新薬史観

地雷カプお断り

キャラ・関係性についての考えを更新……

これまでの自分は、「キャラの関係性(カプ解釈)」を「正しいキャラ解釈」の側面として取り扱ってきたのだが、最近はその「正しさ」への拘りが薄れつつある。有益な書籍や論文を大量に読んでいるわけではなく、相変わらず稀に本を読んで、たまに人と話して考え続けているだけなのでめちゃくちゃ視野が狭い可能性はあるけれど、念のために覚え書き。

 

 

①キャラの分析可能性

これについては譲れなくて、やはりキャラは各媒体でセリフや行動が可視化され、鑑賞者が参照できる点で分析の対象となる*1。また、そのキャラが行うセリフや行動はすべて「設定」という有限の単語、あるいは文章の連なりによって規定されるもの(=「正解」が用意されているべきもの)であるから*2、最終的には鑑賞者には開示されていないそれらの語をすべて明るみにすることこそが、鑑賞者の知的好奇心やそのキャラへの愛情を刺激するものだと考えている。好きな人(キャラ)のことは何でも知りたい、という愚かしい感情によって誘発される行動が「キャラ分析」であるが、そのなかでも特に「私(キャラ)は〇〇が好き」という設定の一文を引きずりだすこと、あるいは有限の設定から考えられる「最も妥当な方向性」を定めることこそが「正しさ」を求めるカプのオタクのゴールである。

 

②「最も妥当な方向性」について

およそ1年前(!)のことになるが、ここら辺については知り合いから突っ込まれている。

negishiso.hatenablog.com

この時はマジでクソみたいな回答をしていて、今でも削除したい記事ランキングのTOP5に入るのだけれど*3、今ならもう少し落ち着いた考え方ができそうな気がする。ここで突っ込まれたのが、

(1)情報の追加でキャラの関係性がどのように変容するかは作品によって異なる

(2)キャラの背後にある「正解」をどのように解釈しても、キャラは悲しまない(悲しんでいるのはオタクだけ)

このうち(1)はマジでその通りで、結局最初に「分析(完了)可能なキャラ」を明確に定義できていなかったから話がややこしくなったんだなと反省している。当たり前の話だけれど、分析という行為そのものはデータさえあれば適当にやれるが、分析を「完了」するには手元にすべてのデータがそろっている必要がある。キャラのデータが原作やコンテンツ展開の終了時まで更新され続けることを考えると、設定が追加されていく状態のキャラに対して「分析完了!」と叫ぶのは早計であるし、設定の不足と妄想による補足は不適という立場において同じである。

では人は(先行きの見通せない)コンテンツの終了まで「正しい」キャラ解釈をしないべきか、というのは明らかに二次創作への姿勢としてgoodではなくて、結局は「今」にフォーカスした分析をするしかないのだろう*4。つまりその分析とはキャラ設定の不足を前提とした解釈で、「正しさ」から距離を取る態度に他ならない。

ゆえに私はそもそもの「正しさ(ゴール)」を再設定する必要があり、それを今回、「キャラがキャラと結んだ関係そのもの」にシフトしようと試みる。このように書くと何か新しい判断基準を用いているように見えるが、なんてことはなく、ほかの人がやっているような当たり前のカプ受容に遠回りしてようやく辿り着いただけのことである。アホらし。

ただ、自分の根本的な態度は変わることがなく、あくまで大切にしたいのはキャラの設定に沿った関係性(正しさの尺度はここにはない)である。要するに、原作において「〇〇が△△に□□という言葉を投げかけた事実(あるいは、△△が〇〇から□□という言葉を投げかけられた事実)」それ自体を大切にしていくのだ。こうすることにより、後に追加設定として「〇〇の△△への態度はすべて偽りのものだった(本心ではない)」というエグい事実が追加されようとも、「△△が〇〇から□□という言葉を投げかけられた事実」は打ち消されるものではない。事実に対する解釈は経時変化するが、その時その場にあった事実は揺るがないのである。これを恋愛の文脈に寄せると、「いろんな相手と交際したうえで別の人と結婚したとしても、それぞれの人間と交際した事実はなかったことにはならない」ということになる。わざわざその点を重視するということは、最近若者の間で流行っている「結婚は恋愛のゴールではない」論を支持することに繋がるだろうし、事実、自分はそのように考えている。

ただ、そう考えているのは自分でありキャラではない点には注意が必要である。自分は(2)で指摘されているとおり、実際には生きていないキャラを生きていると感じるタイプのズルくてヤバいオタクではあるが、その観点から言えば、キャラを「結婚はゴールではない」規範に落とし込むことはキャラの設定(DNAそのものであり、少しの変更で別人となる)を侵害することに繋がる。

事例を挙げれば、ラブライブ!園田海未は家柄もあり非常に古く厳しい価値観を持っている。彼女はこれまでの園田家の伝統を重んじているし、映画のキスシーンは「破廉恥」であるし、結婚は異性間で行うべきものだと思っている。一方で、高坂穂乃果という幼馴染によって海未の価値観がゆるやかに崩されているのも事実ではあるが、果たしてキスすら恥ずかしくて直視できないような彼女が「結婚は恋愛のゴールではない」という規範を素直に受け止めることができるかと言えば、そうはいかないだろう。

彼女が上の規範を受け入れるためには、原作で描かれた園田海未の設定(DNA)に、(規範への踏み台となる)二次創作によるジェネリックDNAを付け加える必要がある。この(治療)行為は、キャラの同意を得ていないにも関わらず、DNAという非常に大事な核に触れるという点において「加害性」を孕んでいるのは間違いないだろう。ただ、現実では国家資格(医師免許)の獲得によって生身の人間にメスを入れる行為が許容される現状を鑑みると、「キャラ」の意向さえ確認できれば、第三者であるオタクが二次創作をするのも許容され得るはずである。もちろん、そこにはある種の資格が必要となるだろう。そして、それはおおよそ次のような文章を厳守する、ということによって果たされることになるはずだ。なぜなら医師国家試験も、結局は「この症例にはこのように対応します」というガイドラインの遵守度を計測するものに他ならないからだ。*5

umamusume.jp

これを踏まえると、重要なのは「果たしてキャラは改変を望んでいるのか」という問題になってくる。

 

③キャラは痛みを感じるのか

この辺りの話は、先述の削除したいブログにて突っ込まれている(2)の話が該当するだろう。自分はあまりうまく返せていないのだが、代わりに知り合いがいい感じに言ってくれていて助かった(→)。

さておき、今の私の意見としては『キャラそのものは神経を持たないので痛覚はないが、キャラに感情移入をして「このキャラも傷みを感じる」と信じる存在が私であり、そのような人間の集合体のなかでは、確かにキャラは痛みを感じる』という流れになる(ややこしい!)。

この辺りについては、下の書籍から多くを学んだ。

〈現実〉とは何か ──数学・哲学から始まる世界像の転換 (筑摩選書) | 西郷甲矢人, 田口茂 | 哲学・思想 | Kindleストア | Amazon

 

めちゃ端的に言えば、圏論現象学を結びつつ、現実は「未知数」ではなく「不定元」だと主張する本である。今回の話において重要となる第四章の前半では、「置き換え可能性」について議論が深められている。

要点は以下の通りだ。

・「私」という語は、誰が言うかによって内容が確定する語(偶因的表現)であり、誰もが「私」と言いうる限りで置き換え可能である。ここに普遍と個が同居している。

・カント倫理学「道徳形而上学の基礎づけ」では、できる限り格律は普遍化可能なものにせよと述べている。ここには固定化ではなく無限に開かれた「置き換え」こそが問題になる。まず「私」という自分がいて、私ではない他者がいるが、置き換え可能性ゆえに「殺してはいけない他人」となり、他人を殺すことは自分を殺すことに等しくなる。

・「他人を殺してはいけない」という倫理を置き換え可能性の観点から考える際に、自分と他人の個々の問題もおろそかにしてはならず、固着してもいけない。前提として「私は殺されたくない」という意志を持っていることが必要となる(個体を置くことで置き換え可能性(普遍)が生まれ、置き換えによって個体の性格が照らし出されるのだ)。

 

上記3点に加え、③の冒頭で引用した記事による「フィクションを楽しむ=物語のなかに身を投げること」という話を踏まえると、

物語を楽しむ「私」=物語の中の「私(キャラであることが殆どだ)」*6

の繋がりを見ることができるのではないだろうか。

ここで、「=(置き換え可能性)」に注目したい。重要なのは、『どちらが本当の「私」か?』という疑問でもなく、『どちらも本当の「私」だ!』という開き直りでもない。「私」とは「=」という関係のなかにこそあるのだ。

この辺りの論理は上の本を実際に読んでもらうとして、自分は大いにこの流れに乗っていきたいのだが、念のために具体例を挙げておく。

例えば、物語を楽しんでいる「私」が誤ってページの端で指を切ったとする。それは確かに「痛い」。一方で、物語の中で感情移入をしているキャラが同様に指を切ったとする。その時、物語を読んでいる「私」が生理学的な痛みを感じることはないが、「うわ、痛そ〜」くらいには思うのではないだろうか(ここに共感できなければ、残酷ではあるが脚を包丁で切られそうになっているワンコの映像を想起してみるのもいいかもしれない)。その「現実-物語内」の痛みをどこまで「=」として捉えることができるか。その等号の程度に「私」がいるのだという話である(もちろん、完全なる等号が成立するのは極めて稀だと考えられるが)。

ここにおいて、「結局痛みを感じているのはお前だけじゃないか」という反応がありそうなので先手を打つが、「そもそもあなたは自分以外の他者も同じ痛みを感じていると断言できるのか」という話に持っていきたい。「実際に叩くと声を上げて痛がるから」ということであれば、それも実践的なやり方ではあるが、それでは叩けば声を上げる機械を作れば機械は痛みを感じることになる。

今、ヴィーガンをはじめとする動植物への痛みに関心がある人々が「他者は痛みを感じているのか」という問題において採用しているのが、神経によって痛み受容がなされているかどうかという判断基準だと思うが(これは又聞きなので突っ込みどころ満載です)、この手法もあくまで切り口のひとつに過ぎず、他の選択肢が考慮されていない点で問題である。

要するに、「キャラは痛みを感じるのか」という議論は「他者は痛みを感じるのか」という議論に拡張でき、その解法のひとつとして『他者の痛みは「私」と置き換え可能な他者(すなわち「私」)とを結ぶ等号のなかにしかない』というように提示したい。

さらに、引用した書籍の2番目の主張として挙げている、「倫理は『私』の置き換えによって成立する」という前提も押さえておくべきだろう。これも諸説あるだろうが、人を殺されたくない人が組織を形成するから「人を殺すな」という制限が生まれるのであり、『東京卍リベンジャーズ』を初めとする様々なヤクザもので暴力がまかり通っているのは、「俺は拳でしか語れないので暴力はOK*7」と考えている個人のなかの世界だからである。

以上のことから、キャラそのものは神経を持たないので痛覚はないが、キャラに感情移入をして「このキャラも傷みを感じる」と信じる存在が私であり、そのような人間の集合体のなかでは、確かにキャラは痛みを感じることになる、という主張に落ち着きたいと思う。

個人的には大真面目ではあるものの、やっていることは『グッバイ、レーニン!』と同じであるし、こうして書いていることも詭弁に過ぎないことを自覚している(何故ならキャラクターは現実には存在しないので)。ただ、自分には「存在しないから」というだけで、その者のあらゆる権利を棄却してしまうのはやや早計であるように感じてしまうのだ。*8

個人的には、人間は目に見えない神を実在するものとして長年認識し続けている実績と素養があるのだから、時期や政治情勢や訴求手段などがあらゆる向きで適切であった場合、一部の国や州ではキャラの権利が認められるのではないかと考えていさえする。

とはいえ、最終的にこの主張の行き着く先は「一切の創作物の創造の禁止」や思想警察と同様のものになると考えているので、明らかにそれは創作物の可能性を狭める点において誤りだろう。そのようにすると、やはり「キャラの権利」とは二次創作においてのみ適用されるものであり、最も妥当なラインとして先述の「ウマ娘の二次創作ガイドライン」に行きつくのではないかと考えている。尤も、このガイドラインが遵守されていないことは某イラスト投稿サイトで「ウマ娘 R-18」と検索すれば一目瞭然なので、今後どれだけ時間をかけても、自分が主張するような規範は決して全人類に染み渡るものではないだろう(むしろ理解されると恐怖を感じる)。

結局のところ、人は他人の権利より自分のエロスを優先する生き物であり、その欲望によって想像力が育まれていることを鑑みれば、私から言うべきことは何もないように思えてくる。

*1:逆を言えば、人が普段分析の対象にならないのは目の前に参照できるデータがないからであって、ドライブレコーダーに近しいデバイスとして普段から接している友人の「セリフ」や「行動」のすべてを録画・録音できる携帯装置が将来的に開発された場合、人もキャラと同じような「分析」の対象になるのではと思ったりする

*2:これを自明なものとして進めていいのか毎回悩む

*3:時間があったら「自分のブログで削除したい記事ランキング」とか発表してもいいかもしれない

*4:逆に言えば、原作の終了したコンテンツは分析完了可能である

*5:医学ミリしらなのでエアプをかましています

*6:私の場合

*7:ただし何故か薬(ヤク)はダメなことが多い

*8:というのは綺麗事で、実際には地雷解釈のオタクを何とか出来ないものかという処罰感情から考え始めたことは認めなければならない