新薬史観

地雷カプお断り

虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 第8話感想

はい、続いて8話ですね。しずく回。

個人的に、567話とすんごいいい話が来て、急にがっくり来てしまった回。

なんでかっていうと、まさにしずかすだからなんですけれど、これは7話の感想記事でもぽろっと書いたように、しずくを助けるのがかすみである必然性ってなんぞやというところで一生引っかかっているからです。

まあとりあえず話を進めましょう。

 

 

桜坂しずくというキャラについて

冒頭の黒しずくと白しずく。ここでは二人とも同一人物なので背の高さは同じです。後半の出来では部長が演じているので、黒しずくの方が背が高い。

まあそれはどうでもよくて、問題は黒しずくが抑制されている側で、白しずくが表側の偽物のしずくというところですね。璃奈回でも書いたけれど、しずく回の仮面は、文字通り仮面舞踏会の仮面、自分を隠す意味での仮面になっている。別に仮面をつけたままでも、今まで通りでいいじゃんと思っていたら、「自分をさらけ出す感じが出ていなかった」から主役を外されてしまう。つまり、かなり直接的に「仮面を外せ」と言われるわけだけれど、仮面を外した自分は、幼少期に古いものを好きになった自分のままで成長できていない。けれども、「歌いたいの」という欲求を見せてくる。ここで歌は「本当の自分の気持ち」であるようにも見れると考えていて、ほぼ同義だと思う。

で、じゃあなんで本当の自分を見せることが出来ないのかと言えば、嫌われることへの抵抗が強すぎて、実際はそんなことないだろうに、「本当の自分=嫌われる存在」という図式がしずくのなかで成り立ってしまっているからだ。

で、これをどのように認めさせればよいか、つまり「本当の自分=嫌われる存在」という図式を否定するためにはどうすれば良いのかだけれど、以下のものがあるだろう。

①本当の自分を完全に隠す。→黒を内包しつつも完全なる白。

②本当の自分を表の自分と融合させる。表の自分はあなたに好かれるヒロインなので、これだけで良い。→黒と白の融合で、グレーを意味する。

③本当の自分は好かれるものだと自覚する→外部からの働きかけが必要。黒という色への変革。

④本当の自分が嫌われることを受け入れる→白と黒の両立。

あと変わり種として、

⑤本当の自分を嫌う(認識する)存在を抹消する

というものがあるが、これはラブライブ!ではまず出ない選択肢である。

はい、というわけで雑に選択肢をあげたが、ここで①が8話以前のしずく(白)を示していたのだが、ここに来て黒を出せと言われ、じゃあ②③④のどれにしますか、という話になる。

ここで②と④の違いだが、②はあくまで「本当の自分は好かれるべき」という八方美人の領域から出られていない考えである。逆に④は、その反対を行くもので、嫌われてなんぼのもんじゃいという態度でいることで、白と黒、どちらも保つことができるという感じになっている。アニメ本編はこの選択をした。

で、肝心の③なのだが、これもかすみからの「私はしず子のことが大好きだよ」という台詞で回収できるもので、要するに④でダメを負った時のサポートを意味している。ので、アニメではこれがメインではない。もしもしずくがこっちの方で共感していれば、黒しずくが「私は本当は白(あるいは別の色)だったんだ」という気付きを得るようになり(あるいは抑制の象徴である仮面を外すことになり)、アニメ本編には相応しくない。こちらに関しては、あくまでしずくが変わるための「勇気づけ」という側面が強い。

ということで、ちょっとややこしいのだが、アニメとしては④がメインでバックアップとしての③という構造になっている。バックアップの③があるから、恐れずにメインの④の思考が出来るという点を忘れずに。

で、さらにその方向に進むために必要な働きかけなのだが、

④本当の自分が嫌われることを受け入れる

 これについては、本当の自分を出して、実際に嫌われている(あるいは嫌われる覚悟をしている)人の姿を見て、あるいはそんな事例をあげた上で、しずくが感化される以外にない(ポロリとでた本当の自分をめちゃくちゃ拒絶されて、どうでもよくなるという方向もあるが、あまりに暗い)。

 つまり必要なアクションとして、「本当の自分を出して、好かれている・嫌われている人間」を挙げるということが必要になる。

 では、同好会のなかで、誰が本当の自分を見つけたのかと言うと、歩夢以外の全員である。第一話は、歩夢と侑の契約の話であり、歩夢は「本当になりたい自分」を見つけただけで、そこに至ったわけではない。

 なので、しずくに手を差し伸べることができる人間は、本当の自分になれていない歩夢以外の全員が該当するはずである。これは、しずくがそもそも本当の自分を出せない、という段階で留まっているからであり、既に本当の自分を出している点で、各キャラはしずくに対して優位性を獲得する。

③本当の自分は好かれるものだと自覚する

 また、これについては、誰でも行うことが出来る。言う台詞としては、しずくの本当の自分を知ってようが知ってまいが、「私はどんなしずくのことも好きだ(そういうしずくも好きだ)」と言うことで、ここのアクションは十分である。

 

改めて纏めると、しずくを助ける人間は、しずくに対して「本当の自分を出している」キャラであれば何でも良いということが分かる。それどころか、もうちょっと掘り下げると、「本当の自分を出して、好かれている・嫌われている人間」を知っていることだけでも十分だと考える。

というのも、しずくに対して、自己啓発セミナーのように、実際の成功者が直接語りかける必要は無い。あれはあくまで説得力の補強によるもので、納得するのは自分の動きなのだから、しずくに語りかけるのは「本当の自分を出している」本人である必要がない。ちょっとややこしいけど。

例えば、アニメ本編では、かすみは「甘ったれんな」からの本当の自分(かわいいと言ってもらいたい)を出すことで、実際にしずくからかわいいという言葉を引き出せた、という事例を提示する(③)。そこから④に該当する台詞を言って要件を満たす。

しかしながら、これが侑の場合であっても成り立つはずだ。つまり、「かすみちゃんもせつ菜ちゃんも、本当の自分を出している。その結果として、一度同好会は分裂したよね。確かに本当の自分を出さなければ、同好会は分裂しなかったかもしれない。でも、その同好会って、今より楽しいって断言できる?」でもなんでも、「本当の自分を出した結果、衝突して痛い目にあう(≒嫌われる)」事例を挙げて、その後の展開を予測する(同好会の今を述べる)。要するに、「まずは本当の自分を出すところから」というメッセージが伝達できれば良いのである。

で、ここまで書くと、ますます「本当の自分」を知っている人間が多いからこそ、代表としての侑の立場の説得力が増すように思える。侑(あるいは歩夢)は、この時点では「本当の自分」を獲得していないからこそ、逆に他のメンバーの事例を援用できるという利点がある。かすみがかすみの話しかできなかったように。

さらに、自分が気になっているのが、そもそも、なんでかすみは「気付くはずのない」しずくの悩みに気付けたのか、というところである。

これに関しては、璃奈と愛の出会いでも描かれていたのだが、璃奈の悩みを一発で看破した愛さんの人間洞察力(あるいはコミュ力)と、同じものをかすみが持っていることを意味する。一応、「たまたましずくの練習風景を見た」という理由付けもされているが、あのシーンだけでしずくの異変に気づけるというのは非常にやり手ではないだろうか。

そこも怪しいと思っていて、何度も言っているように、(個人的に考えている)同好会の関係は、本人が問題と自覚して発言しないと周りに認識してもらえない危うさを持ってる。逆に、今回のしずくのように、本人が隠し続けた場合、誰もその問題に気がつかないはずなのである。その距離感こそが、ニジガクの良さでもあり悪さでもあるのだ。

 

じゃあどうするんだよ、というのは、これも前の記事で書いたが、外部からの視点が必要になる。書き方を変えると、同好会とは違う絆・距離感が必要になる。 

なので、ここでしずくの問題に気付くのは、外部の人間である(スクールアイドルとして、互いに距離を取っているわけではない)侑でしかあり得ないわけであって(そういう意味では、同じ外部の人間である演劇部の部長も、しずくの仮面の存在に気がついている)、かすみが気付くのはどう考えてもおかしい。今回の件でかすみとしずくの関係がより深まったのはわかるが、それ以前のふたりが同好会を越えた関係でなければ、この物語は生まれなかったはずなのだ。

なので、自分は、しずくを助けることができたのは侑だけだと今でも思い続けているし、ここでかすみが出てきた以上、かすみとしずくは、既に同好会を越えた関係にあったと推測せざるを得ない。しかしながら、本当の自分を出さないしずくが、同好会以上の関係を他人と結べていたはずがなく、その点において、この物語は破綻しているか、自分の同好会の関係性の解釈が誤っているのである。恐らく後者なんだろうけど。

 

Solitude Rain①

 

今回の曲であり、しずくが演じていた「荒野の雨」に意訳できそうな「孤独の雨」というタイトル。劇中劇を出してきたり、やたらと光の演出に拘ったり、華恋役のもよちゃんが出ていたりと、なんとなくスタァライトみを感じるつくりになっていたが、今回の話も、荒野の雨の内容と、しずく個人の物語が完全にリンクしている。

 

ここで、そもそも「荒野の雨」ってどこから来たんだ?と思い検索すると、なるほど、「The rain in Spain stays mainly in a plain(スペインの雨は主に荒野に降る)」というキーワードが引っかかり、どうやらそれは映画の台詞らしい。その映画というのが、オードリーヘップバーン主演の「マイ・フェア・レディ」であり、まあ恐らく元ネタはこれでしょう。

というわけで文脈を知るために視聴した。

 

映画「マイ・フェア・レディ

三時間近くあり、それなりに長丁場となるが、第一の感想としてめちゃくちゃ面白い。詳細はまた別の記事で感想として取り上げるが、この映画が第8話の下敷きになっているのは確実だと思われる。既にTwitterでも指摘している人がいたが、そもそも「マイ・フェア・レディ」自体が、ドブネズミのように育ちが悪い少女イライザを、言語学者のヒギンズが拾って、しゃべり方や作法を教育して、果たして舞踏会に出しても恥ずかしくないレベルにまで持って行くことができるのか、という内容になっている。

で、映画と8話の共通点としては次のようなものがある。

・少女が発音、発声の練習をしているということ。

・「荒野の雨」というフレーズ。映画では「The rain in Spain stays mainly in a plain(スペインの雨は主に荒野に降る)」という発音を練習する台詞が繰り返し用いられ、少女が初めて「ai」を正しく発音できるようになった、印象深い台詞でもある。

・しずくがライブで着ていたようなモノクロームの衣装が、アスコット競馬場で非常に効果的に用いられている。女性はモノクローム、男性はグレーの服を着ている。

・しずくは本当の自分を把握したうえで、それを出さないように取り組んでいる。映画の少女イライザも、育ちの悪さを表に出さないようにヒギンズから厳しく指導される。

・しずくはライブでDIOのようにザ・ワールドを使うが、映画でも登場人物がぴったり時間停止する場面がある。雨までは流石に止まらないが。

・「雨」ということに関しては、一番初めにイライザとヒギンズが出会ったキッカケが雨だった。以降は(重要な場面で)雨は降っていなかった気がする。

 

このように、イライザとしずくは重なるところが多い。

で、肝心の「荒野の雨」だが、文脈を考えると、この映画では「本当の自分を隠すための第一歩」、あるいは「ヒギンズとの心の重なり」として扱われている。

で、映画でのヒギンズの立ち位置だが、「本当のイライザを隠した人」というより、ラストシーンを考えると、「イライザに言語と作法を教えてくれた恩人」という印象が強くなる。つまり、ヒギンズとの心の重なりは、「自分を新しい世界に導いてくれた人との出会い」を意味しているようにも読み取れる……かもしれない。

これを踏まえると、「荒野の雨」というフレーズは、自分に新しい世界を見せてくれたかすみに向けられたもの、と考えることもできるのだが、自分で書いておきながら、この解釈は正直微妙だなと思っている。荒野の雨を、文脈から考えるべきではないような気がする。

で、どちらかと言えば、上で書いたように、「ai」が正しく発音できるようになったという印象のほうが強い訳で、陳腐ではあるが、そこから「ai=I=私」と広げ、「本当の私(ai)を言えるようになった」というメッセージが込められている、とするほうがしっくり来る。まあ、発音記号上は【ai】ではなく【ei】と言えるようになった、とするほうが正しいのだが……。

 

Solitude Rain②

で、ふたたびSolitude Rainの話に戻る。以上を踏まえると、「マイ・フェア・レディ」から、荒野の雨は「本当の私」について話しているという解釈ができるようになった。とはいえ、「雨」と「荒野」に関しては、単体で何かを指し示していると考えるのは難しい。それよりかは、直訳である「孤独の雨」に触れるのがよいだろう。

歌詞を見ればわかるが、

「空から舞い落ちる雨粒が
ぽつりぽつり頬伝って
知らないうちに心覆っていた仮面を
そっと洗い流していくの」

というところからは、雨は決してマイナスなイメージではなく、しずくにとってはプラスなものだと考えられる。ここでしずくのイメージである「💧」がシンクロしていると面白かったのだが、しずくの仮面を取ったのはかすみであって💧ではないので関係が無い。

で、映像の根本に立ち返ると、そもそもこの映像では常に3が意識されていて、白と黒とグレー、陰三つなど、序盤に触れた「嫌われても構わない」という心構えから生まれた、①本当の自分(黒)、②あなたのヒロインになる自分(白)、③どちらも受け入れている状態を示す、新たな自分(グレー)の3つを示しているのはほぼ明らかだ。

歌詞にある「洗い流す」という単語からは、雨が黒を溶かし、白と混じり合ったうえでグレーが生まれたと解釈することができ、雨は、「本当の自分」と「見せかけの自分」を溶かし合わせた溶媒だと考えることが出来る。

さらに、映像では、①しずくは雨の動きを止めることができる、②最終的に晴らすこともできるという2点から、雨自体はしずくの制御下に置くことができるものであると考えられる。

じゃあ、それは何か?と考えると、「新しいグレーの自分か?」と考えてもみたけれど、まあ恐らく「嫌われたくない」という感情を示しているんでしょう。

嫌われたくない、という葛藤から生まれたいざこざ、8話のしずくの心境を示した劇中劇自体が、場面や心境の断絶をつなぎ合わせる「溶媒」の役割を果たしていて、それがしずくにとっての雨なのであり、その葛藤の痕跡がグレーなのである。雨によって混ざった黒と白の感情を、そのまま元通りにするのではなく、雨を晴らし乾かすことで、グレーそのものとして受け入れるという流れである。

これについては、しずく💧という単語からも考えられることであり、「しずく」という単語自体、いろんな水滴を意味するものである。そのうち、「嫌われたくない」というようなネガティブな意味づけがされることで、💧は雨(世間的にみてネガティブにとらわれがち)に見えるようになる、と言ったところもあるかもしれない。

長くなったが、以上より、しずくにとっての「荒野の雨」とは「本当の自分」をめぐる物語であり、「孤独の雨」は、しずくのなかで行われている「本当の自分」を巡る葛藤そのものを示してると考えることができる。

 

 

以上。想像以上に長くなってしまったが、最初に言ったように、自分はかすみがしずくを助けに行ったことに未だ否定的な立場である。それ以外については面白かったと思う。「マイ・フェア・レディ」を教えてくれてありがとう、という気持ちもある。感謝。