新薬史観

地雷カプお断り

虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 第13話感想

「虹ヶ咲13話の感想を更新しないんですか」と聞かれ、慌てて書いています。なんかもういいやと想って放置していましたが、折角13話まで書いたんだし最後まで書こう。今更すぎるけれど!

久しぶりにアニガサキを観ると、懐かしい気持ちになる。あの頃はよかったなあ。

 

 

13話の感想

まずなによりも、アニメはスクールアイドルフェスティバルの描写が非常に巧いなとは感じた。アニメ・スクスタの両者ともに、スクールアイドルフェスティバルについてはその規模の大きさからも現実的にクリアすべき課題は数多くある。それに関してはスクスタはそれなりに向き合っていたように感じるのだが、アニメはそこらへんをばっさりカットしている。ここらに関しては、アニガサキでは学生による完全な自治が実現していることが推測される。理事長なんてものは居ないに等しく、生徒会の一存で(懐かしい単語だ)いろいろなことが出来るのだろう。この生徒会特権とでも言えるものは、二次元アニメあるあるであり、フィクションらしさを示すひとつのパーツだろう。その点においては、スクスタの方がより現実みがある話の運びをしているように思う。

一方で、アニガサキのスクフェスとスクスタのスクフェスでは、その立体感が大きく異なっているように感じる。アニガサキのスクフェスのほうが「フェスティバル」らしいと思えるのだ。これはその中身の描写によるものだろう。アニガサキでは様々な学園と打ち合わせし、会場設営の描写も織り交ぜている。それでいて、実際にお祭りとしてメンバーやファンのみんなが楽しんでいる描写も描いている。この描写がなかなか効いていて、これまでスクスタで説明されても具体的に想像できなかった「お祭り」がどのようなものか、これを実現させる「あなた(高咲侑)」がどれだけすごいのかが分かることとなる。そういう点で、自分はこの話作りはうまいなあと思った。

途中、かすみとせつ菜がバトり始めたあたりで、アニメサンシャインを想起し、「俺は何を見せられているのか」と恐怖で震えが止まらなくなったのは事実だが、無事になんとか乗り越え、璃奈から愛への感情、しずくからかすみへの感情が整理されたあたりで再び集中することができた。かすみの髪飾りは伏線?の回収がうますぎて舌を巻いた。そういうことするんだ。どこまでもすごいスタッフ陣だな。

で、ここに来ての雨であり、誰も積極的に抗おうとしないこの姿勢がやはり今っぽいなと感じた。雨に対しては素直に雨宿りをするに留めているあたり、世間の動き(廃校など)に逆らおうとする前作とは姿勢が大きく違う、あくまでスケールの小さい話、どこまでも「自分たちの話」をしているんだなという印象だった。

また、「夢がここからはじまるよ」はあまりに良すぎて当時は発狂した。改めて見ても発狂した。一部掲示板ではぬるぬる動くここの作画がキモいとの意見があったが、そんなことはないだろう。確かにぬるぬる動くけどここではそれより後ろの謎のロゴに謎に感情を刺激されて泣きそうになってしまう。あれなんでなんでしょうね。キルラキルでもそうなんだけれど明らかに無意味?な文字というのは映像としてかなりの強さを持っている。スタァライトの綿密なテロップもそう。文字は映像と合わさったときに力を発揮するのだ。

また、ここで結ばれるふたつの手こそが第1話の歩夢の「Dream with you」MVで表現されていた別れる手であり、第12話「Awakening Promise」で表現されていた重なる手である。この13話にしてようやく、歩夢の「守破離」ならぬ「離重結(なんて読むんだ?)」が達成されたのだと見ることが出来る。

その後、アニメは止め画で進行することになり、ここについても「作画力尽きたか」みたいな意見があった。個人的にそれは違うと言いたい。バンクが作画労力のカットとして生み出され、それが今では効果的に用いられているように、例え作画労力をカットしても、それが映像作品としての質に影響するかと言えば関連性はないだろう。常に動いている必要は無く、しかもライブ後の映像を効果的にテンポ良く見せることで、ライブがうまく行き、祭りの終わりが静かに終わりつつあることを十分表現できているように感じる。実際、アウトロに重なるようにして侑の独白が始まる。自分はこのシームレスな繋がりが大好きだ。

それはそれとして、同好会内でやりとりされていた意味深なノートが結局は作品中では渡されないという道具の使い方に合わせて、ラストのエマの「いろんな国からお手紙が来てるよ」に対する彼方の「これは是非とも第2回もしなきゃだねえ」という台詞からは、メタ的な、つまり「多くのオタクからの要望が届いたから、本来は予定していなかった2期もしなくちゃねえ」という風に読み取ることはおかしなことではないと思う。

つまり2期はやるんです!知らんけど。

 

以上。

素晴らしい作品をありがとうございました。

最後に総括としてこれまでの解釈を纏めようかなと思ったんですが、割とμ'sとかにも手を伸ばして話をするとややこしくて適わないので、ここらでいったん締めたいと思います。

自分に「何かをやり遂げる」という成功体験を与えてくれたマシュマロ主さんありがとうございました。これで自分に自信が持てました。(?)

アニガサキ2期ありますように……。

最近観た映画②「クール・ランニング」「海の上のピアニスト」

ジョン・タートルトーブクール・ランニング」(1993)

非常に面白い映画だった。随分まえにオススメされていたのにどこにも見当たらずに泣いていたところ、大学で発見した。パッケージがB級で「面白いんかこれは」と疑りながら視聴したが、氷のない国ジャマイカから出てきた素人四人が、ボブスレーでオリンピックに出ようとするという設定自体が既に面白い(実際に現実にあった出来事らしい)。で、当然ボブスレー常連国やジャマイカ国民たちは、四人(+コーチ)ごときで勝てるわけがないだろうと馬鹿にしてくるわけだが、「まあ見てろ、いつかお前らを見返してやる」系の逆転劇が面白くないわけがなく、さらにジュニアの精神的な成長がすごくうまく描かれていて泣いてしまった。これは非常にいい映画ですね。実はこの映像はディズニーが制作しているのだが、まったくわからなかった(他のスタジオ制作なら分かるのかといえばそうではないが)。まあでも登場人物のサンカあたりのひょうきんな言動にディズニーっぽさが出ている(かも)とは思った。史実と見比べると結構違うようなのだが、どれも(都合良く)面白い方向に改変されており気にならなかった。気分を明るくしたい時に見たらかなり良いですね。めっちゃ元気づけられるし感動する。傑作。

 

ジュゼッペ・トルナトーレ海の上のピアニスト」(1998)

 「ニュー・シネマ・パラダイス」で自分の心をグッと掴んだ彼の作品ということで、非常に期待をして見た。結論から言えば、「ニュー・シネマ・パラダイス」を越えられたかもしれないのに、ラストで台無しになった非常に残念な映画だと思った。

褒めるところはいくらでもある。

ひとつひとつのシーンはとにかく面白いし、テンポはいいし、話の構成もうまく纏まっていてかなり良い。あとエンニオ・モリコーネの音楽が良すぎる、マジで!感情をこれでもかというくらいに揺さぶってくるんだから最高過ぎた。お気に入りのシーンとして、船に揺られながら大移動するピアノでマックスと演奏をしたり、ジャズを生んだ天才とのピアノバトルが挙げられるが、あそこらへんの映像は本当にびっくりするくらい良かった。マジで大好きだ。1900(名前のセンスも最高)が恋をするくだりも良いし、キャラもめちゃくちゃ立っているし、奇人の描写がうまい。で、ここまでベタ褒めなのに何が不満なのかというと、おそらく多くの人が感じる(と思いたい)1900の最期に対する違和感だ。自分は確かに1900の言う外の世界に対する論理に納得した。なるほど、彼が船に残るのはそういうこと意志によるものかと頷くことは出来た。

ただ、納得はできても、作品として誰も求めてない結末に思えてならないのだ。ハッピーエンド厨といわれると返す言葉もないが、映画としてのエモを追求するなら、ダイナマイトによる船の爆発より、陸に上がって少女と海を眺める1900の画の方が数億倍いい。あるいは、「ダークナイトライジング」のように誰もが死んだと思っていたけれど、ふとある日、少女と仲良く過ごしている1900をマックスが観測して、声は掛けないけれどめちゃくちゃ嬉しくなるという構図でもいい。とにかく、マックスの奇人像を崩さずに(あるいは彼の葛藤を乗り越えて)、映画全体の完成度を高めることができる結末は無数に存在しているわけで、なかでも本作の結末は悪手と言われる部類の選択だったとしか思えないのだ。普通にやっていることは殺人だし、論理で観客を納得させても、とてもじゃないが感情が追いつかない。不安定な気持ちのまま映画を見終え、それよりも先を幻視してしまう。監督が「1900のあり得たかもしれない無数の未来」を観客に見させたかったという観念があるのなら良いのだが、それによってこの映画で提示されているテーマがなんなのか、まったく伝わらない点でやはり悪手だと思う。

最後以外は「ニュー・シネマ・パラダイス」以上の盛り上がり、キャラ造形のうまさを誇っていただけに、終わりがもったいなさ過ぎて悔しいとまで感じる作品になった。自分は到底この結末を受け入れられないと思う。

最近観た映画①「ランナウェイズ」「ミスター・ノーバディ」

フローリア・シジスモンディ「ランナウェイズ」 (2010)

1970年代に大ヒットしたバンド・ランナウェイズの軌跡を描いた作品。これアレです、「最愛の子ども」で引用されていたバンドだから見た感じです。「最愛の子ども」での文脈としては、「メンバーのジョーンがレズビアンで、シェリーと関係を持っていた」という事実をあとあとになって知ったかつてのファンの心境が現実に反映されるという感じなのだけれど、確かに本作でもそういう描写がされていてなるほどとなった。自分は音楽に疎いのでランナウェイズというかロックというジャンル自体聞いたことがないレベルなのだが、それもあってかあまり本作の面白さが分からなかった。というか映画として面白みにかける気がする。ただ作品の構造(というより史実での扱いということになるが)は非常に良くて、ティーンエイジャーの女の子たちが、男たちによって独占されているロックに立ち入ること(それ自体が禁忌であり、だからロックなのだ)で自らの立ち位置を確立したのに、それを観る男が彼女たちを性的消費しているから、結局どこにも彼女たちは立てていないのではないかという胸糞なつくりになっている(気がする)。ただ、そもそも論としてジョーンが百合文脈において運命的な出会いをした超絶美人のシェリーの美貌を看板にすることで、バンドメンバーは商業的な立ち位置を確立したのだから、それが音楽ではなく外側だけで消費される運命を辿るのも仕方が無いのかなと思ってしまった、今の時代ならともかく……。一方で日本では非常に根強い人気を持っていたようで、作中でも当時の日本女子から絶大な支持を受けていた描写が観られる。その熱狂は暴動を引き起こすレベルにまで行き着くのだが、そこまでの熱意を生み出したのは未だに続く男尊女卑の社会に生きる女性と深く結びつくところがあったのかなと思ったりする。わからんけれど。

現実での出来事としては非常に面白い内容だったが、映画としては盛り上がりもなく、緩急もなく、特別いい構図もなかった(ジョーンとシェリーのタバコの煙をお互いの口に吹き込んでからするキスシーンだけは間の取り方や構図がかなり良かった)ので、誰かにお勧めすることはあまりないかも。ランナウェイズが好きな人は観たら楽しいかもしれん。そういう意味ではクイーンのこと全く知らなかったのに楽しく見れた「ボヘミアン・ラプソディ」ってすごかったのかな。まあでもあれは自分でも耳にしたことある楽曲が効果的に使われていたから話が別かもしれん。

 

ジャコ・ヴァン・ドルマル「ミスター・ノーバディ」(2009)

これめっちゃ面白かったですね~~~!!!!SFが好きなら絶対に押さえた方が良い映画ですねと、バタフライエフェクトを未視聴な自分がのたまっています。

これ以降の感想はガッツリネタバレになるので注意。

 

自分が一番感動したのが、「ありえたかもしれない自分(選択しなかった自分)」を映像美*1で表現しきった両親とニモの駅でのカット。ここが本当によかった。文章ではとても表現できない(あるいは雑な視点切り替えで済ませる)ところを、映像だけがもつ表現力によって情感を持たせているところが素晴らしいと思う。余談だが、この「ありえたかもしれない自分」を表現する映像美に、一番迫った文章表現ができているのが伴名練「なめらかな世界と、その敵」だと勝手に思っている。

話を本作に戻すが、この映画のいいところはかなり色の選びがうまいところなのかなと思ったりする。もちろんどの映画も色作りには細心の注意を払っているだろうが、本作では人生の分岐における女の子三人を色分けしたり、過去の回想(あるいは分岐する人生)と未来をカラーとモノクロに表現したりと、観ていてかなり気持ちがいい。かなり原色を使っているような気がするのだが、これもピッタリ映像に合っているし最高だ。

さらに嬉しいのが、科学番組という解説手段を置くことで、この映画の根幹となる部分の理論を科学に詳しくない人にも親切に教えてくれるところにある。賢い人たちが集まって賢い人たちのために賢い映画をつくることなら、賢ければ誰にでも出来る。この映画はそうではなく、どこまで観客の想像力が及ぶか、どこまでこの作品に説得力を持たせることが出来るかを苦心しつつ、それを芸術作品にまで高めているところに素晴らしさがあると思う。本作品は去年話題となった「TENET」と題材を被せているところがあるが、あっちはノーラン特有の説明不足というか、「難解すぎるけど映像が綺麗だしまあいいか」で訳も分からず殴られて気持ちよくなる感じがあるけれど、こちらは医師からしっかりと説明されたうえで腹にパンチを食らう快感がある。ラストの映像はただただ気持ちよく、視聴後は無茶苦茶になって項垂れるしかない本作だが、そこには映像の気持ちよさだけではなく、しっかりとしたメッセージが組み込まれていることに気付くはずだ。「結局ニモは何を選んだのか?」という問いに、本作は直接答えない。9歳の少年ニモが人類最後の人間として生き延びる世界、そしてそれが死ぬ世界というのは、結局のところ「ニモが自らが持つ可能性、およびあり得たかもしれない人生を予知し尽くした」ということを示しており、ニモの手にはありとあらゆる情報が握られていることになる(ここの表現が作品として最高すぎて泣きそうになってしまった)。で、自分の人生を決定的に変える選択肢が9歳の時点で明確に存在し、チェスでいうところのツークツワンツ(動かないことが最善手)という状況に陥る。どちらに動いても人生は思いも寄らぬ方向に変わるし、自分は必ず死ぬし、愛する人も変わる。ありとあらゆる人生には良いところと悪いところがあり、そのどれもが評価できずに特別かつ等価で、だからこそ選べないという状況下にニモは置かれる。ニモはどちらも選択せずに線路の脇道に逸れる。ここからは自分の妄想になるが、そこでニモが妄想するのが(あるいは可能性として提示されるのは)もし過去に戻ることができればという願いである。いくら未来を予知できたからと言って、ニモに両親の別れを阻止することはできない。いずれの未来も等価で貴重なのであっても、「ならば過去に少しでも遡ればどうか?」という疑念は尽きることがない。ほんの少しの違いで世界は変わる。ならば過去に戻ることができれば、両親の離婚を止めることができ、予知した未来とは全く異なる世界線もあり得るはずである。ここに常人離れした未来予知の「ニモ」と未来を予知できない私たちの共通点がある。「全ての未来が見通せる」ことは、「全ての未来が見通せない」ことと同義であるのだ。そのために「過去に戻りたい」という渇望はニモを含め誰しもが抱くことになる。それを可能にするのは時間の矢の方向の逆転であり、その時初めて人は過去に戻ることになるのだ。しかしながら、きっとそれは不可能である。だからこそ人は何かを選ぶことしかできない。

と、なんだか作品解説のようになってしまったが、この明らかに冗長な説明がすべて映像化されている点で、この作品の素晴らしさがある。本当に完璧な映画作品だ。殿堂入り。

*1:自分のなかでは視点の切り替えスピードやテンポや色使い、カメラのピントやらいろんなものを含めて雑に説明できる便利な言葉だ

平田オリザ「火宅か修羅か」「南へ」「この生は受け入れがたし」観た!

最近いろんな映像作品を観ているのだが、普通に観るペースが速すぎるのと、二次創作を久しぶりにやってしまったので感想記事が追いつかない。後々書いて行こうと思いますけれど、実はウマ娘にはまったこともあり、かなり時間がない。ひえ~。頑張って書いて行きます。

で、今回は忘れないうちに今日観た平田オリザの作品の感想をメモを書きます。

今日観たのは3作品。全部図書館でVHSとかいうオーパーツを扱ってようやく観れるものなので、非常に手間がかかる。あと画質が悪すぎる!逆にこの数十年で技術はとても向上したのだなあと感心せざるを得ないわけです。自分は資本主義がかなり嫌いなのですが、こうして年月を越えて文化作品に触れることができるのも、すべては資本主義のお蔭ですので、私なんかはもう資本主義に足を向けて寝られない訳ですね。ああ有り難や有り難や。

閑話休題

 

「火宅か修羅か」

実はこれを観る前に平田オリザが何を意識して舞台を制作しているかという映像を観ており、それがめちゃくちゃ強く反映されているなあと感じた作品。具体的に言うと、①あえてふたつにグループを分けて別々の会話をさせる②台詞が聞こえなくなってもいいので声を被せる③めちゃ脱力して演技するあたりだろうか。ここらへんが所謂「現代演劇」の特徴らしいが、確かに西洋の作品(まあ自分は本場の舞台なら「レ・ミゼラブル」くらいしか観たことがないが)に比べて静かだし空気や時間を極限まで現実に近づけている。ここらへんの試みは西洋で生まれた演劇を作法というものを日本の文化に基づいて再構築するような試みらしいのだが、見事にその仕事は果たせているなあと感じる。

でも、これが正直あんまり面白くない。結局どこまでも忠実に現実に基づいているわけだから、「作られている」という空気がない。自分はこの作為性を「虚構っぽい」というフレーズでかなり雑に解釈しているのだが、後の舞台にも共通して言えることとして、どこまでも虚構っぽさが見当たらない。虚構っぽい作品が大好きな自分からしたら、平田オリザのつくる演劇は、ちょっと相性が悪いのかもなあと感じた。

なんというのだろうか。虚構っぽさがないからこそ、自分は作品に切実さを感じることが出来ず、ゆえにだらりと受け流して観てしまう。それが平田オリザの狙った演劇のスタイルなのかもしれないが、自分はこのスタイルだと「作品を真剣に観る」という行為が封じられたようでかなり困る。実際に自分はこの作品を「旅館での知らない人たちの一日を切り取っただけの作品」というように感じられ、原作にあるだろう登場人物の葛藤を丁寧に汲み取ることが難しかった。確かに、僅かに崩れる台詞の間(ま)や距離感、表情(画質が荒くてかなり厳しかった!)の変化や声の調子からは感情の機微を感じ取ることは可能である。ただ、どのように変わったかというより「変化した」という事実そのものを受け取るに留まっている感覚で、かなりむずがゆい。ここらへんに関しては、自分の作品を鑑賞する態度にも関わってきそうな問題なので、感想を確定する前にもうちょっと平田オリザの作品を鑑賞することにします。

 

「南へ」

これは現代社会(バブル当時!)への皮肉がしっかり効いていて良かった。自分は人間が嫌いなので、人間の愚かさが描かれた作品を好きになる傾向がある。この作品に出てくる人間は、みなバブルに浮かれて、金にものを言わせて人種差別や労働者差別をばんばんやる。それが愚かしいということがしっかりわかる作りになっているので、前作よりかは面白さが分かったし、観ていて楽しめた。けれども別に心に残るわけでもないし……う~ん。やはり受容体がズレているのかな?

そういえば思い出したけれど、前作と本作で強烈な空気の読めないキャラを演じていた渡辺香奈さんが印象に強く残った。彼女は平田オリザが想定する「ニュートラルな身体」からめちゃくちゃ外れている演技をしているように思うのだが、恐らくあれでゴーが出ているということは、あの強烈さが渡辺さんのニュートラルな姿なのだろう。すごいヒトだなと思った。

 

「この生は受け入れがたし」

青年団弘前劇場の合同公演。これは割と好きだった。「寄生虫学者」と「東北」という「普通(かなり意図的に使っています、東北民の方ごめんなさい)」から逃れた二つの属性が合わさった環境で起こる生活描写という点でかなり面白い。実際にインタビューを観るとここの差異を出したいと考えられていたそうだし、それがしっかり作品に反映されていて良かった。その差異の識別を可能にしている、東北弁と標準語(やや訛り)を使い分ける演者さんの演技がすごすぎる。かなり卓越した技術ではないだろうか。話自体も、普通の人は恐らく知り得ない寄生虫の知識がふんだんに盛り込まれており(自分は寄生虫が好きなので8割方知っていた)、飽きずに物語を追えると思う。一方で、寄生虫のもつ「寄生」という概念と、人間が謳いがちな「共生」という概念の対比が露骨に表現されていて、そこが面白くも残念だった。確かに視点としては面白いのだけれど、この誘導は作為的だし、虚構っぽい。でも平田オリザが目指している日常生活らしさが極限まで求められていて、事実それが成功しているのだけに、自分からすると「現代演劇」がブレているようにしか思えなかった。なので全体を通して考えると微妙。面白かったんですけれどね。ギャグなんかは結構笑った。

 

感想は以上。とりあえずは図書館にある平田オリザの作品を全部見ようと思っているので、いつになるかは分かりませんが、代表作の「東京ノート」や「ソウル市民」も観ることになると思います。面白い(というか自分に平田オリザ作品の受容体が備わっている)ことを願います。

ラーメンズ第8回公演「椿」観た!

観ました。ラーメンズの演劇(コントなのか?)がすごいというのはよく聞いていたのだけれど、実物を観たことがなかったので、この機会に見れてよかった。

感想としては、とにかく言語遊びがうまい。演技もすごい。

以下、それぞれのコント(演目?)の感想

※なお、後の感想のために自分で勝手にタイトルをつけたのだが、最後にコントの正式タイトルがまとめて表示されたことで、こちらとしては何らかの問題の答え合わせをしているようで面白かった。折角なのでどちらも掲載したいと想います。

 

①個人的タイトル「糸電話」 正式「時間電話」

ただの糸電話かと思えば、過去と未来に繋がっていたという話。演技が非常にうまかった。片桐仁すごい。ネタとして笑えるかと言うと微妙。

 

②個人的タイトル「心理ゲーム」 正式「心理テスト」

個人的にかなり好きだった。話の展開やテンポがすごく気持ちよく、楽しく見れるしネタも面白いしで最高でした。ここで一気にラーメンズの世界に引き込まれた。

 

③個人的タイトル「中華料理、一年中戦っているサムライ、釣りのあいうえお」 正式「ドラマチックカウント」

これめちゃくちゃ感動しました。自分がタイトルとして書いたように、3本のコントでひとつになっているのだけれど、これらはすべて「カウント」によって成立するコントになっている。簡単に言えば明らかに怪しい伏線を張って、あとあとから回収するつもりなんだろうなあというのが丸わかりなんだけれど、それにしても巧すぎる。時に一番最後の「釣りのあいうえお(ねぎしそ命名)」は圧倒的なクオリティで笑いが止まらなかった。すごすぎて逆に笑えるという体験がしたければ、是非このコントを観ていただければと思います。

 

④個人的タイトル「インタビュー」 正式「インタビュー」

これも好きなんだよな~。小林賢太郎の演技も好きなんだけれど、とにかく片桐仁が纏う狂気が半端ない。狂った人間のネタというのは、どうしてこんなにも面白いのだろうか。声に出して笑ったのはこのネタだけな気がする。これで笑わない人がいたら教えて欲しいレベルに面白い。ただ、最後のCMソング収録のカットは個人的に不要だと想う。

 

⑤個人的タイトル「裏表のない男」 正式「心の中の男」

面白いのだけれど、普通。てっきり背後の男は(一箇の人間として)実在すると思っていたので、ああ、なるほどと。

 

⑥個人的タイトル「高橋」 正式「高橋」

いまいち。

 

⑦個人的タイトル「ななめの日」 正式「斜めの日」

これすごく好き。どこまで演技なのかが分からないという恐ろしさもあるのだけれど、何よりも「斜めの日」という特異的な設定が非常に演劇チックで良かった。それに負けないくらい片桐仁の狂気が光っていたので、お気に入りの一作となった。人間が狂っている作品が好きなのかもしれない。お笑いコンビだと天竺鼠とか好きだしな……。

 

⑧個人的タイトル「英会話」 正式「日本語学校アメリカン」

まあまあ面白い。昔懐かしおもしろフラッシュ倉庫の香り。

 

⑨個人的タイトル「椿」 正式「悪魔が来たりてなんかいう」

クソ微妙。これで終わるのかよ~と想った。あと、こればかりは作品タイトルは「椿」だと想った(コント中のヒロインの名前が椿なのだ)のに、全然違くて萎えた。

 

まとめ

それなりに当たり外れはあるものの、全体を通して面白かったし、なにより「ラーメンズ」の世界に人を引き込むのがめちゃくちゃ巧いなという印象。楽しかったです。次は何を見ようかな。

劇団ままごと「わが星」観た!

実はこれ、めちゃくちゃ前にオススメしていただいていた作品でした。演劇ということもありなかなか配信しているところがなく困っていたんですが、たまたま大学の蔵書データベースにアクセスしたらAV資料として保存されていました。有能ですね。

というわけで観たのですが……これ本当にすごいですね。馬鹿みたいに泣きました。演劇自体そこまで観ているわけではないのですが、演劇というジャンルが生み出せる最高レベルの作品になっている気がする。韻を踏みまくり、言葉を聞くだけで笑顔になるような言語センスが全編を通して貫かれており、それが作品の構造にもなり、アクセルにもなっている。ベルクソンは笑いの要素として「反復」や「意外性」などを挙げていますが、この作品ではそれらが「感動」にまで昇華されている。それを実現させているのが、とめどなく流れる言語とそれに紐付いた身体性なのかなあと。普通なら不可能かとおもうような演技が、めちゃくちゃな練習量で実現されている。具体的にどのあたりがと聞かれると「全部」としか言い様がないので申し訳ないのだが、きっと一目見ればその異様さがわかる。神業とでも言えばいいのだろうか、見た目の動きのリズム、耳に聞こえるリズム、それらが親和していっぺんに感情を襲ってくるので、もう訳も分からず圧巻されるし、涙が出てしまう。休憩はなく、常に物語が動いている。しかもその動かし方が言葉遊びだったり光の演出だったり、まったく観客を飽きさせないどころかどんどん引き込ませるものなので、まるでブラックホールにでも吸い込まれているような心地になる。

僕は百合のオタクなので、この作品でちいちゃんと月ちゃんが交わり出した時点で無理になってぼろぼろ涙をこぼした。いや、エピソードそのものより作品構成のほうがずっと自分を魅了しただろうか。この作品にはエモいエピソードが3つ含まれている。先に紹介した少女同士の友情の物語、家族として終末を迎える物語、少年と先生の校則を越える物語。これらが「宇宙創世」という単語の元に纏められ、びっくりするくらいの綺麗さでひとつの物語になっている。その事実が恐ろしすぎて、見終わったあとはしばらく何も考えることができなかった。とにかく感受性への攻撃力が高すぎるのだ。自分は作品鑑賞をしているとなにかとよく泣くタイプで、おそらく感受性が強いのだろうなと我ながら自覚するところではあるのだが、自分のような人間は特に気をつけてこの作品を視聴してほしい。音楽の良さ、演技の良さ、台詞の良さ――これらがいっぺんに襲いかかってくるのだ。自分でもよくわからないことを書いているが、それくらいすごい話だと言うことを伝えたいのだ。考察も何もなく、ただありのままがある。咀嚼するわけではなく、何度でも観たい、浴びたい。「わが星を生で見ることが出来た」人は、一生における最高の経験を手にしたなと素直に羨ましく想う。

酒に酔っていてうまく言葉がまとまらない。ただ、この文章でそのすごさだけでもうまく伝わればと思う。演劇ってすごいわ。

キャメロン・クロウ「バニラ・スカイ」(2001) 観た!

ファイアパンチ」で死を迎えつつあるトガタがアグニに向けようとした言葉に「猫になって…」というものがある。その後トガタは「バニラ・スカイ見てないと通じないか」と考えを改めるのだが、それは全くこちらとしても同じで、バニラ・スカイを見ていないので自分には通じなかった。猫になったからなんだと言うのだ。バニラスカイといえばあの空色の背景にめちゃイケメンのトム・クルーズが左を見つめているサムネで有名な映画である。内容はミリメートルも知らなかった。

「『猫になる』とは何か」。

我々はアマゾンの奥地にあるU-NEXTで「バニラ・スカイ」を視聴した。

 

以下感想

トム・クルーズがただただイケメンだ。これまでの自分の映画の感想を読んでもらうと分かるように、自分は俳優にはほとんど興味が無い。というか現実でも映画でも人間の顔を覚えることに非常に苦労をしている自分は、他の人に比べると「あそこの○○の演技が~」という見方が出来ないでいる。そこまで目が回らないのだ。悲しい。

そんな自分ではあるが、トム・クルーズのイケメンさには度肝を抜かれた。もちろん映画俳優なんて全員抜群のイケメンなのだが、この映画のトム・クルーズの顔の良さと言ったら天元突破をしているレベルである。こんなにかっこいい俳優は映画「コラテラル」のヴィンセント以来かも知れないと思いつき、ヴィンセントを演じていた俳優の名前を調べるとトム・クルーズだった。なんなんだお前は。

どうやら自分はトガタと同じようにトム・クルーズの顔が好きらしい。トガタと自分にそこまで大きな共通点があるようには思えないので、恐らく全人類はトムクルーズの顔が好きになる遺伝子配列を持ち合わせているのだろう。結構なものである。

さて、そのイケメンなトム・クルーズの顔は美空ひばりのごとき展開を見せる。ここがまず面白いなと思った。いや、誰しもがトム・クルーズがイケメンであることを理解しているんだが、その顔の良さがばっちり映画内でも反映されているのが面白かった。少しメタ的な要素を感じる。

それでいて映画の構成もまた面白い。ふと頭に「インセプション」が思いついたのだが、両作品ともに夢と妄想と現実がごちゃごちゃになり、観ている側も演じている側も訳がわからん状態になる。混乱しながらも観ていて楽しいという意味で、どちらの作品も非常に良く出来た作品だと思う。

あと作品の下敷きになっているのはハインライン夏への扉」だろうか。完全なネタバレになるので詳しくは言えないのだが、SFとして用いられている題材や、何と言っても印象的な「猫」の存在は、かの作品を思い起こさせるかのようだ。

で、肝心の「猫になって」のフレーズだが、これは主人公のデヴィットとソフィア(ペネロペ・クルス)の間で2度交わされる言葉であり、文脈によって意味が変わる。

先立つバーでのやりとりでは、ソフィアの本音を聞きたがったデヴィットが「いますぐ言え」と迫り、ソフィアが「猫に生まれ変わった時にね」と返す。ここでの意味は「まったく本音をいうつもりはない」ということになるだろう。

一方で、最後に二人が「猫になって」と交わすコンテクストを考えると、以前の悲観的な意味合いはなく、むしろそのままの意味合いでお互いが(少なくともデヴィットだけでも)猫になってでも出会えたらという願いが込められることになる。

これらの言葉は、簡単に言えば「来世で出会えたら」ということになるが、それをあの場で、あのコンテクストで「猫になって」と言い替えたソフィアの詩的センスが素晴らしいと思う。バーでのソフィアの特別な言語センスは、二人が出会えた時からずっと変わらないものだった。何より、デヴィットがソフィアを愛するキッカケになった特性そのものである。そのセンスをありのまま受け止められなくなったデヴィットにこそ問題があるのであり、「猫になって」というフレーズへのデヴィットの態度を観るだけで、仮初めでも二人の関係性を取り戻したかのように見えるラストシーンが最高だった。

あれだけの文脈を持った台詞を、トガタがアグニに向けて言おうとした事実が重すぎる。そして自分はソフィアにデヴィット、トガタにアグニの姿を重ねながら、今後このフレーズを口にするようになるのだろう。

多重なコンテクストは、ちらちら光る時空をいっぺんに箱のなかに詰め込んだかのように美しい。

非常に好きな映画でした。傑作かどうかは判断が難しいのだけれど(何故だろう?)、トム・クルーズの顔の良さは絶対である。