新薬史観

地雷カプお断り

カズオ・イシグロ「クララとお日さま」土屋政雄訳 読んだ!

カズオ・イシグロの百合SFだと聞いていたので手にとった。非常に強い百合だと思うのだが、ロボットの認知という問題が絡むだけで話が少しややこしくなるのが面白い。

よく「信頼できない語り手」という単語が使われるが、結局は「アルジャーノンに花束を」みたいなもので、認知に何らかの「問題」がある視点からの一人称小説なのだから、その語りにも「問題」があるのは当然とも言える。そういう意味では原理的には全ての一人称小説は信頼できないのだが、この小説に関してはそこらが顕著だと思う。

というのも、クララはB2型のAF(Artificial Friend)で太陽光を栄養源としている。この設定は全編を通して貫かれており、場面で光に関する描写が多いのは、クララが常に光を求めているからだろう。また、太陽を神として信仰しているところは、科学技術の発展により信仰する神を失った人間とは好対照に並べられており、ジョジーと同じくらいの立ち位置に「お日さま」が位置づけられている点も見逃せない。

また、人間(というよりマスター)に絶対に従わなくてはならないという規範が内包されており、自己の存在価値や役割はすべてマスター(あるいは周囲の人間)に委ねている。ここら辺は「人間が大人になるため(だけ)に必要なロボット」であることを商品として要請されているために、初期設定として組み込まれているものだろう。

これらの要素が複雑に絡み合い、クララによる語りが成立している。「ボックス」という視界や認知システムの構造が説明されることなく当然のように描かれるのも、読者を想定していないクララのためのクララの語りを意識しているからだろう。この辺りの文体(というより意図的な説明カット)は非常に好みだし、とても良かったと思う。

物語を簡単に纏めると、本書の表紙裏にも書かれているように病弱な少女ジョジーとロボットのクララが友情を育む話ということになるのだが、同時に「愛とは?知性とは?家族とは?」とも書かれている。実際に本書は2人の少女の友情を描きつつも、シンギュラリティの数歩手前を迎えた社会における人間の価値判断についてしっかり迫っている。

例えば本書では断片的にしか説明されていないが、人間は「知性」至上主義の社会に到達しており、知能向上のためには「向上処置」といわれる手術を「しなければならない」ことが読み取れる。この処置は未だに完全なものではないのか、あるいは副作用が大きいのか、いずれかの理由によって重大な健康被害に至る可能性もあるのだが、皆がこぞってそれを受ける。それを受けねば「未処置」として差別対象になるからだ。人として当然の権利を受け取るために、人は自らを改造し、知性を手に入れようとする。

一方で、クララ(だけかもしれないが)をはじめとするAFは、はなから向上処置を受けた人間を凌駕する知能を持っている。当然この知性は、知性至上主義の人間社会で重宝されるはずなのだが、あくまでロボットの知性(や観察眼)は人間より上であることを認めながらも、社会的な立場は「人間様より下」である。母親の視点が顕著だがクララに対して「あなたが感情を(理解するの)?」と嘲笑の視線を投げかけるし、他の人間もクララをいち人間としては決して扱わない。それはルンバのためにご飯を用意するような愚かさであり、ルンバがいくら高性能な機能を備えても「掃除用ロボット」としか扱われないように、あくまでクララは「友達用ロボット」としてしか扱われない。

この認知の仕方はまったくその通りだと思うので、自分は意義を唱えるわけではない。が、百合が絡むと非常に悲しい気持ちになるのだ。

第一章で描かれた「ガール・ミーツ・ロボットガール」は少なくとも対等な立場での出会いのように思われたし、それを象徴するかのようにジョジーは「絶対にあなたを迎えに行くから」と約束(これはジョジーとリックが言う「計画」と同義だと思う)をする。さらには「あなた(クララ)が嫌と言うなら私の家に来なくてもいい、フェアじゃない」というように2人の立場が平等であることを明言する。

ところが、章が進む毎にクララがロボットであることが徐々に固定化されていく。いや、正確には2章の時点で完全に立場の違いが明らかになっていく。それはホームパーティをした時点だろう、ジョジーの「クララを所有した」という意識が明らかになるのだ。みなの嘲笑の的になっているクララに対して、「(B3型を)買うべきだったかなって、いま思いはじめたとこ」とジョジーが口にする時点で、クララの名誉よりも自分の保身に走ってしまったことがわかる。とはいえ、その前後でジョジーはクララをなんとか助けたいと思っているのは事実だ。実際に、ジョジーは友人に対してなんとかクララの魅力を語ろうとする。しかしながら、いざその魅力を見せてみろと友人に詰められたとき、ジョジーは、「クララには(立場が明確になる)命令はできない」という微妙な感情を抱いていたのだろう。大人の社会に組み込まれつつあるジョジーにとって、社会から要請されることをクララに仕向けることは、かつての「約束」が許さなかったのかもしれない。ともあれ、リックが後に指摘するようにクララは非常に不安定だった。この時期は社交性が求められる「大人」と自分の感情を大切にする「子供」の狭間に位置していたのだろう。大人はクララをロボットとして扱うが、子供は立場を知らず、ロボットと対等であり続けることができる。その差異は明確には書かれてはいないが、結局2人は互いに求められていることができないまま(尤もクララはロボットであり、他者が役割を決めるために自分から自分の扱いについて「求める」ことはないのだが)2人の立場は「(友人として)対等」から逸脱し、「所有-被所有」の上下関係が決定的になる。

同時に2章は母親がクララをジョジーの代わりに据え置こうと画策し始める段階でもあり、ここで母親とクララの関係は「所有-被所有」から「(家族としての)所属」というひとつの(種として)対等な立場になり始める。この逆転現象、また母親とジョジーのクララへの立場の高低差が印象的で、物語として非常にうまいなと思った。もっとも百合としては、部屋で同居することを認められていたクララ(=対等だったクララ)がジョジーの視線が求めるまま、彼女の部屋から出てしまうシーンで鬱になるのですが……。

と、なんとなく2章まで遡ってしまったが、これを最後まで続けていると切りがないので適当に纏めようと思う。このような上下関係は作品を通じて無限にあるし、お日さまを用いた比喩や表現も多々ある。そのような細部に拘ることで、この作品はさらに豊かな文脈を持つ。柵に囲まれた雄牛のシーンは「所有」の侵害への恐怖を扱っている点で非常に印象的だし、吹き出しゲームのあれそれはジョジーとリックの認知を示す一方で、「知性」や「社会」についてのややテンプレチックな思想を覗くことが出来る。

第四部の認識能力が低下した視点での周囲の表現についても語らねばならない。あの部分は記述にして奇術の域に達しており、安部公房大江健三郎に近しい「五感ハック」の錯覚に溺れることになる。最高の読書体験だった。

ただ、やはり最も注目すべきは第6章だろう。本書の内容は全て第6章に詰まっていると考えても良い。第2章から第4章にかけての知性至上主義と信仰の不在が生み出した人間という存在をうまく表現し、科学技術の結晶であるクララを都合良く使おうとする醜さを、純粋な(あるいは盲目な)クララの視点から見ることで「物語と視点の差異」として顕著にあぶり出しながらも、第5部ではクララの視点と物語がまるで「絵本のように融合し」、子供の世界に至る。この遠近感の強烈な近づきはメタフィクションであることを自覚する瞬間と同値であり、「この物語(視点)は本当に現実なのか?」(いや、虚構ではあるが……?)と読者に思わせる点で非常に危険な手法だと思う。しかしながら、ここで2~4章の信仰の不在の愚かさが明らかになるわけで、メタ的なショックは、登場人物が抱くイデオロギーの転換の衝撃と一致しているように感じるのだ。神の不在から信仰へと。すべては第6章への布石となっている。

第6章では、端的に「人を人たらしめるものは人の何処に存在するか」という話になる。科学技術は「人の中身」や「神の不在」を精査するのに適しており、実際にそれが可能になる日も近い。しかしながら、クララは「人の本質=魂」は人の外部、つまりその人を囲む他者にあるのだと考える。これは決して「フェア」な考えではない。なぜならこの結論は、太陽を信仰していることを基盤としているからだ。物語では太陽は常に人々に「栄養」を与えるものとして描かれている。また、クララはロボットであるため、自分の欲望を持たず「他者から役割を与えられる」ことからも、栄養だけではなく「魂」すらも外部からもらうものだと感じてもなんら不思議ではない。このロボット特有の世界観と価値観を一致させている繊細さは、カズオ・イシグロの思慮深さが読み取れて最高の一言に尽きるだろう。

一方で、この考えを上記の理由だけで棄却することは馬鹿らしい。確かにロボット特有の価値観に基づく考えではあるが、これは人間にも当てはまる部分があるからだ。これはファイアパンチの感想でも書いたが、人間というものは他者に観られて(役割を付与されて)中身が変容するものである。関わる人間は常に固定されるわけではなく、テセウスの船だなんだと言う暇もなく、人間の中身はめまぐるしく変わる。では何が変わらず、何を基盤として私たちは関係を結べば良いのか。これはやが君が結論づけたように、他者からの「自分が考える『あなた』であってほしい」という感情に答えるかどうかだろう。答えたいという人(あなた)は変容しながらも他者が求める「あなた」であり続け、答えたくないのなら他者は別の誰かに(あるいは変容し続けるあなたに)「あなた」の影を見つけようとする。そういう価値観に立てば、「人の魂はその人の内部ではなく、その人を囲む外部にある」という見立ては、決してロボットだけが至るものではないだろう。そしてこの考えは、クララとジョジーの友情にもしっかりと当てはまる。確かにジョジーは変容し続けた。子供から大人になり、クララを家族から所有物へと認識し、自分の部屋から追い出すようになり、決して入れないと誓った物置にすら追いやることになる。しかしながら、「ガール・ミーツ・ロボットガール」を果たしたあの日のジョジーの瞳は、ずっとクララの役割を規定し続けているのだ。例えその立場に昔と違う上下関係を認めることになったとしても、クララはかつての瞳に答えるようにジョジーを想い続ける。それが「ロボットとして規定された」ことであったとしても、である。そして、そのクララの苦労に報いるように大学入学を迎えるジョジーの「簡単な選択だったわ」という台詞が、これまでのクララを全て肯定するのだから本当に素晴らしい。

その一途な想いや太陽への信仰に、周囲の人々はクララの認識を改め、「ひとりの人間」として扱おうとしているところが非常によかった。クララ自身はまったく気がついていないが、クララは最後にしてようやく他者から「魂」を与えられたと言ってもいいだろう。最後の店長との対話はその全てを示している。クララは店長がもう一度自分に振り返ると思ったが、そうではなかった。それは店長がクララをあくまでロボットとして尊重しており、ジョジーや母親とは違い「魂」を与えるつもりがないからである。そしてそのような店長の意志すらも、もちろんクララには見えないのだ。

 

以上、感想終わり。

視点や技法、テーマから比喩、映像の描写に至るまで、すべてが一級品の作品だったと思います。読んで良かった。結構高いけど読む価値はあります。