新薬史観

地雷カプお断り

ミシェル・ウェルベック「地図と領土」野崎歓 訳 読んだ!

※あんまり内容を覚えていないので雑な感想・考察になります。

 

かなり面白い作品だった。

ウェルベック初でこれを選んだのを若干後悔した。というのも、この作品にはウエルベックが「素粒子」などを書いた人気小説家として登場するからだ。作者が登場する物語はそれなりに知っているが(「ってなんで俺くんが!?」ss等)、ここまで実在感をフィクションのなかに出してくるのは初めてかもしれない。その実在感を高めるために、既存作に触れておくべきだったかな~と残念に思っている。

 

物語の軸としては、ある芸術家の一生と芸術作品の存在意義を重ね合わせたものである。この作品の主人公ジェドの人生は、仕事にしか自分の生を感じられずに安楽死を選んだ父をなぞっているところがあり、彼もまた芸術作品を通してしか自分の生を生きられないでいる(愛する女性に対しても、仕事と愛で、愛を選ぶように説得できない)。愛や人間関係や仕事や資産など、人間を構成する要素はいくらでもあるのだが、ジェドはそのうち仕事である芸術でしか自分を形成できずに、その結果として資産がついてくる。ここに芸術と金銭的価値という物語の軸が生まれ、「芸術とは何か?」という大きな問いになる。

ジェドの芸術家人生は写真から始まり、絵画へ回帰し、最終的には映像作家になる。ここの感情の動きとしては、「写真は現実を描いている」と信じる写真家への嫌悪であり、それはジェドの制作に通底している「現実(写真などの芸術作品によって切り取られるもの、あるいは映さないもの)とは何か? 芸術作品は何を写し取れるのか?」という問いになっているように思える。

 

ジェドが美大時代に撮影したものに「工業製品」シリーズがあり、次にミシュラン地図をデジタルカメラで撮った作品シリーズがある。これはあくまで自分の妄想でしかないが(というのもこの本を読み終えたのは数週間前だし、図書館で借りたので今は手元にないからだ。誤った要素をもとに考えを進めているかもしれない……)、工業製品はデザイン性に優れているものがある点で写真という枠組みを持たせることで写真としての力を持つのに対し、同じように人に作られ地図を写真にしてどのような力が与えられるのか?という検証をジェドは行ったように見える。また、ここに「現実の領土を写し取った地図」をさらに写真に撮るという次元の階層構造があり、作中の芸術作品としてもけっこう美しい。「写真はありのままを映すというが、領土をそのまま写し取ったはずの地図を写し取ったこの写真が写し取っているものは現実の領土そのものなのか?」というややこしい問いに大衆は感動してジェドの評判は上がる――ということかもしれない。このあたりのジェドが評価された理由はほとんど作中に書かれていないので妄想で補うしかないのだが、やっていることとしてはそういうものだと思う。

 

次に転換点として、ジェドは写真をベースにした架空の現代肖像画を描く。これは前回の作品シリーズで写真が現実を写し取るという呆れた観念を破壊したからだと思うが、ここでようやくウェルベックが登場し(?)、ジェドはウェルベックこそが真の芸術家だと思い、是非肖像画を描かせてほしいと懇願する。このウェルベックは、訳者曰く「読者がそうあってほしい(酒に溺れた自堕落で精神疾患を抱えた作家像)ウェルベックをそのまま演じている」と評したが、もしそうなら話はさらにややこしいことになる。というのも、この作品シリーズのなかでジェドは拝金主義の人間を描くことができずに、芸術と金銭が結びつくことをひどく嫌っていることが分かる(あるいは興味が無いか)。そのなかでジェドはおよそ金銭とは縁がなさそうな(というより金に困っている)芸術だけが取り柄のウェルベックに自分を重ね、友好的に思いつつ、ウェルベック肖像画を通して、ジェド自身の生き方もまた芸術家として正当化させているからだ。そしてウェルベックは惨殺される(!?)。つまりここで死んだのは作者でもあり真の芸術家であるウェルベックでありジェドであるわけで、芸術(仕事)のみに生を捧げた人生の末路を描いているようにも、小説という商業作品(つまり芸術作品に価格をつけて販売する行為)に自己矛盾を抱えて作者が死んだようにも、読者の理想像である作者なんていないんだよという作者からのメッセージのようにも、如何様にも解釈できるのだ。自分自身書いていてややこしくなっているのだが、それくらいこの作品のモチーフを並べて読み取るのは難しい。ラストは、多重露光を可能にした特注ソフトを使い、植物を撮影して加工した映像作品を生み出す。これは確か、工業製品と植物の一生を重ね合わせたもので、同じく朽ちるがスピードの違いが生まれるのを人間の一生と絡めていた作品だった気がする。

 

これらの作品解釈を組み合わせる前に考えるべきは、この本のタイトルにもなっている「地図と領土」の意味である。ジェドが提示した問いである(はずの)「写真はありのままを映すというが、領土をそのまま写し取ったはずの地図を写し取ったこの写真が写し取っているものは現実の領土そのものなのか?」については、おそらくそうではないと一刀両断できるはずだ。領土を地図に映す行為も、その地図を写真として写す行為も、何かを何かに変換する過程でかならず元の素材は編集される。芸術家の生計はその編集によって生み出されたものに大衆が金銭的な価値をつけることで成り立っている。ジェドはこの作品を制作した作者として展覧会に顔を出し、「この作品の意図はなんですか?」という問いに答えず無口を貫くことで、大作家を演じるように勧められるが、この演じる行為もまた本当のジェドを編集する行為であり、そこに大衆は価値を見いだすのだ。

このように、ありふれた議論ではあるものの芸術とは「素材」を編集することであり、それをさらに鑑賞者が編集することで成り立っているものである。その「素材」は何でも良いわけだが、編集行為自体は使用する機材・媒体によって限定されてしまう。

それが端的に示されたのが架空の現代肖像画シリーズであり、素材としては人間を選び、写真の編集力では描けなかった部分を絵画に回帰することで編集しようとする。そして、その素材を編集するためには素材を完全に理解する(あるいは理解しようとする)必要がある、とジェドは思っているはずだ。だからジェドは(理解しようとしない)拝金主義の人間を描けなかったのだと自分は考えている。つまり芸術にあるべきは「素材をどのように編集するべきか、どのように編集したいか」という妄執であり、これは「地図と領土」を書いた小説家ミシェル・ウエルベックにも当てはまるのではないだろうか。そう考えると、彼が自分自身をキャラクターとして登場させ殺害したのは、そうしなければいけない編集の意思があるからだと思う。ここで注目したいのは、ジェドがこの肖像画シリーズで自画像を描いていないところであり(ここかなり重要なのに怪しい、描いてたっけ?)、つまり芸術の模索に必ずしも自己の探求は必要ではないということである。もしもウェルベックが強い意志で芸術は自己の探求だと思っているのならば、ジェドにも肖像画を描かせるはずである。ただし本作ではそうではないので、個人的には芸術に一生を捧げたジェド(そしてそれは先述のように作者自身にも当てはまる)に自画像を描かせないのであれば、本作に登場するウェルベックにも、なんら芸術的な要請は認められていないように感じるのだ。つまり今回の作者の登場は単にミステリとしての意外性、シナリオとしての面白さを演出するための舞台装置としてでしかなく、そのために読者の想像する小説家ウェルベックを演じさせていたのではないかと考えている。この結論に至るといよいよクソみたいな感想文であることを認めざるを得ないが、こればっかりは「作者の人そこまで深く考えていないと思うよ」という言葉の甘さに溺れてみたい。

 

悲しいことに(あんまり内容を覚えてないので)テーマがあやふやにしか定まらず、纏まりがない文章になってしまったが、作品自体はかなり面白いことを保証する。特に、作中の芸術作品を言葉で記述しようとするところは魅力的で、実際に芸術作品として描かれないものかと空想してしまう。文章も(悪い)癖がなく記述が丁寧で楽しい。オススメ&傑作。