新薬史観

地雷カプお断り

嘘つきに優しすぎるアニメ キラッとプリ☆チャン第120話「大ショック!ラビリィの本当のご主人様ラビ!?」

現実で嘘つきは嫌われる傾向にある。

嘘つきと言ってもその範囲は広大で、遅刻をする、約束を守らない、言われてきたことをしない、仕事をさぼる等々、ここら辺のことは全部約束事を破るという点で嘘つきであると言える。で、こういうことを重ねると人は信用を失い、誰からも期待されないようになる。自分のことを書いているようで辛いが、大抵の人間に少なからず当てはまることだろうと思う。

多少の嘘つきが許されるのは、人間は誰しも完璧ではないという前提条件が広く認められているからなのだが、アニメのなかではそんなことがなかったりする。

例えば、おジャ魔女どれみ第6話の「ウソつきは友情の始まり」では、やたらめったら嘘をつく、信子という名の女の子が登場する。この子はびっくりするくらい嘘をつくのが得意で、実際に嘘で会話をしているような女の子である。

で、おジャ魔女どれみは基本的に優しい世界のアニメであり、誰かがクラスのみんなから虐められているというようなことには比較的なりにくく、この信子という女の子も、人畜無害な(しょうもない、ともいう)嘘しかつかないために、クラスのみんなからは存在を黙認されている。というか、「ああ、はいはい。またいつもの嘘ね」といった流され方をする。

「虐められないだけいいじゃないか」とは言えるのだが、この子は終盤に「私には誰一人親友と呼べる人がいない」と本音を吐く。これがかなりキツくて、クラスのみんなが信子をやわらかく受け入れているように見えて、実際は誰一人として信子を深く受けれておらず、本人もそれをすごく気にしているというのが心に来る。信子が嘘をつくのも、もっと友達と仲良くなるために、どうすれば他人からの興味を引けるかというのを考えた末に口から出ていたもので、決して悪気がなかったとはいえ、全ては「親友が欲しかった」の一言に尽きる行動に、苦しくなってしまう。

結局はこの話は、メインキャラのあいこが信子の嘘つきを叱り、さらに「ぺらぺらとその場で嘘をつく能力=話の想像力」という方程式をあいこが提示することで、信子の創作力こそが信子の魅力なのだという肯定感も与えるなど、嘘つきを社会的に更生させる万全の脚本になっているのと同時に、百合のオタクとしても結構見逃せない話になっている。

 

で、この話を踏まえた上でプリ☆チャン第120話を見ると、どれみとはまた違った意味でかなり嘘つきに優しいなと思える話に出会えた。

該当キャラは120話に出てくる茶釜松らいあという女の子であり、なんとなく狸を思わせる見た目をしている。「茶釜(狸だろう)」「松(もしかしたら嘘松を意識しているのか?)」や「らい(lie = 嘘)」という名前からも、もうこの女を嘘まみれにするつもり満々なのだが、やっていることがかなりエグい。

というのも、メイングループ「リングマリィ」のマスコットキャラであるラビリィを、嘘をついて奪うのである。感覚としては、大切に育てていた子供が目の前で誘拐されるようなものであり、ショックでまりあという女の子が寝込む事態になる。

でも、らいあはそんなことつゆ知らずで、ラビリィを完全に自分のものとし、「もう私のものだから名前もウサピーに改名ね!今は語尾もラビリィだけどウサピーにしてね!」と本格的に洗脳を試みる始末。しかも、友人たちに「言ってた通り、私のマスコットのウサピーよ!」と言いふらすなど、もうやりたい放題である。

で、ここまで来ると何らかの罰があっても然るべきなのだが、実はこの女の子には一切罰がくだらない。

途中から、らいあの言っていることが全部嘘だと周囲の人間にばれていく流れにはなる。海外の大物俳優とコラボしたのも嘘、ウサピーが自分のマスコットというのも嘘、プリ☆チャンアイドルの証である「プリたまGO」も段ボールで作った偽物、というように嘘で塗り固めた牙城も没落に近づいていく。

さあ、どんな終わりを見せるのかと期待して見ていると、当のラビリィが、孤独ならいあに同情し、「私は本当にウサピーで、らいあちゃんは本当のご主人様」という嘘をついて、友人みんなを納得させるのである。

結局はラビリィは元いたところに帰るのだが、友人に種明かしをするときも、「今までのは全部演技でした!」という嘘をついて許され、主人公陣営にも、「まりあのためを思ってラビリィを盗んだ」という嘘がつかれて、みんなから許されることになる。

なんと、嘘に対して嘘をつくことで許されているのである。

なおかつ、最後の最後には、らいあもちゃんとラビリィ(リングマリィにも?)に謝るのだが、「(迷惑をかけて・嘘をついて)ごめんなさい」を口ではなくプリチケ(これも偽物の葉っぱのプリチケである)に書いて伝えるのだ。

こういうところまで、らいあの行動には「嘘」が徹底されており、ここまで嘘で塗り固められた人間であるにも関わらず、誰にも責められず、罰もくだらずに、ただみんなから許されるのである。

で、ここで注目したいのが、どれみと違ってプリ☆チャンはアイドルアニメというところである。限られた人間のみがアイドルになれる世界において、らいあがとった行動は、いずれも「アイドルになりたい」という純粋な気持ちによって起こっている。

そして、らいあお手製の段ボールでできたプリたまGO、葉っぱにマジックで書かれたプリチケなどからも、このらいあがアイドル(上流階級とも言えるかも)として必要な「才能・資金・運」のうち、何一つ持ち合わせていない女の子なのだと理解することが出来る。つまり、らいあというのはアイドルになりたくてもなれない女の子の代表であり、その女の子がなんとかアイドルになろうとした手段としての「嘘」があり、その「嘘」が、全てを持っているアイドルたちによって許されるのである。

こうして書くと、「なんだ、プリ☆チャンってそんな上流階級アニメなの?」と思われてしまうかもしれないが、ちょっと待って欲しい。

 

上でも書いたが、プリ☆チャンでの嘘への許しというのが、ラビリィが見せた同情であり、持つものが持たない者へ見せる余裕でしかないというのは事実である。

しかしながら、その根底にあるのは、プリパラシリーズのテーマである「み~んな友達!み~んなアイドル!」をみんなが信じているという作品世界なのである。「いつかはきっと運命の出会いがあるから!」と言って、本人に丸投げしている現状が、らいあにとってよろしくないのは確実なのだが、本気で「いつかはきっと運命の出会いがある」と登場人物の誰もが信じているし、実際にプリ☆チャンの終盤で、らいあにとっての運命の出会いが描かれるのだと自分も信じている。

ここに絶対の信頼があるからこそ、みんなが嘘を許せるという世界……かなり面白いのではないだろうか。

おジャ魔女どれみにしろ、プリ☆チャンにしろ、いずれも嘘は、自分が手にしていないものを手にするためにつかれたものだった。そちらも嘘に込められた切実な願いがあり、どれみでは「行きすぎた嘘を怒る」と同時に「嘘をつくことを創作に活かすようにアドバイスする」「親友になってあげる」など、信子の嘘の根源にまで手を伸ばしてあげて信子を救ってあげたのに対し、プリ☆チャンでは、作品世界そのものが、いつかはらいあを救ってあげるというかたちになっている。

もちろん、現実に近いのがどれみであるのは言うまでもないのだが、プリパラシリーズにパラダイムシフトするのもなかなか悪い話ではないだろう。全人類が、アイドルになることを約束された世界線

全人類がそれを信じている。信じていないのはあなただけ。