新薬史観

地雷カプお断り

是枝裕和「万引き家族」

是枝裕和作品はそれなりにみていて、どれも自分は好き(の割には映画館に行ってないけど)なので期待していたが、予想以上の出来。

ネタバレ多めなので読む人は注意。

 

 

 

以下感想。

是枝監督のテーマは家族が多いと思ってたけど、今回もまさにそう。

それを、万引きと年金で(日雇いの職にはついているけど)なんとか成り立っているあまりに不安定な家族に焦点をあてるという恐ろしさ……。

自分は今思えばそれなりに治安の悪いところに住んでいて、家の車のナンバープレートが盗まれたり、物干し竿が盗まれたりと散々だったが(そんなもの盗むか普通?)、そこから引っ越すことが難しいレベルに貧乏だった。家の外見は物置小屋だし、当然自分の部屋なんてなかったし、ふつうに壁に穴が空いていて、それが外と繋がっているような代物だった。冬はそこから風が吹き込んできて寒かったり、夏はでけえクモや黒いなぞの虫が入ってきたりと、今思い返せばかなりやばめの環境にいたのだが、そんな自分から言わせてもらうと、あの家の貧困さは本物だと思った。なんとなく。

家が裕福な人ならあまり分からないかも知れないが、ビッグダディとか大間のマグロ漁師とかの番組を思い返してもらえればよい。大家族に関しては単純に人間が多いこともあると思うが、貧乏な家は本当に物が多いのだ。家の面積が狭いこともあるかも知れないが、まあとにかく見た目が煩雑。ウチもそうだったのだが、恐らく重要なものと重要でないものの違いがわからないのだ。だから主に書類や小物がよく溜まる。いつか使うかもとそこらに積み上げ、捨てられないままドンドン増えていく。これは書類だけに限らなくて、物を買うお金がない癖にやたらと物が多いのは「もったいない」精神が働くからだと思っている。

 

万引き家族は、「もったいない」精神に満ち溢れた自分の家族と非常によく重なった。幸いにも、自分は万引きを親から強要されたことはなかったが、具材の少ない鍋や、それに文句を言うと「何言ってんの。野菜は身体にいいんだよ〜」と返される感じ。あの安藤サクラの言葉遣いが本当に「貧困を苦と思わないマインド」を獲得している母親そのもので、めちゃくちゃに感動してしまった。是枝監督の来歴を見ると練馬区清瀬旭が丘団地出身とあるが、どうなんだろう。安藤サクラは裕福そうだし、あの演技は何処から来たのだろうか……。

とにかく、万引き家族の貧困らしさは凄かった。畳の感じや、子供がそれぞれに自分の居場所を見つける感じ。あの貧困感を根底にしつつも、より深いところで、あの家族は繋がっている。一見それは万引きによる「後ろめたさ」に見えるが、自分はそうでなく「無知」だと感じた。(自分は評論家ではないので異論は認める)

家族全員が後ろめたいことをして、それでなんとか生活が成り立っている。父と祥太(加えてりん)は常習的な万引きで日用品や売れるものを仕入れてくるし、母は職場で客の忘れた高価なものをスるし、おばあちゃんはパチ屋で他人の玉を盗んでいる。

万引きは他人に責任を押し付けやすい犯罪だと、個人的に思っている。劇中では「店が潰れない程度ならよくない?」のように、自分たちが弱者であることを受けいれ(というより開き直り、言い逃れて)盗まれる方が悪いというスタンスを貫いている。家族の雰囲気もよく、だれも悪事を指摘しない。「学校に行くのは家で勉強ができないやつだ」など、社会を軽んじ悪者にすることで、自分たち家族の安寧を守り、正当化している。これが万引き家族の根底にあるもので、社会という外側のルールを知らないからこそ、なりたつひとつの家族の形である。

ぱっと見、亜紀だけが万引きをしていない点で異質に見えるが、亜紀の仕事は風俗で、仕事内容が内容なだけに家にはお金を入れなくても良いことになっている。けれどもこれは、社会ではなく「自分」を軽んじている仕事であり、それ自体「後ろめたい」ことだとみなされたからではないだろうか。もともと、可哀想な子供たちを集めて無理やり家族にしたという背景がある以上、表向きの万引き家族のつながりは「優しさ」である。思いやりともいう。社会という悪から救い上げた子供を育てる優しい家族。その悪に対して自らの体を売る行為は、万引きとは違った性質をもちつつも、後ろめたいことをしている点でゆるく繋がっている。

けれども、この緩いつながりを絶つのが父の事故による収入減。おばあちゃんの死と隠蔽。そして、それ以上に子供たちが自分の立ち位置を知るという「知」がある。

あくまで予想だが、この家族は、きっと父が事故に遭っていなくても、または労災が降りていても、おばあちゃんが死んでいなくても、子供たちが自分の立ち位置を「知る」ことで崩壊していただろうと思う。

逆に言えば、子供たちが社会的な立ち位置を知りさえしなければ、きっと金が尽きてもうまくやっていたと思う。もちろんそれは、子供の成長という避けられないイベントのために夢物語になるのだけれど。

子供の成長を微かに伝え、家族の崩壊の予兆となったのが、海水浴での祥太の性の知だ。それと繋がるかたちで両親のセックスがある。

雨の昼下がりの気怠い雰囲気の、汗ばんだSEXは、どことなく田中慎也の「共喰い」を彷彿とさせる。あの小説も、雨と貧困と子供の知らないセックスが非常に印象的で、あの生々しさは退廃的だ。「ほら、お前だってまだまだいけるじゃねえか」という父の言葉が効いていて、子供の知らない「大人の秘密」が、子供の「無知」を印象的にしている。

明確に家族が崩壊していくのが、子供が自らの社会的な地位を「知っていく」ときだ。

例えば亜紀。4番さんという、発話障害を抱えた「弱者」を持ち出すのがうまい。亜紀が「後ろめたさ」を抱き、社会に搾取されていたはずの風俗という仕事に、新たに性的弱者を搾取しているという側面を照らすことで、亜紀は自分の立ち位置を「知る」ことになる。

次に祥太。りんとの万引きがバレた際に、駄菓子屋の主人から情けをかけられることで、社会が絶対的な悪でないことを「知る」ことになる。

この二つは、非常に魅力的なかたちをしていると思う。社会には自分たちよりも弱い存在があるということを知ること、社会には悪ではない優しさもあること。絶対的な弱い内側の家族を、両方向から揺さぶることで、子供たちの常識を崩しにかかる。

父の車上荒らしも、その象徴だ。万引きというゲーム感覚の犯罪に比べて、窓を割る行為は音も大きく、あきらかに「後ろめたい」度合いが強い。父親がやっていた車上荒らしと万引きという二つが同じカテゴリに括られた時、父親がしていたという連続性を獲得したとき、祥太は初めて「万引き」が犯罪であることを「知った」のではないだろうか。

子供は大人を純粋に信じる。そして、その純粋さがあるからこそ、悪への嫌悪感も備えることになる。祥太や亜紀は、家族・大人の隠してきた悪を知ることで、家族への距離を隔てることになる。万引きが犯罪であることを当然知っていた父と母が、共犯という前提で繋がっていたようには、うまくいかない。万引き家族が繋がっていたのは、子供たちが何も知らなかったからだ。

最後のシーンで、りんが再び虐待される生活に戻る、あの空気が恐ろしくしんどい。

りんはまだ幼く、なぜ万引きがだめなのか、何が犯罪なのかを全く知らない。りんがあの家族に囲まれて知ったのは愛である。祥太や亜紀がかつてあの家族のなかで愛だけを知って育ったように、りんはあの家族を愛している。また家族が自分を見つけてくれないかとベランダにたたずむシーンは、あまりに暴力的である。

警察は両親を「親ではない」と切り捨て、母すらあの間を以て「わからない」と言わしめたが、りんにとっての家族はあの万引き家族だ。

それは是枝監督が「そして父になる」でも示したように、だれが親かは子供自身が決めるものなのだ。

 

感想というより評論チックになってしまった。

やっぱ是枝裕和はすごいわ(小並感)。