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『きみの色』評価・感想(ネタバレ有)

※この記事にはネタバレがあります。未視聴の方は十分お気をつけ下さい。

山田尚子『きみの色』(2024)100分、日本

<あらすじ>

全寮制のミッションスクールに通うトツ子は、うれしい色、楽しい色、穏やかな色など、幼いころから人が「色」として見える。そんなトツ子は、同じ学校に通っていた美しい色を放つ少女・きみ、街の片隅にある古書店で出会った音楽好きの少年・ルイの3人でバンドを組むことになる。離島の古い教会を練習場所に、それぞれ悩みを抱える3人は音楽によって心を通わせていき、いつしか友情とほのかな恋のような感情が芽生え始める。

あらすじ引用元

きみの色 : 作品情報 - 映画.com

公式サイト

kiminoiro.jp

 

【総合評価】11点(総合12点:全体10点+百合2点)

【作品の立ち位置】

オールタイム・ベスト・コンテンツ(10<x)

ガチで大事にしたい作品(9<x≦10)

積極的推し作品(8<x≦9)

オススメの手札に入る作品(7<x≦8)

まずまずな作品(6<x≦7)

自分からは話をしない作品(5<x≦6)

オススメできない作品(x≦5)


【世界構築】3点 (2点)

いきなり自分語りでアレなのだが、最近は濱口竜介の「他なる映画と1」を読んでいることもあり、「カメラをどこに置き」「どこからどこまでカメラを回すのか」という映画監督の選択に強い関心を抱くようになった。勿論、実写・アニメ問わず、その映像の露出やフォーカスをどのように決めるかによっても画の印象は違って見えるのだけれど、そこら辺の撮影処理の仕方であったり、あるいはそれぞれのカットをどう繋ぐかによっても映像のテンポは大きく変わる――ということを本を読んで意識し始めたタイミングだったので、「きみの色」でもそういう視線で見ようと思ったのだが、多分それは素人がいきなりやろうとしてはいけないやつで、鑑賞する間に完全に「きみの色」の世界に取り込まれてしまった。

まあこんなことを書くと、これまで何も考えずに映画を観てこなかっただけだろというツッコミが入りそうだし、事実その通りなのだけれど、実際「きみの色」の作品世界は非常に高度なレベルで組み上がっているように思う。

例えば最初に登校するシーンでは、登校する女生徒の脚、学校の敷地の俯瞰、また女生徒の脚、今度は坂道、路面電車……みたいな感じの8カット(かな?)を連続する女生徒のはしゃぐ声だけで繋いで「登校」というワンシーンを作っていた記憶があるのだけれど、そこに映る風景の美しさやピントのずれ方も気持ち良いし、途中で俯瞰のカットが入るのも気持ち良い。他にも幼少期トツ子のバレエのシーンでは、レンズが手ぶれで少し揺れていて、挫折したトツ子の心情が分かりやすく伝わっていたような気がするし(ブレてなかったら笑う、恥ずかしい)……とか何とか書いていると本当に時間が足りなくなるので切り上げるが、とにかく制作陣が詰め込んだひとつひとつの豊穣な要素を受け止め続けようとした結果、気が付いたら文化祭のライブになっていて、そのライブがこれまた素晴らしいので、めちゃくちゃ気持ちの良い映像体験が出来た。

まあ、シナリオはそこそこだったのだけれど、それでもそれを補って余りある美しい作品に仕上がっていたように思う。やはりこの映像体験は山田尚子でしか味わえない、唯一無二のものだと思う。とても良かったです。

 

【可読性】1.5点 (1点)

上記の通り、作品に呑み込まれるという体験が出来たのでこの点数。IMAXだったのが良かったのかも。

 

【構成】1.5点 (2点)

本作のシナリオをつまらないと評する声をよく見かけるが、私からするとしっかり捻りとなるイベントは定期的に起こっているし(きみの退学、バンドの結成、きみとトツ子のお泊まり、三人の合宿など)、山田尚子の世界を静謐に支えながら、ラストの文化祭まで導き観客の感情を爆発させる手腕は特に批判されるものではないと考えている。

ただ、きみやルイの抱えている葛藤がいずれもささやかである(ように感じる)点、トツ子が何をしたいのか明確ではない点は、観客の集中を持続させるためにはやや力不足であるように感じた。尤も私の場合は、カメラが捉えている映像の美しさにずっと釘付けになっていたので飽きることは無かったのだけれど、そういうものに興味がない観客からすると、もう少しシナリオレベルでストレスをかけても良かったのかもしれない。

とはいえ、ほとんど摩擦なく、さっぱりと物語が身体に入り込んでくる体験は稀有なものだし、全員が満足する物語なんて存在しないと思うので、私としては、この路線を続けて欲しい気持ちの方が強い。

 

【台詞】1点 (1点)

正直とくにこれと言ったお気に入りの台詞はなかったし、何を話していたのかあまり覚えていないのだけれど、全くキャラの会話に違和感を覚えなかった点、映像への没入を妨げなかった点を考えると、それほど完璧な会話が組まれていたのだろう。贔屓でこの点数を入れている自覚はある。

 

【キャラ】1点 (1点) 

私は百合豚なので、こういう作品では逆に「男」に目が向くのだが、ルイ君が限りなく男らしさが脱臭された、純粋で優しいキャラということもあり、女2男1の組み合わせでも、百合豚的にはまったく気にならなかった。むしろ文化祭のライブでは、イキリ散らかしたアニソンDJのような姿にニヤニヤが止まらなかったくらいだ。同様の愛しい感情を、トツ子にもきみちゃんにも抱いている。トツ子は綺麗な丸顔でふわふわした可愛らしい性格をしているし、ライブの時の盛り上がり方は素晴らしいものがあった。クールビューティーなきみちゃんを、二次元美少女大好きな私が好きにならない訳がないし、シスターの飄々とした感じも面白いと思っている。

一方で、私はきみちゃんの悩み、および森の三姉妹に強い興味を持った。まず前者について書くが、私にはきみちゃんが「退学」を選んだ理由が分からなかった。

まず、周囲の人間(合唱部)が自分に過剰な期待をし、それに対して対話などで解決する勇気を出せずに逃れたいと思った時、高校生が取り得る選択はざっと考えて五つある。幽霊部員になること、不登校になること、退部すること、退学すること、自殺することである。自分は高校生の時にガチで部活が嫌になって「退部」をしたことがあるのだけれど、その時に傍にあった選択に「不登校」と「自殺」はあったが、「退学」はまったく頭にも浮かばなかった。なぜなら手続きがかったるいし、そもそも選択肢に入っていなかったからである。あくまで私の場合はだが、基本的に気分が沈んでいる時には諸々の手続きはできないし、やりたくないと思う。だから事務的な手続きが要らない「不登校」と「自殺」が身近に感じられたのだと思うが、果たしてきみちゃんはどういう感情でわざわざ面倒臭い「退学」を選んだのか、私には理解ができなかった。

もしかしたら、カトリック系の学校ということもあり、「嘘をついてはいけない」という精神がきみちゃんの心に根付いていて、嘘をついている自分に耐えきれなくて退学したのでは――とも考えたが(トツ子とのお泊まりで嘘について気にしていたこともある)、トツ子がたびたび十字を切った一方で、きみちゃんは全く十字を切らなかったので、そういう訳ではないだろう。あるいはかなりの潔癖症で、不登校という中途半端な立ち位置に自分を置くことを嫌い、スパッと辞めたくなったのだろうか。しかしそのような思い切りの良い人間が、他人との認識のギャップの違いに悩むだろうか? 後藤ひとりとか井芹仁奈のように音楽に全振りしていてそれ以外は全部要らない、退路を断ちたい、ということならまだ分かるが、きみちゃんは兄が残したギターを触っているだけで、音楽に対してそこまで熱い気持ちがあるわけでもない。冷静に行われた理由なき退学は、私の理解の範疇を超えていて恐ろしく思えた。

ただ、一つだけ考えられる線がある。それは、彼女が退学した「明確な」理由は彼女自身も理解できていない、というものである。その論理を越えた「説明できない衝動」に突き動かされた彼女の純粋さが、彼女の美しい「青」を担保しているのではないか、と私は考えているのだが、これについては後述したい。

続いて森の三姉妹についてだが、私が今回、尤もフィクショナルな存在であるように感じたのが彼女たちだった。正直なところ、彼女たちって(「きみの色」の世界に)実在するのだろうか、とすら思っている。

まず大前提として、ほとんどの人が「濁っている」ように見える(だろう)トツ子にとって、同室の三人みんなが透き通って見えることの確率の低さや、透き通った色を持っている割には、トツ子からの興味が薄い点に違和感を覚えた。もちろん、トツ子はきみちゃんと出逢って、脳天をぶち抜かれるほどの衝撃を受けたため、きみちゃん以外のことを殆ど何も考えられなくなっているということもあるが、それにしても三姉妹への対応はおざなりだし、どちらかと言えば家族のような立ち位置にすらなっている。

というのも、三姉妹の存在は、あまりにトツ子にとって都合が良いのだ。色が濁った人ばかりの食堂で、いつも四人掛けテーブルの一席を開けてくれているし、退学したかつての同級生のために修学旅行を仮病で休むという所業を知っても、彼女たちはトツ子を弄らず、のけ者にもしない。*1それどころか、彼女たちは自分達よりもきみちゃんを優先しつづけるトツ子に対して優しく接し続け、ライブでもトツ子にだけ声援を送るのだ。しかしトツ子は、その声援に何も返そうとはしない。聞こえているようにすら思えない。

このように、トツ子からは「見えにくい」愛をトツ子に注いでいる彼女たちは、先述したように、私にはトツ子の第二の家族のように思える。興味深いのは、彼女たちが存在しなくてもこの作品のシナリオは成り立つのに、彼女たち無くしては、「きみの色」の持つテイストは明らかに変わっていただろうと言えることにある。

本作では、明らかにトツ子だけが「満たされた」環境に置かれている。ルイ君ときみちゃんはそれぞれ家族に対してヒミツを持っているだけではなく、ルイ君には父親が、きみちゃんには両親と兄の不在が明確に書かれている。一方でトツ子は、二人と比べて家族に対しての隠し事が(明示されてい)ないだけでなく、実家に戻れば優しい両親が自分の背中を押して、大量のお土産まで渡してくれる。そのうえ、寮にも第二の家族がトツ子のための席を空けて、食卓で待っているのだ。トツ子の身の回りの環境は、過剰と言えるほどに満たされている。私は、この過剰な豊かさによって浮き上がるのが、トツ子の持つ心の貧困、つまり「自分は何者(何色)であるのか」という疑問だと考えている。

 

【主題】2点 (2点)

先に述べたが、私はこの作品の主題は「自分は何者(何色)であるのか」という問いかけであると考える。この疑問はトツ子のものでもあり、きみちゃんのものでもあり、ルイ君のものでもある。

そのことを支持するのは、彼女達を出逢わせた「しろねこ」の存在である。陳腐ではあるが、「まだ何者でもない」ことを示す色が白であることに異論の余地はないだろう。トツ子の持つ「色」のイメージがすべて水彩で描かれていることも、白という色にまっさらなキャンバスのイメージを付与することを助けている。彼女たちはしろねこに導かれ、しろねこ堂で「自分は何者(何色)であるのか」という共通の疑問を持って引き合わされたのだ。トツ子は自分の色が見えず、ルイ君は医者と音楽という二つの未来に分断され、きみちゃんは(先述の通り)明らかに説明がつかない退学をした自分の理性と「訳のわからなさ」、つまりその衝動の狭間で悩んでいる。

ここで注目したいのが、彼女たちが出逢った「しろねこ堂」が古書店であり、既に誰かの手に渡った古本やレコードを取り扱っているという事実である。彼女達の音楽は、殆どが「中古品」によって成り立っているのだ。トツ子が弾くキーボードはルイ君が買った箱のついていない中古品を貸してもらっているものだし、きみちゃんのギターは、家を離れた兄が残したものである。ルイ君は今は使われていない教会で演奏をし、道端で誰かが棄てている椅子と音声機材を手に入れる。いくら学生に金が無いとは言え、過剰とも言える「中古品/お下がり」のイメージに塗り固められたバンドに、けれども対立するのが、ルイ君が提案する「新楽曲(オリジナリティー)」である。

初めて作曲した割に、どれもこれもあまりに素晴らしい楽曲であり、全く現実味がないことには敢えて突っ込まないが、ここで重要なのは、彼らが達成した文化祭ライブは、「中古品/お下がり」と「新楽曲(オリジナリティー)」が衝突して生まれたということだ。野暮を承知でもっと言えば、その「新楽曲」という概念は、「女性」しか居ない彼女達の学園祭に乗り込んできた、影平ルイという「男性」によってもたらされたものとも言える。

ここで、彼らが衝突を伴うライブを経て手に入れたものについて話を進める前に、トツ子の名前について立ち返りたい。私は、トツ子の名前の「トツ」という字は「凸」というイメージを内包していると考えている。一般的に、凸は球と比べてバランスが悪い。実際に、トツ子が憧れながらも挫折したバレエに付随する「回転」のイメージに適しているのは、凸ではなく球だろう。凸は「回転」には適していない。このことは、乗り物酔いの原因とされる、人体の「回転」を感知する三半規管が弱いトツ子の設定と重なる部分があるはずだ。トツ子は自分の名前同様、自分が「凸」であることを変えられないと思っている。その一種の諦念は、これまでトツ子の心をずっと支え、そして縛り付けてもいた「ニーバーの祈り」が根底にある。

ただ、もしかしたら自分も変わることができるかもしれない、という気付きを得る瞬間がトツ子にも訪れる。それがこれまで感じたことのない高揚感を得た、あの学園祭ライブなのである。高揚感、あるいは浮遊感と表現してもいいかもしれないが、自分の身体を回転させることができると信じたトツ子は、その直観のまま身体を動かし、ジゼルを踊る。そしてようやく「自分は何者(何色)であるのか」を知るのだ。

一方で、その疑問がずっと解決しないのがきみちゃんである。学園祭ライブを終えたルイ君がサッパリした顔で、医者と音楽を両立させる道に辿り着く――つまり「自分は何者(何色)であるのか」を知るのに対し、きみちゃんが抱え込んでいる疑問は晴れないままだ。きみちゃんは自分が退学した理由も分からなければ、ルイ君に惹かれる自分の感情についてもうまく理解できず、それゆえ本人に自身の気持ちを伝えることができない。自分でも分からないからだ。*2

故に、船に乗って自分達から離れるルイ君に対して、きみちゃんは「頑張って」と応援の言葉を掛けることしかできない。三人を結んでいた共通の疑問は、既に失われているからだ。それに対して、ルイ君が遠く離れたきみちゃんに返すのは、言葉ではなく色とりどりのテープだった。それは未だに自分の色が分からないきみちゃんに対して送る、「あなたはこれからどんな色にもなれるし、どのテープを選んでも良い」というルイ君なりのエールなのではないか。

 

加点要素【百合/関係性】1点 (2点)

以上がざっくりとした作品の主題への私の理解だが、せっかくなので、是非ここでトツ子ときみちゃんの関係について掘り下げたい。

本作は、ルイ君へのきみちゃんへの感情ばかりが目につくが、私が一番心を打たれたのが、トツ子からきみちゃんへの強い感情である。トツ子はきみちゃんの美しい青に脳天をぶち抜かれ、まるで惑星のように、きみちゃんの周りを回ることしかできなくなった。「水金地火木土天アーメン」にはそのようなトツ子の感情が描かれていて、歌詞にはルイを思わせる「ルイ腺」という語句も含まれているが、その最後に書かれているのは、「このままふたりで/宇宙の果てまで」という、執着じみたきみちゃんへの感情である。その感情の正体が何なのか、それを探るような試みはここでは避けたい。ただ、恐らくトツ子は自身の感情の種類にも気が付いていないし、自身を惑星にすらなりきれない「凸」のような存在であると捉えていたはずである。しかし、ルイへのクリスマスプレゼントについて話した時に、一層増したきみちゃんの輝きに、トツ子はようやくきみちゃんの感情と、自身の感情の在処を自覚したのではなかろうか。そして、学園祭ライブによる浮遊感のままにジゼルを踊れることに気付き、ニーバーの祈りで言うところの「知恵」を身につけたトツ子は、きっと自身ときみちゃんの関係も「変えることのできるもの」だと考えたのだろう。私には、映画の最後の瞬間に、痛々しいほど強く、衝動的に動いてきみちゃんを抱きしめたトツ子の手が、強烈な覚悟によって動かされたものに見えた。

 

最後に、球体と回転についてもう少しだけ掘り下げたい。

作中では、きみちゃんが自室での練習の際に、メトロノーム代わりに衝突する金属球を使用していた。ここでは球体は一般的なイメージ同様、参照されるべき、「完璧なもの(完全なもの)」として描かれている。一方で、その次のカットでは、銀色の球体に重なるかたちで、緑色のミニトマト、つまり「不完全」で「成長途中」のものが映し出される。これをそのまま受け取ると、作中では球体に「完全なもの」と「不完全なもの」という二つの意味を付与しているように思える。そのイメージは、惑星であり球であることを指向し、きみちゃんを太陽のように捉えたトツ子にとって、この上ない祝福であるように感じるのは私だけだろうか。

 

【総括】

以上、「きみの色」を私なりに読み解いた結果が上記になる訳だが、色々と探りながら書き進めるうちに、自分の中で「きみの色」の評価がどんどん上がってしまった。

今回は、このような評論チックな感想を久しぶりに書いてみたわけだが、百合豚の祈りのようなものが多分に含まれているので、どれだけの人に共感してもらえるのかは分からない。心残りとしては、カトリックの要素やシスターから何度も提示される「赦し」の概念について、もう少し掘り下げた方が良かったかも知れない。あと、割ときみちゃんの退学を自分で消化しきれず、不透明なまま扱っている部分があるので、かなり乱暴な話の進め方になっているかもしれない。変なことを書いていたらすみません。

 

何か気が付いたことや、感想などがあればこちらからどうぞ。

ブログのコメント欄でも良いです。

marshmallow-qa.com

*1:本編では描写されていないが、同室だし、一ヶ月も奉仕活動に励む以上、恐らく森の三姉妹は例のお泊まり事件の顛末を知っていると考えている。

*2:20240901追記:この辺りについてもう少し掘り下げたい。きみちゃんが自身の気持ちが分からないと私が考える根拠として、旧協会でジゼルの動きをするトツ子ちゃんに対して、頬を赤らめて拍手するきみちゃんの姿が挙げられる。ただすごいと感じて拍手をするのであれば、頰を染める必要はなかった。きみちゃんがトツ子を見つめる姿は、ルイくんに見惚れる姿と重なる部分があった。ここで注意したいのは、「だからきみちゃんはトツ子にも恋愛感情を抱いているのだ」と結論付けるのは安易だということである。本作のあらすじを改めて振り返ると、「離島の古い教会を練習場所に、それぞれ悩みを抱える3人は音楽によって心を通わせていき、いつしか友情とほのかな恋のような感情が芽生え始める」という一文がある。ここで大事なのは、「ほのかな恋のような感情が芽生え始める」主体が明かされてはいない点、そして「恋」だとは明言されていない点である。私は実際のところ、前者の主体はきみちゃんだけでなく、トツ子にも当てはまるのではないかと考えている(加点要素欄にて後述)。そして、どちらにせよ「恋」かどうかは分からない。私のなかでは、きみちゃんがルイ君に惹かれている一因として、(何の色もない)自分とは違ってちゃんと能力(色)を持ってそうな点があるのではないかと考えている。それを踏まえると、ジゼルを踊ることができるトツ子に対しても、憧れの目線で頰を染めるきみちゃんの姿に納得がいく。それは、きみちゃんが強く「自分の色」を探し求めているからである。