新薬史観

地雷カプお断り

遠野遥「破局」読んだ!

さっと読める中編だった。高山羽根子首里の馬』と同じく第163回芥川賞を受賞した作品であるが、個人的にはそこまで評価するものかな?とは思う。芥川賞は取りそうな香りがプンプンしていたので、いかにもという感じ。

この前読んだ村田沙耶香コンビニ人間』では、無感情かつ無欲な人間が規律に縛られることで社会に溶け込もうとする話で、孤立から脱却する(他者から承認される)手段として中身が伴わない抜け殻を模倣することを良しとする。コンビニという中身が圧倒的に充実した店舗で働く一方で、中身が詰まっていない人間とそれを承認する社会の対比が面白かったように思う。

破局の主人公も、コンビニ人間と同じく中身を伴わない人間だ。唯一彼には自律的なスポーツへの執着があり、恋愛とセックスが好きなように、他者を征服することに快感を覚えている節がある。一方でその他のことには何処までもフラットな(あるいは興味の無い)視点で物事を見つめ、それが端正な文体に表現されている。もうひとつ面白いのは、『コンビニ人間』の主人公は社会的敗者で、『破局』の主人公は社会的勝者に分離されるところだと思う。作品としてそれぞれ違った道のりを歩むが、いずれも執着していたものを奪われた瞬間に自己が暴走する点で似通っている。ただ、『コンビニ人間』よりも共感しやすく、共感能力や自己が欠如した人物の造形に成功しているという点においてはすごいと思うし、それゆえに『コンビニ人間』が芥川賞を取れば『破局』も芥川賞を取ることになる。押い出しの原理である(そうか?)。

ひとつ気になるのが、平野啓一郎も選評で触れていた「かくれんぼ」等の用法だが、これに加えて作品中では「首だけの女の怪談」「区別が付かない赤いメダカ」などがある。怖いようで怖くない怪談や、赤くて名前のないメダカは恐怖を煽るようで煽らず、個人的には、所有主の灯の増大する性欲の象徴の予兆として働いているくらいの認識を出なかった。かくれんぼで「隠れるのが巧い」と自称する灯が、その性欲を隠し続け、最期の最期に正体を見せることになるという点も巧いといえば巧いが、そこまで構造や作品の美しさに寄与しているかと言えば微妙。

結論からすれば面白いけれど積極的には推せないレベルの作品なのだが、それでも一部の表現には思わず唸ってしまったのでいくつか引用して終わりにする。

私の性器が麻衣子の腰に接触し、ナイフのように勃起していた。勃起した男性器を押しつけられるのは、いったいどんな気分か。興奮するか。もっと押しつけて欲しいか。熱いか。硬いか。何とも思わないか。どうでもいいか。汚いか。不快か。頭にくるか。悲しいか。泣きたいか。許せないか。早くこの時が過ぎて欲しいか。少し気になったが、勃起した男性器を押しつけられた経験のない私にはわからない。私としては、麻衣子の腰に男性器を押しつけているのは、悪くない気分だった。

これは素晴らしかった。

また灯が性器に話しかける描写や、麻衣子に詰め寄られた時の文章、

どうしてと麻衣子が言い、穴、と私は想った。口や鼻というのはつまり人間の顔に空いた穴だと気づいたのだ。

この辺りは非凡なセンスを感じる。主人公の異常性というより、独自の価値観による視点を十分に説明できている文章だと思う。

こうして見ていくと、作品自体はそこまで合わなかったが、作家としてはやはりすごいのだろうと考えを改めたりする。他の作品も読んでみたい。