新薬史観

地雷カプお断り

遠藤周作『沈黙』読んだ!

遠藤周作『沈黙』(1966)

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https://www.amazon.co.jp/dp/4101123152/ref=cm_sw_r_awdo_ZEW7Z13MP1E9TGTTZ03B

【総合評価】10.5点(総合12点:全体10点+百合2点)

【作品の立ち位置】

オールタイム・ベスト・コンテンツ(10<x)

ガチで大事にしたい作品(9<x)

積極的推し作品(8<x≦9)

オススメの手札に入る作品(7<x≦8)

まずまずな作品(6<x≦7)

自分からは話をしない作品(x≦6)


【世界構築】1.5点 (2点)

キリシタンが弾圧される時代のキリスト教の司祭を描くという、非常に面白い設定。なおかつ、その実在を想起させるようなディテールの描写はかなりよかった。方言の言葉遣いも大変よく、唯一の世界を築けているように思う。ただ、文章にあまりに癖がなさすぎるのが気になった。うますぎることが原因なのだと思うが、自分は癖のある方が好きだ。

 

【可読性】1点 (1点)

すらすら読める。


【構成】1.5点 (2点)

ロドリゴが棄教を迫られる展開の盛り上がりは凄まじく、遠藤周作のプロット構成力に舌を巻いた。が、ラストの書簡はいるかなとずっと悩んでいる。個人的には、ロドリゴとファレイラが奉行所からの帰りに道を違えるシーンで締めてくれれば完璧だと思った。


【台詞】2点 (2点)

非常に心に響くセリフが描かれている。

例えば以下の通り。

(なぜこんな馬鹿げたことをするのだろう。なぜ、こんな馬鹿げた)

どうかこれらすべてをガルペと私のせいにしないで下さい。それはあなたが負わねばならぬ責任だ

「さあ」フェレイラはやさしく司祭の肩に手をかけて言った。「今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ」

最後の「今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ」という言葉なんて、初めて触れた時は気が狂うような衝撃を受けた。これほどまでに甘い台詞があるのかと震えた。マジですごいと思う。

 

【主題】2.5点 (2点)

本作のテーマは「神の沈黙」だ。私は無宗教であるため、本来共感できない概念、あるいは共感するまでもない既知の概念ということになる(厳密には異なるが、いわゆる神の不在)。さて、自分はこの物語の着地点を「神の沈黙=神への不信」になるのだろうと早々にあたりをつけたのだが、それがいい意味で裏切られたのが本作だった。

かつてキリスト教徒だった井上は

切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬ

というふうにキリスト教を評価するが、最終的に心が折れたロドリゴが行き着く先は本来の教義(本当の信心を持つものは、それが行為にも現れる)から逸れ、浄土真宗の「他力本願」のような教義(信じるだけでオールOK)に変更されるというのが恐ろしい。いや、確かにキリストへの信心を損なわないため/自身の罪深さを受け止めるためには、沈黙すらも神の意志であると解釈せねばならないため、まったく妥当な修正だとは思う。しかし、以下のロドリゴの言葉を踏まえると、

我々の神もこの日本では蜘蛛の巣にひっかかった蝶とそっくりに、外形と形式だけ神らしくみせながら、既に実体のない死骸になってしまった

「信じるものは誰でも救う」という教義は神の外形に該当し、そのために貫くべき「心の強さ(信心による善行)」は神の実体ということになる。そうして考えると、宗教と神と人間との関係性はこれまで自分が考えていた神中心のものとは異なり、人間中心の思想になるように思われてならない。つまり、この構造こそ私にとっては「神の不在」に他ならないのだが、神の本質的な機能欠如にも関わらず、その空虚を中心に据える矛盾こそが宗教家の抱える問題なのだと考えた。そしてその問題は、神の沈黙によって顕在化することになる。

いずれにせよ、自分のなかで宗教という概念への(個人的な)解釈を助けてくれた非常に良い書籍だった。

 

【キャラ】1.5点 (1点) 

宗教を信じる人間の内面について、ここまで掘り下げた作品に触れることが一切なかったことからも(パゾリーニ『奇跡の丘』はかなりキリストに迫っていた気がするが、あれは宗教家の内面を掘り下げてはいないし……)、ロドリゴというキャラクターは非常に新鮮な存在だった。心情の描き方も巧みで、棄教(と言えるだろう)に至るまでの絶望が大変うまく導けている。

 

加点要素

【百合】0.5点 (2点)

百合の該当描写がないため本来は点数をつけてはいけないのだが、最後にロドリゴとファレイラが辿り着いた関係性は、互いに見てはいけないのに(奉行所に集められることを強制され)見てしまうという禁忌に近しい部分があり、そういう意味で(やや前時代の)同性愛的な空気を含んでいるように感じる。

例えば原作でも、彼らの関係性は以下のように記される。

フェレイラに対する感情は口では言いあらわせなかった。それは人間がもう一人の人間にもつあらゆる感情を含んでいた。

おたがいその醜さを憎み、軽蔑しあい、しかし離れることのできない双生児、それが自分と彼とである。

これらは棄教という屈辱を味わわされた者同士のみが分かち合える感情の共有であり、いわば同質的であるがゆえの反発性こそがたいへん美しい。確かに私はこの関係性が百合ではないことを認めなければならないが(なぜなら二人は女の子ではない!)、それでも点数をつけたくなるような魅力が二人にはあるのだ。


【総括】

多くを語りたくなる魅力に溢れた作品である。読み物としても一級品であるだけでなく、日本人が普段あまり触れることのない宗教についての考えをより深めてくれる作品であるように思う。死ぬ前に読めてよかった。マシュマロで2回くらい「マーティン・スコセッシが監督した『沈黙』も観てください」と言われているので、流石にそろそろ観ようと思います。できれば明日観ます、多分……。