新薬史観

地雷カプお断り

大阪大学感傷マゾ研究会『青春ヘラ ver.1「ぼくらの感傷マゾ」』読んだ!

読んで思ったことを雑多に書いていきます。

なお、本文の内容は太字で表現しています(引用するのが筋だが、一言一句打つのがめんどいので)。

 

 

わく/かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン巻頭インタビュー

感傷マゾの段階として「ヒロインが悲しい目に遭うのが快感」→「本当にその態度でいいのかという罪悪感」→「ヒロインに自分の罪を糾弾してほしい(マゾ)」

私にはこの感情の機微が分からなかった。自分語りになるが、私は現実の人間同様、アニメキャラも誰一人として不幸になってほしくない思想を持っている。というわけでキャラに対して罪悪感を覚えることはあまり無いのだが、最近は「自分の解釈が本当にキャラの意志に添っているかの判別は難しい」ことを理解しつつあるため*1、多少の罪悪感を覚えつつある。一方で、自分の罪を糾弾されたいかと言うと微妙だ。架空のヒロインが現実の人間を指さし糾弾する行為は、虚構であるキャラに決定権が委ねられている点で攻撃力は低いのではという素朴な疑問がある。それとも、第三者より唯一の関係性を結んでいる消費対象から責められる点に「マゾ」が詰まっているのだろうか。もちろんこの指摘は、消費対象である虚構の存在を、現実と等価に扱うことを前提としているが、この精神は後に書かれている

昨今の人々が持つ感傷は薄れてきているため、存在しなかったものに対してもノスタルジーを感じる動きが見えてきているし、それを肯定したい。

という姿勢に色濃く出ている。この辺りは非常に共感出来て、まさに現在の自分の関心事ドンピシャリである。

最近は感傷マゾというより、「感傷」が多く、自虐する人が少なくなっている。

ここらへんも頷きポイントだった。自分は勝手に「マゾの薄れ」と表現するが、最近は自己を下げる動きが「ダサい」ようになってきている。というか、やっているとめちゃくちゃ普通に心配される。幸いにも自分の周りには数人のキモいオタクが居て、まだ現役バリバリで自虐をやっているのだが、少し離れるとそういう人のまあ居ないこと。これはつまり「オタクだから世間からつまはじきにされても仕方ないよね」という意見*2が、オタクを主語に使う人々の拡大により「何故オタクが恥ずかしいのか」「え、俺もオタクだよwよくアニメも見るよ、ワンピースとか」が素直に肯定されるようになったのが大きいと思う。もちろんこれには「俺もけいおん!見たよ」「あの花見たよ」「SAO好きだよ」「鬼滅見るよ」と言うように、見るアニメの対象が実際にオタクと(かつての)非オタクの間で、徐々に重なりあったことも助けになったと思う。ここら辺にはサブスクによって「ドラマを見るつもりで契約したアマプラだけど、アニメもやってるし偶には見てみるか」というように、アニメという選択肢が(無償で)*3多くの若者に提供されるようになったことが大きいだろう。ではどこで非オタクとアニメオタクとの差が生まれるかというと、まさに「考察合戦」になるわけだが、ここまで妄想を勝手に進めると本題からずれるのでやめておく。

ようするに、マゾを良しとするオタクは少数派だしダサいのだ。皆さんはすぐに辞めるように。明るく楽しいオタ活ライフを!

実現可能性のない完全な虚構より、実現可能性のある虚構のほうが感傷(後悔)を感じやすい。

これは本当にその通り。

すでに青春を手にする時間が終わった人のための「感傷マゾ」である。ルサンチマンが前提としてあるので、他の人との定義の摺り合わせは難しいかも。

ここもそうですねと思う。メタ合戦になって得られる物は大抵不毛なので深入りしないほうがいい。

世代ごとに浸るエモや感傷は異なるが、まだまだ言語化されていないのでこれからが楽しみ。

本当はこの内容はもっと前に書かれていたが、ここなら次のペシミ氏の文章との繋がりがくっきり出てきて綺麗なのでここに置いときます。

 

まとめ

「感傷マゾってなに?」という私のような人が、この本をどういうモチベで何を求めて読めばいいのかの指針となる非常に良い文章でした。ありがとうございました。

 

ぼくらに感傷マゾが必要な理由 ペシミ

わく氏の感想でも書きましたが、ここで「世代」を感じました。2002年生まれって何だ。そんな人間がこの世に「大学生として」存在するのか?恐ろしい。勘弁してくれ。

エモの傾向

①美しい風景

②低画質、夜

③学校の友達との写真「#アオハル」

ペシミ氏は、Instagramの働きかけもあり、自由だったはずの「主観」が抜け落ち、各々の青春像は皆が受け取るべき全体像になってしまったと記し、竹馬氏の「青春の全体主義という表現を引用しているが、今はそういうことになっているのかと素直に驚いた。これは90年代生まれの自分が否定するものではなく、そうなんだと受け入れるべきものだろう。

一見、自分たちの世代と大して変わらないように思う。自分達は上の青春像を(オタクなら皆が見ていた)深夜アニメというかたちで受け取り、あのような青春をしたかったと夢想していたからだ。それがTikTokInstagramで母数が拡大されただけなんじゃないのかな~と最初は思っていたのだが、どうやら話はより複雑で、問題は「青春」の演じ手が虚構から現実の「ぼくら」に移ったところにあるのだろう。つまり、わく氏が触れたように、「青春」の再現可能性は演者が「ぼくら」である点で、虚構の「青春」を受け取っていた私たちより否応なく高まる。このあたりに「マゾの薄れ」の気配を感じるが、皆が可能性を純粋に追い求めたことにより、自分達の首を絞めるようになったのだろう。あれもこれも皆の「青春」が可視化されるようになったSNSのせいである。やっぱりSNSはクソなのでみんなで辞めましょう。

あと、「エモ」についてぼんやりと考えたのだが、①②を踏まえると、画質が良すぎることと画質が良くないこと、つまり「目の前にあるほど鮮明なのに手が届かない」「あまりに画質が低く、時代というフィルターを感じるために手が届かない」というような「体験への手の届かなさ(可能性の低さ)」に惹かれている節があるのかなと感じた。そのように読むと、①から③はすべて同様の「可能性へのアクセス」というワードで纏められそうではある。とはいえ、「エモ」に欠かせないのが「物語喚起性」だと自分は考えているので、この辺りも踏まえた話をしたほうが良いと思う。もっとも、「現実」と「あり得たかもしれない現実(または虚構)」を並べると、自然とその間隙を埋めるものが「物語」だと自分は思っている。その「物語」が発生しやすいものにこそ「エモ」は発生するのではないか。事実、恋愛ドラマのラブストーリーを見て「エモ」を感じるオタクはどれだけいるだろう。これはドラマ内の「あり得たかもしれない虚構」に対する「現実」がうまく形成されていないからではないか。一方で、風景や青春といった私たちの身の回りにありアクセスしやすいものには、「エモ」は発生しやすい。どれもこれも二つの世界がどれほど結びつきやすいかに依存しているように自分は思う。

青春ヘラについての意見は、わく氏の部分で書いたのとほぼ同じで、自分も同意見です。ただ、「なぜ消極的事実をアイデンティティにしてはいけないのか?」という葛藤なく、素朴にこの「マゾ」を危険視しているあたり、2000年代生まれの人はしっかりしているんだなと感動する(馬鹿にしているわけではなく純粋に褒めています)。その危険な思想が当たり前だった時代があったんですよ、本当に(私たちだけ?)。

 

まとめ

ペシミさんだけのいい青春を過ごして欲しい。青春を否定するのも肯定するのも自分次第です。ちなみに自分はどちらかと言えば否定派です。

 

「言葉」に救われたいのに。竹馬春風 -「青春の全体主義」概念の提唱-

書かれていることと、これまでに自分が書いてしまったことが似通っていたのでコメントすることがありませんでした。興味が無いわけではなく、そうだよねというテンションで読んでいました。もっとも、最後の感傷マゾのところは自分に該当しないので、その限りではありませんが。いずれにせよ2000年代生まれが続いて辛く苦しいです。若さが眩しい。

 

自虐と時間 きゃくの -「感傷マゾ」概念の心ばかりの整理-

(感傷マゾにおいては)自分が望んでいた理想化された青春が、実は虚構のものだった、という所に切なさが生まれるわけじゃないですか。永遠性をもつものが、無常性をもつものに切り替わることが、切なさの根拠だと思うのね。

 

これは座談会のわく氏の発言。

超時間的な次元に属すると思っていた理想が、実は時間の試練を受けて滅びゆくさだめにあるという次第を知ることへの悲しみが、ここでいう「切なさ」であり、「感傷マゾ」の核にあたる。

こちらはきゃくの氏のまとめ。

個人的には、どちらにも納得できない。きゃくの氏によるわく氏の発言の変換には何ら問題がないので、自分はわく氏の発言に意義を唱えることになる(あるいはそれに同意するきゃくの氏にも?)

というのも、この文章では「理想(化された青春)」が滅ぶことにこそ切なさがあるような意味にとれる。しかし「理想」は時間によって変化こそすれ、劣化するものではない(そもそも理想の劣化とは言わない)。経時変化するのはそれを認識する自己の方ではないかという点で受け入れられない。つまり私は、「理想が劣化することを知ることで切なさを覚える」のではなく、「理想と違って劣化しつつある自分を知ることで切なさを覚えるのではないか」と考える。同様に、永遠性を持つと幻想していたが、無常性を孕んでいることが明らかになるのも「自己の肉体(あるいは年齢)」であるはずである(いつのまにか30代になっていた、大学生になって高校時代が終わっていた、という気付きがまさにそう)。ここはきゃくのさんが課題とした諸々の点において割と重要な部分だと思うのではっきりさせたさがあるが、そう思っているのは自分だけかもしれん。

結論の話。第一のマゾヒズムの「否認」、この概念は面白かったです。世界を破壊・拒絶するのではなく、見ない振りをする。それにより世界を宙づりにする操作は好きですし、マゾヒズムと感傷マゾは区別されるものではなく親和性が高いものだという指摘は、(本文を読む限りでは)その通りだと思います。自分は全然このあたりの議論できませんが。

第二、三秋さんの著作をどのように扱うかについては、マジで一冊も読んだことがないので自分は触れるべきではないですね。

第三はまったくもってその通りだと思います。

 

まとめ

感傷マゾの定義がきちんとなされておらず、そこから取り組もうという姿勢がすごかったです。結局大事なのは「自分の経験」なるものを取り戻せるかどうか、本当にこの通りだと思います。

なあ、SNSを辞めよう、杏寿郎。

 

理想の人間像・青春像、私の今後 サボテン

大学生であるから高校生的な恋愛はできない

!!!!!!

本当にその通りなんですけれど、大学生を終えた自分からするとまだ「大学生の恋愛」が残されているのはとても貴重なことなんじゃないの!?と思いました。引き続き自分語りで恐縮ですが、自分はその「大学生の恋愛」を一切せずに終えました。異性と手を繋ぐことすらありませんでした。ただ、これを悲惨とみるかどうかは結局その人次第なんですよね。少なくとも自分は恋愛事に一切興味がなかったので、何回大学時代に戻っても他人と付き合うことはないと思います。でもそれが嫌な人は自然と交際するでしょう、多分。恋愛なんて使命感でやるもんじゃなくて、そのときの気分でやるものですからね。今かなりいいこと言った。

 

届くことのない青春像 カルテ -魚の小骨を添えて-

バイトをして旅行するのはとてもいいことだと思いました。

さっきから薄々気がついていたのですが、執筆者がみんな一回り歳下のせいか、誰からも頼まれていないのに(しかもこの記事が執筆者に読まれるかどうかもわからないのに)大学生活に不安を抱く人にエールを送るおじさんになっている自分に涙が止まらない。

狂うぞ、俺は。

 

私の青春、その残滓 枯葉

なんかこれまでも時々目に入っていたんですが、感傷マゾの定義の摺り合わせでトラブっているのでしょうか。いろんな定義があってもいいと思いますが、自分は定義を決定したい派なので下手なことを言わないうちに黙ります(既にきゃくのさんのところで自分の「感傷マゾ」をぶつけている人間の言うことではない)。

 

拗らせオタクが感傷マゾ研究会に入ってみた 森野鏡

これからも自分だけの感傷マゾを探して頑張ってください。

 

虚構を愛でること、現実で愛を知ること しづき

めちゃくちゃ良い文章だと思いました。自分も虚構を愛する人間なので共感してしまう。個人的には「存在しないもの」に対しても「愛」は成立すると思うので、周りに流されずに虚構を愛でて欲しいです。

この前知り合いに教えてもらった、これを置いておきます。

anond.hatelabo.jp

 

つれづれなるままに 風雪

想像以上に「それは感傷マゾじゃなくて虚構エモだよ」おじさんが沸いているらしく、恐ろしくなっています。自分も気をつけよう。

 

【未読】 感情を快楽に変換すること 否定形

「未読」というタイトルではなく、本当に読めていないという意味です。読みたいのだけれど、「やる気はあるのにクリアしていないゲームのネタバレ」を含む文章は読めませんでした。どうか許してください……。なんかめちゃくちゃ文量があって気合いがすごいのだけは分かります。

 

死ぬほどたのしい夢をみた 織沢実

自分好みの戯曲でした。最初のインパクトが非常に強く、感マゾの台詞を実際に舞台で聞くとなかなか面白い感情になりそうだなと思いました。あと台詞の掛け合いが巧い。大塚製薬が悪者の戯曲は初めて読んだので、そういう点も良かったです。そのまま名前を出しちゃっていいのかは分かりませんが……。あと、メタが好きなので、当たり前のようにメタに持って行く姿勢も好みでした。最後の展開は意外でしたが、まあこれはこれでいいのかもしれない。

 

 

以上

知り合いの文章があるので読んでみましたが、他の方の文章も読めて良かったです。あと皆さん「青春」を真剣に探されているようですが、少なくとも私にはこれも「大学生の青春」が詰まった一冊に思えたので、そこまで悲観されなくてもいいようには思います。

と、このような文章を書いても「いや、そうは言ってもね……」と卑屈に受け止めていたのがかつての大学生の自分でしたが、今の大学生はこの文章をどのように受容するのでしょうか。まあどのように受容しても良くて、常に皆さんの人生の主導権は皆さんに委ねられているので頑張ってください。

それにしても、なんで自分は読まれる前提で文章を書いているんだろう。自意識が怖すぎる。あとSNSさっさとやめたいです。

*1:端から聞けば当たり前だろという話ではあるが、かつての自分はキャラの本当の幸福を祈って創作をしていたので(キャラを恣意的に歪めて創作をするオタクと比べて相対的に)罪はないと思っていた

*2:もちろんこれは、オタクがオタクであることを少なからず肯定していることによって生まれる発言であり、リア充と比べて陰鬱な人生であってもそれはそれで良しとする前向きな諦念が根底にあったと思う

*3:ドラマを見るつもりで契約したのだから、追加料金が発生しないという意味で無料