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河村智之『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会TVアニメ2期』観た!

河村智之『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会TVアニメ2期』(2022)

ストーリー | TVアニメ | ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

【総合評価】6.5点(総合12点:全体10点+百合2点)

【作品の立ち位置】

オールタイム・ベスト・コンテンツ(10<x)

ガチで大事にしたい作品(9<x≦10)

積極的推し作品(8<x≦9)

オススメの手札に入る作品(7<x≦8)

まずまずな作品(6<x≦7)

自分からは話をしない作品(5<x≦6)

時間をロスしたと感じる作品(x≦5)


【世界構築】1点 (2点)

スクールアイドルながらもプロ顔負けのライブ演出ができるのに対し、学園内で完結しているような規模感がちぐはぐで、世界観としてあまり説得力がなかった。どうせあそこまでデカいライブイベントをするなら『咲-saki-』のようなぶっ飛んだやり方*1で表現してほしかった。いや、確かに海外にファンがいる描写はされている。しかしどうしてもぬぐえない身内感があるのだ。『ラブライブ!The School Idol Movie』でμ'sが帰国後に見たような光景のような、絶対的なインパクトがあれば嬉しかった。まあ、学園内の同好会の乱立ぶりを見るに、あくまでスクールアイドルも数ある同好会のうちのひとつでしかないのだろうが、それにしてはライブ演出がプロじみており、あまり「スクールアイドルの舞台」としての説得力を感じられない。プロの舞台で女子高生が歌っているのであれば、それはもうただのアイドルである。

 

【可読性】1点 (1点)

飽きずに見ることができた。


【構成】1.5点 (2点)

本作の意義は、完全にキャラ諸共破滅していたスクスタの救済にあることは言うまでもなく、それは見事に達成されていると思う。素晴らしい。虹ヶ咲のキャラを救ってくれて本当にありがとう(からかいなしで本当に感謝しています)。ただ、それ以上のプラスアルファになる素材がなく、キャラのうまみである「(真剣な)葛藤」が強く描写されていないように感じた。もちろん13話で描くには無理のある内容だったのだとは思うし、表面的には非常になめらかなストーリーになっている。とはいえ、見ていてハラハラするような展開はなく、1期のようにテンポよくキャラ一人ひとりを分解していくわけでもなかったので、もう少しテンポの良さやスリルを楽しみたかったし、キャラの葛藤を見たかった。

 

【台詞】1点 (2点)

特に響いたものは無く、掛け合いもまあまあという感じだった。

 

【主題】0.5点 (2点)

話の展開に起伏がなく、キャラの掘り下げも弱いため、原作知識のない新規層にとっては没個性的にすらなったのではないかと思えた。それなのに、作品のテーマは「個性獲得の賞賛」だったので、あまり説得力は感じられなかった。

 

【キャラ】0.5点 (1点) 

キャラが抱えていた問題は実はそれなりにあって、(スクスタでの)栞子は徹底的なコスパ厨であるところや、正論こそがすべてだと信じているところに強い魅力があったし、ランジュも友達作りがわからないということのほかに、「プロのアイドルにも負けないスクールアイドルの魅力とは何か?」という面白いテーマになりうる思想を持っていたところが魅力だった。ミアも舞台に立つことをもっと恐怖に感じていいし、璃奈ちゃんもボードがないことを不安に感じていいはずだった。すべてのキャラが浅く拾われている。個人的には、あまりいいことだとは思わなかった。

 

加点要素

【百合/関係性】1点 (2点)

ゆうぽむ、ランしお、りなあいあたりは好きでした。

先述のとおり、もう少し掘り下げてくれればよかったのですが。

 

【総括】

本作でもっとも注目すべき点は、アイドルの価値を転覆していることだと考えている。個人的には、二次元を含めたアイドルは「何者にもなれない自分の代わりに夢を叶えてくれる、叶えるために頑張る」ところに職業的意義があると感じている。もちろん、地下などでは「単に顔がいいから」「観ていて癒されるから」というのもあるが、熱狂的なゾーンに入ると、アイドルの応援は一種の読書体験のような雰囲気を帯びるように感じる。私たちはライブや配信を見ながら、現実や自分の人生を忘れてアイドルやアイドルの人生そのものに感情移入をする。自分事になるから推しには貢ぐし、お揃いのものを買いたいし、大切にしたくなる。至極簡単に言えば、アイドルは私たちに現実ではなく夢を見せてくれるのだ。

一方で、本作で描かれるアイドル(スクールアイドル)はそうではない。スクールアイドルは私たちに夢を見せてくれる一方で、現実も見せてくる。最終話にして裏方なのに舞台に上がり、アイドルと同じ高さでピアノまで弾いた高咲侑が言ったではないか。

 

「次は、あなたの番!」

 

えっ、俺の番なの?

困ったことに、どうやら俺も夢を叶えなくてはいけないらしい。

これをどう捉えるかはあなた次第だが、個人的にこの働きかけはアイドルの機能不全であるように考えてしまう。アイドルとは、自分の代わりに夢を追いかけてくれるところに救いがあるのだ。応援するから私は夢を追いかけなくてもいい。私は安全圏で人生の賭けに出た美しいあなたを見ている。こんな自分にでも、あなたは夢を見せてくれる。もはやその夢が現実にすらなっていく。応援してくれる人数に関係なく、ひとりでもそう思わせてこそのアイドルだと自分は考えている。だって偶像だし。

それなのに、アイドルの応援だけで観客を満足させられないのであれば、もはやスクールアイドルは機能不全に陥っていると捉えてもおかしくないだろう。あるいは機能不全(それは例えるならゲーム画面が真っ暗になったときに自分の顔が映りこんでしまう、あのがっかり感に近い)を提供するアイドルこそがスクールアイドルなのかもしれない。*2

これはSNSの発達によりアイドルと観客の接近(つまりスクールアイドル)、および受け取り手が応援だけでは承認欲求を満たせなくなったという点にも原因はあるかもしれないが、とにかく観客は輝くことを求められている。もっともその手段は何でもよくて、人の心を感動させれば誰でもスクールアイドルだというのが本作の主張でもある。

一方で、本作のライブの感動は、集合体と化したオタクのサイリウム演出によってもたらされている。そこに自我はなく、個性なんてどこにも見当たらない。演者の気持ちを一瞬で汲み取り、その場に合わせたもっともふさわしい色変えを行う。まるで集合的意識をもった存在であるかのように。このように、私たちはスクールアイドルを応援するためには個性を殺さなくてはいけないにも関わらず、スクールアイドルからは「次は君の番!」と言われなければならないのである。非常に手厳しい。スクールアイドルがオタクに求めているのは、現実と夢との間の激しい反復横跳びである。自分には、体力のない大多数のオタクにそんな無茶はできないと思う。そもそも、体力がないからオタクになって、夢がないから夢のあるアイドルを応援しているのでは?

個人的に、無印時代のスクールアイドルは、アイドルという限りある美貌を消耗していく美しい存在を、より時間軸を強調するかたちできれいにしたものだと思っていた。子供である彼女たちにできることには限りがある。それでも自分たちだけではなく、私たちを含めたみんなの夢を抱え込もうとする姿勢に私たちは感動して、スクールアイドルが抱えた夢と自分の夢をすり合わせていったのだ。そのライブのような一体感こそが、スクールアイドルを追いかける魅力にもなっていた。

しかしながら、虹ヶ咲が提案するスクールアイドルの姿は、あまりにも当時のものとかけ離れている。もちろん、ずっと同じである必要性はどこにもないし、スクールアイドルも変わり続けていくのかもしれない。けれども、個性を極限まで高め、団体であることをやめた自分基点のスクールアイドル活動の矛先が、応援する私たちにまで伸びるのであれば、それは一種の価値観の強要であるようにすら感じてしまう。問題なのは、観客のなかにはそのようなことを求めていない人もいるのに、ということである。アイドルからもらった元気をどのように現実に還元するのかはその人の勝手であり、ふたたびその元気を夢につぎ込んでもいいはずだ。それを無理やり現実と結びつけた虹ヶ咲の姿勢に、自分は完全には賛同できない。帰り際に手を振りながらミッキーが言っていい言葉は、「また来てね」であり、「明日のお仕事頑張ってね」ではないと思うのだ。

ディズニーランドに行ったことはないけど。

*1:あの作品の麻雀の絶対的な立ち位置は、プロによる解説や大人の実況に支えられているのは言うまでもない。大人からの承認や、プロとの接続が非常に重要になってくる

*2:個人的にはぜひ後者の定義を推したい