黒板が鳴る。チョークの粉が舞う。
街灯の周りを飛んでまわる街
「分かるヤツはいるか」と重田先生は言った。ぼく達は黙っている。グラウンドでは十数名の生徒がドッジボールをしていて、投げられたボールを取りこぼした瞬間に体育教師の笛が鳴る。ピッという快音に耳を澄ます。ぼく達はボールが掴み投げられ人々を追いかけまわす情景を想像している。
街灯の周りを飛んでまわる街
想像してほしい、と先生は言った。
「きっと夜だ。暗い夜道を君達は歩いている。学習塾やピアノ教室や友達の家からの帰りだろう、とにかく君達は暗い夜道をよちよちと歩いている。道には等間隔に街灯が生えていて、天辺には君達の頭と同じ大きさの灯りが煌々と実っている。それは君達の
「街だ」重田先生は浅く息を吸った。
「君達の住む街なんだ」
分かるか、と先生が呼びかける。
ぼく達はみんな黙っている。
「……そうか、まだ低学年だもんな」
先生は白のチョークでルビを振っていく。
「これで読めるようになっただろ」
先生は穏やかな表情でぼく達を見渡した。チョークを楽しげにフリフリしながら、君はどう、君はわかるかな、そこの君はわかるよね、とランダムにぼく達を指していく。
ぼく達はみんな黙っている。
最初に聞こえたのは、チョークが複雑骨折する音だった。音の発生源は先生の右の拳で、先生がゆっくりと指を開いていくと、粉々になったチョークがバラバラと床に落ちていく。
「誰もいないのかよ……」
ダン!と床が揺れた。女子たちが悲鳴を上げる。重田先生の足だった。先生は砕けたチョークを徹底的に粉砕するべく、全体重をかけて激しく地団駄を踏み続ける。
「誰も(ダンッ!)いないのかよッ(ダダン)、分かる奴は(ダンダダ)よォ(ダンッ)!」
先生の地ダンダは続く。前川さん、とぼくは思う(ダンッ!)。誰かが答えなければならない(ダダン)、けれど今じゃないとぼくは思う(ダンダダ)今じゃない(ダンッ!)今じゃない(ダンッ!)今じゃな
一本の腕が伸びる。
床は揺れなかった。静寂。みんなが彼を見ていた。前川さんも見ていた。ぼくと、ぼく達みんなの視線が絡み合う先で、
柳村くんは手を挙げていた。
「間違いなく、わかるのか」
柳村くんは頷く。
なら描いて欲しい、と重田先生は言った。
「この言葉を、視覚的に表現してほしい」
柳村くんは板書を数秒間眺めてから、黄色のチョークを掴んで何かを描き始めた。
最初はキノコだと思った。しかしそれにしては傘が短く、根元で膨らむコブも不自然だ。
柳村くんの描き始めたものが勃起したペニスだと気付くまでに、ぼく達には時間が必要だった。ぼく達はまだ学校で性教育を受けていなかったので、悲鳴を上げた数名はその意味をぼく達に共有するために、卑猥な情報が書かれたノートの切れ端を手渡したり放り投げたりすることで、教室の隅々にまで最先端の性教育を行き渡らせる必要があった。
そうしてぼく達が途方もない興味を持って自らの股間を触り始めた頃、柳村くんはようやくその絵を完成させた。
「これは、なんだ」
「街灯と街」
それはどこからどう見ても、勃起したペニスを握る男の絵だった。何かを言おうとする重田先生を、柳村くんは手で制する。
「街灯と男根の熟語の構成は同じですよね。街灯と街、男根と男。男根の周りで飛ぶ男」
「でも、人は飛びまわらないだろ」
「飛びますよ」柳村くんは股間を触った。
「ぼく達は街です。飛ぶ街なんです。毎晩毎晩、街灯に振り回されて飛ぶんですよ」
ぜえ、と重田先生は喉の奥を鳴らした。
「それとも先生はしないんですか、自慰」
重田先生は荒い息を吐き、額の脂汗を右の手で拭った。額に白がつく。握りつぶしたチョークの粉だった。重田先生が汗を拭うたび、重田先生の顔はどんどん白くなっていく。
ぼく達はそれを黙って見つめている。
今日のことを、ぼくは家族に話さなかった。
担任の森山先生が早退して六時間目の国語が自習になったこと。知らない人が教室に入ってきて、重田先生と呼べと言ってきたこと。前川さんが柳村くんを見ていたこと。重田先生が顔を真っ白にして教室を去ったこと。
前川さんが柳村くんを見ていたこと。
あの言葉が、絵が、何を意味していたのかぼくにはわからない。けれども柳村くんが口にした言葉は、未だにぼくの耳に残っている。
ぼく達は街です。飛ぶ街なんです。
その日の夜、ぼくは街灯を握り締めた。街灯は次第に立ち上がっていき、暗かった街全体に光がもたらされていく。前川さん、とぼくは思う。瞬間、ぼくの身体は目映い光を発し、脳内で閃光が炸裂する。暗転。全身にやわらかな風を感じたのは、暫くしてからだ。眼下にはぼく達の街が、綺麗な夜景が広がっていて、ぼくは柳村くんの声を、あのまっすぐ伸びた手を、あの奇妙な男の絵を思い出す。
ぼく達は街です。飛ぶ街なんです。
前川さん、とぼくは思う。
この街の何処かに、前川さんが住んでいる。