新薬史観

地雷カプお断り

toi「四色の色鉛筆があれば」ままごと「あゆみ」(長編)観た!

「わが星」の柴幸男の作・演出作品ということで知り合いにDVDを貸してもらい(実は貸してもらったのは数年前の何かしらの同人イベントでのことだった。放置しててすみませんでした)、いまさら視聴した。

 

四色の色鉛筆があれば

「過去と未来を材料に新しい現在を発明する四つの視点」「どんな複雑な世界も、四本の短編で描き出すことが出来る」というのがテーマの本公演らしいなので、できる限りそこを頭に入れて観劇した。

収録作

①あゆみ(短編)

これが一番好きだった。演出としてただ歩き続けるだけというのが斬新でビビったのと、ダッシュで時系列の変化を意味するのが面白かった。作品で示される「直進すると月に行ける」「月への距離」などは、第三作目の「あゆみ(長編)」で大きく変更される点であり、長編では「月への距離」ではなく「一生に人が歩く距離」になっている。この違いは端的に言ってあゆみが示す意味だろう。短編ではあゆみ自体でなく、歩んだ先にある月(家出や迷子、あゆみが「現在」いる場所などと関連)を示し、長編では歩むことそれ自体を示している。ただテーマとしては一貫しているように感じる。というのも上記で述べたように、月は家出して目指す場所であり、現在の自分を見失ってたどり着く場であり、また人生の一貫した流れから外れた(傘を差して横から現れるあゆみがいた)場所であるという意味から、月は人生においてあり得たかもしれないもうひとつの人生であり、また生まれる前や死後の世界(明言されていないが、あゆみは桶に両足を突っ込んで死んだような匂わせがある)を示しているように感じる(要するに過去現在未来という時間の流れから外れた場である)。そのような場所に立ち、現在の自分の歩んできた人生を見つめ直す、現在を肯定するという構造は、長編の「あゆみ」と変わっていない。ここらへんのテーマはつい先日観た(同じ人から進められた)「ミスター・ノーバディ」と同様のものであり、自分自身が内包されるがゆえに非常に不安定な解釈になる「現在」(ゲーデル不完全性定理的な感じ)を、外部の視点から観ることが出来れば(自分が存在する場を評価する立場を手に入れることが出来れば)肯定することが出来るよね、という感じのものだと解釈した。また柴幸男独特の演出なのかもしれないが、ありえたかもしれない無数の世界線、あるいは反復を示すために(多分)、複数の役者で声を重ねたり、何度も同じ台詞を効果的に繰り返すところが大好きだなと思った。何よりも、これだけの感動とメッセージ性をたった数十分に詰め込んでいる点が素晴らしい。作品として非常に美しいと感じた。

 

②ハイパーリンくん

「わが星」の前身というべき作品。役者がぴったりと声を揃えたり、あえてワンフレーズごとにずらして(譲って?)原理を述べたり、リズムに乗って円周率を言い続けるあたりはかなり柴幸男の性癖(かつ自分にとっても気持ちいいところ)が出ていそうだと思った。あと「わが星」でも思ったけれど、丁寧語で優しい口調なのに、こちらをすべて見透かしているかのような恐ろしさを纏った先生の言葉遣いが非常に好きだ。

この作品は、言語のリズムと身体性、科学の融合を狙い、非常に綺麗に纏まっているとは思うが、距離のあたりでやや間延びを感じてしまった。もはや何を見れば良いのか分からず、孤独すら感じた。宇宙の孤独感を演出するうえでは非常に良かったが、作品としてのテンポとのバランスが難しいなあと思った。またこの作品は未来ではなく過去を徹底的に洗い出すことで、自分たちが「現在」どのような場所(科学史的にも空間的にも)にいるのかを示している。結局正確なことは「わかりません」ということにはなるのだが、少なくともこれまでに分かってきたことは後生に少しずつ伝えられるわけで、そうしてひとりの生(リンくんは嘘をついていない)を肯定することになる。つまりここでは「過去は現在、あるいは未来を肯定しうるものである」という概念を挙げているように感じた。

 

③純粋記憶再生装置

やや面白みに欠ける作品だった。男女2組のペアを用意しておいて、空想上の男女を性別を一切無視し代わる代わる演じるところは面白いと感じたが、本作で顕著に目立っただけで、柴幸男作品に通底する演出なので特筆すべきことではないかなと。本作は「現在から構成した歪んだ過去」を「純粋に保持された記憶の再生」によって少しづつ矯正していく話なのだが、いまいち自分には刺さらなかった。矯正していくと言っても、歪んだ過去が完全に正しいもの(楽しかった過去)と同じになったとは思えない。過去は過去であり、決して現在を変える力は有していない、そんな「過去の弱さ」を表現しているように感じた。

 

④反復かつ連続

これは非常に技巧的で面白かった。たったひとりの舞台であるが、演じる対象はすべて同じ家庭にいる女性であり、年齢が上がっていく(未来から過去に遡っていく)かたちになっている。表現しているのはある家庭のある日の朝に違いないのだが、何気ない朝の描写が非常に綿密な人の動きによって構成されているのだと気付かせてくれた点に、この作品の強みがある。ズームインのOPの立ち上がりも(ちょっとわかりにくかったが)この作品にはなくてはならないもので、単調になりがちな反復のアクセントにもなっている箇所であり、非常にうまい挿入だなと感じた。先述だが、この作品は未来から過去に遡りつつ、その時間が連続していることを表現している。また、何女か忘れたが、この地で生きる(就職だっけ?)発言をしたように、この家庭が反復されることも示唆される。つまり、まるで伸びる爪のように(?)この空間には何層にもわたって未来(爪半月、爪の白い部分)が堆積している。それがまた成長すると、伸びた爪は切られ、新たな爪半月が生まれる。その外観(現在)はいつ見ても同じように見えるものの、「新たな現在」であることには変わりはない。端的に言えば「時間の連続性」をこの作品は表現しているのだと思う。

 

以上、この作品は4作品纏めて非常に面白いテーマを取り扱っていた。四色問題の如く、未来と過去からあらゆる現在を描こうというこの挑戦だが、四作品のクオリティを見せつけられると無謀な挑戦だとは言えない。すごい作品でした。

 

 

ままごと「あゆみ」(長編)

ひとりの女性の一生、あるいはその可能性を表現しているという点で、短編と異なるものになっている。多くは短編の方で語っているため、それほど深く語ることはないのだが、個人的には短編のほうが好きだ。もちろん、構造自体は短編に比べずっと複雑になっているし、それでいて「わが星」と同じような美しさを誇っている。十字路で幾多の世界線を表現しきっている点もすごければ、犬を演じる女性の姿にやや感情が揺さぶられたのも悔しいことに事実である(は?)。ただ作品のメッセージ、裏に隠された物語への想像力、密度などを考えると、やっぱり自分は短編のほうが好きだなと再確認した。長編も素晴らしいことは言うまでも無い。

 

以上感想。これと同じくらいの衝撃を浴びてえと思い、最近は現代の演劇タイトルを漁っているのだが、どれも大学の図書館になく非常に悲しい思いをしている。いくつかは良さそうなものを見つけているので、社会に出て労働の対価として得ようと思う。