新薬史観

地雷カプお断り

エンパシーウィズウクライナ

 

この土日に某コンテンツのライブがあったのだが行けなかった。

理由は二つある。

新型コロナウイルスが猛威を振るっている地域での開催だったから

②ロシアがウクライナに侵攻したから

①は共感して貰える可能性が高いが、②はなかなか難しいのではないか。なぜなら自分でも訳が分からないからである。Twitterを眺めていても「ウクライナがこんな状況ですし……」なんて言ってライブ参加を自粛しているヤツは何処にも見当たらない。正気で言っているなら距離を置くが、自分との距離の置き方は分からない。肉体と精神は不可分だ。いくら自粛アピールで気持ちよくなりたいからって、限度というものがあるだろう。それじゃあお前はウクライナがこんな状況だから飲食を自粛するのか?彼らは満足に食事を楽しめてはいないだろう。睡眠も自粛したほうがいいかしら。現地の留学生が一睡もしていないっていうネット記事を見たものだから。外に出るのは間違いなく自粛した方が良い、コロナウイルスが蔓延しているでしょう。ほら、こんなご時勢ですし。

 

チケットは1日あたり12000円、両日で24000円にもなる。かなりの高額だ。そこそこの居酒屋を6、8軒は回れるし、背伸びをしたディナーにだって行けるだろう。手放すつもりはなかった。「このご時勢ですし」という「アド街を見た」に通じるキーワードをライブ運営に耳打ちすれば返金されるものだと思い込んでいたのだが、結局チケットの返金アナウンスはされなかった。運営は「このご時勢」に自粛する人々に対して、アフターケアも万全である。現地のチケットを持っている方であったとしても、配信は配信用のチケット(1日6000円)がありますからそちらをご購入下さいと笑顔で答えてくれる。

なら俺の購入した24000円はいったい何だ?

何を購入した?

仕方が無いのでライブ両日の配信用のチケット代金12000円をエンバシーオブウクライナに送金した。寄付はいいものだ。精神の痛みを金額によって可視化することができる。自分はこの12000円で何が買われるのかを知らないが、事実としてライブ運営にはその2倍の金額を「寄付」している。つまり数字上では、私はウクライナよりもライブ運営に2倍心を動かされたことになる。ありがとう、僕のいないライブを開いてくれて。ありがとう、ありがとう。

 

Twitterを見ないことに決めました。心が痛むからです。

TLに流れてくる楽しそうなオタクを眺めていても不快になるだけなので、ウクライナの情報をひたすら読み漁る。窒息しそうになる。それでも読まずには居られない。東日本大震災の時、似たような状況に陥った。テレビの前から動けなかった。ずっと土色の波が陸を滑っていくのを眺めていた。何度も、何度も。

寄付をしようと思ったのは自然なことで、こういう時には常にするように心がけている。ただ、戦争をしている国に金銭を送ったのは初めてかもしれない。エンバシーオブウクライナに送金しながら、ふと妄想が頭をよぎる。本当にロシアは悪者なのか。もしかしたらウクライナは高度な情報戦を繰り広げていて、私たちはウクライナを初めとする欧米諸国に踊らされているのではないだろうか。ウクライナに送る金は、すべて善良なるロシアを破壊することに使われてしまうのでは。そう考えてネットを調べて見ると、いわゆる陰謀論派が既にそのように主張していた。私の思考は先回りされていた訳だ。「一般人は騙されている。本当の悪者はウクライナだ!」

もう何が何だかわからない。

ウクライナのために自分は何をすべきで、どこまで寄り添えばいいのかが分からない。このようなクソみたいな文章で感傷に浸れば寄り添ったことになれるだろうか。私たちは寄付さえすれば「許される」のだろうか。街角のデモに参加すればいいのだろうか。デモがなければ呼びかけるべきなのか。インターネットで戦争に反対するハッシュタグを使うことは本当に意義のあることなのか。インターネットでウクライナに無関心を貫く人たちに怒りを表すべきなのか。何もしないで天井を見つめれば良いのか。

「最適解」を私は知っている。

自分の人生を楽しむことだ!

ウクライナだけに共感してもまるでキリがないことを、私たちの口は覚えている。

「アフリカの子供達がそれを見たらどう思う?」

私たちはその言葉を口にする時だけ、アフリカの子供達を思い浮かべる。少しセンチメンタルな気分になる。ちょっとは募金でもしてやろうかと思うかもしれない。次の日には、あるいは数時間後には、私たちはアフリカに子供達がいることを忘れ、自分の人生に戻ることになる。

私たちがウクライナを覚え続けているのは、その名前がテレビで流れ続けているからだ。インターネット上で誰かが呟き続けているからだ。

 

知り合いに誘われて、チェルフィッチュ『三月の5日間』を鑑賞した。その翌日にロシアはウクライナに侵攻した。2003年3月、イラク戦争が行われた時の渋谷を舞台にした作品で、そこではデモを横目にラブホテルで5日間セックスをし続ける男女が描かれている。

果たして、自分も戦争を横目にライブに参加すべきだったのだろうか。彼らのように、どこまでも他人事を貫き通して、このライブが終わる頃には戦争も終結していると楽観的に捉えるべきだったのだろうか。自分は未だに答えが分からない。

仮にコロナウイルスという存在がなかったとして、人がこれほどまでに執拗にマスクを着用していなかったとして、それでもロシアが何も滞りなくウクライナに侵攻していたとするならば、自分はライブに行ったのだろうか。

多分行くと思う。

結論として、私はこの土日を本を読んで過ごした。新型コロナウイルスを家庭や職場に持ち込むわけにはいかないし、何よりいまこのとき、ロシアがウクライナに侵攻しているからだ。ウクライナの人たちは本が読めるような状況ではないのにお気楽なものだと貴方は言うかもしれない。娯楽としての読書とライブの何が違うのか、説明するのは難しい。ただ、その線引きを決めるのはウクライナだと私は言い張る。ウクライナの人たちが決して「ここ」に侵攻してこないことを知りながら、私はウクライナに共感している。