新薬史観

地雷カプお断り

スパイク・ジョーンズ「マルコヴィッチの穴」(1999)観た!

観ました。話には聞いていましたがかなり面白い映画でしたね。

他人になりたいという変身願望は誰しもが持っている、かつもし本当になれる手段があるのなら人はどのようになるのか、というのが大きなテーマだとされている。多分。その手段がビルの7と1/2階(この時点で面白い。なんとなく「8 1/2」を想起したけど別に関係なさそう)の壁の穴にあり、そこに入るとあの有名俳優ジョン・マルコビッチの頭に入ることができるという、訳がわからないけど掴みとしては最高の設定。というか、よく実在の人物を題材にできたなという驚きもあった。当時の影響はすごかっただろうな。

で、この7と1/2階、低い天井、そのフロアで話される言語の違和感には少し触れた方がいいような気がする。これらはこれまでの常識とは異なった世界を演出していると簡単に纏めることができそうだけれど、もう少し掘り下げれそうだ。例えば、作中では7と1/2階の歴史としてマーティン船長が出てくるが、これはレスター社長その人だろう、時系列も合っている。さらにMFビルがマーティン・フレマービルであることも示されるが、ここから考えられるのはマーティン船長が「フレマー」という名の人間に繋がる穴に入り、現在のレスター社長になったという考えである。そうなると、あのよくわからない映画にも信憑性が生まれる。つまり、7と1/2とは本当に「ホームレス」「大人だけど子供」な人間の場所として用意されたものなのだ。そうなると、クレイグとレスター社長の属性がより明確になると思う。二人はあの場では唯一同じ「言語障害」で、「話し相手」でもある。つまりあの場において同じ属性を持つと考えられる。加えてクレイグは、ろくに就職(大人)もせずに人形師(夢=子供?)として生きることを目指してきた。しぶしぶ就活をしたのは良いが、結果としてあの「何もかも半分」で「大人だけど子供」のための場を示す広告に目が行き、そこでマーティンによって採用されている。つまりクレイグは就職をしてもなお、「大人で子供」(=不完全な人間)であると言えるだろう。クレイグがマーティンと同じように穴を見つけた理由は、この不完全さになるのではないかと考えた。

話を変えて、より大きなテーマに踏み込もう。内側と外側についてである。

ちょうど「ファイアパンチ」で「外側」と「内側」について考えていたあとだったので、興味深く楽しめた。ファイアパンチは外側が変わること(他者からの視線の変化)で内側の変化が起こると述べていたが、こちらは外側を変えても、内側の変容までは起こっていないように思った。例えばクレイグは中身(人形劇の技術)は変わっていないのに、外見(ネームヴァリューとも言う)のおかげで評価されるようになったし、ロッテも外見が変わることでようやく自分の本当の「内側」の不一致が解消されたと喜ぶことになる。途中の太い男も「俺はデブだし」と言いながら、外見が変わると非常に感激していたし、この話に出てくる人間は(マルコビッチとマキシンを除く)みんなマルコビッチという「理想の外側」を手にいれて感動している。もしかすると15分間のみの変化という制限も効いているのかもしれないが、それにしてもみなの中身は一切変わっていない。ロッテは外側を常に中身に合わせるために、性転換手術を行おうとする始末。

で、この作品ではマキシンが「他者(の視線)」として機能しているのではないか。クレイグもロッテも、いずれも外側と内側に違和感を覚えている存在であり、どちらもマキシンから観られたいと願い、彼女は自分の外と内のどちらを観ているのだろうかと悩む。強くマキシンからの視線が、本人たちの「外側」と「内側」に効いている。

でも結局、マキシンが楽しんでいたのは「マルコビッチのなかにもうひとつの視線があること」でしかなかったし(もしちゃんと中身を観ていたのなら、途中でロッテに変わってクレイグが入っていたマルコビッチとのセックスの時に気がつくはず)、マルコビッチただ一人(脳内に誰も入っていないの意)の時はセックスをする気になっていなかったことからも、マキシンは単なる「外側」と「内側」の不一致に興奮していたという方が合っているかもしれない。

ただ、そのマキシンの姿勢は、自らが妊娠することで大きく変わる。これは、自分が女ではなく母であることを自覚したからだと言える。この辺りの論理は少し怪しいが、おそらくマキシンのなかでは、「女=嘘をついても許される自由な存在であり、母=役割が固定化され、嘘が許されなくなった存在」という方程式があったのではないだろうか。つまり、マキシンは妊娠をして初めて、嘘をついてはいけないと考えたのでは――と予想している。というのも、これまでマキシンはクレイグの嫁として甲斐甲斐しく従っていたが、それはあくまで「映画俳優のマルコビッチ(外側)が、人形師(内側のクレイグ)に変容する」という不一致さ(ファイアパンチでも書いたが、その不一致を埋め合わせるために「嘘」や「演技」があるのであり、「嘘」はその象徴と言える)に惹かれていたのではないか。マキシンは自らの女としての「嘘」に、クレイグとマルコビッチの「嘘」を照らし合わせ、鏡を見るように安心・興奮していたのではないかということである。

だが、マキシンが妊娠してからは、クレイグの嘘は鏡として機能しなくなった。なぜなら、マルコビッチはもはや「人形師」であり、完全に「内側」と「外側」が一致しているからである。そこにはもはや「嘘」はない。つまり、マキシンのみが嘘をついている、罪悪感を背負うことになっているのだ。そのような関係でうまく行くはずがない。一方で、妊娠してからのロッテに対する愛情の転換としては、マキシンの嘘が「ロッテへの愛情を隠すこと」だったということで説明がつく。これは最後のマキシンの吐露を観ても明らかだが、マキシンは本当にロッテを愛していたのだろう。なぜ嘘をついたのか、その理由はいろいろ邪推できるが、ここではそれは大事なことではなさそうだ。

最後にクレイグはマルコビッチから脱出しても相手にもされないというオチになるが、これについてはクレイグが「大人で子供」だったからだと言えるだろう。大人と子供は、外側と内側のように二項対立する存在であり、それを無理矢理一致させようとする動きは、明らかな「嘘」である。マキシンは「嘘」をつくのをやめた存在であるから、当然マルコビッチから抜け出しても、存在自体が「嘘」であるクレイグに惹かれるわけがない。

 

以上、なんとなく個人的にこの作品を読み解いたのだが、まさに「ファイアパンチ」を観た後にうってつけの映画だったのではないだろうか。と、ここまで書いたところで、「外側」と「内側」の問題を取り扱っている映画の多さを思い返して、前言を撤回する。別に「ファイアパンチ」がどうこう関係なく、ただ単に面白い作品だった。着眼点もよかった。傑作だと思います。