新薬史観

地雷カプお断り

街裏ぴんくという、虚構を愛する漫談芸人

街裏ぴんくという芸人を知っているだろうか。

自分はこの動画で初めて彼を知った。癖の強い理科の教師が、極限まで虚言を重ねるとどうなるか、という実験的な作品である。この動画にオチというものは存在しない。

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正直に言えばこの動画は驚きの連続のみによって構成されており、(個人的には)そこまで面白くはない。誰にでもできるわけではないのだが、街裏ぴんくの圧倒的な語りが発揮されておらず、説明欄にもあるように、あくまで高校時代に友達に披露するようなネタでしかない。

けれども動画を見終わった後に、ただの虚言で片付けるには難しい不思議な感覚に襲われたのは事実だ。だから、もうひとつくらいはネタを見るかと適当に選ぶことにした。

そうして、自分にとってかけがえのない「図工」という漫談に出会うことになる。

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この話のあらすじはこうだ。

小学6年生の時のちょっと変わったクラス担任、真澄先生が図工の時間に「緑牛駅」というテーマで絵を描くように指示を出してきた。突飛なテーマに街裏は燃え上がるが、それまで気にしてもいなかった桃井というクラスメイトが、物凄い才能を発揮するという話。

まず設定からして面白いのだが、特筆すべきは街裏ぴんくの語りの巧さである。自分も覚えがあるが、子供の頃は周囲と変わったことがしたくなる時期だ。その気持ちを持った子供から見た真澄先生への憧れが言葉の隅々に染み渡っていて、言葉のすべてに感情が乗っている。またディティールの設定も完璧で、この動画を再生した瞬間に、辺りは一瞬で学校の教室になるのだ。

その後の話は実際にご覧頂きたい。自分は虚言の連なりのあまりの美しさ、作品の構成の巧さにしばらく空いた口が塞がらなかった。完成されていると思った。自分の作品がアイデンティティとなることで日常生活では得られない葛藤が為されるところは、藤本タツキの『ルックバック』にも通じる感動がある。自分の居場所は何処にあるか、将来はどこに向かうべきか、それを暗示させる真澄先生への言葉が重くのしかかり、動画が終わる瞬間にこの漫談を行う街裏ぴんくの顔と重なる。メタ的に、呪いのように街裏ぴんくを縛り付けながらも、そうして生み出された漫談が自分の胸を打っている事実に、暫く何も考えることが出来ず、彼の漫談とは時間を置く必要があった。

紛うこと無く、街裏ぴんくは天才だった。

 

そうして、今日ようやく他の漫談を見ることが出来たので、面白かったものを紹介したいと思う。

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これは「高槻プラチナ大温泉」という温泉のCMに彼が出演した時の話だ。この作品でもそうだが、とにかく街裏はディティールの設定が巧すぎる。この漫談を見終わったとき、自分は「高槻プラチナ大温泉」のCMを見ようと必死になって動画を検索した。

 

次に紹介するのは「少年」だ。

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この作品も優れていて、ホラーの構成を逆手にとった語りが面白い。ホラーと言えば非日常と日常の境目に恐怖を感じるものだが、ここでは非日常を徹底的に解体しようとする、その手腕が見事に光っている。最高だ。

 

続いては、小説のタイトルにありそうな「ある空港の存在」という漫談。

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この辺りになると虚言であることを隠そうともしないのだが、それはそれとして意味の分からない描写の繋がりが美しい。小田原の滑り止めのミニ空港(SMA)、百度水、びっこ、うらみっこ、無終尿という意味のわからないワードで展開される意味の分からないワールド、しかしその中には熱い物語が流れている。自分達が知らないような飛行機のなかでの本家と分家、「筑野ー!飲むぞー!」と叫ぶ街裏など、訳の分からないものを見ているはずなのに、感情が揺さぶられる稀有な体験が出来るのだ。

 

個人的に大傑作だと思うのは、「ホイップクリーム」という漫談である。

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この漫談では、街裏の痺れるワードセンスが輝く。

また頼んで乗して食べて、また頼んでその繰り返しで日々が過ぎていく。

気が狂うほどの黄色のハイエース

そんだけの白見たことある?そんだけの白ってね、鼻に来るんですよ。

後ろに警備員のおっちゃんがいまして、「向こうもっと甘いぞ!」

自分は確かに笑っているのだが、それ以上に言葉の組み合わせや感情の乗せ方に感動してばかりで、まともに漫談を聞くことができなかった。これに至っては構成やワードセンス、作品世界の作り込みなどが頭一つ抜けていると思う。マジで大好きな作品だ。

 

最後に紹介するのは、「チズニナイマチ」という漫談である。

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小学5年のアマリリスくんが「地図にない街に来てしまいました」という動画を投稿している、というネタなのだが、この漫談を聞いて自分は街裏ぴんくと虚構との関係に並々ならぬものを感じてしまった。

個人的に、虚構にはふたつのタイプがあると思っている。意味のある虚構と意味のない虚構だ。もちろんこの区切り方をすれば二つになるのは当たり前の話なのだけれど、漫談でよく使われるのは後者の方だと思い込んでいた。ベルクソンの『笑い』で、笑いを引き起こすものに意外性があると書かれていた気がするが、脈絡の無さはそれだけで笑いを誘発する。特にこの記事の一番初めに紹介した「ヤバヤバ先生のヤバ授業」がそうだが、あの虚構の連続に意味を見いだす人はあまりいないと思うし、それでいいのだろう。

けれども「図工」や「チズニナイマチ」は違っていて、ここには街裏ぴんくなりの意味があるのだと思う。後者の作品には特に、彼が涙を流すだけの意志が込められていて、きっと意味のある虚構だったのだろう。そういう作品に出会った時、自分はひどく疲れて何も考えたくなくなる。意味のない虚構は、虚構であるという時点で何も力を持たないはずである。それでも自分の心は確かに揺さぶられるから、訳が分からなくなるのだ。これが虚構の力だと信じている。

街裏ぴんくは虚構を愛する漫談芸人だ。もっと売れて、彼のことを話す人がずっと増えれば、それ以上に嬉しいことはないだろう。自分は近いうちにライブに行こうと思っている。