新薬史観

地雷カプお断り

【小説】忘れえぬ女

 亜紀の訃報がミユのもとへと届くまで、三年と四ヶ月と十二日もの時間を要した。言葉にならないミユの呟きはミックスジュースをぢゅうぢゅう吸う有紗には決して届かない。手元に運ばれたアメリカンコーヒーを覗き込んだミユは、その熱く黒い液面のなかに亜紀のうつくしい顔を見いだそうとしていた。
 亜紀は学部時代のミユの彼女だった。彼女と言っても「元」かも知れず、というのも亜紀は大学を卒業すると同時に連絡が取れなくなっていて、それ以降ミユの知らないところであたらしい交際相手が出来たという可能性を考慮すれば、自然とそのような及び腰になってしまうのである。あまり考えたくないことだが、現に有紗を初めとした大学時代の友人はこの悲劇的な三年と四ヶ月と十二日を思う存分に亜紀の追悼に費やした一方で、彼女であるはずのミユは好きでもない労働に忙殺されて寝て起きて食べての繰り返しにより蓄積していく疲労のなかで燦然と煌めくアオハルという名の蒼い樹脂でびっちりと塗り固められた亜紀との思い出を、まるで亜紀との間に授けられた子供のように頬ずりしたり額と額をくっつけたり時には閉じられた瞼にそっと口づけをしたりして過ごしてきたのである。そのようにミユが三年と四ヶ月と十二日かけて育んできたうつくしい友人とのうつくしい思い出はうつくしさの核である亜紀の死により一変し、まるでこれまで育ててきた子供が別の家の子供であることを三者面談になってようやく担任から指摘されたかのような、そんな「まさか」では到底片付けられそうにもない気恥ずかしさと恐ろしさが、他人の子かもしれないいきものとの視線の衝突により激しくかつ急激に増幅されていくのだった。どうして、とミユは呟く。聞こえなかったのか、有紗はストローを使って大きな氷たちに阻まれたグラスの底に取り残されたミックスジュースを、ぢゅっ、ずごごごごっ、ゴッ! と吸いきろうとしている。ミユはもう一度口を開いた。
「どうして、今まで教えてくれなかったの?」
 有紗は格闘していたグラスから顔を上げた。心底不思議そうな顔をしている。
「何の話?」
「とぼけないで」
「え、いや、ちょっと待ってよ。なに、本当に何の話?」
「だから、」ミユは左目を引きつらせ、パチパチさせながら言った。「亜紀が、死んだ話」
「……え? いや、は?」有紗は眉をハの字にする。
「もしかして三上、亜紀が死んだの知らなかったの?」
 ミユは左目を引きつらせながら、震える手でコーヒーカップを掴んだ。揺れる液面は大部分の熱を手放していて、いくら啜っても苦いだけである。
「えっ、ごめん。まさか連絡すら行っていないとは思ってなくて」
「葬式は」
「え?」
「葬式は、やったの?」
 あー、と有紗は俯き、ストローでグラスのなかのアイスをガラガラかき回しながら、やったよ、と呟いた。
「亜紀が死んだ次の日、個別にメッセージが来たの。亜紀のお母さんがね、亜紀は死にました、もうこの世にはいませんって。あなたは亜紀と仲良くしてくれていたみたいだから、もしご都合がよろしければ、ぜひ葬式にきてくださいとかなんとか言って」
 ミユはメッセージアプリを開いた。亜紀とのトークルームを開いたが、そこには既読すらついていない自分からの一方的なメッセージが何十も何百も積み重なっている。ミユは過去の自分がうつくしい亜紀に吐き出したうつくしくない言葉を人差し指で容赦なくスクロールしてスクロールしてスクロールしてスクロールして数々の言葉を読み飛ばしながらようやく辿り着いた亜紀からのメッセージは、何度見ても変わらない文字列で、何度見ても変わらない感情をミユにもたらしてくれる。
 ねえ、とミユは声を出した。有紗はミユを見る。その視線はミユの左目に注がれている。
「亜紀の葬式さ、どこでやったか教えてくんない?」
 有紗は少々面食らったようだったが、しばらく頭を悩ませたあと、そう遠くはない葬式場の名前を挙げた。ミユは礼を言ってコーヒーの代金プラスアルファをテーブルに乗せる。
「え? ちょ、待ってよ」有紗はミユの腕を掴んだ。「もしかして今から、」
 ミユは有紗の手を振りほどき、呆然とする有紗を残して退店した。ミユがホンダのN―BOXに乗り込んで二〇分かけて向かった先はまさにその葬式場で、そこではミユの知らない中島家と名乗る集団がミユの知らない故人を深く厳かに悼んでいた。ミユはおじいちゃん警備員に雑に誘導されるがまま、駐車場の隅に車を停めた。オッケーマークを指で作ったおじいちゃん警備員が離れていくのを見計らって、ミユは此処に来るまでに寄ったコンビニで購入した線香を箱から鷲づかみで取り出してライターで一気に火を付け吹き消した。車内はモクモクと数十本分の線香の煙で満ち満ちていき、ミユは視界が白煙で完全に見えなくなる前に、動画サイトに投稿されていた眼鏡の僧侶が一時間かけて南無阿弥陀仏と唱えるだけの動画を再生した。亜紀が浄土真宗かどうかは知らなかったがどうでもよくて、野太い南無阿弥陀仏と木魚のポクポク鳴る音がスマホから聞こえ始めると、ミユはシートを極限まで後ろに倒して寝転がり、亜紀の死を悼む僧侶と化したスマホをみぞおちに乗せて、胸の前で手を組んで目を瞑った。線香の香りが強くなる。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。ミユは次第に泣けてくる。南無阿弥陀仏。涙が止まらなくなる。ミユはいつしか泣きながら亜紀の名を呼んでいて、その車の窓を警備員が必死になって叩いている。というのも車内は白い煙で満たされていて、時折薄れる煙の中でミユが泣きながら何かを言っている様子が透けて見えてしまうのだ。どこからどう見ても異常事態であり、それゆえに警備員は必死に窓を叩き、木魚は鳴り、スマホは念仏を唱え、ミユは亜紀の名を呼ぶのである。
 そんな状況だから、ミユは誰かが自分の名を呼んでいることになかなか気付けなかった。その声はスマホの中にいる僧侶が息を整えるために無音になった数秒を捉えたもので、そのときようやく彼女は、
 ミユ、
 とうつくしい声が自分の名を呼ぶのを耳にした。ミユは上体を起こした。だれ、と口にする。そんな口先だけの疑問はミユの中では意味を為しておらず、けれども問わずにいられないのは俄にその声が信じられなかったからである。
「もう、なんて顔してんのよ」
 白煙の中から腕が伸びてきて、ミユの左目尻に浮かぶ涙を小指で拭った。ミユの頭は小指に押され微かに傾きつつも、見開かれた右目が捉えた助手席には、
「亜紀、なの?」
「そうだけど」亜紀はなんでもなさそうに呟く。「どうしたの、急に」
「どうしたのって、いや、だって」
「みゆ、へんなかおー」
 あまりに幼い声に、ミユはギョッと振り向く。誰もいなかったはずの後部座席には、チャイルドシートに固定された幼女がきゃいきゃい笑いながら座っている。
「ほら、ハルにも笑われてるよ」
 と亜紀が楽しげに言うのを見ると、どうやら幼女はハルという名で、ミユはこの幼女を知っているべきなのだろうけれど、ミユは彼女の素性にてんで見当がつかないし、そもそも亜紀が隣にいることすら受け止められていないミユにとっては、今なお南無阿弥陀仏と木魚の音が絶え間なく響くこの車内が不条理な夢のように感じられて、果たして私はいつこの夢から覚めるのかとぼんやり線香の厚い煙に包まれていると、ドンドン! と警備員が窓を叩くその音で、ようやくミユは我に返った。見ればおじいちゃん警備員が今にも泣きそうな顔で窓に張り付いていて、彼のしわくちゃの顔を巻き込まないように慎重に窓をビーッと開けてみれば、モワッと車窓から白い煙のかたまりが吐き出されていき、車内の空気は徐々にクリアになっていく。一方で警備員は玉手箱のごとき煙を顔面から思いっきり食らったので堪らず幾度か咳き込んでからキッとミユを睨み付け、さっきからあなたの車内は煙でいっぱいであなたも泣いているように見えたが大丈夫か、という旨の気遣いを幾分か興奮しながら問うてくる。それまでミユは亜紀への抑えきれない感情によって引き出された一連の行為が客観的にどう見えるのかを考えたことがなかったし考える暇もなかったので、心当たりしかない奇行の一部始終に慌てて平謝りをするのだけれど、そんなミユに横から、
「ねえ、見ての通りこの子には何もなかったんだし、もういいでしょ」
 と亜紀が飽き飽きしたように口を挟んでくるので、おじいちゃん警備員はやや萎縮した様子で、ええ、まあハイと言ってすごすご引き下がっていく。亜紀は続けて美和のスマホから流れ出る南無阿弥陀仏の動画をサッとスワイプして消してしまい、代わりにBluetoothに接続して最近流行っている韓流アイドルの歌を流し始めた。
「ほら、行こ」
 亜紀は顎をクイッと前にやった。
「行くって、どこに?」
 決まっているでしょ、と呟いた亜紀は、慣れた手つきでナビを操作する。「お」「お」「つ」「か」「こ」と入力される文字を眺めるうちに、ミユは察知した。この語順は間違いなく昔から亜紀が行きたがっていた大塚国際美術館である。亜紀曰くそこに展示されている絵画はすべて複製画で、本物は一切存在しないという異色の美術館らしいのだけれど、わざわざ高い入場料を払って偽物を見ることの何が楽しいのかミユには全然分からなくて、行きたい行かないの激しい応酬の末にふたりが一緒にそこに行くことは一度もなかったという、いわば思い出のない思い出の場所だった。今日こそは行ってもらうからねと言う亜紀に、行かないからねと美和も返す。亜紀は聞かずに目的地を設定し、勝手に音声案内を始めたナビが「到着時間は、午後三時四分です」とアナウンスする。ミユは眉根を寄せた。
 午後三時四分?
「遅いんじゃないの」
「大丈夫だよ」
「でもここ、回るだけでバカみたいに時間がかかるんでしょ? だったら日を改めて」
「ダメなの」亜紀は毅然とした態度で言う。「今日じゃなきゃ、ダメなの」
 その口調に、ミユはふと、有紗がストローで溶けかけの氷をかき混ぜてガラガラ鳴らす様を思い出した。
「だから、ゴー!」と亜紀が叫ぶ。「ゴー!」と後ろからハルも叫んだ。美和が諦めてナビの音声ガイドに従って安全運転をすること一時間弱、車を駐車場に停めるなり亜紀はキビキビとベビーカーを取り出して嫌がるハルを無理やり乗せて、さあ行くよとミユの先を歩いて行く。ぎゃあぎゃあ喚くハルを横目に、これくらいの子ってベビーカーに乗るものなの? と聞いてみると、ハルは「のらない!」と叫び、亜紀は「乗る!」と言い切った。何なのだこいつらとミユが思っているうちに入り口へと辿り着き、ミユは大人二人分のチケットを渋々支払って(三歳のハルは無料だった)入場するなり長いエスカレーターが待ち構えていて、ミユはハルを抱いて亜紀はベビーカーを折り畳んで動くそれに乗りながらぽつりと呟くことには、
「私のお目当ては、ただ一点の絵画だけなの」
「え、マジで言ってる?」
「マジで言ってる」亜紀は真面目な表情で言う。「それだけの価値が、あの画にはあるの」
「でも、偽物なんでしょ?」
 亜紀はそれには答えず、エスカレーターが終わるなりまたベビーカーを開いて嫌がるハルを無理やり乗せて警備員にギリギリ注意されないラインの走り歩きで館内を進んでいく。
「事前に場所は調べてあるの。お目当て以外は全部スルーするから」
 言葉の通り、亜紀は魚のように美術館のなかをスイスイ進んでいく。ミユは美術館なんてものに入ったことはなかったものの、このような鑑賞方法がメジャーではないことは十分に想像がつく。亜紀の後を着いていきながら、ミユは横目で絵画を眺めていく。キリストっぽい絵画から天使っぽい絵画、女の裸やら風景画やら子供やらひまわりといった様々な絵画を通り過ぎ、ようやく亜紀のベビーカーを押す手が止まったのが、ある女が描かれた絵画の前だった。亜紀は深く息を吐いてその絵画の前で立ち尽くし、誰にも聞こえないような声で、うつくしい、と呟いた。寒空の下で馬車に乗った黒ずくめの女性が、鑑賞者を見下すかのような挑発的な視線を投げかけている。ミユはなんとなく、その画が気に食わなかった。横に掲げられた解説文には、作品番号六〇七、クラムスコイ、イヴァンの『見知らぬ女』と書かれている。
「この女性のモデルはね、未だに何者か分かっていないの」
 亜紀は静かに言う。「愛人だとか、娼婦だとか、『アンナ・カレーニナ』の主人公だとか、みんなから言われたい放題で、本当に可哀想な人」
 それでも、と亜紀は続ける。
「私はこの人が大好きだし、こんな女になりたいし、ハルもこういう人に育ってほしいと思っている」
 泣きそうな亜紀の瞳に、ミユはなんと返せばいいのか分からなかった。その通りだねと笑えばいいのか、こんな偽物はクソだと叫び散らかすのがいいのか。ただ、ミユにはそのどちらも出来なくて、大切なものを目の前にして逡巡するうちに、ミユの左目はヒクヒク引きつってしまう。
「ああ、懐かしい癖……」
 亜紀はミユに近づき、左目の瞼をそっと指でなぞる。
「本当に、出逢った時からずっと変わらない。愛おしくて、可哀想で、」
 うつくしい、と呟いて、亜紀はミユを静かに抱きしめる。
 ハルはベビーカーに乗りながら、その光景を見上げている。