新薬史観

地雷カプお断り

ダニエル・キイス 小尾芙佐 訳「アルジャーノンに花束を」感想

誰もが読んでいる本、というものを全く読んでいないことに気がつく度に、これまでツイッターで無為に過ごした時間を想い、悲しくなる。

 

「わが闘争」「銃・病原菌・鉄」「失楽園」「神曲」などなど、全て未読。挙げ始めると本当にキリがないので、滅多に「読書が好きです!」とは言えたものではないが、「あの三島や太宰が認めた!」みたいな名著でさえ殆ど読んでいないので、「私とはいったい……」と考えては辛くなる。小学生からよく本を読んでいた方だとは思うのだが、「高校生からドストエフスキー読んでました!」みたいな奴が溢れる現代は、まこと恐ろしい世界である。

自分が高校生のころは、日本文学には手を出せても、海外の書籍には全くと言っていいほど手をつけられなかった。安部公房を読んでは「なるほど、わからん」と思い、川端康成を読んでは「何言ってるんだこいつ」と本を閉じ、まったく身にならない読書をしていた覚えがある。そんなだから、最近になってようやく本の面白さ(本が何を言いたいのか)がぼんやりとでも分かってきたようなもので、自分としては二十歳を過ぎてようやく自我が芽生えた感覚なのだが、めちゃくちゃ人生を損しているような気がして腹立たしい。

アルジャーノンに花束を」は、表面上、そのような自分と重なる部分がある。

 

知的障害者のチャーリィは、今年で32歳になるが、稚拙な読み書きしかできない。思考も靄が掛かったように曖昧で、複雑に物事を考えることが出来ず、相手のアクションをそのまま受け取るために、他人の言動の真意も測りかねるような人間である。

そんな彼が、実験によって知能指数が上昇し、誰もが羨む天才になり、今まで見ていた世界が驚くほど鮮明になる――という話の流れなのだが、これが本当に面白かった。

まず、これを「チャーリィによる報告書」という体裁で、一人称の文体で挑んだことが成功の理由なのだと思う。最初から最後にかけて、チャーリィの思考の明晰さが、文体によっても示されていて、最後のひらかれた文章には泣きそうになってしまった。

それから、知能指数は上昇しても、感情が追いつかない、というのは非常に面白い視点だと思った。最近のSF小説を読んでいて思うのは、物語の根幹をなす原理や機構にばかり注力されて、登場人物の感情の機微にあまり注意が払われていないという点である。だから物語は魅力的でも、話としては何故か面白くない、ということが多い。

それを考えると、この作品は本当に物語が面白くて、終始チャーリィの感情に注目されている。最初は物事に鈍感だったチャーリィが、思考が明晰になるにつれて自分が今まで他人から笑われていたことを知り(知能によって見下されていたことを知る)、今度はチャーリィが、高知能によって他人を見下すようになる。最終的には、再び知能が減衰するという負の二次関数のような形を取るのだが、これとは別に彼の感情の成長の曲線(生来のチャーリィによる抵抗、とも言えるかもしれない)もあって、アリスという女性からの好意を示す、y軸に(やや)平行な直線もある。

まあ頭の中で想像するのはややこしいのだが、この3つの線が奇跡的に交わる、唯一の一点があり、その描写が本当に素晴らしくて、自分はこのシーンのためだけに今までの物語があるのだという感動に胸を打たれた。報告書の日付にして10月11日、つい一昨昨日のことである! 未読の人には何を言ってるのかわからないと思うが、分かる人には分かると思う。多分。

この物語で書かれているのは、ひとつの青年の愛の物語でありながら、知的障害者にとっての「人間」としての主張でもある。

同じ知的障害者を扱ったものとして、最近みた映画に「オアシス」があるが、あの物語も、妄想のなかでは自分も「正常者」になれたらという妄想が展開され、その映像の強さに度肝を抜かれた。「知能」が劣るばかりに、愛する人に愛を伝えることができないという苦悩がヒシヒシ伝わる傑作である。

「正常者」と「障害者」、その二つの言葉の隔たりは知能であるというのは、この作品も認めるところではある。その「知能」は科学的な措置によって埋め合わされたものの、手術は最終的に失敗ということになっている。途中で「失楽園」が引き合いに出されたが、チャーリィに施された手術こそがまさに「禁断の果実」で、その果実はチャーリィによく見える世界と愛を教えた代わりに、以前よりもずっと低下している知能と、記憶喪失をもたらしてしまう。

結末さえ見れば、どこまでも救いのない話のように見えるし、事実この物語に救いはないと思う。

しかしながら、手術が施される前のチャーリィの「性格の良さ」は誰もが認めるところであり、それはチャーリィが「知能」を持たなかった代わりに、手にすることができた資質でもある。そしての「性格の良さ」こそが、友達を作るためには、「知能」よりも大事なものだったのだ。

 

というのが本作のテーマではあると思うのだが……まあ、読んでいる時には「涙とまらん」と感動しまくった話ではあるが、こうして冷静になって感想を書いていると、かなりの綺麗事だなとは思う。

実際に障碍を持った子供を育てる親の苦悩は本作でも書かれているところではあるし、かつて小学校で見かけた、障碍児の親の疲れ切った顔を思い出すと、胸が苦しくなる。「知能」と「性格の良さ」、そのふたつを並べてみて、お前はどちらを取るかと言う問題は非常にセンシティブだと思うし、当事者でない人間(つまり意図せずして「知能」を獲得している側の人間)が「『性格の良さ』を持っている人の方が、人間として優れていると思いました! 新たな視点を学べました!」とにこやかに答えるべき問題ではないだろう。チャーリィがそのように正常者の教材にされることに、うっすらとした違和感を覚える。

少なくとも自分の記憶のなかでは、小学校の時にいた障碍児の彼は、非常ベルを鳴らしたり、授業中に大声を出して暴れたり、クレヨンで廊下の壁を塗りたくったりと、はっちゃけていた。彼がという訳ではないが、障碍者にもいろいろ居るし、「知能」を持った健常者のなかでも、「性格の良さ」の持つ持たないがあるように、「知能」を持たない障碍者のなかでも「性格の良さ」の持つ持たないがあるはずである。

端的に言って、「じゃあ知能も性格の良さも持っていない人間はどうすればよいのか」ということになる。

 

まあ、この本にそこまで求めるのは無茶だし、そこまで踏み込んだ問題を扱っているわけではない、でFAだろう(死語か?)。

この本の主人公はチャーリィで、彼は知能の代わりに性格の良さを持っていた。そして知能を得る禁断の手術によって、いろいろなものを得て、そして失った。チャーリィによってたくさんのものをもらい、記憶し続けるのは、周囲にいた人々である。

最後に、チャーリィ自身が何よりもしたかっただろう、アルジャーノン(自分の化身でもある)に花束を添える役目すらも、他人に委ねてしまうという切なさが、いつまでも自分のなかに残っている。

いろいろ思うところはあるが、物語のなかに居るときには涙が止まらん傑作であったことは事実である。複雑なテーマと物語を、ひとつの傑作に構築した手腕に脱帽する。

 

いつか失うことになる「知性」がまだあるうちに、自分も未読の本を消化していこうと思う(こちらの学びは許されるだろう、多分)。

 

【2020/10/14 14:30追記】

書き終えたものを読み終えてから、何か違うなと思って追記。

この本のメッセージとして、人間にとって大事なものは「知能」ではなく「性格の良さ」である、というのはあるのだが、それよりもっと大きなものとして、障碍者と痴呆にまつわる人間関係があるのかもしれない。ひとつ、チャーリィの父親は優しいように見えて事なかれ主義だし、母親は常にチャーリィを正常者にすべく働いていた。妹のノーマも、かつてはチャーリィを拒み続けてきた存在である。

この家族の構成が、チャーリィが帰省した時にも反映されている。つまり、今度はチャーリィの代わりに母親のローズが痴呆になっていて、ノーマはその母親代わりになっているのだ。そして父親のマットは、チャーリィのことを認識せずに、別居していた。

ここから分かるのは、マットはチャーリィから逃げ続けてきた男だと言うことだ。ローズやノーマが、ひと目見て気がついたほどにチャーリィの見た目は変わっていないというのに、マットは全く認識しなかった。マットがチャーリィを愛していたなら、分かってしかるべきである。しかしながら、そうではない。

また、ノーマは過去のことを都合良く(幼児期ゆえに仕方ないとは言え)忘れていて、今度はローズの世話を助けてくれとチャーリィに泣きついている。

時期は違えど、チャーリィにしろローズにしろ、面倒な人間の世話から、誰もが逃げだそうとしているのだ。

そして、帰省の際に、チャーリィはローズから包丁を向けられることになるが、実際にチャーリィは、昔ノーマをレイプしようとしたのだろう。障碍者の性処理のために、近親者が仕方なく相手をしているという事例を聞いたことがある。後半のチャーリィのフェイへの視線を考えると、かつての性的欲求の大きさ(抑圧する機能の低下)がうかがえる(それが偏見としても、この物語ではそうだった)。

このように、本書ではチャーリィの家庭の人間関係について綿密に書かれており、それはチャーリィのリアリティを増させるためと言うよりかは、それ以上のメッセージを持っているように思えるのだ。

今まで「知能」と呼ばれていたものをより深く考えるべきだった。

ここでは、「知能」はロールシャッハテストによって測られる。これはインクがどのような形であるかを想像できるかのテストだが、転じて「相手の言動の裏表を想像できるか」という風にいうことが出来る。簡単に言えば想像力で、自分はそこの前提が抜けていた。

そして、「性格の良さ」というのは、「相手を信じることが出来るか否か」という能力なのだ。どう考えても怪しい人間に、愛想良く接することは難しいだろう。

これを踏まえると、例えば、老いたローズとマットは、チャーリィを多角的に見ることが出来ず、チャーリィを信じることが出来ない点で、知能がなく、性格の良さもないと言える。

一方で、ノーマはかつてのチャーリィへの負の感情を、うまく処理して向き合おうとしている。そこには、天才になったチャーリィ、誰かに助けて欲しいという裏の感情は勿論あるだろうが、それを隠してチャーリィと良い関係を築こうとしている、知能と性格の良さがあるのだ。パン屋の同僚や、研究所の職員も同じである。いろいろ思うところがあっただろうが、同僚は再び白痴になったチャーリィとうまく付き合おうとしている。

これらの人間は、性格もよく、知能がある存在だと言える。

要するに、チャーリィを除いて、この物語には知能と人付き合いが出来る能力が結びついた人間だけが登場しているように思えるのだ。「知能」と「性格の良さ(人付き合いの良さ)」は独立していないのである。

 

特異的なのがチャーリィで、彼は「知能」がない一方で、「人付き合いの良さ」はある。要するに、「相手のことを多角的に見ることができない、裏の言動を想像することができないのに、相手を誰でも無条件に信じることができる」、『特別』な才能を持っているのである。

本書のなかでも序盤に書かれていたが、このような存在は非常に珍しいのである。

普通に考えれば、相手の言っていることが本当かどうか判断できない以上、相手を信じることも出来なくなる、というのが人間である。しかしチャーリィはそうではない、というところが、本書でしっかりと書かれているのだ。もっと早く気付くべきだったな。

つまり、この物語は「知能」か「性格の良さ」か、どちらが人間にとって大切かというようなメッセージもあるだろうが、それ以上に、「特別なチャーリィの一生」という意味合いのほうが強いのかなと思った。

最後には、アリスではなくキニアン先生に呼び名が戻るところ、それよりもアルジャーノンについての記憶が最後まで保たれるところも、「知能よりも性格の良さが打ち勝つ」というメッセージにするには弱く、「チャーリィがアルジャーノンと『特別』であるという意味で繋がっていた」と解釈するほうがしっくり来る。

アリスと確かに繋がったチャーリィだが、「知能」や「性格の良さ」以前に、彼自身が『特別』というその存在において、アルジャーノンが尤も彼という存在に寄り添えたのだ。

そう考えればさらに、アリスの気持ちが身にしみるようになる。

アリスは、チャーリィの「相手が誰であれ、純粋に信じようとする心」を好きになったのだ。この点は、ドストエフスキーの「白痴」とはまた違った考え方になると思う。あまりに純粋すぎて汚すのが怖い、を超越し、それでもその潔白さをアリスは受け入れたいと思ったのだ。

そして、そう考えると、アリスだって「相手(チャーリィ)がどうなっても、純粋に信じようとする心」を持っていたと言えるのではないか。そういう意味では、アリスだって、愛の力によって、アルジャーノンと同じ『特別』な立場になったはずである。

その尊い愛情すらも失わせ、アルジャーノンと繋がる最後に至る無慈悲さが、自分には辛く感じてしまう。が、これがチャーリィの一生なんだよな。