリコと離れてからモフルンと一緒に過ごしたように、ひかるがララと別れてから宇宙飛行士を一心に目指したように、不在はなんらかのかたちで自然と埋め合わされるものである。ただ、不在の穴を埋めるものは、かつてあったものと全く違う素材から構成されている。その人自身を決定的に変えてしまうのだ。

自分は、その決定的に変わったまなつを、ローラの「衝動」を許容したまなつの声色や表情に感じ取り、物凄い恐怖を覚えた。その表情の変化は、「大人びてしまった」と換言してもいいかもしれない。とにかく、まなつとローラの共通点である「プリキュア」から外れた、まなつの知らない「国を背負う者」としての繋がりでローラが衝動的に動いたことに対して許容する(自分の知らないローラを受け止める/知らないローラのことを知りたがらない)ということは、それだけの意味を持つことだと自分には思えてならないのである。こんなにだらだら文を並べて結局その程度の主張かと思うかもしれないが、自分はふたりの離別を予感させる、非常に重要な場面だと思った。

その後のローラとまなつ、シャロンが対峙するシーンは最高で、まなつとローラとの間に漂う微かな離別の気配に心が揺らぎながらも、シャロンの呼びかけに答えようとするローラの腕を、まなつが強く繋ぎ止めるシーンで発狂しそうになった。ここがまなつの譲れないラインだからだ。つまり、まなつとローラの結びつきである「プリキュア」までも捨てることは許さないという意志である。ここには目の前にいる救うべき人を見捨てることはできないというまなつの優しい心があり、ローラを絶対に離さないという執着心の現れもあり、ローラ自身の目覚めの良い朝のための思いやりもある。これらすべてが詰まったまなつの力強い腕に、思わず息が詰まってしまった。

で、最後はローラがシャロンを眠らせるために『シャンティア〜しあわせのくに〜』をレクイエムとして歌うわけだが、これが本当によかった。もはや何も残らないと言い張るシャロンに歌だけは残る、私が残すと約束するローラ。互いに親交を深め合った歌で指輪のやりとりを想起させ、シャロンから受け継いだ証明もして、レクイエムとしての機能も果たす。この多重性が美しい。それでいて、ラストにはアレンジを行い現代につなげる工夫すらされている。このように、時代によって姿を変えて生き残ろうとするかたちを、私たちは「生命」と呼ぶ。

そうして、死の国の途絶えた歌は、生者によって「生きた歌」として歌われ続けるのである。

 

終わりに

以上、大変長くなったし、恐らく読み飛ばした人も多いと思うがそれでもいい。自分でも感情の動くままに感想を書いたので、読み手も感情のままに目のついたところだけ読んで貰えたら良いと思う。そんな良いことは書いてないので。

何はともあれ、このように素晴らしい映画に出会えたことと制作陣に感謝を申し上げ、終わりの言葉とします。

 

追記

変身バンクがすごかったのを思い出したので、備忘録としてメモ。各キャラごとに描かれ、BGMまでキャラごとにアレンジしたものが流れるという丁寧さ。本当に良かったですよね……。