新薬史観

地雷カプお断り

偏見なくそう委員会設立宣言

「地雷カプ~」のブログを読んだ方、あるいは自分の古くからのフォロワーは知っていると思うが、自分はかなり偏見(や嫌いなものに向ける感情)が強い。

偏見というのは非常に気持ちが良いもので、大抵は小さな事例を全体に当てはめることで、大雑把なカテゴライズを行う。そして、偏見というからには、当然否定的な意味合いが強くなる。

中国人は食べるのが汚いとか、お金持ちは性格が悪いとか。

そういうデカい主語で非難することが、割と気持ちいいから困る。

 

自分はコミュ障なので、基本的に他人に自分からリプライを送ることはないし、監視垢(鍵垢)以外からのフォローもしないようにしている。ゆえに、自分が嫌いなものを見ても、自分からリプを送ることなく、黙ってブロック・鍵垢での空リプをする癖がついている。

例:クソ解釈二次創作を見て「作者はセンター国語3割とれてなさそう」という空リプ

 VtuberをRTして「これにハマっている人FGOもやってそう」という空リプ

 地雷カプが目に入ると「作者は義務教育終えてなさそう」という空リプ

 コンサル系のツイートを見て「自己啓発本しか読んだことなさそう」という空リプ

 

などなど、挙げればキリがないが、自分の監視垢のツイートはクソみたいな偏見にまみれている。これがネタで言えていれば良いのだが、言語とは不思議なもので、言い続けているうちに本当にそうではないかと思えてくる。

さらに自分は精神がしんどい時期がままあるので、sinやcosでいうところの(y<0)の領域にメンタルが来ている時間帯に上記のツイートをしてしまうと、カチリとスイッチが入ってしまい、以降無限に偏見と増悪にまみれたツイートを大量生産する稼働体制に入ってしまう。これは非常にヤバい稼働体制で、原料を自らのメンタルとし、偏見と増悪による僅かな快感を得ることだけを報酬に脳を動かし続けてしまう。これにより精神の正弦波の負の部分は無限に拡大し続ける。イメージとしては、負の領域に入ったカーブを転がり続ける火の車によって、本来ならば正と負の踊り場となる谷底がさらに下がっていく。際限なく火の車は坂を転がり続け、奈落の底に落ちきって、ようやくツイートの指が止まる。その頃には僅かだが機能していた報酬系も完全に停止しており、残されたのはこれからこの谷底を登らねばならないメンタルの絶望感、そして偏見と憎悪を繰り返し送信した指と脳への嫌悪感、光る液晶画面と指の震えである。

またやってしまった……と思いながら泣く泣く布団に入るが、起床すれば鳥頭ゆえ、大抵元に戻っている。が、しかしフォロワーが昨夜のクソツイに反応して通知が来ていれば、「ああ、昨晩はそういえば……」と負の感情が蘇り、その日一日をクソメンタルで過ごすことになる。

きちんとメンタル管理ができている、性格がいい、脳と手の神経が直通ではない人は「何を滑稽なことをしているのか」と疑問に思われるかもしれないが、何分精神が高校生くらいから一切更新されていないため(もう20代も半ばに入ったというのに、気持ちは未だに18歳なのだ。恐らくこれは自分が40代、50代になってもそうなのだろう。本当に恐ろしい)、このようなことになっている。

で、一人でのたうち回っているなら良いのだが、残念なことにその鍵垢にも僅かながらのフォロワーがいて、恐らく8割は自分をミュートしているだろうが、残りの2割は自分のツイートを見ているのだ。

三者にあれほどの負のツイートを見せている事実!

本当に恐ろしい……!

「分かっているならフォロワー0の鍵垢で嫌悪を吐き出せ」という指摘があるかもしれないが、実際にやってみた経験として、

フォロワー0のアカウントは一切意味が無い(個人の感想です)と断言できる。

俗に言う壁打ちだが、これほど無意味なものは無いと思った。まったくツイートしている感覚がないのである。当然、鍵垢でフォロワー0となると、もはやそれはiphoneのメモ帳アプリの書き込みと何ら変わりない。まったく「吐き出せている」感覚がないのだ。デトックス効果ゼロである。

恐らく、フォロワーが1人でもいないと(botではダメなのだ、生きている人間に見られているという事実がなければ)、デトックス効果は産まれないのだろう。

とはいえ、自分は嫌悪の量が膨大である。恐らくプリキュアシリーズ26話以降の敵幹部並の負のエネルギーを持っている。これを1~3人で処理するのは非常に難しい。決して悪意のダメージは人数で等分されるわけではないのだが、フォロワーが1~3人あたりのアカウントでこれらの行為をやった場合、恐らく受け手側に「自分に向けて発言されている」という感情が芽生える、はずである。めちゃくちゃ鈍感でない限り。

この「自分が見なければ」という意志は非常に危険で、「鬱病の人間を助けようと親身になって接していた人間まで鬱病になってしまった」という話があるように、負のメンタルとの付き合い方には、非常に慎重になる必要がある。

という訳で、ここ数年はフォロワー100人(実質フォロワー20人)くらいの鍵垢で負のツイートを垂れ流していた。これだけの人数が居れば、「あなたとわたし」という責任感が生まれることもなく、気に入らなければリムってくれ、ブロってくれ、ミュートしてくれの空気が醸造されているし、実際に定期的にそうするように呼びかけている。

 

……というのが現状なのだが、果たしていつまでこの歪な関係を保つのかという疑問が産まれた。20歳も半ば、一昔前の社会では、正常既婚男性が家庭を守りながら日々仕事に励む年齢である。そのような価値観に迎合する気はないものの、精神面で「いつまでその場で足踏みをするのか」という反省が必要ではないかと思い始めた。

成長しなくてはならないのかもしれない……。

もしこのまま成長し、鍵垢であることをやめてしまったら、40歳にもなって、バズツイートに噛みつくことしか能のないおっさんになるのではないか。ただのニュース記事に政権批判を書き込んでしまうような、ダルビッシュ有に上から目線のアドバイスを送るような、アイドルにセクハラリプを送りながらも前澤社長の100万円ツイートをRTするような人間になるのではないか!?(こういうところが偏見なんだよな)

 

それだけは絶対に嫌である。

 

という訳で、手始めに自分が嫌いなもの、よく憎悪を吐き出してしまうものについての憎悪、偏見を取り払うべく、その世界をことをちゃんと知るべきだと考えたのである。

自分が嫌いなものへの理解を深めることで、偏見を取り払うことが出来るかもしれないし、何故嫌いなのかという自分の精神を理解することにも繋がるのだ。

ルル賢い。あまりに賢すぎる。

恐らくここらが、精神年齢18歳から30歳にステップアップする難所なのだ。

嫌いなものを偏見で叩かないこと。

よって、ここに私は、偏見なくそう委員会を設立することを宣言する。

 

第1回は、憎くて堪らないVtuberについて特集予定です。

てか今日中に書きます。お楽しみに。

 

ちなみに、地雷カプへの憎悪は論理的に、かつ緻密なキャラ解釈によって導き出された正当な異議申し立てであって「偏見」ではないので取り扱いません。ご了承ください。

 

カミュ 窪田啓作訳「異邦人」

これも古典的名著ですよね。最近そういうのばっかり読んでる。今まで読んでこなかったので。

 

本書の裏の解説によると、「通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求したカミュの代表作」とのこと。

通常の論理的な一貫性ってなんだと思い読み進めると、なるほど、確かにムルソーは、他人よりも感受性が弱いように思う。

母の死に悲しめず、その翌日に海に行って女と遊んで喜劇を見る。また、彼は直接の因縁がないにも関わらず、ある男を射殺し、そのうえ余分に四発の銃弾をぶち込む。

で、殺した理由は「太陽のせい」という。

確かに、論理性、あるいは感受性・感情・共感性が人よりも弱いように見える。「ない」と言い切ることが出来ないのは、時折他人の優しさに感じ入る様子が見られるからだ。 自分のためになんとか頑張ろうとしてくれている人に対し、抱きしめたいと思うのは、少なくとも無感情の人間には起こりえない感情の起伏である。

まあそれすら些細なことと言えるくらいに、ムルソーは全てにおいて淡々としている。

読んでいて感じたのは、村上春樹の書く「僕」って結構コレじゃね、ということだ。特別な夢や思想もなく、ぶらぶらしながら、肉体的も精神的にも自由であることに幸せを感じる。で、特別他人に共感することもないので、特に何も言わないでいる。

ムルソーの特長として、特に何も言うことがないときはひたすら黙るというのがあるが、まさにこの「他人の考えについて特に何も言うことがない」という性質こそが、彼が「異邦人」たる所以ではと考える。

他人に対してノーコメント、というのは、「他人に対して興味がない」プラスで「自分が何を言っても世界は変わらないという諦念」も含まれている気がする。

このあたりは最後の神父との口論で顕著だが、神父は

「それではあなたは何の希望ももたず、完全に死んでゆくと考えながら、生きているのですか?」

「あなただってもう一つの生活を望むことがあったに違いない」

などなど、ムルソーのスタンスに疑問の視線を投げかける。

この「もう一つの生活」に対して、ムルソーは「この今の生活を思い出すような生活だ」と答える。

「もう一つの生活」とは、SFチックに言うなら「存在し得たありとあらゆる可能性」と換言できるように思う。つまり、誰しも、自分が思い描く生活というものがあり、そこと現実との乖離に悩まされながらも、不満なところを改善しようと自ら働きかける力こそが、神父が考えるところの生きていると言うことだ。

それに対して、ありとあらゆる可能性さえも「今の生活を思い出すような」ものだとすれば、結果として何も頑張る気になれないのは当然のことである。ここに、ムルソーの「何をやってもどうせなんもならん」という諦念を感じる。これが神父には、ムルソーが死んでいるように見える理由である。

また、神父は、罪を犯し絶望のさなか(心の闇の底)に沈んでいる(と神父は思っている)青年に対し、「神を信じ祈りさえすれば、どんな罪も許される(神の顔が浮かび出るのを見る)」と説く。これらを総合すると、神父が言っていることは、「どんな状況下の人間も、最後には必ず神を、希望を信じる」あたりにできると思う。

しかしながら、ムルソーが牢屋のなかで見たのは、神ではなく「太陽の色と欲情の炎」だった。太陽の色は、ムルソーを殺人へと追い立てた論理性のないファクターである。欲情の炎は、単に性欲である。

で、ここで太陽についてもう少し理解したい。他人の感想を読んでいると、「人を殺したのは太陽のせいというのは意味が分からない」というものが散見された。

意味が分からんことはないだろう、というのが自分の解釈である。

かなり序盤だが、看護婦の言葉で「ゆっくり行くと、日射病にかかる恐れがあります。けれども、いそぎ過ぎると、汗をかいて、教会で寒気がします」というものがある。ムルソーはその言葉に対し、「彼女は正しい。逃げ道はないのだ」と考えている。

これは死にも応用できる。人間誰しも、死からの逃げ道がない、という部分でだ。ムルソーたちを日射病にさせようとしたのは太陽であり、男を殺させたのも太陽であり、牢屋のなかで神の代わりに見たのも太陽である。

つまり、この太陽こそが、ムルソーの考える「不条理」(どうあがいても、決して逃げ道がないこと)の象徴だと言えると思う。

 

で、不条理繋がりで、彼が牢屋の中で知った「りっぱな組織の秘密」についても書いておきたい。 「りっぱな組織の秘密」というのは、死刑という制度の不条理を認める社会の認識を拡大したものだ。

というのも、刑を執行する人間は不完全で論理に間違いがあるかもしれないのに、被告はそこから抜け出す方法がなく(ゆっくり行くと日射病になり、急いで行くと教会で寒気がすると同義、不条理の意味)、施行された刑は間違いなく人を殺すという完全性にある。これが不条理であり、一度罪を犯すと(あるいは被告とされると)自分ではどうしようもできない流れに流されてしまう(裁判の時がそれ)ということも、不条理の例だろう。この弱者(偶然という要素が含まれるためニュアンスは異なるだろうが)につけ込んだ不条理こそが、社会を円滑に動かしており、それが普段、人々の生活を良くしている。

恐らく、人の営みは、不条理に害される人々の上に成り立っている、というところだ。

 

 これについては、最後の部分にも繋がるだろう。

ムルソーは、死刑を見る側になると、「押し殺されていた喜悦の波が、胸にのぼって来た」と語る。しかし、実際に自分が殺されるのだと自覚すると、カチカチ歯を鳴らすようになる。

ここで注目すべきは、死刑を見る側は楽しい、という部分である。

ムルソーは、死刑を不条理だと考えている。すると、死刑を見る側は、他人に不条理を押しつける側の人間、ということになる。不確定な情報から「異邦人」を決定し、排除する。この面白さこそが社会を円滑にする基礎なのだと言うことだろう。

 

ここまで考えると、ムルソーが男を殺した理由に「太陽のせい」と挙げたのもなんとなく分かるようになる。男を殺した時の太陽は、「ママンを埋葬した日と同じ太陽」である。そしてその太陽は、「絶対に逃げ道がないこと」を示す。

ここで、ムルソーは選択を迫られたのだ。今ここで日射病になって死ぬか、教会で震えて死ぬかの二択である。そして、ムルソーが選んだ死に場所は、教会だった。

最初の一発は、ただそれだけのことだと思う。

問題はそのあとの四発で、恐らくだが、ムルソーは無意識のうちに、太陽(不条理、死)への反逆として男を撃ったのではないだろうか。あるいは、自分をじりじりと死へと導く太陽への正当防衛とも言える。寧ろそう考えないと、「なぜ4発も撃ったのか」という部分が分からなくなる。そこを「論理性がないからだ」と落とすのは、やや気に食わない。あとから撃った4発は、明らかに反抗の意思がある。確実に選択肢を潰す、くらいの強迫観念を感じるのだ。

 

いろいろ考えたが、要するにこの物語は、不条理を基礎とする現代(当時)社会は、異邦人を追い出すことで喜び、社会を回している。しかし、異邦人を追い出す人間もまた、異邦人なのだ。誰しも社会から弾かれるだけの素質を持っているし、不条理とはそういうものである、ということだ。

最後にムルソーが「世界の優しい無関心に、心をひらいた」のは、まさに民衆の「異邦人を他人事と思い込む無関心」を理解したということであり、その点では、自分の行動が他人に影響を与えることないという「ムルソーの無関心」が似通っていることに気づき、孤独が癒やされたということではないか。

だから、「私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎え入れること」が、ムルソーにとっての望みとなり得るのである。

多分。

 

すこし難しいけれど、非常に面白い話だった。もっとカミュの話読みて~。

トルーマン・カポーティ 村上春樹訳「ティファニーで朝食を」

村上春樹の訳、かなり好きだな。原文を読んでいないので分からんが、少なくとも「キャッチャー・イン・ザ・ライ」みたいなクドさはなかった。

 

自分は表題作を映画で知った人間だ。

村上春樹も怒ってたけど、確かに映画から入ると、ホリーにオードリーヘップバーンの顔が浮かぶようになってしまった。しかも、映画とストーリーが全然違うんだよな。自分は映画の脚本がすごい好きなんだけれど、あの脚本、つまり主人公を選ぶホリーは、オードリーヘップバーンならではの脚本だったなと思う。原作はその点、回想の仕方からして完全に男の手が届かない女だし、映画よりももっと浮ついて見える。このホリーにはオードリーヘップバーンの顔は似合わないなと思った。美人ではあるけれど、少し賢そう? 

で、結局映画と原作どっちも鑑賞したわけだが、これなら自分は原作の方が好きかもしれない。というのも、表題作以外の他の作品もまとめて評価してしまうからだと思う。短編集としての纏まりや文脈があって、村上春樹の解説のままになるが、「イノセンス」を取り扱っているものとしての繋がりが、非常に心に染み渡った。

映画にしても小説にしても、ホリーはまさにイノセンスそのものとして描かれている。しかし、小説はよりその性質が強固になっていて、猫との対比を踏まえたうえでも、やはり彼女が「ティファニーで朝食を」食べるような環境を手にいれることはないのだろうなとは思う。猫と違って、彼女は拾われてもすぐに逃げ出してしまうから。

 

その後の話もかなり良かった。

「花盛りの家」は、イノセンスの価値を踏まえた上でも落ち着こうとする女の、まさにホリーとは正反対の概念を表していて良かったし、「ダイアモンドのギター」は、テーマが似ているから「ショーシャンクの空に」を思い出したが、これはまったく違う性質の話で、イノセンスを信じてもやはり掴めない男の悲壮感溢れる話になっている。読んでいてかなりクルものがあった。もうそんな歳じゃないって、自分で言っておきながらもずっと信じてしまう苦しさがあるよね……自分がそうなんですが。

なかでも一番好きなのが「クリスマスの思い出」で、この厄介者同士の繋がりと、ささやかな社会奉仕や接点の取り方がいじらしく、それが永遠の思い出になるところが非常に美しくて綺麗だった。これを読むと性癖が歪む。おばあさんに、ということではなく、やはり箱庭で描かれる二人だけの世界ほど綺麗なものはないんだなと。映画「Oasis」でもそうだったけれども、二人が社会から弾かれていればいるほど、その箱庭が美しく見える。二度と取り戻すことはできない、という意味も込めて、一層輝かしい。大好きな作品でした。

カポーティの傑作とも言われる「冷血」を読んでみたくなった。

虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 第3話感想

いちオタク(無生産側)の視点から言わせてもらうと、3話に関しては自分が思っていたものとは少し違った。

まずこれまでの話で語られ、前提にあるものが

①自分の「好き」がかすみと折り合わないというせつ菜の自覚(2話からの流れ)

②スクールアイドルとファンにとって、ラブライブ!は最高のステージという固定観念(μ'sからAqoursへ繋がった、スクールアイドルという世界での熾烈な競争が生んだ概念)

ラブライブ!に出るためには、方向性を揃えなければならないという大前提

④外部によって行われる、スクールアイドルとラブライブ!の関係性の破壊(虹ヶ咲のテーマ)

⑤愛と璃奈をスクールアイドルに引き込むためのライブをしなくてはならない(せつ菜のライブで回収するのが一番綺麗)

というもので、これらを全部整理したものが脚本になる、はず。

 

で、個人的には、せつ菜の掘り下げはめちゃくちゃ大事だと思っている。言うまでも無いが、せつ菜のテーマである「好きを好きと伝える勇気、好きを叫ぶ気持ちよさ」は、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会の思想の最も大きな支えになっている。彼女の歌があったから、侑はときめいて、歩夢も一歩を踏み出す勇気をもらったのだから。

それとは別に、せつ菜としっかり対立していたかすみの存在もある。

つまり、構図としては

 

外部                内部   

【歩夢・侑】→(トキメキをもらう)→ 【せつ菜】→(対立)←【かすみ】

                    ↑(戻ってきて!) 

            果林(親友)-【エマ・しずく・彼方】

ここらへんに愛璃奈

 

ということになっていて、どう見てもせつ菜が物語の中心になっている。

①から展開されるのは、普段は生徒会長として大好きなオタクを隠しているせつ菜にとって、別の人間として成り代わってまでもやりたかった「スクールアイドル」への大好きの思いの強さであり、その思いが他人の好きを否定していた、という気付きにより、自身が信じていたものがひっくり返される絶望感である。

 

簡単にせつ菜の葛藤の内訳を書くと、

・自分が本当にやりたいこと(スクールアイドル)をやりたい(本当の我が儘、大好きを貫きたい)

        ⇅

・自分の大好きは他人の好きを否定する

・自分さえいなくなれば同好会はかすみの「かわいい」のもとでラブライブ!に出場できる

 

ということになる。

で、このせつ菜の感情を救うために、何よりも大事なことは、少なくとも自分には、「自分の大好きは他人の好きを否定する」を「否定」することだと考えている。

そして、その言葉を言うべきは、実際にせつ菜と対立し、内部の人間だったかすみしかいない

これについては、2話でかすみが出した答えであり、そのワンダーランドに同好会は向かうべきという流れができているはずである。そして、実際にかすみはその言葉を同好会のメンバーの前で言っている。

が、せつ菜には言っていない。それが自分の中で疑問になっている。

結果として、3話では、侑がせつ菜に語りかけることになっており、侑がせつ菜に語ったのは

・同好会に戻ってきて欲しい

・せつ菜が幸せならそれでいい

・(ファンから見て)ラブライブ!には出なくて良い

であり、一番上の方で書いた脚本がすべきことの②から④をすべて満たしている。つまり、外部の人間だった侑がすべきこと(自分が好きなことを貫くことの応援、ラブライブ!に出ないという選択肢の提示、ラブライブ!シリーズのなかでのニジガクの方向性の再提示)はきちんとやっているし、実際にこのシーンは感動的ではある。

 

これを踏まえて、せつ菜の葛藤への侑の言葉の影響を考えると、

・自分が本当にやりたいこと(スクールアイドル)をやりたい(本当の我が儘、大好きを貫きたい)←せつ菜が幸せならそれでいい(応援)

        ⇅

・自分の大好きは他人の好きを否定する

・自分さえいなくなれば同好会はかすみの「かわいい」のもとでラブライブ!に出場できるラブライブ!には出なくてもいい、だから戻ってきて欲しい

 

であり、「自分の大好きは他人の好きを否定する」にはやはり侑は触れていない。なおかつ、かすみもせつ菜に直接は言っていないため、せつ菜のなかでこの件はきちんと整理できているのかが非常に気になるのだ。

自分は、大好きに誰よりも真剣なせつ菜だからこそ、この要素は絶対に押さえておくべきだと思っていただけに、せつ菜のライブも難しい顔で見ることになってしまった。

 

ただ、ライブ「DIVE!」自体は非常によかった。

第1話で、力任せに好きを叫び尽くした(最高の幕引きにするつもりだった)「CHASE!」では、炎がせつ菜の心の叫びのように燃え上がっていたのとは対象的に、この3話の「DIVE!」は、炎に対する水の描写が目立つ。

タイトル通りせつ菜が海を潜ると、海水面とは別に、深海の方にも鏡のような水面が存在している。自分の本当の声に耳を塞ぎ、鍵をかけて、などという歌詞からも、深海の深くに映る自分が「本当の自分」であることは明らかである。要するに、海自体がせつ菜の深層心理を表現しており、ここでの水は、本当の自分を抑圧する外部環境や心理ということになる。

で、今までのライブステージのように、炎はせつ菜の大好きの発露である。

これを踏まえた上で最後まで見る。最初から最後まで、水が炎を消すことも、炎が水を乾かしつくすこともない。ずっと真逆の概念が同居し続けていることになる。

また、今回のライブで髪に入っているメッシュが青、かつ衣装は真っ赤というように、彼女自身も赤と青を同時に身に纏っている存在になっている。

ただ、本当の自分とひとつになってからは、ステージ上に水しぶきが上がるようになり、水(自分を抑圧していたもの)がどんどん上に上がっていく、という光景を見ることが出来、最終的にせつ菜が行き着く先は、海(自分を押さえつけるあらゆるもの)から離れた空(完全に自由に好きを叫べる世界)という形になっている。

また、高い空のなかでこそ分裂した自分とひとつの身体になる、という描写が、まさに今後のせつ菜の方向を示していて、「好き」を中心に、抑圧や肯定や種類の違いで分裂せざるを得なかった自分が、唯一ありのままひとつになれる、そこを目指すべきだという方向付けもされている。

 

ただ、このタイトルが「DIVE!」であることからも、せつ菜の「好き」への一歩はまだまだこれからであるし、ようやく本当の意味で、自分の「好き」が叫べるようになったという背景も存在している。ここがせつ菜の「始まりの歌」だという説得力に溢れていて素晴らしい。

 

それだけに、本当にせつ菜が好きを叫ぶために必要であるはずの「自分の大好きは他人の好きを否定しない」という担保が欲しかったなあと思いました。

 

だから、自分は(何様だという話だが)、かすみのあの台詞を同好会のなかではなく、せつ菜に向けて言えば良いと思っていて、なおかつ2話から話にあがっていたワンダーランド、ニジガクのみんなが輝ける「場所」について話をすればよかったと思っている。

屋上で侑がせつ菜を説得している途中で、

せつ菜「私が同好会にいたら、みんなのためにならないんです!」

という台詞があるが、そこから侑のラブライブ!への否定に入るのではなく、

その悲痛なせつ菜の言葉に、堪らずかすみが半泣きで飛び出してきて、

「そんなこと言わないでください、せつ菜先輩のやりたいことはかすみんのやりたいこととは違いますけど……でも、私はせつ菜先輩と一緒にスクールアイドルがやりたいんです、そのためにも、みんなの好きが叶う場所をつくりたいんです!」

と話を進め、今まで影で隠れていたみんなも「そうだそうだ」と続けばいいし、そこから歩夢も入れて「せつ菜ちゃんの好きが、私たちにこの場所をくれたんだよ」と語りかけるもよし、とにかく足元(同好会はせつ菜を受け入れる準備が整っていること)を固めたうえで、

侑「だから、せつ菜ちゃんの好きを貫いてもいいんだよ」とつなげて良い。そこから、

せつ菜「でも、それじゃあラブライブ!に出ることは……」

侑「そんなにラブライブ!って大事なのかな……?」

と穏やかにつなげる事で、ニジガクが持つ「ラブライブ!に出ないという選択を選ぶこと」を示した上で、せつ菜の葛藤を昇華できると思うんだけれど。

ただ、こちらの方では、「ラブライブ!に出なくてはならないという固定観念の破壊」という意味でのインパクトは弱い。本編は、侑が叫ぶことで視聴者もハッとなるから、もしこの話の一番のテーマが「ラブライブ!シリーズと別方向に進むことを明示すること」にあるのなら、本編の脚本は間違いなかったと思う。

 

せつ菜の「自分の大好きは他人の好きを否定しない」という考えの整理だけが気にかかった3話でした。他は最高(やや作画不安定だったけど)、マジで感謝です。

ジョージ・オーウェル 高橋和久訳「1984年」

誰もが知っている本ランキング1位でありながら、読んだフリされるランキング1位でもあるこの本。自分は読んだフリする側の人間でしたが、この度ようやく読んだと言える様になりました。

 

本作は、ディストピア、監視社会の例としてあげられているが、実際にそれで正しい。内容に偽りなし。恐ろしいまでの監視社会を描いている――ように見えて、この本の恐ろしいところは「監視」ではないだろう、とも思う。

これは人間と言語、教育の話ではないかと。

この作品の根幹となるのが「二重思考」と呼ばれるもので、極端に言えば「○○だし、○○ではない。どちらも『絶対に』正しい」という考え方。人間の思考は矛盾している、とはよく言われているけれど、それを極端に押し広げたものがこれとなる。この「二重思考」が、国民にしっかりと浸透している(洗脳、あるいは教育されている)ことが、ディストピアのポイント。

この互いに矛盾する考えを、どちらも正しいと思い込むことで、管理側にどのようなメリットがあるかと言うと、国民はすべてを受け入れることができるようになる、という点。考えればわかることだが、宇宙に存在するすべてのものは「リンゴ」か「リンゴでない」ものに二分される。車も辞書も人間もエビフライも、すべて「リンゴでないもの」に分類され、これはありとあらゆる対象に適用可能である。

つまり、エビフライは「林檎であり、林檎ではないのだ」。

では、と管理側は国民に問う。エビフライを指さして。

 

管理側「コレは林檎ではないな」

国民「はい、林檎ではありません」

管理側「いや、やはりこれは林檎だろう」

国民「はい、エビフライは林檎です」

 

これがまかり通るのが二重思考である。なんだそれ、という話ではあるが、「なんだそれ」と思うのは、あなたが二重思考を身につけていない第三者だからである。

この禅問答に近いやりとりを成立させるためには、第三者を排除すればよい。つまり、突っ込む人間がいなければ、このやりとりは成立する。言う側と、言われる側がともに「エビフライは林檎であり、林檎ではない」ということを信じているのであれば、これはその世界において真理となる。

この世界の狭さも、ディストピアとして必須条件である。作中でも書かれているが、国をひとつの「宇宙にする」のだ。今までの論理の届かない新たな世界の構築、という意味で、宇宙である。宇宙はそれ自体で完結しており、他の「宇宙」なんてものは存在しない(とされている)。

さて、このような世界を作り出しても、二重思考が必ず国民全体に行き渡るとは限らない。当然、二重思考が国民に染みつくような教育はしている。

大きなものとしてニュースピークという、語彙を極端に減らしたも言語体系がある。これにより、美しい、綺麗、美味しい、ステキ、などといった語彙はすべて「良い」に集約され、対義語の醜い、汚い、まずい、ださい、などといった語彙は「【非】良い」となる。頭に否定の語をつけるだけで、これだけの語彙が削減できる。

これで何が出来るかと言うと、国民の思考力を削ることができるのだ。人は頭の中にないことは考えられないし、思考は言語が介在することでなりたつ。思考に必要な言語がない=思考の資材不足となり、思考になるはずだったものは、もやもやしたまま霧散する。要するに、かたちのある思考が出来なくなるのだ。

これの画期的なところは、政治思想を埋め込むことが可能だということだ。

例えば、エビフライ、天ぷら、揚げ物などが高カロリーだから危険思想だとする。

で、実際にそれらを「危険思想」とまとめて呼び、実物を見せないようにすれば、国民は「危険思想」という語を知りながらも、何が、どのようなところが危険なのかが全く分からないのだ。

「揚げ物はカロリー爆弾だから悪」という中身の思考ができなくなることは、「では、カロリーの軽減された揚げ物は悪ではないのでは?」という体制への疑問も抱けなくなる、ということである。

これを「教育」として行うことで、国民はほぼすべて、体制に従順な僕となるのだ。

うまく教育できなかったものは、監視社会(ここでようやく監視が出てくる)ゆえに簡単に捕まえることができる。そして再教育すれば、何も問題ない。

 

で、本作のすごいところは、思想だけでなく、寡頭政治に必要な要素の考察も面白いところである。もっとも画期的なのは、「党」を永遠の人間として扱っている点だろう。思想という繋がりのなかで、緩やかな新陳代謝を繰り返すことで、党はあたかもひとりの不老不死の人間のようになる。

その他にも、非常に面白い考察が並べられている。

・人は常に上層中層下層に分けられ、それは不変の事実である。中層が下層の援助をうけて上層に成り代わることもあるが、中層が上層になるだけで、体制自体は変化しない。

・集産主義によって、財産を少数の人間に集めやすくし、なおかつ個人ではなくグループとして(党として)財を持つことで、その永続化を狙う。(個人では、その所有者が死ねば遺産として分譲される。しかし党として持てば、その党が永続する限り、財産も永遠のものとなる)

・ただ、「党」では人間としての様相がなく、人々から愛や恐怖や怒りを集めることに不向きである。だから「ビック・ブラザー」の仮面が必要となる。

・寡頭政治に必要なのは、血縁ではなく思想であり、肉体ではなく精神である。

・常に戦争をしている、という状況を作り出す。これにより党の士気は上がり、連帯感が生まれる。広大な地域による過剰な資源をひたすら消費するだけの作業と化しているが、それで十分である。実際に戦争を行わなくても、行っているように見えれば国民には問題なし。戦争の性質を決定的に変えている(決して勝利が訪れない戦争、何も得ることがない戦争)。さらに大きな領土拡大を誰もが目指さないのは、現状が一番よいと3国が十分理解しているからである。(3国の現状も同じである)

→戦争は平和なり

・今までの寡頭政治は、(現実に必ず正しい回答がないという状況下で)リーダーが何度も重要な判断をすることが必要だった。その結果、判断が間違っていれば国民が怒り、権力を失なってしまう。しかしながら、二重思考によってありとあらゆる判断が正当化され、過去を改ざんすることで、「常に正しい党」を実現できる。これは権力の永続化にもっとも必要なものである。

 

・現在の体制になるまでの論理が緻密

歴史を見ると、人はどんどん資源を獲得してきている。資源が溢れるとどうなるのかというと、国民に十分量の資源が行き渡るようになり、格差が薄くなり、平等に近くなる。

現実の現在の日本は、誰もが読み書きができ(自分はそうは思わないが)、富にも格差がないように見える。もちろん年収1000万、200万などの差はあるし、ホームレスだっている。しかしながら、世界的に見ると、「それなりの生活が保障されている」という点で、格差は小さい。データがないのでこの発言には責任を持てないが。

で、このように国民に富と読み書きの知恵が与えられた時、少数階級である特権階級に、人は目を向けるようになる。今で言う「上級国民」「政権」などへ不満を言う。そして、何らかの契機に体制はひっくり返る――そのため、現在の日本もいつかは崩壊するというのがオーウェルの考えである。

では、どのようにすれば永続的な体制を創ることができるか。

逆のことをすれば良いのである。つまり、国民を「無知・貧困」にすれば良いのだ。

無知はのちに述べるニュースピークがある。

では、国民を貧困にしようといって、この資本主義の社会でどうできるかというと、製品を生み出さないように国が働きかけるしかない。しかしこれは経済の停滞を意味し、資本主義が成り立たなくなる。なので、経済を回しながら(労働力をしっかり消費し、製品を生み出しながら)肝心の製品を流通させないことで、国民の貧困を狙うのだ。

では創ったものを穴にでも埋めるかというと、それは労働者も支配者もやる気がなくなり、体制が崩れる。絶対に必要な物事のために生産せねばならないのだ。

そして、オーウェルが思いついたのが「戦争」ということになる。

仮想的な戦争を行うことで、国民全員の士気も上げながら、過剰な資源を消費し、国民を貧困という条件下で平等にするのだ。

 

体制が崩れない理由

・すべての国が「宇宙」をつくる。これは国同士で干渉しないことを意味する。貿易などもなく、あらゆる物事を自国のなかだけで完結させる。当然国同士の関わりは許されない。これは地理上、無理な話に思えるが、地球に3つの国しかないとすれば、また話は違ってくる。なぜなら、広大な国土により、地理上の過不足はおおよそ改善されるからだ。これにより、国は外部からの干渉に怯えなくても良いことになる。

→それにより、国家の転覆の原因となる①外部圧力を排除できる。②国民の反乱は、思想教育によりあり得ない。また、国民の大部分をプロールという身分(下層)に落とすことで、身近な比較対象を失わせる。比較できなければ、自分たちが下層であるという自覚すら持たなくなる。③自分たちから崩壊する、つまり支配する意欲をそぐというのは、党であるから問題なしとなる(支配するのに飽きた人間は排除し、ひとつ下の党の外郭から人を持ってくるらしい)

で、④が一番大きな問題で、党の外郭あたり(主人公のウィンストンやジュリア)から、自由主義懐疑主義が生まれ、力をつけてきたらどうか、という話。これに関しては、上層と中層の意識のすりあわせによって(本作ラストのように洗脳することで)なんとかできるというもの。

・人がやや愚鈍すぎないかというのはその通りで、冷静な人間なら、この体制に違和感を覚えるはずである。しかし、ここで「常時戦争」という状況を作り出すことで、人々をみな高揚感で包み、冷静な思考を妨げるようにする。この党としての士気が、連帯感を生み、党としての永続性に寄与される。

・国民は家族、恋人という繋がりを失う。家族は安心感、恋人は自由や平和などの感情を育むが、それを国が取り上げることで、国民は「国」という巨大な組織においてのみ居場所を見つけるようになる。そしてそれによって、戦争へ積極的に参加するようになり、暴力的な性格になる。恐怖と裏切りと拷問の世界こそが目指すべき場所。この方向性を進むことで、国民はさらに戦争のことばかりを考えるようになり、より体制は先鋭化される。

 

などなど。これは非常に面白い。全体主義国家はどのように繁栄するのか、どのような思想に基づき、どのような道をたどるのかが分かった気がする。

その上、小説としても技巧的に優れていて、二重思考のスローガンや、下層の生活、キャラの感情の動きや恋愛の織り交ぜ方も一級品で、まあこれは大傑作ですなと思いました。本当に面白い。

一度完全とも言えるレベルに構築されたこの国家を打倒するためには、どのようにすれば良いのか考えるのも面白いかも。

ここからは自分の予測にしか過ぎないが、地理上の観点から、必ず同じ3国とは言えないわけで、ここに活路があるんじゃないかなと。つまり、体制自体は内側から変えることは不可能だろうが、地球環境という外部からの影響にはめっぽう弱そう。干ばつや海水面の上昇、気候変動の影響を一番受けやすい(南北に広がっていない、かつ砂漠地帯が多い)イースタシアあたりが崩壊するかなと。結局戦争が出来るのも、資源が必ず過剰に溢れているという前提のもと行われる行為なので、戦争をする余裕がなくなれば、自然とこの組織は瓦解するんですよね。まあ全部の国家がそうだけれど、これに関しては他国との輸入が不可能なので、圧倒的にイースタシアが不利だと思う。イースタシアが瓦解して、或いは本当に戦争をすることになって、全体主義国家も終わるんじゃないかなと思うけれど、他の人はどう考えているんだろうか。気になるところ。

ダニエル・キイス 小尾芙佐 訳「アルジャーノンに花束を」感想

誰もが読んでいる本、というものを全く読んでいないことに気がつく度に、これまでツイッターで無為に過ごした時間を想い、悲しくなる。

 

「わが闘争」「銃・病原菌・鉄」「失楽園」「神曲」などなど、全て未読。挙げ始めると本当にキリがないので、滅多に「読書が好きです!」とは言えたものではないが、「あの三島や太宰が認めた!」みたいな名著でさえ殆ど読んでいないので、「私とはいったい……」と考えては辛くなる。小学生からよく本を読んでいた方だとは思うのだが、「高校生からドストエフスキー読んでました!」みたいな奴が溢れる現代は、まこと恐ろしい世界である。

自分が高校生のころは、日本文学には手を出せても、海外の書籍には全くと言っていいほど手をつけられなかった。安部公房を読んでは「なるほど、わからん」と思い、川端康成を読んでは「何言ってるんだこいつ」と本を閉じ、まったく身にならない読書をしていた覚えがある。そんなだから、最近になってようやく本の面白さ(本が何を言いたいのか)がぼんやりとでも分かってきたようなもので、自分としては二十歳を過ぎてようやく自我が芽生えた感覚なのだが、めちゃくちゃ人生を損しているような気がして腹立たしい。

アルジャーノンに花束を」は、表面上、そのような自分と重なる部分がある。

 

知的障害者のチャーリィは、今年で32歳になるが、稚拙な読み書きしかできない。思考も靄が掛かったように曖昧で、複雑に物事を考えることが出来ず、相手のアクションをそのまま受け取るために、他人の言動の真意も測りかねるような人間である。

そんな彼が、実験によって知能指数が上昇し、誰もが羨む天才になり、今まで見ていた世界が驚くほど鮮明になる――という話の流れなのだが、これが本当に面白かった。

まず、これを「チャーリィによる報告書」という体裁で、一人称の文体で挑んだことが成功の理由なのだと思う。最初から最後にかけて、チャーリィの思考の明晰さが、文体によっても示されていて、最後のひらかれた文章には泣きそうになってしまった。

それから、知能指数は上昇しても、感情が追いつかない、というのは非常に面白い視点だと思った。最近のSF小説を読んでいて思うのは、物語の根幹をなす原理や機構にばかり注力されて、登場人物の感情の機微にあまり注意が払われていないという点である。だから物語は魅力的でも、話としては何故か面白くない、ということが多い。

それを考えると、この作品は本当に物語が面白くて、終始チャーリィの感情に注目されている。最初は物事に鈍感だったチャーリィが、思考が明晰になるにつれて自分が今まで他人から笑われていたことを知り(知能によって見下されていたことを知る)、今度はチャーリィが、高知能によって他人を見下すようになる。最終的には、再び知能が減衰するという負の二次関数のような形を取るのだが、これとは別に彼の感情の成長の曲線(生来のチャーリィによる抵抗、とも言えるかもしれない)もあって、アリスという女性からの好意を示す、y軸に(やや)平行な直線もある。

まあ頭の中で想像するのはややこしいのだが、この3つの線が奇跡的に交わる、唯一の一点があり、その描写が本当に素晴らしくて、自分はこのシーンのためだけに今までの物語があるのだという感動に胸を打たれた。報告書の日付にして10月11日、つい一昨昨日のことである! 未読の人には何を言ってるのかわからないと思うが、分かる人には分かると思う。多分。

この物語で書かれているのは、ひとつの青年の愛の物語でありながら、知的障害者にとっての「人間」としての主張でもある。

同じ知的障害者を扱ったものとして、最近みた映画に「オアシス」があるが、あの物語も、妄想のなかでは自分も「正常者」になれたらという妄想が展開され、その映像の強さに度肝を抜かれた。「知能」が劣るばかりに、愛する人に愛を伝えることができないという苦悩がヒシヒシ伝わる傑作である。

「正常者」と「障害者」、その二つの言葉の隔たりは知能であるというのは、この作品も認めるところではある。その「知能」は科学的な措置によって埋め合わされたものの、手術は最終的に失敗ということになっている。途中で「失楽園」が引き合いに出されたが、チャーリィに施された手術こそがまさに「禁断の果実」で、その果実はチャーリィによく見える世界と愛を教えた代わりに、以前よりもずっと低下している知能と、記憶喪失をもたらしてしまう。

結末さえ見れば、どこまでも救いのない話のように見えるし、事実この物語に救いはないと思う。

しかしながら、手術が施される前のチャーリィの「性格の良さ」は誰もが認めるところであり、それはチャーリィが「知能」を持たなかった代わりに、手にすることができた資質でもある。そしての「性格の良さ」こそが、友達を作るためには、「知能」よりも大事なものだったのだ。

 

というのが本作のテーマではあると思うのだが……まあ、読んでいる時には「涙とまらん」と感動しまくった話ではあるが、こうして冷静になって感想を書いていると、かなりの綺麗事だなとは思う。

実際に障碍を持った子供を育てる親の苦悩は本作でも書かれているところではあるし、かつて小学校で見かけた、障碍児の親の疲れ切った顔を思い出すと、胸が苦しくなる。「知能」と「性格の良さ」、そのふたつを並べてみて、お前はどちらを取るかと言う問題は非常にセンシティブだと思うし、当事者でない人間(つまり意図せずして「知能」を獲得している側の人間)が「『性格の良さ』を持っている人の方が、人間として優れていると思いました! 新たな視点を学べました!」とにこやかに答えるべき問題ではないだろう。チャーリィがそのように正常者の教材にされることに、うっすらとした違和感を覚える。

少なくとも自分の記憶のなかでは、小学校の時にいた障碍児の彼は、非常ベルを鳴らしたり、授業中に大声を出して暴れたり、クレヨンで廊下の壁を塗りたくったりと、はっちゃけていた。彼がという訳ではないが、障碍者にもいろいろ居るし、「知能」を持った健常者のなかでも、「性格の良さ」の持つ持たないがあるように、「知能」を持たない障碍者のなかでも「性格の良さ」の持つ持たないがあるはずである。

端的に言って、「じゃあ知能も性格の良さも持っていない人間はどうすればよいのか」ということになる。

 

まあ、この本にそこまで求めるのは無茶だし、そこまで踏み込んだ問題を扱っているわけではない、でFAだろう(死語か?)。

この本の主人公はチャーリィで、彼は知能の代わりに性格の良さを持っていた。そして知能を得る禁断の手術によって、いろいろなものを得て、そして失った。チャーリィによってたくさんのものをもらい、記憶し続けるのは、周囲にいた人々である。

最後に、チャーリィ自身が何よりもしたかっただろう、アルジャーノン(自分の化身でもある)に花束を添える役目すらも、他人に委ねてしまうという切なさが、いつまでも自分のなかに残っている。

いろいろ思うところはあるが、物語のなかに居るときには涙が止まらん傑作であったことは事実である。複雑なテーマと物語を、ひとつの傑作に構築した手腕に脱帽する。

 

いつか失うことになる「知性」がまだあるうちに、自分も未読の本を消化していこうと思う(こちらの学びは許されるだろう、多分)。

 

【2020/10/14 14:30追記】

書き終えたものを読み終えてから、何か違うなと思って追記。

この本のメッセージとして、人間にとって大事なものは「知能」ではなく「性格の良さ」である、というのはあるのだが、それよりもっと大きなものとして、障碍者と痴呆にまつわる人間関係があるのかもしれない。ひとつ、チャーリィの父親は優しいように見えて事なかれ主義だし、母親は常にチャーリィを正常者にすべく働いていた。妹のノーマも、かつてはチャーリィを拒み続けてきた存在である。

この家族の構成が、チャーリィが帰省した時にも反映されている。つまり、今度はチャーリィの代わりに母親のローズが痴呆になっていて、ノーマはその母親代わりになっているのだ。そして父親のマットは、チャーリィのことを認識せずに、別居していた。

ここから分かるのは、マットはチャーリィから逃げ続けてきた男だと言うことだ。ローズやノーマが、ひと目見て気がついたほどにチャーリィの見た目は変わっていないというのに、マットは全く認識しなかった。マットがチャーリィを愛していたなら、分かってしかるべきである。しかしながら、そうではない。

また、ノーマは過去のことを都合良く(幼児期ゆえに仕方ないとは言え)忘れていて、今度はローズの世話を助けてくれとチャーリィに泣きついている。

時期は違えど、チャーリィにしろローズにしろ、面倒な人間の世話から、誰もが逃げだそうとしているのだ。

そして、帰省の際に、チャーリィはローズから包丁を向けられることになるが、実際にチャーリィは、昔ノーマをレイプしようとしたのだろう。障碍者の性処理のために、近親者が仕方なく相手をしているという事例を聞いたことがある。後半のチャーリィのフェイへの視線を考えると、かつての性的欲求の大きさ(抑圧する機能の低下)がうかがえる(それが偏見としても、この物語ではそうだった)。

このように、本書ではチャーリィの家庭の人間関係について綿密に書かれており、それはチャーリィのリアリティを増させるためと言うよりかは、それ以上のメッセージを持っているように思えるのだ。

今まで「知能」と呼ばれていたものをより深く考えるべきだった。

ここでは、「知能」はロールシャッハテストによって測られる。これはインクがどのような形であるかを想像できるかのテストだが、転じて「相手の言動の裏表を想像できるか」という風にいうことが出来る。簡単に言えば想像力で、自分はそこの前提が抜けていた。

そして、「性格の良さ」というのは、「相手を信じることが出来るか否か」という能力なのだ。どう考えても怪しい人間に、愛想良く接することは難しいだろう。

これを踏まえると、例えば、老いたローズとマットは、チャーリィを多角的に見ることが出来ず、チャーリィを信じることが出来ない点で、知能がなく、性格の良さもないと言える。

一方で、ノーマはかつてのチャーリィへの負の感情を、うまく処理して向き合おうとしている。そこには、天才になったチャーリィ、誰かに助けて欲しいという裏の感情は勿論あるだろうが、それを隠してチャーリィと良い関係を築こうとしている、知能と性格の良さがあるのだ。パン屋の同僚や、研究所の職員も同じである。いろいろ思うところがあっただろうが、同僚は再び白痴になったチャーリィとうまく付き合おうとしている。

これらの人間は、性格もよく、知能がある存在だと言える。

要するに、チャーリィを除いて、この物語には知能と人付き合いが出来る能力が結びついた人間だけが登場しているように思えるのだ。「知能」と「性格の良さ(人付き合いの良さ)」は独立していないのである。

 

特異的なのがチャーリィで、彼は「知能」がない一方で、「人付き合いの良さ」はある。要するに、「相手のことを多角的に見ることができない、裏の言動を想像することができないのに、相手を誰でも無条件に信じることができる」、『特別』な才能を持っているのである。

本書のなかでも序盤に書かれていたが、このような存在は非常に珍しいのである。

普通に考えれば、相手の言っていることが本当かどうか判断できない以上、相手を信じることも出来なくなる、というのが人間である。しかしチャーリィはそうではない、というところが、本書でしっかりと書かれているのだ。もっと早く気付くべきだったな。

つまり、この物語は「知能」か「性格の良さ」か、どちらが人間にとって大切かというようなメッセージもあるだろうが、それ以上に、「特別なチャーリィの一生」という意味合いのほうが強いのかなと思った。

最後には、アリスではなくキニアン先生に呼び名が戻るところ、それよりもアルジャーノンについての記憶が最後まで保たれるところも、「知能よりも性格の良さが打ち勝つ」というメッセージにするには弱く、「チャーリィがアルジャーノンと『特別』であるという意味で繋がっていた」と解釈するほうがしっくり来る。

アリスと確かに繋がったチャーリィだが、「知能」や「性格の良さ」以前に、彼自身が『特別』というその存在において、アルジャーノンが尤も彼という存在に寄り添えたのだ。

そう考えればさらに、アリスの気持ちが身にしみるようになる。

アリスは、チャーリィの「相手が誰であれ、純粋に信じようとする心」を好きになったのだ。この点は、ドストエフスキーの「白痴」とはまた違った考え方になると思う。あまりに純粋すぎて汚すのが怖い、を超越し、それでもその潔白さをアリスは受け入れたいと思ったのだ。

そして、そう考えると、アリスだって「相手(チャーリィ)がどうなっても、純粋に信じようとする心」を持っていたと言えるのではないか。そういう意味では、アリスだって、愛の力によって、アルジャーノンと同じ『特別』な立場になったはずである。

その尊い愛情すらも失わせ、アルジャーノンと繋がる最後に至る無慈悲さが、自分には辛く感じてしまう。が、これがチャーリィの一生なんだよな。

村上春樹「一人称単数」 感想

フォロワーに誕プレでもらった。

村上春樹はちょいちょい読んでるけれど、個人的に毒にも薬にもならないなというのが正直な感想で、読んでいる時は、度数低めの酒をちびちびと飲んでるような嬉しい感じになるのだけれど、読み終わると「あー読み終わった。やれやれ」くらいにしか思わないわけで、それはどうなのかと思ったりする。「読んでいる時に楽しければいいじゃないか」というのはそうなのだが、なんというか読んだ後も自分の血肉となって抱きしめたくなるような一冊でもないし、すぐにメルカリで売り飛ばしたくなるような駄作でもないので、めちゃくちゃ扱いに困る。

なんというか、公共の場に置くべきものだろうか。インフラとまでは言わないし、こんな拗ねたインフラがあっては堪らないが、自分の手元に置くような本ではない気がする。村上春樹の本はどれも。全部読んだわけじゃないけれど。図書館にあるのが一番嬉しい、そんな感じの印象です。伝わるかな。ハルキストの方、もしいたらごめんなさい。ひどいことを言っているかも。

で、それはそれとしてこの「一人称単数」を読んでみた感想が下記。

 

・石のまくらに

好きです。寂しさを抱えている若者同士の一夜限りの物語と言えばそれまでだが、短歌というその人の内面にまで入り込むものを小道具にしていて、村上春樹が好きそうな、「浅いようで、その気になればめちゃくちゃ深い関係になれるんだけれど、主人公が微妙にだるがって先に進まないのでそこで終わる。まあいっか」みたいな話です。普段はやたら酒飲んだり御託を並べたりするけれど、この作品はそんなこともなく、綺麗だなと思った。ちなみに作品タイトルの「石のまくらに」は、最後に書かれた短歌の語句。首切りによる死を彷彿とさせながらも、石の枕と言えば漱石枕流かなと。それを考えると、「自分だけが特別な存在!天才!」の段階を経て、「いや勘違いしてた。私は何の才もない一般人だわ」と理解しつつも、何処かで自分の特別さを意地になりながら信じ続けている自分が醜くて死にたいという、そんな感じなのかなあ。複雑だけど自分はそんな感じかしらと思いました。

 

・クリーム

微妙。羊をめぐってそうな話でした。

話としては、ずっと昔の知り合いからピアノリサイタルに呼ばれたけど、その会場には誰もいなくて、俺騙されたのでは、ってなる流れ。「わけわからんことが起こっても、それは人生において重要なことじゃなければどうでもよくないか」みたいな、いつもの村上春樹って感じでした。作中で興味深かったのは、『「中心がいくつもあり、外周を持たない円」をイメージすることに人生の価値「クレム・ド・ラ・クレム(クリームのなかのクリーム)」がある』という箇所。よくこんな言葉見つけるなあ。すごいなあと思いながら、「中心がいくつもあって外周を持たない円は、球では?」となんとなく思いついてからは、そのことばかり考えてしまうようになった。作中では答えは明かされないし、それは自分で見つけなさいという事だと思うが、自分はなんというか、あまり心に響かなかった。普通。

 

チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ

村上春樹みたいなタイトルしてるな。村上春樹が書いたから当然だが。内容としては、大学生の頃に架空の音楽評を書いたら、十五年後に、その架空の音楽CDが何故か中古ショップに並んでいた、みたいな感じ。いつもの如く、何かの冗談だろうとその場を立ち去るのだが、結局あとから後悔してまたその店に戻ると、既にそのCDはなかった、という話。いつものじゃん。お前はそろそろ欲しいものを素直に手に入れろ。でも出来ないから村上春樹なんだろうなあ。気持ちはわからんでもないし。

コーヒーの匂いを強烈に感じる夢、というのが新鮮で、目覚めの象徴であるコーヒーと夢が同居しているその感じ、また音楽評論は、いつも通りすごいなあといった感じ。自分は音楽を評論することはマジで出来ないので。

ただ、自分がはじめて村上春樹の比喩でキレたのが一カ所。

「それから十五年後に、その文章は意外なかたちで僕のところに戻ってくることになる。まるで投げたことを忘れていたブーメランが、予想もしないときに手元に舞い戻るみたいに。」

いや、倒置を使うような比喩表現ではないだろこれ。

この比喩だけ他の文章からめちゃくちゃ浮いてた。俺だけかなあ。

 

・ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles

ビートルズゴリ推しの話。自分はビートルズをろくに知らないので、折角だからと作中に出てきた曲をようつべで聞いてみたが、あまりピンと来なかった。あと、女性の歓声が半端なかった。めっちゃ人気だったとは知ってるけれど、マジだったんですね(?)。

話としてはかなり好きで、これはいいなあと思った。どこが良いかといえば困るが、村上春樹のいいところと悪いところを良い感じに組み合わせた感じで、そうそうこういうのだよなと嬉しくなった。大きく言えば「自分にとって『運命の人』ではない人が、もし、自分を『運命の人』だと感じていれば」という話で、これが切ない。運命の人は、もし特別なすべきことがなかった場合、あるいは心の支えになるべきものがなくなった場合に、「人生における夢」と置き替えることもできるわけで、その夢がふと立ち消えたことに気がついた時(まるでお兄さんの病気のように)、死にたくなるんだろうなと、そんな気がする。運命の人を願い続けていた「ウィズ・ザ・ビートルズ」のLPを抱えている少女、強いようで、本当にそれしか心の支えがないような不安定性が描写されていて、その絵がめちゃくちゃ良い。傑作だと思います。

 

・「ヤクルト・スワローズ詩集」

これ、好きなんですよね~~~。村上春樹、もう一生こういうしょうもない詩のような散文のようなものを書き続けて欲しい。もうかなりハマって、ここで紹介されているという詩集を絶対に買うぞと思って本屋に立ち寄った。それは村上春樹のコーナーのスミに置かれていて、「おうそうだよこれこれ」と手に取りパラ読みして、けれども「なんか違うな」と眉を顰める。ひとまずカフェでコーヒーを飲んで考えを整理することにした。俺、野球全然知らないんだよなあ……。自費出版に近いから結構高いし、買うべきかどうか。でもまあ、やっぱり買うぞと思って村上春樹のコーナーに行ったら、もう既に誰かに買われてしまったのか、先ほどの場所から消えていた。やれやれ。

 

・謝肉祭(Carnaval)

これもまあ、それなりに好き。自分は音楽がマジでわからんので、音楽でここまで語り合えると面白いだろうなと思うんですが、どうなんだろう。すんげーブサイクな女性、その中身と外見というのがまずおおきなテーマで、結局その中身は(犯罪をしているという意味で)悪だったんだけれど、魅力的な部分も確かにあるし、どっちが本当かしら、という話かな。まあお決まりですがどっちも本当で、自分の外見で強く結ばれた夫と、中身で強く結ばれた僕、その2人の男と女の関係は面白いと思いました。

 

品川猿の告白

これ好きなんですよね。喋る猿という存在も、やっぱり村上春樹の手にかかればすごく均質なものになる。喋る石だろうが、豆腐だろうが、普通の人間のように感じるんですよね。話の内容としても面白かったな。名前を盗んで性欲を満たす、そういう慎ましい生き方をする猿というのはなかなかに面白くて、よくこんな村上春樹みたいな設定思いつくなと思った。村上春樹だから当然なんですけれど。

 

・一人称単数

ま~~~~~~~じで意味が分からん。勘弁して欲しい。

「恥を知りなさい」じゃあないんだよ。なんなんだよその終わり方。ホラー映画じゃないんだから。

ホラー映画なのか?

 

まとめ 

正直、最後の「一人称単数」に全部もっていかれた感じがする。なんというか、理不尽の骨頂というか。

この本のテーマとして、「時間差」「裏切り」というのがあると思っていて、なんかやたらと過去の出来事が今に影響を与えていたり、主人公が誰かを、誰かが主人公を裏切って、その裏に不思議な現象が起こったりする。そんな作品が纏められているような気がした。特別なのが「ヤクルト・スワローズ詩集」と一人称単数だろうか。「ヤクルト・スワローズ詩集」は読者を、一人称単数は自分(作者)を裏切る、という風にも読めるかなと思ったけれど、まあそんなこんなで、わかりやすく考えるなら、人間はいつも誰かを裏切ったり、裏切られたりするもので、必ずその報復にあう――ということでよろしいのか?

絶対に良くないんだよな。でもわからん。この作品集はいったいなんなのか、自分は一体なにを読ませられたのか、マジでわからん。村上春樹ゆるさん。

肌で感じるものなのか? それを言ったらお終いである。