新薬史観

地雷カプお断り

ジュリアン・シュナーベル「永遠の門 ゴッホの見た未来」観た!

視聴内容メモ

ゴッホゴーギャンの共同生活(1888年 9週間のみ)

ゴッホ(1853~1890)の考え 自然を観る。常に新たな発見(すべてを結びつける絆、強烈なエネルギー、神の声)がある。ポスト印象派(あくまで時代による区分であり、ゴーギャンと作風は全く異なる)。

ゴーギャン(1848~1903)の考え 心が観るものを観る派(ポスト印象派)。自然は人間の頭のなかにあり、モデルを必要としない時代が来ている。観る物は同じでも自然も対象物もすべて自分のなかにあるものなので、画のなかに残るのは自分自身であり、描いた対象ではない。印象派は論外。新印象派のスーラ(1859~1891)は絵画と科学を混同し(おそらく印象派の画家の「筆触分割」の技法と光学的理論を合わせた「点描」を生み出したことを言っている。このとき1886年あたり)

 

以下感想

観ました。すごい映画だ。

これ何がすごいかって、主演のウィレム・デフォー(63歳)が本当にゴッホにしか見えない。調べて見ると、史実との年齢差はおよそ30歳近くになるという。それでも本物のゴッホの映像を目の当たりにしているかのような感動があった。おそらく、自分のなかでゴッホは「常に老いている」というイメージがあるからだろう。ウィレム・デフォー自身の皺が(もちろんメイクもあろうが)ゴッホの精神的憔悴を表現しているようで面白い。

映像はとにかく綺麗で静かだ。

初期のゴッホはありのままの自然を画にしようとしており、ゴーギャンに言われるがままに田舎のアルルに移って自然とふれあおうとしている。その描写がとにかく気持ちいい。サムネにもなっている身体全体でなびく麦を浴びている姿だとか、草原に寝転がり、その草を育てている土を顔に振りまいて匂いや感触を味わったりして、それだけでこの作品におけるゴッホ像が明確に描写されている。面白いことに、一人称視点も導入していて、ゴッホが当時みただろう景色を経験できるところもいいと思う。一方で、ゴッホの抱える精神の不安定さもかなり巧く表現されていて、ゴッホが狂気に走ったとされるシーンをまったく映さず、「君はこういうことをしたんだ。覚えているか」と外部の者から指摘だけをさせることで、観客をゴッホと同じ立場にさせ、ひどく不安にさせる(最後のほうにだけちょい描写あり)。自然や絵画にひたむきに向き合っているからこそ、自分の知らない自分が、画を描く自分を追い込んでいる恐怖が克明に表現されている。精神の不安定さとして、画商の弟テオへの強烈な依存や、周囲の誰からも理解されない孤立した環境も表現されており、ラストで医師(多分)から「なぜ自分を画家だと思うのか(とても巧い画とは言えない狂ったものを描いているようにしか見えない)」という意味の問答をさせられるところは、観ている自分自身の人生まで完全に否定されたかのように錯覚し、かなり心に来るものがあった。その箇所のゴッホと医師のやりとりを少しだけ引用する。

ゴッホ「ぼくはいつも画家だった」医師「天性の?」「そうだ」「なぜ分かる」「描くことの他はなにもできないから」「才能が与えられてこれ(医師にとってはひどく気持ち悪い画)が描けた?」「そうだ」

(中略)

医師「神は君を苦しめるために才能を与えたのか?」ゴッホ「そうは思わない。もしかしたら神は時を間違えたのだと、未来の人々のために神は僕を画家にした」「あり得る」「人生は種まきの時で収穫のときではないという」「神が間違いを犯したのか」「僕は自分がこの地上の追放者だと思っている。イエスはこう言われた。『目に見えぬものに心を留めよ』。イエスも生きている間はまったく無名だった。聖書を信じるなら、ピラトはイエス磔刑を望まず、望んだのは民衆だ。ピラトの意に反し、イエスは自分の言葉で有罪になった。僕もまた、自分の言葉に気をつけねば」

このあたりの問答に、ゴッホの生涯の全てが詰まっている。そして、個人的に医師の「あり得る」に非常に心を救われた。

この屁理屈にしか見えないゴッホの言い分は、史実的には正しいものではある。しかしながら、村から追放され、多くの人から見放され、精神病患者として入院している当時のゴッホの状態を考慮すると、誰もが認めなかった言説だろう。それを医師が「そんなわけないだろう」と笑うでもなく、「あり得る」と肯定するこの瞬間に、ゴッホの生が本当の他者から、そして同時代内でも認められたかのように思えてくるのだ。

きっとこのやりとりは捏造だろう。しかし、かつて神父を目指していたゴッホの信心もうまく扱えており、作品として観ると最高のやりとりだったように思う。

さらに、死に様についてもかなり新しい物語(ピストルによる自殺ではなく、近所の少年による他殺)を導入しているところは、絶対に見逃してはいけないところだと思う。つまり、本作ではあくまでゴッホの精神の不安定性よりも「生きる力(画を描きたいという欲望)」を優先させたという見方ができ、ゴッホをどこまでも肯定的に、かつ画だけに生きた人間として表現している(先の引用の最後の台詞、「僕もまた、自分の言葉に気をつけねば」がまさにそう)。

自分はゴッホに詳しいわけではない(ほぼミリしら)のだが、この解釈は非常に好ましいように思えた。

全体として、非常に良い映画だと思う。手に汗握るようなアクションも展開もなく、ただ田舎の時間が過ぎるだけの映画ではあるが、その自然をありのまま描写しようとする意志が、ゴッホの絵画への態度を反映させているようで非常に面白かった。ゴッホの新たな解釈を含めて傑作だと思います。