新薬史観

地雷カプお断り

平田オリザ「東京ノート」「ソウル市民」「ソウル市民1919」観た!

代表作らしいので観た。この前観た作品よりかは良かった。

以下、簡単な感想。

 

東京ノート

これが今までに観た平田オリザ作品のなかで一番好きだな。美術館を舞台にした作品だが、美術館のロビー?という本来静かにしなければならない場所から唯一逃れている場所で行われている会話から、「ここだけの話(本音)を語る」というイメージを感じ取った。文化背景もよくて、芸術を解するものと解さないもの、政治に向き合うものと向き合わないもの、共同体に属する者と属さない者など、綺麗に思想が別れているものが現れては消え、舞台の上の空間を非常に好ましく感じたし、もっと観ていたいという気にさせてくれた。静かな空間ではあるのだが、魂の衝突とでも言うべきダイナミックな動きが見えるのだ。それが面白い。

個人的にイチオシなのが、長女と長男の嫁との間で行われるやりとりだ。長女は「家族のために自己を犠牲にしてきた者」として、長男の嫁は「いるべきではない場所にいる者」として、互いに惹かれ合い踏み込んでいく。この二人の演技がとても良くて、行動や言動の節々から、長女は自我を捨てまるでお婆ちゃんにでもなったかのようなお節介さ、長男の嫁はすべてに疲れ切り途方にくれた感情がにじみ出ていたのだ。この二人が最後に慰め合い、嫁が長女に「画を描いてくださいよ、私の」と語る箇所は、今後失われるはずの家族としての関係性(自分が欲しいもの)と長女がとうの昔に失った小さい頃にやりたかったこと(長女が欲しいもの)を同時に叶える最高の台詞である。どうしようもできない(田舎での家族としての役割や嫁として仕えてきたやるせなさ)ものに対し、手を繋ぎともに進もうとする二人の関係性、これを「百合」と言わずして何と言おうか。最後の最後に自分好みの関係性がぶち込まれて流石に声が出てしまった。平田オリザ、書けるじゃん百合。こういうので良いんだよこういうので。

まあ冗談はともかく(そこまで冗談でもないが)、上記の理由から平田オリザ作品で一番好きなのは東京ノートですね。

 

「ソウル市民」

これは非常に面白い作品だと感じた。政治的な主張がしっかりとあり、個人的には好きな作品だが、特定の団体の目に触れると燃料となるような力強さを持っているためにハラハラする。韓国ウケが良かったというのも当然のことで、向こうからしたら「日本が自分の罪深さを反省していて素晴らしい」という当然の評価になるだろう。この作品では「差別を行っているのは国や権力者ではなく、それに無自覚な大衆である」というなかなかに鋭い視点を導入している。平田オリザはこれで「日本演劇史に残る」と確信したらしいが、こればかりは納得だ。作品として完成度も高く、非常にうまく日本人の自惚れを描けているなと感じた。「南へ」でもそうだが、平田オリザは権力者に何か恨みでもあるのだろうか。愚かさの表現が非常にうまいように感じる。

と、ここまで褒めたものの、話の流れ自体はそこまで面白いものではなかった。というのも、平田オリザの作品はどれも日常の切り取りでしかなく、始まりも終わりにも「作品らしさ(諏訪哲史はこれを「作為」と呼んでいたが)」が一切ない。自分は想像以上にそれに支配されているらしく、「作為」がないだけでちょっと作品の評価が変わってしまう。というか、脚本に面白さを求めてしまう。そういう観点では、この「ソウル市民」は演技や台詞、作品としての意味は非常に面白いのだが、肝心の脚本が自分好みではない、という話になる。not for meとでも言って感想を終える。

 

「ソウル市民1919」

これに関しては、「ソウル市民」の方が面白かった。歌を何度も挿入し、非常に明るい作品に仕上がっているのは事実だ。三・一独立運動の深刻さと日本人の現状認識能力の欠如による呑気さを対比させることで、日本人の愚かさPart2を描きたかったのも分かる。そういう点では、この作品はよくできあがっていると思う。しかしながら、先述の通り脚本が面白くない。どこまで言っても日常の切り取りでしかなく、魅力的に人が動くことはない。最後のあたりはみながドタバタしており、観ていて心が落ち着かない。やはり自分はどうしても脚本の作為が欲しいらしい。よって本作もnot for meである。好きな人は好きだろうし、面白さがわからない人間も半数くらいはいるタイプの作品だと思った。

 

以上、ひとまず平田オリザの作品に触れるのは(「転校生」だけは戯曲として読んだので後で感想を書く)これくらいにしておきたい。また気が向いたら触れてみようと思います。