新薬史観

地雷カプお断り

toi「四色の色鉛筆があれば」ままごと「あゆみ」(長編)観た!

「わが星」の柴幸男の作・演出作品ということで知り合いにDVDを貸してもらい(実は貸してもらったのは数年前の何かしらの同人イベントでのことだった。放置しててすみませんでした)、いまさら視聴した。

 

四色の色鉛筆があれば

「過去と未来を材料に新しい現在を発明する四つの視点」「どんな複雑な世界も、四本の短編で描き出すことが出来る」というのがテーマの本公演らしいなので、できる限りそこを頭に入れて観劇した。

収録作

①あゆみ(短編)

これが一番好きだった。演出としてただ歩き続けるだけというのが斬新でビビったのと、ダッシュで時系列の変化を意味するのが面白かった。作品で示される「直進すると月に行ける」「月への距離」などは、第三作目の「あゆみ(長編)」で大きく変更される点であり、長編では「月への距離」ではなく「一生に人が歩く距離」になっている。この違いは端的に言ってあゆみが示す意味だろう。短編ではあゆみ自体でなく、歩んだ先にある月(家出や迷子、あゆみが「現在」いる場所などと関連)を示し、長編では歩むことそれ自体を示している。ただテーマとしては一貫しているように感じる。というのも上記で述べたように、月は家出して目指す場所であり、現在の自分を見失ってたどり着く場であり、また人生の一貫した流れから外れた(傘を差して横から現れるあゆみがいた)場所であるという意味から、月は人生においてあり得たかもしれないもうひとつの人生であり、また生まれる前や死後の世界(明言されていないが、あゆみは桶に両足を突っ込んで死んだような匂わせがある)を示しているように感じる(要するに過去現在未来という時間の流れから外れた場である)。そのような場所に立ち、現在の自分の歩んできた人生を見つめ直す、現在を肯定するという構造は、長編の「あゆみ」と変わっていない。ここらへんのテーマはつい先日観た(同じ人から進められた)「ミスター・ノーバディ」と同様のものであり、自分自身が内包されるがゆえに非常に不安定な解釈になる「現在」(ゲーデル不完全性定理的な感じ)を、外部の視点から観ることが出来れば(自分が存在する場を評価する立場を手に入れることが出来れば)肯定することが出来るよね、という感じのものだと解釈した。また柴幸男独特の演出なのかもしれないが、ありえたかもしれない無数の世界線、あるいは反復を示すために(多分)、複数の役者で声を重ねたり、何度も同じ台詞を効果的に繰り返すところが大好きだなと思った。何よりも、これだけの感動とメッセージ性をたった数十分に詰め込んでいる点が素晴らしい。作品として非常に美しいと感じた。

 

②ハイパーリンくん

「わが星」の前身というべき作品。役者がぴったりと声を揃えたり、あえてワンフレーズごとにずらして(譲って?)原理を述べたり、リズムに乗って円周率を言い続けるあたりはかなり柴幸男の性癖(かつ自分にとっても気持ちいいところ)が出ていそうだと思った。あと「わが星」でも思ったけれど、丁寧語で優しい口調なのに、こちらをすべて見透かしているかのような恐ろしさを纏った先生の言葉遣いが非常に好きだ。

この作品は、言語のリズムと身体性、科学の融合を狙い、非常に綺麗に纏まっているとは思うが、距離のあたりでやや間延びを感じてしまった。もはや何を見れば良いのか分からず、孤独すら感じた。宇宙の孤独感を演出するうえでは非常に良かったが、作品としてのテンポとのバランスが難しいなあと思った。またこの作品は未来ではなく過去を徹底的に洗い出すことで、自分たちが「現在」どのような場所(科学史的にも空間的にも)にいるのかを示している。結局正確なことは「わかりません」ということにはなるのだが、少なくともこれまでに分かってきたことは後生に少しずつ伝えられるわけで、そうしてひとりの生(リンくんは嘘をついていない)を肯定することになる。つまりここでは「過去は現在、あるいは未来を肯定しうるものである」という概念を挙げているように感じた。

 

③純粋記憶再生装置

やや面白みに欠ける作品だった。男女2組のペアを用意しておいて、空想上の男女を性別を一切無視し代わる代わる演じるところは面白いと感じたが、本作で顕著に目立っただけで、柴幸男作品に通底する演出なので特筆すべきことではないかなと。本作は「現在から構成した歪んだ過去」を「純粋に保持された記憶の再生」によって少しづつ矯正していく話なのだが、いまいち自分には刺さらなかった。矯正していくと言っても、歪んだ過去が完全に正しいもの(楽しかった過去)と同じになったとは思えない。過去は過去であり、決して現在を変える力は有していない、そんな「過去の弱さ」を表現しているように感じた。

 

④反復かつ連続

これは非常に技巧的で面白かった。たったひとりの舞台であるが、演じる対象はすべて同じ家庭にいる女性であり、年齢が上がっていく(未来から過去に遡っていく)かたちになっている。表現しているのはある家庭のある日の朝に違いないのだが、何気ない朝の描写が非常に綿密な人の動きによって構成されているのだと気付かせてくれた点に、この作品の強みがある。ズームインのOPの立ち上がりも(ちょっとわかりにくかったが)この作品にはなくてはならないもので、単調になりがちな反復のアクセントにもなっている箇所であり、非常にうまい挿入だなと感じた。先述だが、この作品は未来から過去に遡りつつ、その時間が連続していることを表現している。また、何女か忘れたが、この地で生きる(就職だっけ?)発言をしたように、この家庭が反復されることも示唆される。つまり、まるで伸びる爪のように(?)この空間には何層にもわたって未来(爪半月、爪の白い部分)が堆積している。それがまた成長すると、伸びた爪は切られ、新たな爪半月が生まれる。その外観(現在)はいつ見ても同じように見えるものの、「新たな現在」であることには変わりはない。端的に言えば「時間の連続性」をこの作品は表現しているのだと思う。

 

以上、この作品は4作品纏めて非常に面白いテーマを取り扱っていた。四色問題の如く、未来と過去からあらゆる現在を描こうというこの挑戦だが、四作品のクオリティを見せつけられると無謀な挑戦だとは言えない。すごい作品でした。

 

 

ままごと「あゆみ」(長編)

ひとりの女性の一生、あるいはその可能性を表現しているという点で、短編と異なるものになっている。多くは短編の方で語っているため、それほど深く語ることはないのだが、個人的には短編のほうが好きだ。もちろん、構造自体は短編に比べずっと複雑になっているし、それでいて「わが星」と同じような美しさを誇っている。十字路で幾多の世界線を表現しきっている点もすごければ、犬を演じる女性の姿にやや感情が揺さぶられたのも悔しいことに事実である(は?)。ただ作品のメッセージ、裏に隠された物語への想像力、密度などを考えると、やっぱり自分は短編のほうが好きだなと再確認した。長編も素晴らしいことは言うまでも無い。

 

以上感想。これと同じくらいの衝撃を浴びてえと思い、最近は現代の演劇タイトルを漁っているのだが、どれも大学の図書館になく非常に悲しい思いをしている。いくつかは良さそうなものを見つけているので、社会に出て労働の対価として得ようと思う。

虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 第13話感想

「虹ヶ咲13話の感想を更新しないんですか」と聞かれ、慌てて書いています。なんかもういいやと想って放置していましたが、折角13話まで書いたんだし最後まで書こう。今更すぎるけれど!

久しぶりにアニガサキを観ると、懐かしい気持ちになる。あの頃はよかったなあ。

 

 

13話の感想

まずなによりも、アニメはスクールアイドルフェスティバルの描写が非常に巧いなとは感じた。アニメ・スクスタの両者ともに、スクールアイドルフェスティバルについてはその規模の大きさからも現実的にクリアすべき課題は数多くある。それに関してはスクスタはそれなりに向き合っていたように感じるのだが、アニメはそこらへんをばっさりカットしている。ここらに関しては、アニガサキでは学生による完全な自治が実現していることが推測される。理事長なんてものは居ないに等しく、生徒会の一存で(懐かしい単語だ)いろいろなことが出来るのだろう。この生徒会特権とでも言えるものは、二次元アニメあるあるであり、フィクションらしさを示すひとつのパーツだろう。その点においては、スクスタの方がより現実みがある話の運びをしているように思う。

一方で、アニガサキのスクフェスとスクスタのスクフェスでは、その立体感が大きく異なっているように感じる。アニガサキのスクフェスのほうが「フェスティバル」らしいと思えるのだ。これはその中身の描写によるものだろう。アニガサキでは様々な学園と打ち合わせし、会場設営の描写も織り交ぜている。それでいて、実際にお祭りとしてメンバーやファンのみんなが楽しんでいる描写も描いている。この描写がなかなか効いていて、これまでスクスタで説明されても具体的に想像できなかった「お祭り」がどのようなものか、これを実現させる「あなた(高咲侑)」がどれだけすごいのかが分かることとなる。そういう点で、自分はこの話作りはうまいなあと思った。

途中、かすみとせつ菜がバトり始めたあたりで、アニメサンシャインを想起し、「俺は何を見せられているのか」と恐怖で震えが止まらなくなったのは事実だが、無事になんとか乗り越え、璃奈から愛への感情、しずくからかすみへの感情が整理されたあたりで再び集中することができた。かすみの髪飾りは伏線?の回収がうますぎて舌を巻いた。そういうことするんだ。どこまでもすごいスタッフ陣だな。

で、ここに来ての雨であり、誰も積極的に抗おうとしないこの姿勢がやはり今っぽいなと感じた。雨に対しては素直に雨宿りをするに留めているあたり、世間の動き(廃校など)に逆らおうとする前作とは姿勢が大きく違う、あくまでスケールの小さい話、どこまでも「自分たちの話」をしているんだなという印象だった。

また、「夢がここからはじまるよ」はあまりに良すぎて当時は発狂した。改めて見ても発狂した。一部掲示板ではぬるぬる動くここの作画がキモいとの意見があったが、そんなことはないだろう。確かにぬるぬる動くけどここではそれより後ろの謎のロゴに謎に感情を刺激されて泣きそうになってしまう。あれなんでなんでしょうね。キルラキルでもそうなんだけれど明らかに無意味?な文字というのは映像としてかなりの強さを持っている。スタァライトの綿密なテロップもそう。文字は映像と合わさったときに力を発揮するのだ。

また、ここで結ばれるふたつの手こそが第1話の歩夢の「Dream with you」MVで表現されていた別れる手であり、第12話「Awakening Promise」で表現されていた重なる手である。この13話にしてようやく、歩夢の「守破離」ならぬ「離重結(なんて読むんだ?)」が達成されたのだと見ることが出来る。

その後、アニメは止め画で進行することになり、ここについても「作画力尽きたか」みたいな意見があった。個人的にそれは違うと言いたい。バンクが作画労力のカットとして生み出され、それが今では効果的に用いられているように、例え作画労力をカットしても、それが映像作品としての質に影響するかと言えば関連性はないだろう。常に動いている必要は無く、しかもライブ後の映像を効果的にテンポ良く見せることで、ライブがうまく行き、祭りの終わりが静かに終わりつつあることを十分表現できているように感じる。実際、アウトロに重なるようにして侑の独白が始まる。自分はこのシームレスな繋がりが大好きだ。

それはそれとして、同好会内でやりとりされていた意味深なノートが結局は作品中では渡されないという道具の使い方に合わせて、ラストのエマの「いろんな国からお手紙が来てるよ」に対する彼方の「これは是非とも第2回もしなきゃだねえ」という台詞からは、メタ的な、つまり「多くのオタクからの要望が届いたから、本来は予定していなかった2期もしなくちゃねえ」という風に読み取ることはおかしなことではないと思う。

つまり2期はやるんです!知らんけど。

 

以上。

素晴らしい作品をありがとうございました。

最後に総括としてこれまでの解釈を纏めようかなと思ったんですが、割とμ'sとかにも手を伸ばして話をするとややこしくて適わないので、ここらでいったん締めたいと思います。

自分に「何かをやり遂げる」という成功体験を与えてくれたマシュマロ主さんありがとうございました。これで自分に自信が持てました。(?)

アニガサキ2期ありますように……。

最近観た映画②「クール・ランニング」「海の上のピアニスト」

ジョン・タートルトーブクール・ランニング」(1993)

非常に面白い映画だった。随分まえにオススメされていたのにどこにも見当たらずに泣いていたところ、大学で発見した。パッケージがB級で「面白いんかこれは」と疑りながら視聴したが、氷のない国ジャマイカから出てきた素人四人が、ボブスレーでオリンピックに出ようとするという設定自体が既に面白い(実際に現実にあった出来事らしい)。で、当然ボブスレー常連国やジャマイカ国民たちは、四人(+コーチ)ごときで勝てるわけがないだろうと馬鹿にしてくるわけだが、「まあ見てろ、いつかお前らを見返してやる」系の逆転劇が面白くないわけがなく、さらにジュニアの精神的な成長がすごくうまく描かれていて泣いてしまった。これは非常にいい映画ですね。実はこの映像はディズニーが制作しているのだが、まったくわからなかった(他のスタジオ制作なら分かるのかといえばそうではないが)。まあでも登場人物のサンカあたりのひょうきんな言動にディズニーっぽさが出ている(かも)とは思った。史実と見比べると結構違うようなのだが、どれも(都合良く)面白い方向に改変されており気にならなかった。気分を明るくしたい時に見たらかなり良いですね。めっちゃ元気づけられるし感動する。傑作。

 

ジュゼッペ・トルナトーレ海の上のピアニスト」(1998)

 「ニュー・シネマ・パラダイス」で自分の心をグッと掴んだ彼の作品ということで、非常に期待をして見た。結論から言えば、「ニュー・シネマ・パラダイス」を越えられたかもしれないのに、ラストで台無しになった非常に残念な映画だと思った。

褒めるところはいくらでもある。

ひとつひとつのシーンはとにかく面白いし、テンポはいいし、話の構成もうまく纏まっていてかなり良い。あとエンニオ・モリコーネの音楽が良すぎる、マジで!感情をこれでもかというくらいに揺さぶってくるんだから最高過ぎた。お気に入りのシーンとして、船に揺られながら大移動するピアノでマックスと演奏をしたり、ジャズを生んだ天才とのピアノバトルが挙げられるが、あそこらへんの映像は本当にびっくりするくらい良かった。マジで大好きだ。1900(名前のセンスも最高)が恋をするくだりも良いし、キャラもめちゃくちゃ立っているし、奇人の描写がうまい。で、ここまでベタ褒めなのに何が不満なのかというと、おそらく多くの人が感じる(と思いたい)1900の最期に対する違和感だ。自分は確かに1900の言う外の世界に対する論理に納得した。なるほど、彼が船に残るのはそういうこと意志によるものかと頷くことは出来た。

ただ、納得はできても、作品として誰も求めてない結末に思えてならないのだ。ハッピーエンド厨といわれると返す言葉もないが、映画としてのエモを追求するなら、ダイナマイトによる船の爆発より、陸に上がって少女と海を眺める1900の画の方が数億倍いい。あるいは、「ダークナイトライジング」のように誰もが死んだと思っていたけれど、ふとある日、少女と仲良く過ごしている1900をマックスが観測して、声は掛けないけれどめちゃくちゃ嬉しくなるという構図でもいい。とにかく、マックスの奇人像を崩さずに(あるいは彼の葛藤を乗り越えて)、映画全体の完成度を高めることができる結末は無数に存在しているわけで、なかでも本作の結末は悪手と言われる部類の選択だったとしか思えないのだ。普通にやっていることは殺人だし、論理で観客を納得させても、とてもじゃないが感情が追いつかない。不安定な気持ちのまま映画を見終え、それよりも先を幻視してしまう。監督が「1900のあり得たかもしれない無数の未来」を観客に見させたかったという観念があるのなら良いのだが、それによってこの映画で提示されているテーマがなんなのか、まったく伝わらない点でやはり悪手だと思う。

最後以外は「ニュー・シネマ・パラダイス」以上の盛り上がり、キャラ造形のうまさを誇っていただけに、終わりがもったいなさ過ぎて悔しいとまで感じる作品になった。自分は到底この結末を受け入れられないと思う。

最近観た映画①「ランナウェイズ」「ミスター・ノーバディ」

フローリア・シジスモンディ「ランナウェイズ」 (2010)

1970年代に大ヒットしたバンド・ランナウェイズの軌跡を描いた作品。これアレです、「最愛の子ども」で引用されていたバンドだから見た感じです。「最愛の子ども」での文脈としては、「メンバーのジョーンがレズビアンで、シェリーと関係を持っていた」という事実をあとあとになって知ったかつてのファンの心境が現実に反映されるという感じなのだけれど、確かに本作でもそういう描写がされていてなるほどとなった。自分は音楽に疎いのでランナウェイズというかロックというジャンル自体聞いたことがないレベルなのだが、それもあってかあまり本作の面白さが分からなかった。というか映画として面白みにかける気がする。ただ作品の構造(というより史実での扱いということになるが)は非常に良くて、ティーンエイジャーの女の子たちが、男たちによって独占されているロックに立ち入ること(それ自体が禁忌であり、だからロックなのだ)で自らの立ち位置を確立したのに、それを観る男が彼女たちを性的消費しているから、結局どこにも彼女たちは立てていないのではないかという胸糞なつくりになっている(気がする)。ただ、そもそも論としてジョーンが百合文脈において運命的な出会いをした超絶美人のシェリーの美貌を看板にすることで、バンドメンバーは商業的な立ち位置を確立したのだから、それが音楽ではなく外側だけで消費される運命を辿るのも仕方が無いのかなと思ってしまった、今の時代ならともかく……。一方で日本では非常に根強い人気を持っていたようで、作中でも当時の日本女子から絶大な支持を受けていた描写が観られる。その熱狂は暴動を引き起こすレベルにまで行き着くのだが、そこまでの熱意を生み出したのは未だに続く男尊女卑の社会に生きる女性と深く結びつくところがあったのかなと思ったりする。わからんけれど。

現実での出来事としては非常に面白い内容だったが、映画としては盛り上がりもなく、緩急もなく、特別いい構図もなかった(ジョーンとシェリーのタバコの煙をお互いの口に吹き込んでからするキスシーンだけは間の取り方や構図がかなり良かった)ので、誰かにお勧めすることはあまりないかも。ランナウェイズが好きな人は観たら楽しいかもしれん。そういう意味ではクイーンのこと全く知らなかったのに楽しく見れた「ボヘミアン・ラプソディ」ってすごかったのかな。まあでもあれは自分でも耳にしたことある楽曲が効果的に使われていたから話が別かもしれん。

 

ジャコ・ヴァン・ドルマル「ミスター・ノーバディ」(2009)

これめっちゃ面白かったですね~~~!!!!SFが好きなら絶対に押さえた方が良い映画ですねと、バタフライエフェクトを未視聴な自分がのたまっています。

これ以降の感想はガッツリネタバレになるので注意。

 

自分が一番感動したのが、「ありえたかもしれない自分(選択しなかった自分)」を映像美*1で表現しきった両親とニモの駅でのカット。ここが本当によかった。文章ではとても表現できない(あるいは雑な視点切り替えで済ませる)ところを、映像だけがもつ表現力によって情感を持たせているところが素晴らしいと思う。余談だが、この「ありえたかもしれない自分」を表現する映像美に、一番迫った文章表現ができているのが伴名練「なめらかな世界と、その敵」だと勝手に思っている。

話を本作に戻すが、この映画のいいところはかなり色の選びがうまいところなのかなと思ったりする。もちろんどの映画も色作りには細心の注意を払っているだろうが、本作では人生の分岐における女の子三人を色分けしたり、過去の回想(あるいは分岐する人生)と未来をカラーとモノクロに表現したりと、観ていてかなり気持ちがいい。かなり原色を使っているような気がするのだが、これもピッタリ映像に合っているし最高だ。

さらに嬉しいのが、科学番組という解説手段を置くことで、この映画の根幹となる部分の理論を科学に詳しくない人にも親切に教えてくれるところにある。賢い人たちが集まって賢い人たちのために賢い映画をつくることなら、賢ければ誰にでも出来る。この映画はそうではなく、どこまで観客の想像力が及ぶか、どこまでこの作品に説得力を持たせることが出来るかを苦心しつつ、それを芸術作品にまで高めているところに素晴らしさがあると思う。本作品は去年話題となった「TENET」と題材を被せているところがあるが、あっちはノーラン特有の説明不足というか、「難解すぎるけど映像が綺麗だしまあいいか」で訳も分からず殴られて気持ちよくなる感じがあるけれど、こちらは医師からしっかりと説明されたうえで腹にパンチを食らう快感がある。ラストの映像はただただ気持ちよく、視聴後は無茶苦茶になって項垂れるしかない本作だが、そこには映像の気持ちよさだけではなく、しっかりとしたメッセージが組み込まれていることに気付くはずだ。「結局ニモは何を選んだのか?」という問いに、本作は直接答えない。9歳の少年ニモが人類最後の人間として生き延びる世界、そしてそれが死ぬ世界というのは、結局のところ「ニモが自らが持つ可能性、およびあり得たかもしれない人生を予知し尽くした」ということを示しており、ニモの手にはありとあらゆる情報が握られていることになる(ここの表現が作品として最高すぎて泣きそうになってしまった)。で、自分の人生を決定的に変える選択肢が9歳の時点で明確に存在し、チェスでいうところのツークツワンツ(動かないことが最善手)という状況に陥る。どちらに動いても人生は思いも寄らぬ方向に変わるし、自分は必ず死ぬし、愛する人も変わる。ありとあらゆる人生には良いところと悪いところがあり、そのどれもが評価できずに特別かつ等価で、だからこそ選べないという状況下にニモは置かれる。ニモはどちらも選択せずに線路の脇道に逸れる。ここからは自分の妄想になるが、そこでニモが妄想するのが(あるいは可能性として提示されるのは)もし過去に戻ることができればという願いである。いくら未来を予知できたからと言って、ニモに両親の別れを阻止することはできない。いずれの未来も等価で貴重なのであっても、「ならば過去に少しでも遡ればどうか?」という疑念は尽きることがない。ほんの少しの違いで世界は変わる。ならば過去に戻ることができれば、両親の離婚を止めることができ、予知した未来とは全く異なる世界線もあり得るはずである。ここに常人離れした未来予知の「ニモ」と未来を予知できない私たちの共通点がある。「全ての未来が見通せる」ことは、「全ての未来が見通せない」ことと同義であるのだ。そのために「過去に戻りたい」という渇望はニモを含め誰しもが抱くことになる。それを可能にするのは時間の矢の方向の逆転であり、その時初めて人は過去に戻ることになるのだ。しかしながら、きっとそれは不可能である。だからこそ人は何かを選ぶことしかできない。

と、なんだか作品解説のようになってしまったが、この明らかに冗長な説明がすべて映像化されている点で、この作品の素晴らしさがある。本当に完璧な映画作品だ。殿堂入り。

*1:自分のなかでは視点の切り替えスピードやテンポや色使い、カメラのピントやらいろんなものを含めて雑に説明できる便利な言葉だ

平田オリザ「火宅か修羅か」「南へ」「この生は受け入れがたし」観た!

最近いろんな映像作品を観ているのだが、普通に観るペースが速すぎるのと、二次創作を久しぶりにやってしまったので感想記事が追いつかない。後々書いて行こうと思いますけれど、実はウマ娘にはまったこともあり、かなり時間がない。ひえ~。頑張って書いて行きます。

で、今回は忘れないうちに今日観た平田オリザの作品の感想をメモを書きます。

今日観たのは3作品。全部図書館でVHSとかいうオーパーツを扱ってようやく観れるものなので、非常に手間がかかる。あと画質が悪すぎる!逆にこの数十年で技術はとても向上したのだなあと感心せざるを得ないわけです。自分は資本主義がかなり嫌いなのですが、こうして年月を越えて文化作品に触れることができるのも、すべては資本主義のお蔭ですので、私なんかはもう資本主義に足を向けて寝られない訳ですね。ああ有り難や有り難や。

閑話休題

 

「火宅か修羅か」

実はこれを観る前に平田オリザが何を意識して舞台を制作しているかという映像を観ており、それがめちゃくちゃ強く反映されているなあと感じた作品。具体的に言うと、①あえてふたつにグループを分けて別々の会話をさせる②台詞が聞こえなくなってもいいので声を被せる③めちゃ脱力して演技するあたりだろうか。ここらへんが所謂「現代演劇」の特徴らしいが、確かに西洋の作品(まあ自分は本場の舞台なら「レ・ミゼラブル」くらいしか観たことがないが)に比べて静かだし空気や時間を極限まで現実に近づけている。ここらへんの試みは西洋で生まれた演劇を作法というものを日本の文化に基づいて再構築するような試みらしいのだが、見事にその仕事は果たせているなあと感じる。

でも、これが正直あんまり面白くない。結局どこまでも忠実に現実に基づいているわけだから、「作られている」という空気がない。自分はこの作為性を「虚構っぽい」というフレーズでかなり雑に解釈しているのだが、後の舞台にも共通して言えることとして、どこまでも虚構っぽさが見当たらない。虚構っぽい作品が大好きな自分からしたら、平田オリザのつくる演劇は、ちょっと相性が悪いのかもなあと感じた。

なんというのだろうか。虚構っぽさがないからこそ、自分は作品に切実さを感じることが出来ず、ゆえにだらりと受け流して観てしまう。それが平田オリザの狙った演劇のスタイルなのかもしれないが、自分はこのスタイルだと「作品を真剣に観る」という行為が封じられたようでかなり困る。実際に自分はこの作品を「旅館での知らない人たちの一日を切り取っただけの作品」というように感じられ、原作にあるだろう登場人物の葛藤を丁寧に汲み取ることが難しかった。確かに、僅かに崩れる台詞の間(ま)や距離感、表情(画質が荒くてかなり厳しかった!)の変化や声の調子からは感情の機微を感じ取ることは可能である。ただ、どのように変わったかというより「変化した」という事実そのものを受け取るに留まっている感覚で、かなりむずがゆい。ここらへんに関しては、自分の作品を鑑賞する態度にも関わってきそうな問題なので、感想を確定する前にもうちょっと平田オリザの作品を鑑賞することにします。

 

「南へ」

これは現代社会(バブル当時!)への皮肉がしっかり効いていて良かった。自分は人間が嫌いなので、人間の愚かさが描かれた作品を好きになる傾向がある。この作品に出てくる人間は、みなバブルに浮かれて、金にものを言わせて人種差別や労働者差別をばんばんやる。それが愚かしいということがしっかりわかる作りになっているので、前作よりかは面白さが分かったし、観ていて楽しめた。けれども別に心に残るわけでもないし……う~ん。やはり受容体がズレているのかな?

そういえば思い出したけれど、前作と本作で強烈な空気の読めないキャラを演じていた渡辺香奈さんが印象に強く残った。彼女は平田オリザが想定する「ニュートラルな身体」からめちゃくちゃ外れている演技をしているように思うのだが、恐らくあれでゴーが出ているということは、あの強烈さが渡辺さんのニュートラルな姿なのだろう。すごいヒトだなと思った。

 

「この生は受け入れがたし」

青年団弘前劇場の合同公演。これは割と好きだった。「寄生虫学者」と「東北」という「普通(かなり意図的に使っています、東北民の方ごめんなさい)」から逃れた二つの属性が合わさった環境で起こる生活描写という点でかなり面白い。実際にインタビューを観るとここの差異を出したいと考えられていたそうだし、それがしっかり作品に反映されていて良かった。その差異の識別を可能にしている、東北弁と標準語(やや訛り)を使い分ける演者さんの演技がすごすぎる。かなり卓越した技術ではないだろうか。話自体も、普通の人は恐らく知り得ない寄生虫の知識がふんだんに盛り込まれており(自分は寄生虫が好きなので8割方知っていた)、飽きずに物語を追えると思う。一方で、寄生虫のもつ「寄生」という概念と、人間が謳いがちな「共生」という概念の対比が露骨に表現されていて、そこが面白くも残念だった。確かに視点としては面白いのだけれど、この誘導は作為的だし、虚構っぽい。でも平田オリザが目指している日常生活らしさが極限まで求められていて、事実それが成功しているのだけに、自分からすると「現代演劇」がブレているようにしか思えなかった。なので全体を通して考えると微妙。面白かったんですけれどね。ギャグなんかは結構笑った。

 

感想は以上。とりあえずは図書館にある平田オリザの作品を全部見ようと思っているので、いつになるかは分かりませんが、代表作の「東京ノート」や「ソウル市民」も観ることになると思います。面白い(というか自分に平田オリザ作品の受容体が備わっている)ことを願います。

ラーメンズ第8回公演「椿」観た!

観ました。ラーメンズの演劇(コントなのか?)がすごいというのはよく聞いていたのだけれど、実物を観たことがなかったので、この機会に見れてよかった。

感想としては、とにかく言語遊びがうまい。演技もすごい。

以下、それぞれのコント(演目?)の感想

※なお、後の感想のために自分で勝手にタイトルをつけたのだが、最後にコントの正式タイトルがまとめて表示されたことで、こちらとしては何らかの問題の答え合わせをしているようで面白かった。折角なのでどちらも掲載したいと想います。

 

①個人的タイトル「糸電話」 正式「時間電話」

ただの糸電話かと思えば、過去と未来に繋がっていたという話。演技が非常にうまかった。片桐仁すごい。ネタとして笑えるかと言うと微妙。

 

②個人的タイトル「心理ゲーム」 正式「心理テスト」

個人的にかなり好きだった。話の展開やテンポがすごく気持ちよく、楽しく見れるしネタも面白いしで最高でした。ここで一気にラーメンズの世界に引き込まれた。

 

③個人的タイトル「中華料理、一年中戦っているサムライ、釣りのあいうえお」 正式「ドラマチックカウント」

これめちゃくちゃ感動しました。自分がタイトルとして書いたように、3本のコントでひとつになっているのだけれど、これらはすべて「カウント」によって成立するコントになっている。簡単に言えば明らかに怪しい伏線を張って、あとあとから回収するつもりなんだろうなあというのが丸わかりなんだけれど、それにしても巧すぎる。時に一番最後の「釣りのあいうえお(ねぎしそ命名)」は圧倒的なクオリティで笑いが止まらなかった。すごすぎて逆に笑えるという体験がしたければ、是非このコントを観ていただければと思います。

 

④個人的タイトル「インタビュー」 正式「インタビュー」

これも好きなんだよな~。小林賢太郎の演技も好きなんだけれど、とにかく片桐仁が纏う狂気が半端ない。狂った人間のネタというのは、どうしてこんなにも面白いのだろうか。声に出して笑ったのはこのネタだけな気がする。これで笑わない人がいたら教えて欲しいレベルに面白い。ただ、最後のCMソング収録のカットは個人的に不要だと想う。

 

⑤個人的タイトル「裏表のない男」 正式「心の中の男」

面白いのだけれど、普通。てっきり背後の男は(一箇の人間として)実在すると思っていたので、ああ、なるほどと。

 

⑥個人的タイトル「高橋」 正式「高橋」

いまいち。

 

⑦個人的タイトル「ななめの日」 正式「斜めの日」

これすごく好き。どこまで演技なのかが分からないという恐ろしさもあるのだけれど、何よりも「斜めの日」という特異的な設定が非常に演劇チックで良かった。それに負けないくらい片桐仁の狂気が光っていたので、お気に入りの一作となった。人間が狂っている作品が好きなのかもしれない。お笑いコンビだと天竺鼠とか好きだしな……。

 

⑧個人的タイトル「英会話」 正式「日本語学校アメリカン」

まあまあ面白い。昔懐かしおもしろフラッシュ倉庫の香り。

 

⑨個人的タイトル「椿」 正式「悪魔が来たりてなんかいう」

クソ微妙。これで終わるのかよ~と想った。あと、こればかりは作品タイトルは「椿」だと想った(コント中のヒロインの名前が椿なのだ)のに、全然違くて萎えた。

 

まとめ

それなりに当たり外れはあるものの、全体を通して面白かったし、なにより「ラーメンズ」の世界に人を引き込むのがめちゃくちゃ巧いなという印象。楽しかったです。次は何を見ようかな。

劇団ままごと「わが星」観た!

実はこれ、めちゃくちゃ前にオススメしていただいていた作品でした。演劇ということもありなかなか配信しているところがなく困っていたんですが、たまたま大学の蔵書データベースにアクセスしたらAV資料として保存されていました。有能ですね。

というわけで観たのですが……これ本当にすごいですね。馬鹿みたいに泣きました。演劇自体そこまで観ているわけではないのですが、演劇というジャンルが生み出せる最高レベルの作品になっている気がする。韻を踏みまくり、言葉を聞くだけで笑顔になるような言語センスが全編を通して貫かれており、それが作品の構造にもなり、アクセルにもなっている。ベルクソンは笑いの要素として「反復」や「意外性」などを挙げていますが、この作品ではそれらが「感動」にまで昇華されている。それを実現させているのが、とめどなく流れる言語とそれに紐付いた身体性なのかなあと。普通なら不可能かとおもうような演技が、めちゃくちゃな練習量で実現されている。具体的にどのあたりがと聞かれると「全部」としか言い様がないので申し訳ないのだが、きっと一目見ればその異様さがわかる。神業とでも言えばいいのだろうか、見た目の動きのリズム、耳に聞こえるリズム、それらが親和していっぺんに感情を襲ってくるので、もう訳も分からず圧巻されるし、涙が出てしまう。休憩はなく、常に物語が動いている。しかもその動かし方が言葉遊びだったり光の演出だったり、まったく観客を飽きさせないどころかどんどん引き込ませるものなので、まるでブラックホールにでも吸い込まれているような心地になる。

僕は百合のオタクなので、この作品でちいちゃんと月ちゃんが交わり出した時点で無理になってぼろぼろ涙をこぼした。いや、エピソードそのものより作品構成のほうがずっと自分を魅了しただろうか。この作品にはエモいエピソードが3つ含まれている。先に紹介した少女同士の友情の物語、家族として終末を迎える物語、少年と先生の校則を越える物語。これらが「宇宙創世」という単語の元に纏められ、びっくりするくらいの綺麗さでひとつの物語になっている。その事実が恐ろしすぎて、見終わったあとはしばらく何も考えることができなかった。とにかく感受性への攻撃力が高すぎるのだ。自分は作品鑑賞をしているとなにかとよく泣くタイプで、おそらく感受性が強いのだろうなと我ながら自覚するところではあるのだが、自分のような人間は特に気をつけてこの作品を視聴してほしい。音楽の良さ、演技の良さ、台詞の良さ――これらがいっぺんに襲いかかってくるのだ。自分でもよくわからないことを書いているが、それくらいすごい話だと言うことを伝えたいのだ。考察も何もなく、ただありのままがある。咀嚼するわけではなく、何度でも観たい、浴びたい。「わが星を生で見ることが出来た」人は、一生における最高の経験を手にしたなと素直に羨ましく想う。

酒に酔っていてうまく言葉がまとまらない。ただ、この文章でそのすごさだけでもうまく伝わればと思う。演劇ってすごいわ。