新薬史観

地雷カプお断り

【二次創作】セックス・イン・ザ・ハンド【ラブライブ!/ほのうみ】(約11,000字)

【前書き】

最近あまり二次創作をしていなかったので書きました。本来ならば問答無用でpixiv行きなのですが、問題に進展が見られないのでここに投稿することにします。

ラブライブ!の二次創作、高坂穂乃果園田海未カップリング小説(約11,000字)です。ややR-18要素を含みますので、苦手な方や未成年の方は読まないように気を付けてください。

 

【以下本文】

 

 見つめ合う瞳。
 妄想かもしれないと思う海未の両耳を穂乃果の手のひらが包み込む。ふたつの顔が接近し、ふたつの鼻が交わり、海未の鼻先だけが穂乃果の皮膚をやわらかく押した。この時はじめて、海未は自分の鼻が穂乃果より高いことを知った。やや遅れて、穂乃果の唇のやわらかさも。

 

「予行練習しようよ」
 そう言ったのは穂乃果だ。海未はそれに何と返したのかを覚えていない。怪訝な表情をしたことは覚えているが、それを穂乃果がどう捉えたのかは分からない。昔から海未は感情が顔に出やすくて、よく祖母にたしなめられた。「大和撫子たる者、どんな気持ちも腹んなかおさめて、いつも凛とすましているものですよ」とは祖母の言葉だが、海未は無批判にそれを受け入れ徹底しようとしたものの、結局いつも穂乃果に感情をかき乱され、大和撫子とはほど遠い言動で彼女の背中を追いかける羽目になっていた。
 そんな風だから、海未の祖母は穂乃果のことがあまり好きではなかったのだろう。海未は長らくそのことに気が付かなかったのだが、ある時、穂乃果の所作からふたりの関係性を微かに感じ取った。基本的に穂乃果が人を避けることはない。幼少期の彼女は音ノ木坂に住む人を親戚の一種だと捉えている節があり(事実、地元から愛されている和菓子屋の看板娘である彼女がそう感じるのも無理はなかった)、散歩ですれ違っただけの人にでも子犬のような人懐っこい笑みを浮かべて挨拶をしていたので、彼女の周囲には彼女を愛する人間だけで構成された、無償の愛を通貨とする社会が自然と形作られた。
 その愛が、海未の祖母には通用しなかった。
 穂乃果は恐るべき聴覚で園田家の人間の足音を聞き分けることができたので、海未の部屋で遊んでいる時に突然飛び上がり、押し入れやベッドの中にその身を隠すことが多々あった。不思議に思い扉を開けた海未は、こちらに向かってくる祖母や、背中を向けて静かに去っていく祖母の姿を認めることとなった。こちらを見て「なんです海未さん」と祖母は言う。海未は慌てて顔をひっこめる。
「とにかく静かなんだよね」
 穂乃果は煎餅を噛み砕きながら答えた。
「母上の足音も、かなり静かだと思いますが」
 穂乃果は首を横に振った。「ぜんぜん違うね、海未ちゃん修業足りないんじゃないの?」
 すぐにふたりの追いかけっこが始まったのは言うまでもないが、実際に穂乃果は海未よりも正確に、確実にふたりの足音を聞き分けていた。海未はなぜ穂乃果が祖母から隠れなければならないのかをきちんと理解していなかったのだが、毎度の穂乃果の慌てっぷりを眺めていると「この子は祖母から隠さなければならないのだ」と思うようになった。そんなわけで祖母と母親の足音を聞き分けられない海未は、誰かの足音が近づくたびに、ベッドの上で家から持ってきた漫画を読む穂乃果と自室のドアとを見比べてハラハラしたのだが、穂乃果はきちんと足音の主が分かっているので、それが祖母だと分かるや否や、身体が浮くほどに飛び跳ね、山里から降りてきたタヌキのように俊敏な動きで押し入れに転がり込むのだった。ベッドの上に投げ出された漫画を片づけるのは海未の仕事だ。それから祖母の足音が海未の部屋を通り過ぎるまで(あるいは祖母が海未の部屋のドアを叩き顔を覗かせ室内をぐるりと見渡してから用件を言ってふたたび室内を視線で舐めまわして顔をひっこめるまで)、穂乃果がお婆上様に見つかりませんようにと祈り続けるのも海未の役目だった。なぜ穂乃果がお婆上様に見つかるといけないのかはわからなかったけれど、その願い事は海未と穂乃果の逢瀬にちょっとしたスリルをもたらしていて、お互いその緊張感を楽しんでいたのは事実だ。祖母の足音が遠くに溶け込み、穂乃果が押し入れからそっと顔を出すその瞬間を、海未は心から愛していた。
 幼い頃からの海未の願いは届いたのか、以来穂乃果が海未の祖母と出会うことは正月と盆を別にしてほとんどなかった。正月に会うと言っても互いに視界に入るくらいのもので、園田家の一階で数々の障子を開けて大部屋をつくって開かれる高坂・園田家合同の宴席でも、ふたりは常に対角線上に座っていた。毎年、海未の祖母は穂乃果にお年玉を渡していたのだが、それさえいつしか海未を通して穂乃果に渡されるものになっていたし、耳打ちされたお礼を穂乃果に代わって祖母に言うのも海未の役目になっていた。いったいぜんたいどうしてこのようなややこしいことになっているのか海未には見当もつかなかったが、祖母と穂乃果の間を行ったり来たりすることに、そこまで居心地の悪さは感じなかった。ふたりとも全く敵意を欠いていたし、その言伝はまるで習わしのように執り行われたからだ。海未はふたりの間で何度も往復した。何度も、何度も。

 

 ふたりは成人してから一度だけキスをしたことがある。もっともキス自体はふたりの歴史を遡れば特段珍しいことではなかったが、その時期を考えると、表現にはやや語弊があるかもしれない。ふたりがこれまでにお互いの身体に口づけをした日時はほとんど幼少期に集中しており、そのどれもが親愛の挨拶の域を超えぬ、いわゆる「ノーカン」に該当した。残りの四例は中学二年生の夏休みに時間を持て余した穂乃果がお遊びでした海未への頬キスと(海未はひどくパニックになった)、高校三年生の学園祭でロミジュリを演じた際にしれっと学園中の生徒に見せつけるように行った脚本にはなかったはずの穂乃果から海未への目覚めのキス(海未は顔を真っ赤にして穂乃果をビンタした)、三つめが高校卒業式の日に「学校生活の思い出にキスしてほしいの!」と体育館裏で駄々をこねまくっていた穂乃果にした額へのキスで(これが海未にできる最大限の親愛表明行為だった)、最後はμ's全員が成人を迎えた同窓会で王様ゲームをした末に完全なる悪ノリで行われた穂乃果と海未による数十秒間にわたる口づけだった。重なる唇を見て「きゃああああ」とか「やばーーーい」とか叫び、割れんばかりの拍手をしているのは酩酊していることりだけで(言うまでもなく王様ゲームを提案した彼女は最初からこれを望んでいた)、一瞬だけ唇をくっつけてから離れようとする海未の顔をしっかり固定して離そうとしない穂乃果を驚きに満ちた瞳で見つめる海未が諦めたようにまぶたを閉じて穂乃果の唇に身をゆだね熱い息を漏らし酸欠と恍惚でぼうっと薄目になっていく海未の様子を他のメンバーはみな固唾を呑んで見守り、誰一人として言葉を発することができなかった。「舌も入れてーっ!」と真剣に叫ぶことりのスマホカメラの連写音だけが居酒屋の個室を満たしていた。

 その忌まわしい最後のキスが、今や過去のものになろうとしている。
 海未は穂乃果とキスをしていた。久しぶりに会ったかと思えばすぐに穂乃果に引きずり込まれた。最悪だと思う。「予行練習」とかいう言葉に虚を突かれたのがいけなくて、けれども結局何を言われたところで(あるいは何も言われなくても)海未は穂乃果と念入りに唇を合わせていただろう。海未は穂乃果に弱かった。何故かはわからないが、大抵の物事は海未の意思に関係なく、穂乃果が望んだ通りに運ばれていく。昔はふたりの意思をすり合わせればそれでよかったが、流石にこの歳にもなると海未にも絶対に守りたい自分の意思があって、それが「穂乃果との交際拒否」ということになる。海未は中学生から今現在に至るまで穂乃果からの艶めかしいお誘いや匂わせを様々なやり口で断ってきたし、これからもそれを受け入れるつもりはなかった。
 簡単な話である。海未は穂乃果に性的魅力を感じないのだ。
 もっとも、それは穂乃果にだけではない。海未は未だに恋愛というものが分からなかったし、誰とも性交渉をしたいとも思えなかった。大学時代に何度か性別を問わず性交渉を試みたが、相手の膨張した性器や膨らんだ胸、艶めかしい白い肌を見ただけで海未はパニックになってしまい、ホテルやその人の部屋から服を抱きかかえて逃げ出してしまうのだ(流石にドアから出る前に最低限の服は身に着けていた)。もっとも、そのうちのひとりは絶対に海未を犯そうと心に決めていたので、海未に逃げられそうになった際には自分の沽券に関わると思い歯を噛み締め力づくで海未を押し倒そうとしたのだが、不運なことに海未は道場の娘で最低限+αくらいの護身術は身につけていたので、靴下だけ履いた全裸の海未に簡単にひっくり返されてしまった。
 背中を痛め、唖然としながら天井を見つめる男子大学生。屹立するビンビンのペニス。


 海未は恋愛相談の相手にことりを選んだ。海外留学中のことりとはどうしても画面通話になってしまうが、こんなことを話せるのは彼女しかいなかった。自らの性体験について話すことは海未にとって大変に勇気のいる行為だったが、穂乃果も海未も下着や生理用品などについての基礎知識の半分はことりから教えてもらっていたし(残り半分は母親からだ)、留学してからもことりは(頼んでもいないのに)向こうでの性体験についてざっくばらんに話してくれたので、次第に海未も性について話題にすることに抵抗をなくしていたのだった。ここまではことりの作戦通りではあったものの、別にこれを機に海未を取って食おうとしているわけではない。ただ海未が恋愛について悩んでいるのをことりはずっと気にしていたので、彼女の相談窓口になってあげたいと思ったまでのことである(もっとも、ことりにとって穂乃果と海未の関係がどのように進展するのかは最大の関心事だったので、おこぼれを狙っていたのは否定できないが)。
 そういうわけで、海未は他愛もない日常について話してから「そういえば!」と両の手を合わし下手くそな話題転換をして(この時ことりは笑いを噛み殺していた)、ぽつりぽつりと性の悩みについて語り始め、徐々に興が乗ってきたのか身振り手振りを交え(ここで何度か海未はテーブルの緑茶を飲んだ)、女から服を抱えて逃げたり勃起した男をひっくり返した話を臨場感たっぷりに話して、「つまり私は他人とエッチなことができないんですっ!」と締め括った。海未は肩で息をしながらことりの反応を待った。ことりは口を開く。
「じゃあ海未ちゃんは、ふだん何でオナニーしてるわけ?」
「お、オナニーって」海未は顔を真っ赤にした。
「何で、っていうのはオカズのことね。私はけっこう雑多に選んでてさあ、最近だとこの動画とか、あとは~……これとか。あっこれもたまに見るかも」
 海未は携帯のトークアプリに次々に送られてくるエロい動画サイトのURLを踏んだ。ありえないくらいのエロい広告がスマホ画面を縦横無尽に飛び交い点滅するなかで再生される動画ではエロい女性が汚い男性に強引に迫られていたり、エロい女性同士が乳繰り合っていた。海未は眉をしかめる。
「こういうの、私はあまり見ないんです」
「じゃあ何をオカズにしているの?」
「……それは」
「それは?」
「笑いませんか?」
「笑わないと思うけど」
 すでにことりは半笑いだったが、それには気付かず海未は深刻そうな顔つきでパソコンのマイクに向かって囁いた。
「わたし、男体化した穂乃果でしかイケないんです」
 ことりは笑うのを忘れて真顔になった。数秒経ってから、え、なんて?と聞き返した。ですから、と海未は声をいっそう潜めて言う。
「わたし、男として生まれた想像上の穂乃果に無理やり襲われるシチュエーションでしか興奮できないんです」
「男の……穂乃果ちゃん?」
「私は穂高と呼んでいます、男なので」海未はきっぱりと言った。「男として生まれた穂高は私と正真正銘、両家公認の許嫁なんです。けれどもある夜、穂高は我慢できずに私に夜這いをしかけてきます。お互いに小さいころからよく見知った家なので、暗がりでも一切迷わずに私の部屋のベッドまで辿り着くことができるんです。私は寝ぼけながら何かがベッドに入ってきたことに気付くのですが、次の瞬間には口にハンカチのようなものを詰め込まれます。現状を把握できずパニックになる私の耳元で、男が囁くのです。大丈夫、安心して、僕だよ……耳に馴染んだその声を聞いて、私の身体をつくっていた緊張が一気に弛緩します。なんだ穂高ですか、暴漢かと思いましたよと言う私の口はハンカチが詰められているので実際はふがふが言っているに過ぎないのですが、その間に穂高は私の寝巻の下からするりと手を突っ込んで、さりげなく私の胸を揉みしだこうと――」
 不意に海未は話を辞めた。
「ねえことり、私は今なんの話をしているんですか?」
「え?」
 途中から聞き流していたので、ことりには海未の質問の意図がうまく掴めなかった。答えられずに黙っていると、海未は真剣な表情でふたたび口を開く。
「ですから、なぜ私はこのような恥ずかしい話をしているのでしょうか?」
 そんなのことりの方が知りたかった。確かにことりは普段のオカズについて尋ねたが、誰もその妄想の詳細を教えろなんて言っていない。自分の大切な幼なじみ(海未)は、もうひとりの大切な幼なじみ(穂乃果)を脳内で性転換させ、犯される妄想をすることで自らを慰めていた――改めて考え直すと、海未の妄想はことりに理解できそうでできないギリギリのラインに乗っかっている。オーケー、とことりは心で呟いた。話し合おう。分からないことは話し合えばいいのだ。
「海未ちゃんは」ことりから切り出す。
「確か、穂乃果ちゃんと付き合うつもりはないんだよね」
「ありません」
 海未はキッパリと言った。「私は穂乃果とエッチなことはしたくないので」
「でも、穂乃果ちゃんのことをオカズにはするんだ」
「穂乃果じゃなくて、穂高です」
 海未はつとめて冷静に言った。ことりはオーケーと繰り返す。留学して以来、ことりは余裕がなくなるとオーケーと言うようになったのだが、海未はたいして気にしていなかった。ことりは両の手でこめかみを押しながら頭のなかを整理し、質問内容を整える。
「つまり海未ちゃんにとって、穂乃果ちゃんと穂高くんは大きく違うんだ」
「全然違います」
「どう違うの?」
「実在するか、しないかです」
 海未が前のめりになって画面に大きく表示される。ことりは唾をのむ。
「たとえば明日、穂乃果が性転換手術で、あるいは魔法で男性になったとします。その容貌は私の妄想のなかの穂高と完全に一致していて、そのうえ穂高に改名すらしていて、妄想通りのシチュエーションで私の部屋に夜這いしてきて、ベッドのなかで私の口にハンカチを突っ込んでくれる――そういうことであれば、私はきっと穂乃果とエッチができるのだと思います」
「ですが、現実はそうではありません。この世界に魔法はありませんし、性転換手術をしたところで穂乃果は穂高になりません。仮になれるとしても、私は全力でそれを阻止します。私とエッチするためだけに性転換するなんてあまりにバカげている。そう思いませんか?」
 そう思うとことりは言った。でも、それがバカげているかどうかを決めるのは穂乃果ちゃんだよ、とも言った。
「その通りです」海未は力なく頷く。「そしてこれは幼なじみとしての勘ですが、おそらく彼女は、その選択肢をバカげているとは思わないのです」
「……だろうねえ」
「結局のところ、あの子は好きな人と一緒にどこまでも気持ちよくなりたいのです。何よりも刺激を求めているんですよ。今の彼女にもっとも素晴らしい刺激を与えてくれるのがエッチなんです」
「穂乃果ちゃん、性欲強いもんねえ」
「強いなんてもんじゃないですよ!」海未は半ば泣きそうな声で叫ぶ。「成人してからの穂乃果の思考は、六割が私との破廉恥なことで占められていて、残りの四割はそれをどうやって実現するかに占められているんですっ!」
「それは流石に言い過ぎだよ」
 海未が俯いたまま否定しなかったので、ことりは察した。海未は嘘をつかない人間である。どうやらことりの知らないところで、海未は穂乃果に散々言い寄られているらしい。
「いまも昔も、穂乃果は恋する乙女ですよ」
 海未は面白くなさそうに呟いた。
「高校生のときにはスクールアイドルに恋をして、大学ではカレッジアイドルとかいう新しい概念まで作り上げて各地で歌って回って楽しそうにしていましたけれど、歌への恋がそれなりに落ち着いてからは手もち無沙汰でぶらぶらしていて、結局あの子が辿り着いたのが『恋愛への恋』だったというだけの話です。そして彼女は、恋愛の最終到達点こそが性行為だと信じ込んでいる。ふざけたことを言っているように聞こえるかもしれませんが、穂乃果は真剣ですよ。彼女にとっては、今はまさに大恋愛時代なんです」
「海未ちゃんとのね」
 海未は深いため息を吐いた。ことりはさりげなく聞いてみる。
「穂乃果ちゃんと一度だけでもしてあげるって選択肢は、無いのかな」
 海未が冷たい視線を向けてきたのでことりは身構えたが、その瞳に込められた感情は怒りというより諦念だった。自らの黒髪を触りながら海未は言う。
「もちろん、できることならしてあげたいですよ」
 海未はことりを見る。
「でも、やっぱり穂乃果とは無理なんです。あの子の裸が視界に入ると、欲情するより先に何か服を着せてあげたいと思うんです。分かりますか? 私にとって穂乃果は、家族よりも近い距離にいるんです。そっと手を伸ばせば、人差し指があの子の小指に触れるんです。そうして手をつないで、笑ってくれるあの子の笑顔が好きなんです。あの笑顔をずっと守りたいんですよ」
「私は」
「別に、性的快感に打ち震える穂乃果なんて見たくないんです、恐らくそれは――」
 海未はしばらく言葉を探し、諦めたように呟いた。
「私ではない、他の誰かの役割です。私ではない、他の誰かの」

 

「でも穂乃果ちゃんは、海未ちゃんを求めているんだよ?」

 

 海未は画面通話のウィンドウを閉じた。数分ほど雑多なウィンドウが散らばったノートパソコンの液晶を見つめる。何も考えてはいなかった。スマホの画面に通知ポップが表示される。ことりからだった。
『ごめんね、言い過ぎちゃった』
『でもこのままじゃ、穂乃果ちゃんも海未ちゃんも』
 海未はスマホの画面を消し、部屋の電気も消してベッドのなかに潜り込んだ。枕の下に隠していた清潔なタオルを自分の股間の下に敷きながら、穂高のことを考える。穂高は海未の白い身体に熱視線を浴びせる。海未は下着の上から股間を指でなぞる。熱い。海未は巨大な男根の付いた穂高の目を怖いとは思わなかった。穂高の瞳にはそこら辺の男にはないあたたかな陽だまりが映りこんでいて、その白い領域は決して海未を痛くしないと約束する説得力で満ちていた。海未は穂高を信頼している。穂高も海未を信頼している。お揃いだった。海未は頭を浮かせてさらに枕の下から青いハンカチを取り出し、ぐしゃぐしゃに丸めて自分の口に突っ込んだ。ベッドの下に隠してあるバイブを取り出すのは、穂高のかたちが海未を包んでからだと決めていた。けれどもその日の穂高は全然海未に手を出さなくて、海未の隣で横になってずっと優しい目で海未の自慰行為を見つめていたかと思うと、そのままオナニーの妖精のように立ち消えてしまった。海未は宙ぶらりんになった性欲の渦のなかでパニックになる。穂高は性欲のわからない海未が自慰行為のために生み出した性器の発明だった。彼が去ってしまった以上、海未がオーガニズムに達する手段は失われてしまう。穂高は旅に出たのかもしれない。その不在は今夜限りかもしれないし、永久かもしれなかった。海未は震える。お願いだから帰ってきて、と中途半端に濡れた下半身のままベッドのなかでぼろぼろ泣いてしまう。海未は自分が泣いている理由が正確には分からなかった。穂高の不在によるものか、永遠に達せない恐怖から来るものか。恐らくそのどちらでもないと海未は思う。助けて、穂高。どこにいるの、穂高。迎えに来てよ、穂
乃果の腕が海未を抱き寄せる。海未は言葉も出なかった。自分の背後に穂乃果がいると思った。その後にこれは誰だろうと思い、なんだか思考の順序がおかしくなっていることに気付く。間違いない、これは穂乃果だ。でも、なぜ分かるのだろうと海未は思う。息遣いか、腕の長さか、身体の温もりか、胸の膨らみか、あるいはその全てか。性行為をしたわけでもないのに互いに互いの身体のかたちを知り尽くしている海未と穂乃果は、なんだかあまりにあべこべで、自分の居場所すら把握できない。きっと、また家で嫌なことがあって私のベッドに潜り込みに来たのだと思う。成人してからも稀に穂乃果は家出をし、その潜伏先に園田家を選んだ。勝手がわかるし、なにより好きな人がいつでもそこにいるからだった。

「あっ、えーと」穂乃果が言う。「こんばんは」
「こんばんは」
「おじゃましてます」
「されてます」
「ねえ、あまり嬉しくない質問をしてもいーい?」
「どうぞ」
「オナニーしてた?」
 海未は何も言わなかった。
「手伝おっか?」
 海未は何も言わなかった。
「穂乃果、女の子の気持ちいいところは結構わかる自信あるよ。同じ女だし」
 海未は何も言わなかった。
 穂乃果も何も言わなかった。
「私、そろそろお見合いをしなければいけないんです」
「知ってるよ」
「相手はもちろん男性です」
「それも知ってる」
 穂乃果は海未を抱きしめた。
「でも海未ちゃん怖がりだしさ、お見合いがうまく行ってもエッチできないんじゃないの?」
「そんなこと、ないですよ」
「ふうん、そっか」
「そうですよ」
 沈黙。
 ねえ、と穂乃果は言った。
「予行練習しようよ」

 

 結局最後まで、何の予行練習なのかは聞けなかった。
 気が付けば海未は穂乃果と長い長いキスをしていた。海未は目を閉じる。成人してから二回目のキスであり、兼ねてよりずっと嫌がっていた深い深い口づけだった。
 海未は穂乃果とキスをしながら、これまでに考えていたことを考えていた。なにかとても複雑で、重要なことだ。けれども、何が複雑で、どう重要なのかは思い出せなかった。海未はすべてを諦める。嫌悪感を無理やり手放して、仕方なく穂乃果の身体に触れた。いま私は悪いことをしているのだと思った。海未は悲しくなる。 けれどもこの不誠実な行為で目の前の大切な存在が笑うのであれば、もしかすると海未の方向性は間違っていないのかもしれない。あとから追いかけようと思った。言い訳は海未の得意分野だったから。
 海未が触れると、穂乃果は喜んだ。ふんふん子供のように息を荒くして、今度はこっち舐めて、次はこっちと指示を出した。いろんなところを舐められ、摘まれ、気持ち良くなった穂乃果は満足して、海未の身体に手を伸ばし、何度も何度も海未の顔色を伺いながら海未が求めている快感を引き出そうとしていた。けれども海未はどうしても感じることができなくて、なんとか頑張ってその気持ちに答えようとするうちに海未の頭のなかには穂高が現れていた。帰ってきた、という感慨はあまりなかった。これが本物の穂高である確信は持てなかったし、確かめる手段もなかったからだ。オナニーの妖精、穂高。海未はずっと穂高のことが好きで、穂高も海未のことが好きだった。
 そのはずだった。
 けれどもこうして本物の穂乃果の瞳を眺めていると、穂高の目とは幾分か違っていることに気が付く。別人なのだ。穂乃果と穂高は別人で、やっぱり海未は穂乃果に性的魅力を感じることができなかった。それは穂乃果の性別がなんであれ関係ないのだと思う。仮に穂乃果が男として生まれても、きっと穂高にはならなかった。穂高は偶像だ。誰も穂高にはなれないのだ。
 穂乃果の頬の産毛に触れる。穂乃果が目を細めたので、この子を大切にしようと海未は思った。その感情はふたりの部屋、祖母の足音が遠くに溶けこんで、幼い穂乃果が押し入れからそっと顔を出すあの瞬間のものと似ていた。
「ごめんなさい、やっぱり私、穂乃果をエッチな目では見れない」
 はじめ言われたことが分からなくて、穂乃果は戸惑った。戸惑いながらも海未の性器に触れようとして、海未に手首を強く握られた。穂乃果の視線が泳ぎながらも海未のものと交わる。
「応援するって言ったのに」
「ごめんなさい」
「いつも穂乃果の味方だって言ったのに」
「ごめんなさい」
「嘘をついたの?」
「そうですが――そうではありません」海未は続ける。
「私はあなたの夢を応援することが好きです。あなたの夢に巻き込まれるのも大好きです。けれど、私にもどうしても出来ないことがあったんですよ。そのことに私は気が付いていなかった。ただそれだけのことなんです」
「努力でどうにかなるものじゃないんですよ。むしろ、これは努力でどうにかしてはいけない類のものなんです。ただじっと黙って受け入れるしかないものが、世の中にはあるんです」
 沈黙を破ったのは穂乃果の鼻をすする音だった。
「わかんない」
「海未ちゃんが何言ってるのかわかんない」
 穂乃果はぐずぐず泣いていた。
「わかんないよぉ」
 海未も泣きたくなった。でも、泣けなかった。この場において悪者なのは海未だけだ。穂乃果との約束を破ったと言われても仕方がなかったし、事実その通りだったから。海未はこの日、はじめて穂乃果の敵になった。それは生まれて初めてのことで、海未にとっても不思議な感覚だった。なぜ自分は今ここにいるのか、説明をすれば長くなる。ふたりはなんらかの共同体だったはずだし、今もそのつもりだ。海未は穂乃果を信じている。これくらいのことで私たちは終わりにはならない。そうでしょう、穂乃果。海未は唇を小さく動かす。

 泣いている穂乃果を眺めていると、海未は数年前の祖母の葬儀を思い出した。前日までピンピンしていたのに、とつぜん脳卒中でぽっくり逝ってしまった。享年七十三歳。海未も含めた園田家は誰も祖母の死を現実として実感することが出来ずに、大人たちは粛々と手続きを済ませていった。
 葬儀の当日、一番泣いていたのは穂乃果だった。出棺に向けて花束や贈り物を棺桶に入れる時、穂乃果は園田家の人間の誰よりも大粒の涙を溢していた。彼女は特別な言葉を発したわけでもなければ、特別なものを棺桶に入れたわけでも無かった。けれども、彼女の涙が伝染して周囲の人間は静かに泣いた。海未も泣いた。祖母の死から一度も泣けていなかった海未は、穂乃果がここで泣いてくれたことに少しだけ感謝をした。
 祖母の葬式を終えて数日が過ぎた頃、海未の部屋でふたりが過ごしていると、誰かの静かな足音が聞こえた。穂乃果は少しだけ顔を上げて呟く。
「もう海未ちゃんにも分かるようになっちゃったね、足音」

 

 穂乃果が何を言おうとしていたのか、今なら分かるかもしれなかった。
 人は時間とともに大切なものを失い、代わりとなるものを手に入れていく。その前後の価値を確かめるように、人は失ったものの感触と、新しく手に入れたものの手触りを比べ続けていくのだ。海未の手のひらでは祖母の死が転がされ、穂乃果の手のひらではセックスが転がされている。どちらもあまり良い感触とは言えないけれど、そのうち角がとれて手に馴染み、他人には説明しがたいものになっていく。
 海未は穂乃果を信じている。穂乃果も海未のことを信じている。だからふたりは、たまに手の中にあるそれらを交換するのだ。それは本来推奨されないやり方なのだけれど、ふたりの場合は違っていた。他人には説明しがたい何かを、自分たちだけには説明できるように交換するのだ。ふたつの手のひらで転がされたそれらは、自然とかたちが似通ってくる。証にしようと海未は思った。ふたつの手触りを、あたらしい共同体の証にするのだ。
 海未はすすり泣く穂乃果の手のひらに、自らの手を重ねた。ふたつの手のひらに包まれた空間は次第に温まり、穂乃果の指に海未の指が一本ずつ絡んでいく。
 見つめ合う瞳。

 

終『セックス・イン・ザ・ハンド』