新薬史観

地雷カプお断り

マシュマロへの返信「カプ解釈における『正解』があると信じる思考過程、また地雷カプへの考え方について」

※すべて個人の感想です!!!!

※また、この記事は、「ラブライブ!」をテーマにはしていますが、だれでも読めるような内容にしているつもりです。

 

さて、このたび、自分の「ラブライブ!」における二次創作のスタンスについてマシュマロをいただきました。自分はこれまで、ブログではカプ名を書かないようにしてきましたが(荒れたくないので)今回はカプ名を名指しでいただいたため、自分もそれに合わせてカプ名の開示をしたいと思います。「ほのうみ」と「ことほの」についての質問です(自分語りしたいがための自演というわけではないです、念のため)。

marshmallow-qa.com

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で、今回のマシュマロ主さん(以下簡単のためMさん)からは非常に誠意のある文章を書いていただきました。と言いますのも、自分(ねぎしそ)の気を悪くしないよう、言葉の節々にかなり苦心した様子が見受けられます(いつもカプでキレていて、変な気を遣わせて申し訳ないです)。ここまで丁寧に文章をしたためていただいたのに、適当に返すわけにはいきません。こちらとしても、これまでずっと考えてきた「穂乃果と海未とことりの関係性」についてきちんと開示すべきだと思いました。

 

その前に、まずMさんの投稿の要点をまとめます。

①Mさんは地雷カプの概念を持たない雑食で、カプにおける「正解」を求めようとするスタンスに疑問がある(同一のキャラを含む異なるカプが両立する、なぜ一つに決定するのか、勿体ない)。

②「ことほの」より「ほのうみ」のほうが「正解」に近いと思う理由は何か(また、どのような過程でその思考に至るのか)

③これまでのねぎしその纏まった思想録が見れるものはないか

上記3点、強いて言うなら主な論点は②ですね。

 

では早速3点への回答から申し上げますと、

①(文章という媒体において)キャラ設定、あるいは属性で構成される架空のキャラクター同士の関係性は、ある程度の資料が蓄積されると徐々に方向性が定まると信じているからです。

②おそらくですが、自分は「ことほのよりほのうみの方が正解」という趣旨の文章を書いたことがないと思います。あったらすみません。少なくとも現時点では、「ことほの」と「ほのうみ」は両立する(というか全く別物である)という認識です。が、これについては理由があるので後述します。

ちなみに自分が解釈に怒っている、いわゆる地雷カプですが、こちらは専ら「〇〇(穂乃果以外の任意のキャラ)うみ」カプとなります。

③ありますが、確かにまとまってはいません。バラバラです。一番お求めのものに近いものとして、拙作「アブラクサスの先に」という小説総集編のあとがきが該当するかと思いますが、決して十分ではないと思います。よって、ブログでそれを書こうかなと考えています。

 

以上です。もしこれで回答になっていれば、もうこの先は読まなくていいと思います。勝手に筆が乗って書き進めただけなので、Mさんが(また他の方も)読む必要はありません。もしさらに詳細が読みたい人がいればどうぞお読みください。

ただ、②と③についてはラブライブ!色(と自作の話)が強いのに対し、①は比較的あらゆるカプ解釈について当てはまるのではないかなと考えました。

よって、カプ解釈に興味がある人なら誰でも読めるようにしたいため、この記事では①のみに答えます。

それで、Mさんのように自分のラブライブ!カップリング解釈に(ただのいちオタクのカプ解釈です、何もありがたくありませんので)興味のある方向けに、別の記事で②③に答えようかと思います。

 

 

それでは以下より①についての詳細です。

①(文章という媒体において)キャラ設定、あるいは属性で構成される架空のキャラクター同士の関係性は、ある程度の資料が蓄積されると徐々に方向性が定まると信じている とは

例を挙げます。A、B、Cというキャラがいます。

開示情報は以上です。

この時、「(本来ならば受け攻めも考慮すべきでしょうが、今回は簡単のため何らかの「カップル成立」をゴールとします)ABCにおける関係性を考えてください」と言っても不可能です。よって、この関係性におけるカプ解釈をするためには、「キャラ設定、あるいは属性」を追加する必要があります。

では、ここに顔の良し悪しの情報を付け加えましょう。いわゆる「顔がいい女同士の関係」の文脈で使われる「美醜」です。

A 顔がいい

B かなり顔がいい

C ふつう、よくはない

では、ここで「ABCにおける関係性を考えてください」と言われて、それは可能でしょうか。自分は不可能だと考えています。なぜなら、ここには「(A~Cの)誰がどのような顔が好きか」という情報が不足しているからです。

なので、もし「AはBよりCの顔が好き」という情報が追加されれば、顔の良し悪しの観点だけで見るならACが「正解に近い(正解ではない)」と言えるでしょう。

このように、情報の追加によって「ABCにおける関係性」はどんどん狭まっていくのがわかるかと思います。そして、それは原作を深く読み込むことでしか得られない行為です。

さらに情報を追加しましょう。もしここで「実はBとCは家族公認の許嫁で二人は幼少期の時に結婚する約束をしていた」「BはずっとCのことを好きだった」「Cには特別好きな人がいない」という設定を書いていた原作があるとします。すると、それを読んでいるのと読んでいない人では、キャラ解釈は全く別物になるでしょう。

ここまでの設定をまとめると、ABCの関係性をめぐる人々には、大雑把にまとめて以下の4種類が現れるのではないでしょうか(ここでは、「推しがいるから推しカプ」などのキャラ贔屓をしていないと仮定します)。

① AとBとCの顔の良し悪し(キャラビジュアル)のみ知っている人

 →「正解」ってなんだ?(雑食のオタクが原作設定を知らないと主張したいわけではないです。ただ仮に「正解」を求めるとして、カプ解釈する材料がないという事実を示したまでです、誤解なきよう)

② ①に加えて「AはBよりCの顔が好き」という設定だけを知っている人

 →「正解」はACではないか?

③ ①に加えて「BとCの強固な関係性」だけを知っている人

 →「正解」はBCではないか?

④ ①と②と③すべてを知っている人

 →AはCの顔が好きだが、BもCのことが小さいころからずっと好き。そしてCに好きな人がいないのであれば……難しいところだが、強いて言うなら「正解」はBC(あるいは、CがBの好意を否定すると仮定してAC)ではないか?(または両立するのではないか?)

という図式になるわけです。

以上を見ても明らかかと思いますが、情報を追加することで、②③④の人は、少なくとも①の人よりはカプ解釈の選択が狭まっています。④の人においてはBCとACで迷っていますが、ACとするには「CがBの好意を断る」という仮定が必要ですし、BCとするには「CがBの好意を受け止める」という仮定が必要でしょう。

では、さらに原作を読み込み、「CがBの好意を受け止める/拒絶する」ニュアンスの描写があったとしたら……?

このように、情報の追加は「正解(もっともあり得そうな関係性)」への方向性を決定させていきます。そして、その情報がよっぽど均等にでも分配されない限り、何等かの傾きがあると考えているのです。

逆に、関係性を匂わせない設定ばかりが追加されるということもあり得ないでしょう。まったく面白くない話なら別ですが、人を魅了する作品において、人間関係を一切描いていない作品に自分は出会ったことがありません。

よって自分は、「作品として成立している以上、必ず関係性の描写は盛り込まれ、またその設定が物語る関係性の方向は何等かの傾きを持っている」という前提のもと、その解釈にも「正解」が存在するのではないかと考えているわけです。

 

で。ここから少し話は変わって、「原作由来ではない設定をカプ解釈に持ちこむことの是非(特に顔カプ)」について書きます。読みたくない人は飛ばして下さい。

いわゆる顔カプのオタクは、上記の①~④のいずれに属していたとしても、「AとBが推しだから好き」という自分の感情に素直に向き合い、自分の嗜好を根拠にABを成立させます。確かに、「AとBの絡みが見たいから、自分はABが好き」という意見を否定する権利は誰にもありません。誰に認めてもらうまでもなく当然の権利です、自由です。自分が見たいものを想像(創造)するのが二次創作の原点なのですから。

しかしながら、三次元における人間のキャラへの嗜好と、ABCにおける関係性には何の相関もありません。あなたが仮にAとBが好きであっても、原作において「BとCが付き合っている」という設定が追加されれば、当然原作内ではBCが成立するわけです。つまり、「ABCにおける関係性」を考えるためには、自分のキャラへの感情を押し殺す必要があります(この辺りが、二次創作のスタンスの違いにつながるわけです。二次創作なんだから楽しくやろうよ派と設定厳守派の対立ですね)。

もちろん、そうは言っても自分の好きな気持ちを完全に押し殺すのは不可能ですし、どうしても贔屓目が入ります(自カプに都合の良い設定のみを解釈の根拠とし、都合の悪い設定を捨てるなどがそうです。自分自身、耳が痛い限りですが)。

ですが、最初から無理だと諦めるのではなく、できる限り原作に忠実に解釈する姿勢を保つことが大切なのだと自分は考えています。

で、ここまで書くと「なんでそこまでストイックにやるのよ」という疑問を抱く人も当然いるかと思います。

あくまで自分の場合ですが、自分が原作の設定遵守にこだわる理由は以下の2点です。

①キャラクターは抗議の声を上げることができないから

②設定を改変することは、現状を認めていないことと同義だから

詳細を説明します。

まず①ですが、こればっかりは自分の宗教色(カプ解釈というよりキャラクターへの向き合い方の宗派)が強いと思います。「何言ってんだ、二次元のキャラが自分の意思を持ってしゃべるわけないだろ」というのは尤もですし、ここを極めると頭のおかしいやつだと思われるでしょう。しかしながら、(できれば笑わずに読んでもらえるとありがたいのですが)自分は可能な限りキャラクターの尊厳を守りたいと考えています。例えば、二次創作では殺戮系、リョナ系、素行不良のif設定などが見られますが、これらの設定を付け加えたうえで、「もしキャラクターに意思があるのならどう感じるか」ということを自分は考えてしまうわけです。この辺りの認識については、キャラの設定が非常に効いてきます。例えばキルミーベイベーのソーニャちゃん(原作設定として殺し屋)に人殺しをさせるのと、ラブライブ!の穂乃果ちゃん(原作設定として普通の女子高生、あるいはスクールアイドル)に人殺しをさせるのとでは、「二次創作者がキャラクターに与える影響とその(キャラの)受容」は全く異なる様子をみせるでしょう。

ここで考えるべきなのが、「原作ありのままのキャラ(これを見極めるのが難しい。僕も絶対できてないです)」と「自分が二次創作で描きたいキャラ」を相対的に見比べる行為の重要性です。

ソーニャちゃんに「二次創作で人殺しをさせた」として、「原作でも人を殺している」のだから特に心境に大きな変化があるとは思えません。一方で「二次創作で穂乃果ちゃんに人殺しをさせる行為」は、「普通の女の子である穂乃果ちゃん」にとってかなりの心的負担を負わせることになるはずです。

かなり極端な例になりましたが、カプ解釈においても同じだと思います。

これまでの設定を改めて持ち出しますが、原作としては「AはCの顔が好き」で「Bは小さいころからCのことがずっと好き」です。その好意はどちらもCに向いています。しかし、もし仮にAとBのことが大好きな人がいて、「絶対にABがいいんだ」という気持ちで創作をするとします。その場合、オタクは「Cの顔が好きなA」と「Cのことが小さいころからずっと好きなB」を否定することになるわけです。

他の人はどうかわかりませんが、少なくとも自分は、その行為はキャラにとってかなり残酷だなと感じます。なぜならそれは「キャラ(A,B)の好き」という気持ちを犠牲にして、「オタク(二次創作者)の好き」という気持ちを成立させているに過ぎないからです。もっと簡単に言うと、二次創作者は「自分の好き」と「キャラ(に意思があると仮定した場合)の好き」を天秤にかけていて、顔カプのオタクは「自分の好き」を優先させている構図になります。

ここが非常に難しいところで、自分の意見は「キャラの外見ではなく内面を見よ」と言っているのとほぼ同じです。幸いにも自分はキャラの内面から好きになる性格をしているため、公式設定と解釈違いを起こしたことはありません。多分。

しかしながら、基本的に「顔がいい」二次元キャラクターの外見を好きになるなというのは無理な話で、現実においても一目惚れという概念がある以上、二次元キャラを外見から好きになる人が少なくないわけがありません。それに外見だってキャラの属性の一部なのです。

以上から、自分は顔カプのオタクが存在することは仕方ないと思いますし、直接は特に何も言いません(そもそも言う権利がありません、呪詛のような愚痴はめちゃくちゃ言いますが)。一方で、「自分の好き」と「キャラ(に意思があると仮定した場合)の好き」を天秤にかけたうえで「自分の好き」を優先させる態度には怒ってしまうわけです。

それは、先述のとおり、

①キャラクターは抗議の声を上げることができないから

という原則のうえに胡坐をかいている点でもそうですし、

②設定を改変することは、現状を認めていないことと同義だから

という観点から見ると、どうしても(ありのままの)キャラを大切にしていないように見えてしまうからです。

 

勿論、こういう書き方をすると「あたかも自分は『キャラの好き』を一切犠牲にしていないかのようですね」と言われます。

つまり、自分のようなカップリング厨への常套句として、

「原作におけるキャラは基本異性愛者(キャラの好き)であり、同性愛者(自分の好き)に仕立て上げるオタクこそ設定改変者である」という言説もありますし、

「自分の推しカプがあたかも『正解』であるように言うけどその根拠は?」

ということも言われます。これに関しては、Mさんから言われた②に通じるかと思います。

 

で、これらに関しては原作をよく読んでくださいとしか言いようがありません。

結局、顔カプを批判するにしても、自カプの正当性を叫ぶにしても、必要となるのは「キャラの好き(正解)」をどこまで論理的に説明できるかという点に尽きると思います。

そして、それを論理的に説明するためには、出典を明記した(しなくてもいいです)原作の設定が必要となるわけです。

 

さて、かなり脱線してしまいましたが、そろそろまとめに入ろうかと思います。

改めて見返しますと、Mさんの質問としては

①Mさんは地雷カプの概念を持たない雑食で、カプにおける「正解」を求めようとするスタンスに疑問がある(同一のキャラを含む異なるカプが両立する、なぜ一つに決定するのか、勿体ない)。

というものをいただいていました。

そして、その回答として、

・「作品として成立している以上、必ず関係性の描写は盛り込まれ、またその設定が物語る関係性の方向は何等かの傾きを持っている」という前提のもと、その解釈にも「正解」が存在するのではないかと考えている。

が自分のスタンスであることを説明しました。

 

また、自分にとっての地雷カプへの怒りの概念として、

①キャラクターは抗議の声を上げることができないから

②設定を改変することは、現状を認めていないことと同義だから

 

を踏まえたうえで、地雷カプのオタクの

「キャラ(A,B)の好き」という気持ちを犠牲にして、「オタク(二次創作者)の好き」という気持ちを成立させているに過ぎない

というスタンスに怒りを覚えるという話でした。

最後に、自分のカプが「正解」かどうかを確かめるには

「キャラの好き(正解)」をどこまで論理的に説明できるか

に尽きるという話をしました。

納得(はしないにしても、理解は)していただけたでしょうか。

 

 

さて、次はいよいよ自カプの正当性を論理的に説明する記事となります。

書けたらこの文章の下あたりにリンクを貼っておきますね。本日中に書けるかはわかんないです。気長に待っててください。

 

ですが、最後にこれだけ。

※すべて個人の感想です!!!!

 

【追記210209 0:09】日付は超えましたが書きました。

 (2/2)はこちらです。

negishiso.hatenablog.com

 

【さらに追記210209 0:14】

この記事を投稿してから早速リアクションがもらえました。

この記事の一部の内容への批判となっておりますが、非常に興味深い文章かと思います。(どちらの方がという判断は、割と疲れている今は無理なので別日に回したいと思います)ぜひとも皆さんはこちらの方の文章にも目を通してみてください。貴重な意見を投稿していただきありがとうございました!

以下本文です。

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https://negishiso.hatenablog.com/entry/2021/02/08/184649


こんばんは。
本日のカプ解釈記事、非常に興味深く拝見しました。
そのなかで2点ほど思うところがあったので送らせて頂きます。
元のマシュマロを送った方(Mさん)とは全くの別人、部外者です。
ラブライブをほとんど知りませんが、一介のオタクとして意見させて頂きます。
ねぎしそさんを非難したり、ねぎしそさんの推しCPの正当性を疑うつもりは毛頭ありません。
(そもそもほのうみが誰かよく知らないので)


1点目は重箱の隅をつつくような、大したことのないイチャモンです。
まず、①の回答「作品には基本的に関係の勾配が存在する」は仰る通りだと思います。
ただ、具体例の説明内の "情報の追加によって「ABCにおける関係性」はどんどん狭まっていく" という1文にはやや引っかかりました。ここで挙げられたABCの例は、あくまでねぎしそさんのこの持論を補強するために都合よく作られたものです。
複数のキャラが登場するあらゆる作品・物語で、この「情報追加に比例して関係は固定され狭まっていく」という法則が成り立つとは到底思えません。

物語が進んだり、メディアミックス等で参照すべき"原典"が増えるに従って、あるキャラの様々な側面が描かれ、多様な関係の可能性が生じることは容易に考えられます。
例えば1期に登場しなかった2期からの新キャラとの関係の余地が生まれる、とか。(具体的な作品名を出せ、と言われたらよく知りませんが……)

思うに、"法則"が成り立つか否かはコンテンツのジャンルによって大きく変わるのではないでしょうか。
ねぎしそさんの主戦場であるラブライブ、あるいはより射程を広くとって2次元美少女コンテンツの主なファン層が百合的なキャラ消費を好むのであれば、そう消費しやすいように作られることでしょう。つまり商業コンテンツである限り、早い段階でCPが固定されるか、あるいは様々な選択肢を残すか、といった方向性の舵取りは需要と供給の折衝によって決定されるのであって、まったく別のタイプの需要を持つ消費者がメインのコンテンツであれば、"法則"は成立しなくなると思われます。

また、次の文 "そして、それは原作を深く読み込むことでしか得られない行為です。" にも引っかかります。「深く読み込む」と、あたかも1次元(スカラー)的に作品受容の程度が測られるような言い回しを用いていますが、雑に言っても「どの方向に深く読むか」は一方向ではないはずです。

この読みは深い、この読みは浅い、といった価値判断は結局、自分の推しCPの正当化に都合がいいかどうかといった恣意的な基準しかないと思います。深く読めば読むほど、一見自明に見える王道(幼馴染?)CPではない、描写の薄い関係に可能性が見いだされることもあるかもしれません。「同じコマにいたから2人は付き合ってる!」という定型句がありますが、「深く読む」ことと「妄想する」ことのあいだに絶対的な線引きはなく、両者はグラデーションで繋がっているのではないでしょうか。
(余談ですが私も幼馴染CPは好きです)

長くなりましたが、以上が重箱の隅をつつく1点目です。


2点目は、記事の後半の「キャラの感情とオタクの感情のどちらを尊重するか」という議論についてです。
ねぎしそさんは「①キャラクターは抗議の声を上げることができないから」せめてキャラの尊厳を守るために、なるべく原作の設定を遵守する、という立場であると読みました。そして、顔カプなどのオタクは自分の好みを優先してキャラの尊厳を毀損しているから残酷である、と。

わたしはこれに異を唱えたいです。わたしの立場は「キャラクターはそもそも生きていないのだから、何を2次創作しようがキャラの尊厳を損なうことは原理的にあり得ない。『残酷』だと感じるのはどこまでもキャラの部外者であるオタク自身(ex.ねぎしそさん)であって、キャラ自身の尊厳を人質のように持ち出すのは卑怯だ」というものです。
ねぎしそさんは「キャラーオタク」という関係下での倫理の話をしているのに対し、わたしはその関係を信じず、キャラやコンテンツを依り代とした「オタクーオタク」の関係があるのみであると考えます。

つまり、オタクがオタクに文句を言うのは何も問題はないのですが、そこにキャラの尊厳だのキャラがかわいそうだのという理屈を持ち出すのがタブーだと思うのです。
キャラの尊厳というなら、そもそも2次創作それ自体が問題になると思います。
愛し合うABというCPがいたとして、ABがイチャイチャする2次創作を描くのは「ABにとって」良いことなのでしょうか。わたしはそうは思いません。「AB好きのオタクにとって」は良いことでしょう。でも、それだけです。キャラの尊厳を持ち出すのは、AB推しのオタクが都合よく理論武装するための方便としか思えません。2次創作はどこまでもオタクが自分自身のために行う行為であって、キャラの尊厳を守るなどという正義感にまみれて行うものではないと思うのです。

「俺はABのために2次創作をしてやっているんだ」と本気で思っているオタクがいたら恐ろしくないですか?2次創作は自分が自分を救う・満足させるために行われるべきです。
2次創作は自慰行為であって慈善行為ではありません。
原作外で幸せを感じる機会が増えたことで、ABの尊厳は守られているのでしょうか。いえ、2次創作の時点で「余計なお世話」であり、ある意味で「暴力」なのではないでしょうか。

わたしは2次創作がダメだと言っているのではありません。著作権もここでは関係ありません。

全ての2次創作は「自分が楽しいから」というエゴにのみ駆動されて行われるべきものであり、エゴを取り繕ってキャラの尊厳やら幸せやらのために自分が「してあげている」のだという気持ちが少しでもあったら、それは健全な創作態度であるとは言えないとわたしは思います。(いや、作品と自己の境界があやふやになるほど入れ込んで狂ったオタクが「ABのためにしてやっているんだ!私が作らなきゃABは報われない!」という衝動に突き動かされて2次創作に邁進する姿はそれはそれでひとつのオタクのあるべき(不健康な)姿だとも思いますが……これはあくまで「狂った」というエクスキューズありきの事例であって、他者に理知的に説得する(ねぎしそさんが元記事で行っているような)レベルでの正当性は保てないでしょう)
まとめると、原理的にあらゆる2次創作は原作やキャラへの暴力性を孕んでおり、オタクはそれを自覚した上で、「自分の快のために」好きなように2次創作を行うべきである。他人の2次創作を「自分の好みに基づいて」称賛したり非難したりするのも自由だが、そこに自分の快不快を越えた「キャラの尊厳」などの外部の要素を持ち込むことはそれ自体が自らのエゴイズムを覆い隠さんとする欺瞞である、ということです。
顔カプのオタクに文句を言うのはまったく問題ありません。しかし、それは正義の名の下に行われるべきではなく、あくまでねぎしそさん自身の「原作カプを愛でたいし、それ以外が目に入ると不快だ」というエゴの下で行われるべきだと思うのです。

元記事では
「①キャラの尊厳を守るべき」→「だから原作カプのほうが正しい」
という順番になっていますが、本当は逆で
「私は原作カプを愛でたいしそれ以外が目に入ると不快だ」という思いがまずあって、そのエゴに客観的な正当性を纏わせるために「①キャラの尊厳を守るべき」という"宗教"をでっち上げているのだと思いました。

"一方で「二次創作で穂乃果ちゃんに人殺しをさせる行為」は、「普通の女の子である穂乃果ちゃん」にとってかなりの心的負担を負わせることになるはずです。"
とありますが、穂乃果ちゃんが人殺しになることで本当に心理的負担を負うのは、穂乃果ちゃんではなく「あなた」ではないですか?それを「穂乃果ちゃん」へとすり替えてはいませんか?勝手にキャラに心理的負担を負わせて自分の願望の充足を達成する行為のほうが、わたしには「人殺し穂乃果ちゃん」の2次創作をする行為よりも"正しくない"と思えます。

 

めちゃくちゃ長く、読みにくくなってしまいすみません。
書きながら自分の意見にも様々な粗というか疑問点が浮かんできました。
例えば上の主張では「原作と2次創作には絶対的な隔絶がある」ことを前提としていますが、漫画原作のアニメ化作品のように、どこまでが原作でどこまでが2次創作なのか一概には言えない案件は多々あります。また、原作至上主義にまでなってしまうとそれもわたしの本意ではありません。
それから「キャラは生きていない」すなわち「フィクションとリアルには絶対的な隔絶がある」という前提も、VTuberなどの台頭により自明視することはできなくなりつつあるため、フィクションをめぐる倫理的態度の問題はまだまだ考える余地があると感じています。

非常に興味深い記事をありがとうございました。
おかげさまで考えが深まり、整理され、課題も多く見つけることができました。
これからもTwitter/ブログの更新を楽しみにしております。
またいつかお話しできたらうれしいです。

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以上【追記終わり】